年中行事
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戸祝い
( 1月上旬 )
子供達が棒で各家の戸をたたいて祝福してまわる若狭地方の正月の伝統行事。今では遠敷地区の下根来“しもねごり”宮川地区・本保や内外海“うちとみ”地区の阿納、犬熊等数カ所でしか行われていない。
下根来区では、1月10日に子供達が「祝い木」と呼ばれる縁起物を描いた20cmくらいの棒を持って八幡神宮に集まる。そしてまず神社の戸を叩きぞめした後、「今年の年は良い年で、早稲“わせ”は斗石、中稲“なかて”は八升、晩稲“おくて”は七升、背戸に銭倉」と唄いながら、各家の戸をたたいて廻り、お礼に小判型の菓子をもらう。
本保区では、1月15日に子供達が「ばい」と呼ばれる縁起物を描いた棒を持って「今年の年は芽出度い年で、瀬戸にはせど倉、かどにはかど倉、中には不動の宝倉、その中には黄金“こがね”のどうど倉」と唄いながら、各家の戸をたたいて廻り、お年玉をもらう。
阿納区では、1月3日の夜にらせん状の模様をつけた細長い木「たんたん棒」を持って、舟や各戸をたたいて廻る。
犬熊区では、1月5日の午前中にわらで作った二股の祝い棒「はりごま人形」を持って、各戸の玄関をたたき、「祝いましょう。春の初めに熊野参りと鈴ついて、はりごまなんぞに夢に見て、板屋の河原にがわめく河原におもしろや。センダボウケにカマブタボウケにおもしろや。クマイの婆たちゃ白米、玄米たもれ。シオシオシオ」と唱え事をする。はりごまは春駒という京都宮中の正月の三節会“せちえ”のひとつがなまったもので、はりごま人形は元来馬の形をしていたらしい。
堅海区では、1月2日に男子が栗の木ばいを持って、本保区と同じ唄を唄いながら各戸をたたいて廻ったとかかれた文献がある。
〔遠敷、内外海地区〕

寒修行
( 1月6日〜2月3日 )
発心寺には、年間を通じて30人前後の修行僧がいるが、その半分は欧米人。修行に訪れるきっかけは各人様々だが、なかでも日本に来て禅の教えを学びたいという人が小浜を訪ねるようになった。寒修行は、厳寒の中でたく鉢し、歩きながら禅の境地に達しようとする禅修業の一つで「動く坐禅」ともいわれる。法衣姿の雲水らが市民に厳しい寒を告げるかのように街中をたく鉢してまわる。鈴を鳴らし「ホォー、ホォー」と、振り絞るような掛け声を唱える雲水の姿は、黒染めの法衣にあじろ笠、白足袋にわらじ履き。市民らは、修行に打ち込む雲水が通ると手を合わせたり、浄財を喜捨する。
コースは決まっており、1組12〜13人ずつ2組が8時の読経後、旧小浜市街をまわる。日曜祭日は8時15分、読経後、1組は旧小浜市街、1組は西津方面にわかれてまわる。いづれも正午までには帰寺。
〔今富,小浜,雲浜,西津地区〕

芽立ち神事
( 2月下旬〜3月上旬,旧暦1月16日 )
1年間地中に埋めた木の実や種の芽や根の出具合で豊作を占う、宮川地区、加茂神社上宮“かみのみや”に約1200年前から伝わる伝統行事。
神事はまず下宮“しものみや”の社殿で1メートル程の木の棒で床を突く魔除けの「御幣振り」神事を行い、新しい木の実や種を入れた木箱を持って上宮へ向かう。途中大蛇に見たてたムシロに矢を打つ「弓打ち神事」を行い、上宮の御神木「ムクの木」(市指定天然記念物)の根元に埋められてあった昨年の木箱を取り出し、新しい木箱を埋める。取り出された木箱を川の水で洗い清め、社務所にて開封、総代が芽の出具合を判定し、「今年も豊作、おめでとうございます。」と締めくくって終了する。平成6年県無形民俗文化財に認定された。 加茂神社上宮は霊亀元年(715年)に創始され、祭神は事代主尊“ことしろぬしのみこと”。神代鳥居と石灯篭、井垣のみで社殿を設けない神社としては原始的な造りである。下宮は寛治4年(1090年)宮川庄が山城・加茂別雷神社の神領となった際、本宮から分遷され、上宮と併祭されたといわれている。
〔宮川地区〕

