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依藤太郎左衛門の伝説 
昭和57年7月27日神戸新聞「浄福寺由来」の記事より

 “今が死に時。”
この時、依藤太郎左衛門豊房は覚悟を決めた。
一族の頭領、赤松満祐が死んだ今、殉ずるしかない。それが武士だ、と思い定めた。
将軍を暗殺した満祐と共に城山城きのやま城)に入った依藤豊房は加東郡小田城主。
形勢不利と見て赤穂郡の白旗城へ固めの使いに出ての帰り途で城山城落城、主君満祐切腹の報を受けた。
聞けば寄せ手の山名持豊の猛攻にたまらず自刃、一族六十九人も死出の旅を共にしたという。
一足違いで遅れはしたが今なら追いつける、と豊房は千本村の北寄り、山すその辻堂を死に場所として腹十文字にかき切り、自害して果てた。
そこへ通りかかったのは、作州小原城主新免弾正長重で、手柄にしようと豊房の首を切り取ったことから、村人は「拾い首」だとあざけり、陰でののしった。
豊房の遺体は手厚く葬られ、縁者により五輪塔が建てられた。【写真】

ある人が詠んだ手向けの一首に
「梓弓(あずさゆみ)はりまの方と人問えば、松(赤松)より藤(依藤)の名こそ高けれ」と。
が間もなく村に悪い病気がはやった。
これは豊房の祟りに違いない、主筋の赤松より有名だと言われては、気性の真っすぐな人だけに、心苦しうて成仏できないのかも。きっとそうであろう、と村人たちはささやき交わした。
そこでお上人(しょうにん)さんに霊を鎮めてもらうため元正(げんしょう)上人を招いた。
委細を聞くと懐紙に筆を走らせ、
「あずさ弓、播磨の方と人問えば、松より藤の名こそ高けれ」とに≠フ一字を入れた。
あるじ赤松の威勢によって依藤の武名も高いという意味に染めかえたのだ。
元正上人は豊房が切腹した辻堂のところに一寺を建立、浄福寺と名づけた。

ある日、拾い首で名を落とした新免弾正長重がここを通りかかった。
赤松の恩恵をこうむりながら形勢不利と見るや山名氏へ走った長重、それが戦乱の世の武士のならいとはいえ、里びとの素朴な人情にはなじまない。
今も赤松満祐を攻め滅ぼした姫路の守護代のもとへいそぐところ。
傲慢に肩をそびやかせ浄福寺内へ馬を乗り入れた。
主君の城が落ちたぐらいで追い腹切るとは、と薄ら笑いを浮かべながら矢立ての筆をとり、依藤になり代わって辞世を詠んでやろうと、
「この堂に立依藤の(立寄りと依藤をかけて)腹切るは、木の山城に煙たちゆえ」
と黒々と本堂前の柱に書きつけた。
その瞬間、ガラガラッと石の鳴る音がした。
北側高台の五輪塔が体を揺するように、あるいは歯がみして起ち上がるように揺れ、石の下から黒い煙が噴き出した。
そして、「おのれ弾正、宗家を裏切り幕府軍に寝返った横道者めが」と一喝するなり、強烈な足げりで馬から落とし、失神させた。

以来、剛直な豊房の霊は、眠ることをやめた。武士が馬に乗って通りかかると、相手かまわず蹴飛ばした。
時には姿を現わし、時には姿を隠して、いきなり蹴り落とす。すべて無言。
八つ当たりに似てそうではなかった。相手は馬上傲然と虚勢を張る武士に限られていた。
噂は知れ渡り、武士も大名もここを避けて迂回するか、馬を降りて手綱を引くかを選んだ。

この怪は三百四十年間に及んだが、天明六年(1786年)子孫である加東郡小田の郷士、依藤清兵衛により五輪塔の前に供養の石碑が建てられ、下の街道を目隠ししたため騒ぎは収まる事となったという。



下の写真は新宮町千本にある「依藤塚」
  依藤塚の五輪塔  

「YORIさんのコメント」
私は平成4年の夏、休暇を取り帰省し、依藤太郎左衛門豊房が自刃した新宮町を訪ねることにしました。
そこには地元教育委員会の手により、「依藤塚」と名づけられた塚が保存されていました。
また、豊房の菩提寺である浄福寺のご住職の
依藤義人氏にお会いし、豊房にまつわる上記お話を聞くことが出来ました。

なお、五輪塔のそばの石碑と説明板には、千本辻堂で自刃したのは小田の城主「依藤惟次」となっています。
天明6年(1786)に小田の郷士依藤清兵衛が石碑を建て、側面に「東播小田城主 世称 依藤佐衛門大尉源惟次 嘉吉辛酉歳秋九月十日自殺」と記してあります。
豊房は城山城で赤松満祐と共に自害し、この千本で自害したのは弟の惟次とか子息とか推測されていますが、専門家の解釈は色々と別れているようです。


※その後、浄福寺において「依藤塚575年法要」が平成28年9月18日(日)に盛大に行われました。
  570年法要の時は出席が叶いませんでしたが、今回は無事お参りに行かせて貰うことが出来ました。
  本当に有難うございました。

【平成28年9月18日(日)撮影】

上は千本にある依藤太郎左衛門の五輪塔の説明板です。
現在は文字が消えてしまって見えませんが、11年前ははっきり読めましたので貼っておきます。


その後の「令和3年2月23日」に現地を訪れたところ、説明板の文字が綺麗に蘇っていました。
文面が少し変更されていることに気がつきました。

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