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三木合戦と依藤氏



[はじめに]
皆さんは別所長治という戦国武将をご存知でしょうか?
別所長治辞世の句です。
今はただ恨みもあらじ諸人の 
      命にかはるわが身と思へば


別所長治は、羽柴秀吉の大軍に包囲され、三木城に籠城2年の末に、城兵将士を救う事を条件に自決した青年武将です。
三木城は兵庫県三木市にあります。美嚢川をのぞむ丘陵突端に城址はあり、上の丸公園天守台跡には、別所長治辞世の句碑が建ち、稲荷神社には地元有志の方が奉納した、合戦や三木城の絵額が掛けてあります。

私は以前、三木城を訪れた帰りに、別所則治が崇敬し別所の廟刹となっている「法界寺」を訪ねてみました。
法界寺には、歴史書などによく出てくる、狩野秀信筆による別所長治公画像が所蔵されており、また毎年、合戦絵図を用いた三木合戦絵解(えとき)が行われています。
【尚、絵解は従来2月に行われていましたが、平成15年(2003)から気候のよい4月の「月命日」に変更されました】
訪問時、ご住職より「別所記」を翻訳した小冊子を頂戴し、今も大切にしております。

別所氏と三木城、別所氏と依藤氏、三木合戦と依藤氏、のことなどを「別所記」や「圖説三木戦記(三木文庫)」などを参考にまとめてみました。

(お断り:歴史学者でも専門家でもありませんのでご不審な点ご不明な点がございましたら、ご自分でお確かめ願います。)



[依藤氏と別所氏]

織田信長が天下布武をとなえ、毛利と対決姿勢にあった時代、播磨の国(播州)を治めていたのが三木城を居城に東播8郡を治める別所氏であった。

別所氏は守護赤松氏の流れで赤松氏の配下にあったが、赤松氏が衰退してくると、同じ赤松氏の年寄衆で、加東郡東条谷を中心に勢力を誇っていた依藤氏と東播の覇権を争い、享禄3年(1530)、別所就治は柳本賢治に援助を要請し、依藤氏の居城・小田城を攻めた。

しかし、細川高国方の浦上村宗が依藤氏を後援。浦上・依藤方は東条谷で柳本賢治を中村助三郎に暗殺させ、別所氏の属城は相次いで落城し、別所氏も一時は危機に追い込まれた。

享禄4年(1531)浦上村宗が「大物崩れ」で戦死すると、東播はしだいに別所氏の制圧するところとなっていった。

小沢城主の依藤太郎左衛門恒殷は、細川庄の冷泉為純・為勝父子が別所氏から攻め込まれた時、冷泉父子の救援に駆けつけたが、為純は自殺し、為勝を伴って逃げ落ちる途中、依藤野(嬉野)で為勝と共に自刃した。

しかし依藤氏の中には、三木の別所氏に臣従した者もあり、その後に起こる「三木合戦」にて活躍した人物もいる。



[三木合戦と依藤氏]

天正5年10月、織田信長は秀吉を中国毛利攻めに出陣させた。秀吉は播州に下向し、別所・小寺氏らの協力を得て1ヶ月足らずで播磨の大半の豪族を掌握。

秀吉は、背後の脅威である但馬や毛利の勢力が浸透している福原城(佐用郡)、上月城(佐用郡)を武力平定し、12月中旬戦果報告に帰国した。

天正6年、秀吉は再び播磨入りすると加古川城に国内諸城主を集め軍議を行った。
別所長治の代理で出席したのは毛利びいきの別所賀相であった。
名門意識の強い賀相は、下層から立身した秀吉を見下すところがあり、評定で別所氏の家系から代々の軍功を語る長談義に及び、秀吉の不興を買う事になった。

賀相は憤懣を抱いたまま三木城へ帰ると、「信長の走狗となり軍功を積んでも、毛利を滅ぼした後には播磨は秀吉の所領となるであろう。そうなれば別所も結局信長に亡ぼされる。」と説き、長治に信長からの離反を決意させた。