お水送り
( 3月2日 )日程
奈良、東大寺の「お水取り」に先駆けて、神宮寺と遠敷川“おにゅうがわ”・鵜の瀬(環境庁より、名水百選に認定)で厳かに繰り広げられる伝統的神事。
お水送りは、東大寺初代別当良弁“ろうべん”僧正に招かれ、大仏開眼供養をし、二月堂を建立したインド僧・実忠“じっちゅう”和尚の修二会“しゅにえ”初日に遅刻した若狭の遠敷明神が、お詫びに清水を送ったのが始まりと伝えられている。遠敷明神が「本尊に供えるお香水を若狭から送ります。」と言って二月堂の下の岩を打つと、そこからきれいな水が湧き出し、若狭の鵜の瀬の、白・黒2羽の鵜が飛び立った。それからこの場は「若狭井」と呼ばれるようになったという。
別の文献によれば、これとは逆の記述もある。東大寺第二の実忠和尚が二月堂の行法を創めたとき、その初夜に諸神の名帳を読み上げて神々を請じたところ、第一番に遠敷明神が参会され、「二月堂に最も大切な伽藍水を奉ろう」と申されるやいなや、直に白・黒2羽の鵜が現れ、地を穿つと見る間に清泉が湧き出た。和尚は石をたたんで閼伽水“あかのみず”としたが1年後に涸れてしまいどうすることもできなかったので、若狭の方角に向かって祈願するとたちまち水が充満した。これは2月12日の夜のことであり、その時、遠敷明神の前を流れるみたらし川の流れの音がやみ、それによって河水が奈良の閼伽水に通じたことを知ったという。(東大寺のお水取りは、現在は3月1日から2週間勤修することになっているが、昔は2月1日から27日間行われた。)
お水送りの神事は昼前に下根来“しもねごり”の八幡神宮講坊長床“ながとこ”で行われる山八神事から始まる。神宮寺別当僧による厳格な修法やお講が営まれ、供物の赤土饅頭をつけた棒で宮役が外陣の柱に勢いよく「山」「八」と書いて豊作を祈願する。昼過ぎからは神宮寺本堂で修二会が錫杖“しゃくじょう”、懺法“ざんぽう”、悔過“けか”の順で営まれる。また、神宮寺遠敷明神宮前では弓打ち神事、弓射大会が行われる。修二会が終了し、夕闇が迫るとお水送りの始まりである。神宮寺本堂の回廊から赤装束の僧が大松明を左右に振りかざす達陀“だったん”の行が行われ、大獲摩に火が焚かれる。大護摩からもらいうけた火を手に、山伏姿の行者や白装束の僧侶らを先頭に300人程の松明行列が、ほら貝の音とともに2Km上流の鵜の瀬へ向かう。鵜の瀬で護摩が焚かれると、いよいよ【送水神事】が始まる。白装束の住職が祝詞を読み上げ、竹筒からお香水“こうずい”を遠敷川へしたたらす。この、お香水は10日かかって東大寺・二月堂の「若狭井」に届くといわれる。
このお水送りの神事の模様は鵜の瀬公園資料館のビデオで随時見ることができる。また、神宮寺横の森林の水PR館には松明行列や送水神事の様子を表現した人形が展示されている。
〔遠敷地区〕

