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文献登場人物紹介 



小野市史(第一巻)より

【依藤太郎左衛門尉藤原資頼】
*登場文献「相国寺供養記」「大徳寺文書」
明徳3年(1392)8月28日、京都では将軍足利義満臨席のもとで、相国寺供養が挙行された。
その際、牛車に乗った義満に扈従する後陣随兵の四番、赤松義祐の掻副(かいぞえ)として、浦上清景・同景則らとともに依藤太郎左衛門尉藤原資頼の名が見えている。
これが史料上に見えている比較的早い例である。

応永4年(1397)9月に、播磨国飾東郡穴無郷(姫路市)に所在する臨川庵が、京都大覚寺如意庵の末寺である証拠の品々を披露し、あわせて裁許を求めた浦上助景の書状は美作殿とともに、依藤殿に宛てられている。
助景が披露を請うたのは守護赤松義則に対してであろから、依藤は義則の宿老の一人であったのだろう。

【依藤太郎左衛門入道性好】
*登場文献「伊和神社文書」
応永19年(1412)5月、依藤太郎左衛門入道性好が播磨一宮伊和神社に、相伝の所領である宍粟郡神戸荘(宍粟郡一宮町)内の宰相房跡名田畑を寄進しており、この寄進状には赤松義則(入道性松)が裏判を据えて性好の寄進を保証している。
この太郎左衛門入道も義則の法号性松にちなんで性好と号している点、義則に近仕した人物と思われる。
以上3例の依藤氏はみな同一人物、即ち依藤資頼である可能性が高い。

依藤太郎左衛門の伊和神社への寄進状


【依藤弥三郎】
*登場文献「南方御退治条々」
依藤弥三郎は、堀兵庫助とともに幕府・朝廷との交渉役を担当して、神璽奪還後の赤松家再興の約束をとりつけ、その力量や人脈をかわれた人物であろう。
康正2年(1456)12月の、吉野潜入にあたっても京都雑掌として引続き京都にとどまった。
翌年12月の後南朝皇子討伐の際には、弥三郎は播磨三草山に出張しているが、あるいは播磨の赤松牢人衆との連絡のためであったのかも知れない。
神璽奪還の功績により赤松政則は加賀半国以下を宛がわれ赤松再興がなるのであるが、依藤氏も当然恩恵を蒙るとともに、宿老の一人として赤松家中において重い地位を占めた。

下の史料は「南方御退治条々(上月記)」から。
下段向かって左から二行目に「依藤弥三郎」の名前が見える。


【依藤豊後守則忠】
*登場文献「清水寺文書」「冷泉家文書」
依藤豊後守は、応仁の乱での活躍が知られる。
応仁の乱の初期の激戦に、応仁元年(1467)6月8日、京都一条大宮の合戦があるが、赤松勢は山名教之軍と激突しこれを破った。
この時、山名常陸守を討ち取る高名を揚げたのが弓の名手として知られた依藤豊後守である。
ついで、応仁3年(1469)4月、則忠なる人物が鴨河百姓の違乱に苦しむ清水寺に、山林を当知行安堵すべきことを伝え、同年12月には依藤豊後守が冷泉家細川荘(三木市)の地頭職代官に補任されている。
文明9年(1477)正月には、依藤豊後守則忠が清水寺に造営用途として、米五石を寄進している。
この豊後守は、長禄の変に活躍した弥三郎が受領成(ずりょうなり)したものとも考えられる。
この他「清水寺文書」には清水寺の祈祷に対する礼状や、御屋形赤松政則の意向を取り次いだ則忠の書状が数通残されている。
また無事に帰陣した礼として修理料足を寄進したものもあり、清水寺を深く信仰していたことが知られる。
のち依藤氏は豊地城を居城としていた事がわかるが、細川荘の地頭代官に補任されている事や、清水寺に対する信仰から、このころは既に東条谷を拠点としていたようである。

