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城山(きのやま)
城山城本丸跡

所在 兵庫県たつの市揖西町  地図→
歴史 城山城は室町時代の初めに播磨・備前・美作の守護であった赤松則祐が文和元年(1352)頃から20年以上の歳月をかけて築いた山城です。『教王護国寺文書』・『東寺百合文書』に築城についての記事があり、付近の荘園から人夫が徴発されたことが分かります。
則祐の後、城主は義則、満祐、義雅と移り変わり、義雅の時に「嘉吉(かきつ)の乱」(1441)がおこりました。「嘉吉の乱」で足利六代将軍義教を謀殺した赤松満祐(播磨守護)は、追討軍に攻められ、城山城で自刃し赤松一族は一時衰退します。
赤松氏衰退とともに、城山城は約百年間廃城となり、その後出雲から播磨に侵攻してきた尼子晴久が天文7年(1538)から9年(1540)まで城山城を使用しました。
現在、城山の山上には郭・空堀・土塁等の城の遺構が残っており、城内からは中国製陶磁器や備前焼が採集されています。
(城山城・伝兵糧道登り口にある説明板より)


城山城オフ(平成17年2月20日)

赤松氏三大山城の一つ「城山城」オフ開催は、平成17年2月20日(日)に行いました。
集合は「道の駅しんぐう」に午前10時です。
参加者は、Kさん、Mさん、Aさん、Hさんと私の5名です
最初に向かったのは、「千本宿本陣」です。
ここは、因幡街道と呼ばれており、江戸時代の宿駅として栄えていました。
当宿駅は、鳥取・松江・津山藩等の大名が、参勤交代の時に利用していました。千本宿の本陣であった内海家には、今も当時の建物が残っており、大名の宿札や古文書なども残っているとの事です。(現地案内板より)
そのあと、「依藤塚(よりふじ塚)」に寄りました。
赤松惣領家の年寄衆に属する重臣であった「依藤太郎左衛門」は、1441年の嘉吉の乱の時に、「白旗城」に援軍を恃みに行っての帰りに、「城山城」が落城しているのを知り、「最早これまで!」と一族郎党と地蔵堂に入り、腹十文字に掻き切り、自害して果てました。現地には今も巨大な「五輪塔」があります。
さて、いよいよ「城山城」へと登る事にします。
城山城へは市野保の集落から、「搦手道(唐猫谷)」を登る事にしました。
嘉吉の乱の時は、山名教清軍がこの道から攻め上って来たようです。
中腹に「門の礎石」が残っています。
左の写真は「水洗い遺称地(いしょうち)」と呼ばれている場所です。
「播磨風土記」には、石龍比古命と石龍比賣命の兄妹の神の水争いが記されているそうですが、結局はこの地方の村人同士の水争いの様子をたとえた話だと言われています。
写真奥方向にある、城山城の「亀(き)の池」から流れ出た水は、二つの谷へと分かれますが、その勾配の違いから一方の村へ水が多く流れる為、もう一方の村人達がそれを堰き止めました。
写真左手には人為的な石積みが残っていました。
さらに登って行くと、いきなり眼前に大きな池が現れました。
「亀の池」と呼ばれる池で、水量は豊富で比較的綺麗な水を湛えた池でした。Kさんによれば、前回来た時は堰き止めた堤防の下部には石積みが見えたそうです。しかし、石積みは当時のものではなさそうです。
「亀の池」の近くで昼食を終え、見晴らしのいい展望に満足してから、再出発する事に・・・
次に現れたのが、ご覧の「亀石」です。
そう言われれば何となく亀に見えて来るのが不思議ですよね。
そして、やっと本丸(標高458m)に到着です。
本丸からの眺望です。
以前は草木がひどく眺望も良くなかったそうです。
城山山頂から西へ伸びる支尾根を約150m下ったところ迄行くと、古代山城の門の「礎石」が計3個残っていました。
礎石には、約60cm×50cm×20cmの凹部がはっきりと残っており、古代山城においても、かなりしっかりした門があったのだろうと想像出来ました。
写真は谷筋に残っている「石塁」です。
城山城には4ヶ所の石塁が発見されているそうです。
「石塁」を近くから見た写真です。
写真は「伝・赤松屋敷」です。
「伝・赤松屋敷」にある建物の礎石です。
礎石は等間隔に並んでいました。
下りは「伝・兵糧道」を降りて行くことになりました。
ご覧のような沢の側を、滑らないように気をつけながら降りて行きました。
途中で何度も“ズルッ”となりましたが、全員無事下山する事が出来ました。
しかし「伝兵糧道」は思ったよりも長い道のりに感じました。
ようやく「伝兵糧道」の入り口(出口?)まで到着しました。

【感想】
急峻な山城でけっこう疲れましたが
依藤氏ゆかりの地を自分の足で歩いて見学することが出来、本当に良かったと思いました。

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