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  三草山城

ここは源平古戦場で有名な所です。
標高423.9メートルで、山頂には京都北野神社から勧請し
菅原道真公を祭った「三草山神社」があり、受験シーズンには学生で賑わうとの事です。

三草山遠景 所在:兵庫県加東市上三草
城主:赤松則友・丹羽氏

歴史:
「平家物語」に載っている三草山合戦は、一の谷の前哨戦として戦われたもので、源義経を大将とする源氏一万余騎に対し、平家方は平資盛・有盛兄弟らを中心に三千余騎。寿永3年(1184)2月5日、両者の激突が起こった。義経は、平家方が戦いは明日であろうと油断しているところへ夜襲をかけ、一挙に平家方を打ち破り、その後一の谷に向かった。

三草山の頂上には、現在土塁などの中世山城の跡が残されている。『播磨鑑』に赤松円心の5男、出羽守則友が築くと出ており、南北朝期に赤松関係の山城が築かれたのであろう。延元3年(1338)4月には、「福田荘三草山の戦い」と呼ばれる、赤松一族と丹生寺・香下寺の宗徒ら宮方との戦いがあった。

嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱の時、赤松方の宇野能登守国祐を大将とした5百余騎が三草山を固めたが、戦いをしないまま坂本(姫路市)に引き上げたらしい。
その後も赤松満政や則尚が三草山に立て籠もって、山名持豊と戦い、敗れた記録がある。
江戸時代には譜代大名の丹羽氏が転封となり、陣屋が築かれた。

三草山案内看板
三草山案内パンフ


三草山城 登城レポート(平成18年3月26日)

三草山山頂にある三草山神社

(登山口にある説明板より)
三草山は播磨平野の北東にあり、標高423.9m、面積1,100fで、そのほとんどが国有林です。歴史的には、播磨風土記や平家物語、新平家物語などに記されています。寿永三年二月、平家追討の源義経が平家と戦ったのがこの三草山で、追われた平家はここから一の谷・壇ノ浦へ逃げていったのです。
その後、建武三年、赤松出羽守則友がこの山に山城を築いたのです。また、「嘉吉の乱」の後にも、赤松満政、則尚が三草山城で山名方の軍勢と一戦を交えて敗れたことなど、三草山にまつわる歴戦の史である。
頂上からは、播州平野が一望、瀬戸内海や淡路島、遠くは紀伊半島が見えます。県立自然公園内に位置するこの三草山は、ひょうご文化百選に指定されています。

登城したのは平成18年3月26日の日曜日でした。
標高423mの三草山城は、源平合戦や山名・赤松合戦でも有名な山城です。
昼前に自宅を出発し、宝塚インターから名神高速に乗り、中国自動車道を通り滝野社インターで降りました。
三草山の登山コースは、「三草コース」「鹿野コース」「畑コース」の三通りがあります。
この日登ったコースは、急坂ではありますが、いちばん短時間で登れる「畑コース」です。
登り始めるといきなり長い階段が続きます。
整備はされていましたが結構キツかったです。
しばらくすると曲輪跡のような広場に出ます。
ベンチが置いてあり、徐々に眺望が開けて来ます。
更に登っていくと幾つかのアップダウンがあり、それを過ぎると、「井戸ヶ谷」の案内板が立っていました。
「どんな所だろう、ちょっと寄ってみよう」と思い、横道にそれたのですが、あまりに藪がひどくすぐに元のコースに戻りました。
山頂まではご覧の土橋のような細い道が続きます。

しばらく歩くと、目の前に山頂が見えてきました。

山頂手前にある説明板には
「源平古戦場(三草山)」
平家物語によると、寿永三年(1184年)二月、源九郎義経率いる一万騎は、丹波小野原(現篠山市)に布陣し夜半、民家や山野に火を放ち、三草山西の山口に陣取る小松三位中将資盛ら平家七千余騎を襲撃しました。不意の闇討ちに平家の軍勢は弓矢を取るいとまもなく、屋島をさして敗走していったとのことです。
また、それから後の南北朝の時代、播磨から京都に入る要衝の地として、三草山には城がありました。城主は赤松出羽守則友といい、山名氏との戦いにおいて軍功のあった人です。当時の名残である土塁が今もなお山頂付近に残っています。
とありました。
さらに歩いて行くと広い場所に出ます。
ここは「鹿野コース」との分岐点になります。
そこから少し登って行くとようやく三草山山頂に到達しました。
写真は山頂にある「三草山城」の城址碑です。
頂上は360度見渡せる、最高の眺望です。
中央に見える池は「昭和池」です。
三草コースと鹿野コースの中間にあります。
本丸跡にあるベンチに座り、コンビニで買ってきたおにぎり弁当を食べながら小一時間休憩する事にしました。途中から急に風が出てきて曇り空になってきたので、早々に下山する事にしました。
三草山城には尾根筋に十数か所の曲輪があり、土塁や切岸の他、土止め用の石積などが本丸下の斜面に残っているとの事です
またいつか訪れる機会があればゆっくりと周辺を散策してみたいものです。




三草藩陣屋跡
旧 尾崎家住宅(三草藩・武家屋敷)
所在 兵庫県加東市上三草1157  地図
説明 三草藩陣屋は、廃藩後に三草小学校の敷地になっていましたが、現在は「やしろ国際学習塾」が建っています。学習塾の裏手には三軒の武家屋敷が残っています。

<三草藩と武家屋敷>
江戸時代中期の寛保2年(1742)、越後国高柳1万石の藩主・丹羽薫氏(しげうじ)は播磨国加東・加西・多可郡、のち美の郡を加え、4郡内で所領を得る事になり、禄高1万石の譜代大名として三草藩を成立させました。その拠点は三草とし、延享3年(1746)、この地に陣屋を構築し、それを「お小屋」と称する武家屋敷をはじめ、徒歩長屋、足軽長屋および和銅稲荷社などを配しました。
武家屋敷は、藩主が参勤交代をしない定府(じょうふ)の大名であったため、お国入りの宿舎や藩の国元詰めの役人の住居として使われたりもしました。

<旧 尾崎家住宅>
尾崎家は幕末時に藩の大目付として活躍した30石取りの藩士、尾崎弥一郎の後裔です。大きく改変されることなく、正面の式台まわりなどに当初のままの武家屋敷の構えが良く残っています。また屋敷門(表裏)、土塀、納屋、井戸端、その他の附属屋からも江戸時代末期の武家屋敷の生活を偲ぶ事が出来ます。

【社町発行:旧尾崎家住宅パンフレットより】
やしろ国際学習塾 武家屋敷群
旧尾崎家住宅の中庭。日本庭園の庭石は丹波系。 庭園の井戸覆屋
式台と玄関の間


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