【依藤秀忠(孫三郎・太郎左衛門)】
*登場文献「清水寺文書」「栗山文書」
文明年間(年欠)11月12日付で清水寺衆徒中に宛てた書状では、「先祖性好以来、亡K叟に到り代々不参のところ、今度不慮の示現により拙者父子初めて参詣申す」と述べており、応永年間に活動が見える太郎左衛門入道性好が先祖である事、亡父がK叟と号してした事、秀忠の代に至り初めて清水寺に参詣した事が判明する。
しかし同時に「代々一行これ有るうえは毎事相違有るべからず」と述べて、先祖同様に清水寺の庇護者たるべきことを確認している。
この頃、依藤氏は東条谷を中心とする周辺地域の国人土豪たちを被官として、支配下に組み込んでいたようで、さらにその被官衆を取りまとめる年寄衆と呼ばれる栗山氏などがいた。
依藤家中の重臣たちには、栗山吉久(四郎左衛門尉・備後守)、同行久(宗兵衛尉・越中守・備後守)、稲岡宗能(藤左衛門尉・和泉守)、新延忠久(左近将監・河内守・入道宗左)、同実久(左近将監)、同忠明(弥四郎)などがいた。
それ以外にも日出気(あるいは日土気)則久(蔵人左)、新延職久らは、奉書の発給者(奉者)としてみえている。

【依藤弥三郎】
*登場文献「栗山文書」「蔭涼軒日録」
(先に登場した則忠に受領成したと考えられる依藤弥三郎とは別人だが、弥三郎は依藤氏の通名と思われその子孫か)
文明15年12月真弓峠の戦いで山名軍に大敗を喫した赤松政則は国人衆に離反され、浦上則村・小寺則職らは有馬慶寿丸の擁立を企てた。別所則治の奔走により政則は家督の座に返り咲くことができたのだが、この時将軍義尚に慶寿丸擁立を訴えた五名の重臣の一人が依藤弥三郎である。
この弥三郎が発給した文書が「栗山文書」に3通残されている。
いずれも被官の栗山三郎左衛門尉・同中務丞にあてて、野口や豊地での合戦の勲功を賞した感状で、文明17年のものと推測されるが、この時弥三郎の父が国滝という在所で生害したことが知られる。
延徳2年(1490)10月には蔭涼軒主亀泉集証が、長福寺末寺である都染(つぞめ…加古川市)の安養寺住持に他派僧侶が就任しているとして、領主依藤弥三郎ならびに同名又三郎に善処を求めているのをはじめ、明応初年頃には赤松政則の御供衆として浦上則宗らとともに弥三郎の名が見える。
こののち明応8年(1499)には依藤猪五郎、永正18年(1521)には依藤亀市の名が見える。
依藤亀市は大部荘内の古川・高田・鹿野・敷地・王子・畑(葉多)・雲(久茂)・下大部・片山九ヵ村の百姓の口入を得て、大部荘代官に補任された人物であり、依藤氏が大部荘域にも勢力を浸透させている状況が窺える。

【依藤秀長】
*登場文献「清水寺文書」
秀長は最初源五郎、のち中務少輔を称しており「清水寺文書」に数通の文書を残している。
秀長の頃になると清水寺中の喧嘩の裁定に介入するなど周辺地域に対する支配を強めていたようで、被官としても栗山・新延氏のほかに垂井・東条・吉河・今安など加東・美嚢両郡の中小国人土豪の名が見えるようになる。

【依藤太郎左衛門】
*登場文献「清水寺文書」
上記人物以外にもこの後依藤太郎左衛門を名乗る人物が出てくる。
『赤松記』の著者得平定阿が、紛失したと思っていた得平家歴代の文書・系図を、思いがけず所持していたのが依藤太郎左衛門であり、得平氏の文書は依藤氏のそれとともに八幡の岩の坊に預けられていた。
そして「被官の内にて候くり山(栗山)・にいのへ(新延)か両人に壱人のぼせ候はでは(文書類を)取出候事ならず候」と言われたように、栗山・新延氏はやはり依藤家中における宿老的存在であった。




