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但馬 竹田城

(※ご注意)
これは平成14年10月に訪ねた時の昔のレポートです。
現在竹田城跡は国の指定史跡となり
様々な規制や規則が設けられています。
見学時期・見学可能場所・登城制限等々につきましては
下記、朝来市公式HPにてご確認ください。

【朝来市公式HP】

天守台から見た南千畳

「竹田城山門」駐車場の傍にあります。「短時間登城コース」もここから登っていけます。
竹田城山門
(周辺地図)

所在:兵庫県朝来市和田山町竹田
城主:山名持豊・太田垣光景・赤松広秀
歴史:
竹田城が城郭として完成するのは、永享3年(1431)から嘉吉3年(1443)までだと言われています。但馬の守護職山名持豊によって築かれ、太田垣光景が初代の城主に任じられたと伝えられていますが、専門家によってはこの光景初代城主説を否定しており、播磨の実質的な初代守護代となった太田垣通泰が築いた城としています。

最初に出くわす「花屋敷」跡。ここで標高330mあります。
花屋敷跡
『赤松氏との戦い』
嘉吉元年(1441)6月、播磨守護職の赤松満祐が時の将軍足利義教を殺害する事件(嘉吉の乱)が起こり、山名持豊(宗全)は室町幕府から赤松追討の命を受け、播磨の城山城を攻めて討伐しました。
その10月には、播磨守護代を太田垣氏とし、初代竹田城主に太田垣氏がなりました。
登城途中、眼下に見える城下町。
城下町を眼下に見る
『赤松氏の反撃』
しかし、赤松一族の反撃は続き、文安元年(1444)には赤松満政が三草山城に挙兵、生野の真弓峠で激戦が行われました。
但馬を領する山名氏と、播磨を領する赤松氏の国境に位置する竹田城は、両雄の重要拠点でした。
「花屋敷」から「南二の丸」へ向かう。
花屋敷から二の丸へ
『竹田城の見どころ』
竹田城跡はJR播但線竹田駅の西側に位置する、「古城山」(標高353m)の頂上に築かれた「中世の山城」です。別名を「虎臥(とらふす)城」と呼ばれ、南を頭にして北方に長々と伏せている虎のような姿から、その様に言い伝えられてきました。
天守台・天守曲輪・二の丸・三の丸・北千畳・見付櫓・平殿・花屋敷・東の丸・南千畳など、すべてが堂々たる威容を誇っています。
本丸からみる城下の様子。本丸は標高351.1m。
本丸から城下をみる
やはり見どころは、城全体が総石垣の城郭で、その石積みの美しさにあると思います。
竹田城の石積みは「古式穴太流」の「野面積」で、花屋敷一郭から見上げる重厚な石積みは見る者を圧倒します。
南千畳に立って石積み全体を眺めると、ここは本当に日本なのか?と錯覚しそうになりました。
本丸にある天守台
天守
左は天守台です。
早朝などには雲海を下に見下ろせることが出来る事もあり、天空の城そのものです。

現在竹田城の見学には規制があります。
随時、【朝来市公式HP】で確認の上訪問して下さい
本丸の石垣群
本丸の石垣
『竹田城を歌った歌詞をいくつかご紹介します』
〔竹田校 行進曲 6番〕
古城落日 夕陽の 光に映ゆる 諏訪ノ森
来る人もなき たそがれに 誰をか招く 枯尾花
山名の雄図 今いづこ 
虎臥城下 涙あり

〔竹田小学校 校歌 1番〕
虎臥山に 年ふりて その名も高き 赤松の
葉末の雫 むすびつつ 二葉の小松 茂りゆく
学びの園は 千代八千代
「南二の丸」より見る「南千畳」と城下町
南二の丸より南千畳をみる
〔和田山 町民歌 1番〕
踏めこの大地 あの小道 群山めぐる 谷間路に
祖先の跡を つぎてゆく 古城さやかに 吹く風も
歴史を語る ふるさとは 
おお和田山 和田山 誇りあり

〔和田山音頭 1番〕
虎臥城に 春風吹けば 桜吹雪の 立雲峡
みんな みんな浮かれて 唄もでる
ハァーヨイトナ おぼろ月 ハァおぼろ月

竹田城の雲海(写真提供元KAI様)

『山名氏と赤松氏の主な合戦を少しご紹介します』
両軍が対立し出したのは観応の擾乱(1350〜1352)の頃で、最初の合戦は「太平記」の第32巻に見える神南(こうない)合戦です。

赤松則祐と山名時氏が山崎の西・桜井駅の南で戦い、この時は時氏の嫡男の師義が傷を負い、山名側劣勢となりました。

次の戦いは、康安元年(1361)美作国で起こり、「太平記」第36巻には山名時氏の嫡男師義と次男中務大輔が赤松則祐側を攻めたて、山名の勝利に終わりました。

その次は、「明徳記」に明徳2年(1391)京都二条猪熊にて、赤松義則と山名氏家が戦ったとあり、この時はほぼ引分けとなりました。

そして次は、ご存知の「嘉吉の乱」(1441)での合戦です。
書写坂本城城山城白旗城などで、赤松側が幕府側の山名と戦った合戦ですが、赤松満祐はじめ一門衆69人が城山城で自刃しました。

その後、赤松家再興後も対立は続きました。
「応仁記」「応仁別記」には山名相模守と赤松政則が戦ったことが記録されています。

応仁の乱が終わってもなお、戦いは続きます。
・真弓峠の戦いでは山名側の勝利
・蔭木城の戦いでは赤松側の勝利
・英賀・坂本の戦いでは赤松側の勝利

と、山名氏と赤松氏は170年に及ぶ対立を繰り返してきました。

宿命のライバルであった両軍ですが、平成2年5月26日、但馬竹田虎臥山頭に、山名・赤松両氏顕彰会が一級の宝塔を建立しました。
塔内には、往昔山名・赤松両軍の流血の跡である但馬真弓峠・播磨坂本城・宝山城・城山城等の土砂一瓶と、山名・赤松両氏の末裔が今日を記念して至心に浄写した「宝篋印陀羅尼経」が収められているとの事です。

以下、【山名・赤松両氏顕彰会発行、「山名氏・赤松氏研究ノート第一号」(山名氏・赤松氏 両軍陣歿諸霊供養塔建立の記:事務局吉川広昭氏著)】より抜書。
「顧みれば、嘉吉の変を頂点とした永年の間、播但の南北に対峙した竜虎の両雄は、京都兵庫岡山等の各地で壮烈な攻防戦を展開してきました。
戦国の習いとは言え痛恨の極みであります。これら幾百千の陣歿諸霊の鎮魂供養と、史上に雄名を止めた両氏の遺徳顕彰は、今日に生きる末裔、等しく為さねばならない責務でもあります。…略


世間ではこれを「平成の手打ち式」として、話題になりました。
供養塔建立事業協賛には私の一族も名を連ねております
平成2年5月26日に竹田城跡に建立された「山名氏・赤松氏両軍陣歿諸霊供養塔」
山名氏・赤松氏両軍陣歿諸霊供養塔


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