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坂本城

訪れたのは平成14年9月のことです。
当時のレポートを掲載します。
もうずいぶん昔の事になり
現在の坂本城の状態がどうなのか?
知りたいところです

所在:姫路市書写溝江
城主:赤松則祐

説明:
姫路市の北方に聳える書写山、その南西麓に坂本城がある。
築城主は赤松氏で、足利尊氏・直義兄弟の権力争いから起こった「観応の擾乱(1350〜1352)」で尊氏が布陣した所として太平記に登場する。
観応2年(1351)1月に、京で直義軍に敗れた尊氏は、丹波路を経て「播磨の書写坂本へ落ち」のびるのである。
尊氏に従っていた高師泰も美作軍を破って「書写坂本へ馳せ着」いた。


【写真:保存が決まっている土塁部分】
宅地化した新興住宅が立ち並ぶ城址 2月に入ると、石塔右馬頭を大将にした直義軍5千騎が坂本へ押し寄せようと、加東郡の光明寺に布陣。
尊氏は1万騎を持って光明寺を取り囲むが、直義軍が坂本に攻め入るとの報に、尊氏はこれを迎えうつべく、兵庫で戦うが大敗するのである。


【写真:土塁の向こうには新興住宅が建ち並ぶ】
現存する土塁と堀 坂本城は、「播磨鑑」など江戸時代の地誌には応永29年(1422)の築城とあるが、円心の時代に築城されたものと思われる。
因みに、擾乱の始まった観応元年(1350)に播磨守護だった赤松円心が亡くなっている。


【写真:現存する土塁と堀】
現存する土塁と堀を見学 「御構の御所」
坂本城には大きな堀が廻らされていたようで、赤松の政庁が置かれていたことから「御構(おかまえ)の御所」とも言われていた。
赤松惣領家であった赤松満祐は、播磨守護職として支配の中心を坂本城に置いた。赤松氏は室町幕府の四職家のトップでもある侍頭人として絶大なる力を持っており、それに見合う格式の高い城であったと考えられる。

【写真:雨の中、土塁と堀を見学する】
現存する土塁(最北端の土塁で個人所有地となっている) 「嘉吉の乱の舞台として登場」
嘉吉元年(1441)6月、赤松満祐は時の将軍足利義教の圧政に叛旗を翻し、京の自邸で義教を弑逆した(いわゆる嘉吉の乱である)。
満祐はその後本拠地播磨・坂本城に引き上げたのである。
南端の現存土塁。H14年10月に発掘調査が行われた後に宅地開発される予定。最後の姿を写真におさめた。 将軍を討たれた幕府方の動きは鈍く、7月に入りようやく追討軍を結成、播磨へ攻め入ったのである。


【写真:宅地化が決まっている土塁と堀の部分】
姫路市教育委員会による坂本城調査図(第8次) 赤松満祐は軍議を開き、一族の将士を播磨の国境に配置した。
大手の須磨・明石方面は長男の彦次郎教康を大将として浦上・
依藤・櫛橋・中村・魚住・釜内・別所・間嶋らの諸将を配し、明石の和坂に本陣を置いて、最も強力な布陣をした。
しかし幕府の大軍に抗しきれず、9月に坂本城は落城。
白旗城も落ち、満祐は城山城に籠城ののち、自刃して果てたのである。

【写真:姫路市教育委員会による発掘調査図(第8次)】
「赤松盛衰記」から、播磨書写坂本の項。 「赤松盛衰記」坂本城の記載
満祐が坂本に帰ると急を聞いた領国の武士達が続々と集まってきた。
「赤松盛衰記」には、この時坂本城に、宗徒(むねと)の侍88人、惣勢都合2,900騎が参集した、と書かれている。
その勢としては、
依藤・佐用・小寺・上月・浦上・櫛橋・中村・大田・在田・間嶋・永良・宇野・別所・安積・薬師寺・神吉・志方・英保・魚住・七条・有馬・釜内・角田・島村・福岡・福原・江見・長浜・衣笠・富田・粟生・内海・得平・袖垣・宇津・広峰・白国・小河・柏原・多賀屋・難波・糟谷・萩原・後藤・井口・恒屋・堀・中山・中島・櫛田・神出・葉山・尾上・小松原・黒田・竹中・佐野・柳井・須賀院・須貝・田中・世良田・石見・広瀬・前川・原・村田・伊東・佐谷・栗山・菅原・芝田・八木・村上・芳賀・芝・豊福・野中・頓宮・平野・飽間・荒田・和木田・大多和・志水・金沢とある。


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