※その他の依藤史に関する資料掲載

【依藤長守】

*「鳥取藩史」から―
初名牛之助、のち孫兵衛と称す。父長安通称半左衛門 初牛之助と曰ふ。長守は其次子なり。
依藤氏其先源秀房に出づ。安元の比、其裔 播磨国加茂郡依藤(大日本地名辞書に拠れば、依藤城は今の東条谷なり))に居る。
・・・・中略・・・・
豊久の子弥太郎、名は光久、年幼を以て帰て小田に居る。長安は即ち其孫なり。
長安曽て中村一氏に由緒あり。因て長安主水を播磨に留め、次子長守を伴て駿府に入り、中村氏に臣事し後、従て伯耆に移り、七三〇〇石を食む。
・・・・略・・・・
<補足>
依藤長守は伯耆中村氏の軍師であった。
慶長8年11月14日、中村忠一が家臣横田村政を誅殺した時、村政の郎党達と戦になった。
敵方には柳生五郎右衛門と言う人物がいた。柳生五郎右衛門は兵法の達人で、柳生但馬守の舎兄であったが、訳があって舎弟に家督を譲り、各地を漂泊、米子の横田を訪ねて来て客分となっていた。
同11月15日、槍術に優れた柳生五郎右衛門に対し、依藤長守は弓矢で挑んだが、この日は勝敗がつかず再会を約して別れた。
16日再び会戦する。長守が先ず弓を射るが、五郎右衛門は槍にてこれを防いだ。
勝負がつかない為、互いに太刀を抜いて戦った。交戦して二刻、長守がついに五郎右衛門の首を落とした。
その功により中村忠一は、長守の父依藤長安と河毛備後に国政を執らせた。
その後、一時は播磨に帰隠。再び弓馬の達人として岡山に戻り、馬術の師範役となるなど、その名は天下に知られた。
慶安3年11月に、因幡で長守の隣家に罪人が押入り、子供を人質に取って立て籠もったことがあった。
長守は狩股を袖に隠して賊のいる部屋に忍び込み、弓矢を構えて賊を倒す機会を探っていた。
その時が来て鳴弦一つ、賊の首骨を絶ち幼児を無事救ったことがあった。
・・・その後・・・・
長守には子供がおらず、備前浦上家の旧臣新庄藤太夫の次子勘左衛門を養子とした。
明暦3年4月8日、鳥取にて没す。勘左衛門の継名は長章。

*「倉吉市誌」から―
「三近世 2中村・山田・里見・池田氏」の中の「○中村氏」についての項より。
中村忠一は、父一氏が駿河一国の領主であったが、慶長五年(1600)七月に死んだ後を継ぎ、特に十歳の少年であったのを、伯耆守として米子に封をもらったのである。
そのため家康は政務を横田内膳宗治に任せて、忠一の成長を待つことにした。
倉吉には老臣依藤半右衛門を遣わして治めさせたが、次いで中村伊豆守を八橋より転封した。
この伊豆守は亡父一栄(かづよし)の法名を取って一寺を造営した。それが大岳院である。
・・・・中略・・・・
中村氏はとかく内部のごたごたがあって、家康の機嫌もよくなかった。
・・・・略・・・・
慶長十四年(1609)忠一は二十歳で早世したため、御家断絶となり、家臣は浪々の身となったので、依藤・中村(家人の平助のことか)ともに失脚し、その屋敷は闕所屋敷と言われ、だれも居住せぬ空屋敷として久しく残された。



【依藤平八郎方敬】
【依藤方昶】
*登場文献「小川村誌」・・・兵庫県丹波市
第二章 小川村の組織
野坂 
徳川時代文化年間 38戸 /昭和13年4月1日現在 41戸
奥村の西にあり古来奥村の出戸なりしが元禄年間独立の部落となり、藩政の初柏原織田上野介の領となり後織田肥後守(旗本)(石高152石6斗)の領となる。
北方の山麓に古墳多し。