長治には二人の叔父、別所賀相と別所重棟兄弟がおり、政治・軍事の宰領は2人が専らにしていた。
この叔父同士は仲が悪く、重棟は信長びいきで、賀相は毛利びいきであった。
当然、重棟は手勢を率いて三木城を出、織田軍に身を投じた。

ここに歴史上有名な「三木の干殺し」の三木合戦が始まるのである。



[別所記での依藤氏のこと]

播州三木別所実記 下巻より

「久米志水最後 治定討死の事」

〜中略…
秀吉の郎党樋口太郎、組まんと近付(く)所を、樋口がしぶとき者は捨て置くべしと、又繰引(き)に引(か)るれば、彼三人も跡に付(き)退きける。

又引(き)おくれし武者弐人、田の畔を伝ひ落行(く)を東国勢八騎にて追(ひ)かくる。

二人は馬より飛(ん)で下り、道の左右に衝立(つ)て、追来る敵の馬の諸(もろ)ずね、長刀にて薙倒し薙倒し敵三騎、目前に討取(つ)て、我々は別所累代の侍、飯尾吉右衛門・依藤弥太郎といふ者ぞ。

近寄(っ)てあやまちすなと、高らかに呼(ばは)って引退くに、あへて近付(く)者なし。

今日城兵の討死、宗徒の輩三十五人、都合八百余人とぞ聞へける。
〜後略

以上のように、依藤氏の中にも別所氏と共に三木籠城組がいた事が分かる。

圖説三木戦記(三木文庫)には、西軍(別所軍)之部に、依藤山城守光勝(加東郡東条谷・小田城主)と依藤彌太郎の名が見える。
依藤彌太郎は上記の飯尾吉右衛門と一緒に久米志水で戦った依藤弥太郎と同一人物と思われる。

依藤山城守光勝については、「姫路城史(上巻)」に以下のように書かれている。

(小寺)政隆には一男二女があった。男は則職、女は姉は加古郡安田城主魚住左近大夫告長に、妹は加東郡小田城主依藤山城守光勝に嫁した。

これらより、依藤氏は小寺氏、魚住氏とも姻戚関係にあったと思われる。

また圖説三木戦記には、印南郡平津庄・井之口砦(井ノ口城)城主依藤小八郎の名も見える。

この依藤小八郎「赤松家播備作城記」にも井之口城主としても記載されていて依藤三河守小八郎治定とあり、「実父は別所大蔵大輔安治の末子で養子也 天正6年落城」とある。

「播陽古城記」には井ノ口構居の領主伊藤小八郎
とあり、「志方の家臣 天正の乱に退去す」とある。

そして「播磨古城址一覧表」には、印南郡上荘村大字井ノ口、井口砦(井ノ口城)城主伊藤小八郎とあり、本丸二十六間四方・二の丸二十六間に二十一間、志方の幕下といふ。(「播城志」天正の乱に落城といふ)とある。

因みに同じ印南郡平野庄都染村には「いさか砦」があり、そこの領主が伊藤大隅守時員と言い、伊藤小八郎とも何らかの繋がりがあるのかも知れない。

その他、多くの資料、書物などにも依藤(伊藤)小八郎の名が見えるが、依藤氏の一族なのかそれとも別所氏の一族なのかは判然としない。


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[関連写真]

【三木城攻囲図】 神戸電鉄発行パンフ「三木合戦」より

三木城攻囲図


【三木城址】 別所長治 辞世の句碑

別所長治 辞世の句碑


【三木城址】 三木城復元図と三木合戦図の説明看板

看板には「三木城別所氏釜山城の当時の復元図によせて」とあり、三木市による三木合戦の状況を伝えています。天正8年1月17日、別所長治公は城に籠った婦女子や家来・庶民を思い、一族兄弟にて自害を図りました。 三木合戦の状況図を絵などで説明しています。

↓は新しくなった看板
  


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