第四章 教育
二 本村の重なる寺子屋
1.依藤寺子屋
依藤覚太郎氏の祖父依藤平八郎氏は弘化・嘉永の頃より明治維新に至るまで谷川に陣屋を構えたる織田家の代官を勤めたる人にして、此地方に大なる勢力を有せり。
和漢の學に通じ和歌を能くし「方敬」と称す。
職務の傍、當地方の子弟に學問を教へられしを以て此家に到り教を受けしもの多し。

2.學制發布後の本村教育
學制の發布は明治5年8月にして其翌明治6年5月、本村に初めて小學校を設く當時當地方は豊岡縣第十八大區に属したる井原村、村森村、岩屋村、奥村、野坂村の五ヶ村を以て組合とし、井原村清雲寺(現今其跡なきも日吉神社の東にありし寺)を假教場とし、仝年5月23日を以て授業を開始す。
之札本村小學校教育の始めなり。  
其校名を推行舎と補す。
教師は依藤平八郎(野坂)、藤井俊吾(井原)にして、推行舎世話方(管理者)は廣瀬藤三郎、村上仙松、笹倉嘉助、酒井重三郎、依藤常右衛門なり。

3.小川村立尋常高等小学校
一.本校沿革の概要
本校は明治六年五月廿三日の創立にして當時の井原村・村森村・岩屋村・奥村・野坂村の五ヶ村を学区とし、井原清雲寺を假教場とし、崇廣館推行舎と命名す。
生徒数は不明なるも五十人位ならん。
教師は元寺子屋を開きし野坂依藤平八郎と井原医師藤井俊吾の二氏なりき。

「第十八章 名勝旧跡伝説及金石文」の項「8.野々口隆正の歌碑」の欄には以下の紹介がされている。
至山(いたり山)の山麓に、“いたり山 道のいたりは日の元の もとつ教のほかにあらめや”の歌碑がある
之れ國學者正五位野々口隆正明治維新前此地方に遊び、至山の姿の誠に美しく其名も又よろしければ、日本精神を至山に因みて詠みしを其門人依藤方敬(野坂の人、當時織田肥後守谷川陣屋代官を勤めし歌人)、藤井秀澄(井原の医者)等此名歌の埋れ木となるを惜しみ、此地方の人々と謀り嘉永3年に石を刻みて建碑せしものなり。
とあり。

「山南であい公園」にある野々口(大国)隆正の句碑


野坂依藤氏について
@「丹波氷上郡志」には
「丹波氷上郡志」145頁、「野坂」の項より。
村内の依藤氏は別所長治の一族にして三木落城後、加東郡依藤野に住み、後、当地に来住し依藤を姓とす。
織田氏の代官たり、代官依藤方敬は野々口隆正の門人にして和歌を能くせり。


また
A『丹波志』氷上郡之部(氷上文化協会刊):古川茂正編集・野添宗祇再校の文化元年(1804)写本を原典によると、
1.依藤氏   野坂村
村上源氏赤松裔、同国三木の城主別所小三郎長晴、羽柴筑前公と戦い落城す。
同姓太郎左衛門、同国加東郡依藤野へ遁れ暫く居住、同じく羽柴公と戦い討死す。
其石碑右依藤にあり。
其嫡子太郎左衛門方晴天正年中丹州氷上郡野坂村へ来り郷士となり、在名を名乗り依藤を姓とす。
次男次郎左衛門末は依藤野の下小田村にあり。
慶長19年12月方晴卒、碑名梶村。也足寺にあり。
其末依藤党野坂村に数多くあり。
今文化元年に到る、七代目依藤祐八方昶。
常紋丸ノ内に二ツ引、替紋は九曜なり。

とあり、@とAには微妙な相違がみられる。
野坂依藤氏の出自は明らかに別所氏とは異なるものだが、この時代の趨勢で、播磨に最大権力のあった別所氏にこじつけたものと思われる。


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