矢代祭り
(手杵祭り)
( 4月3日 )
矢代区加茂神社の例祭(県無形民俗文化財に指定された奇祭)。矢代浦に漂着した唐の王女一行を村人達が杵で殺害したという言い伝えを鬼気迫る演劇として奉納するため、別名「手杵祭り」とも呼ばれる。劇は例祭斎行後、3回繰り返される。
顔に墨を塗り、頭に羊歯の葉をかぶって黒の素襖“すおう”を着た村人役の男性3人(1人は杵、2人は杵に縄糸をかけた弓を持つ)と唐船にみたてた木製丸木船をかかげた裃姿の青年6人、さらに振袖姿で頭に金袋にみたてた綿様袋をのせた王女と侍女役の少女が8人(現在は3人、かつては老女役が1人加わっており9人)が太鼓の音とともに「てんしょ船つきたるそ、もろこし舟のつきたるや、福徳や、さいわいや」と唄いながら社殿をまわる。そして村人役が王女達を殺す真迫の演技をした後、再び社殿をまわる。 祭りを主催する大禰宜をはじめ、劇の配役は区の戸主、長男、娘が必ず務めねばならないきまりになっており、特に大禰宜は大役で1年間、矢代区の宗教的行事の責任者として潔斎精進してすごさなければならないとされる。
社殿の向かい側には、殺された王女の姿を模して唐船の船木で作られたといわれる聖観音菩薩坐像(県指定文化財)が祀られる福寿寺観音堂があり、王女達の供養のため、祭りの日に限り万徳寺の別当僧によって開扉される。
宮川地区本保の伝説清水又六屋敷の中には、唐の王女らしき女性のことが書かれている。矢代はかつて稲富浦と呼ばれていたが、当時宮川村の領主であった、源頼政が稲富浦の観音様のお告げに従って矢でぬえ退治をしたことから、矢代と改名されたといわれている。
少子化の影響で、お姫様役の女児が確保できず、中断していたが、後世に伝承する務めを果たすため、内外海地区の協力のもと、2014年に再開した。
〔内外海地区〕

壬生狂言
( 4月中旬 )平成20年番組表
和久里区、西方寺境内の市の塔で7年毎(子“ね”、午“うま”の年)に行われる無言仮面劇。狂言の上演演目は9種、「餓鬼角力“がきすもう”」「炮烙“ほうらく”割り」「とろろすべり」「愛宕詣り」「寺大黒」「花盗人」「狐釣り」「座頭の川渡り」「腰祈り」であるが、京都ではすでに廃番になっている2種の演目「狐釣り」「座頭の川渡り」が上演されている。無言劇であるが、わかりやすい筋立てとコミカルな演技で親しみやすい。
壬生狂言は円覚上人が大衆に念仏の功徳をわかりやすく説くために、京都の壬生寺で始めたといわれ、小浜では江戸時代に市の塔供養のため、杉の小屋の舞台を造って奉納上演されてきた。明治6年、市の塔が八幡神社前の通りから和久里の西方寺に移建された時、壬生狂言も小浜町から伝承された。戦中戦後に一時中断されていたが、昭和53年(1978年)甚六会を中心に復興、狂言に使われる木の仮面を資料を元に区民の手彫りによって復活させ、7年ごとに奉納上演されている。
平成10年「若狭を謳う」では、特別に八幡神社の能舞台で上演された。
昭和61年(1986年)福井県指定無形民俗文化財に指定された。
〔今富地区〕

お城祭り
( 5月2日〜3日 )平成30年度祭礼巡行表
雲浜地区小浜神社の例祭。400年の歴史を持つ郷土芸能、雲浜“うんぴん”獅子とお城、雲浜、山手の大太鼓が街を練り歩く。
小浜神社は廣峰神社の氏子であった旧小浜藩士有志により、明治8年(1876年)小浜城跡に建立された。祭神は小浜藩主・酒井忠勝公。江戸時代・祇園祭りには主に足軽身分の藩士達が、大太鼓や神楽を、準士族達が三匹(雲浜)獅子を供奉していた。明治維新により、これらの出し物は一時中断していたが、小浜神社の創建に伴い、旧小浜藩士有志により大太鼓と雲浜獅子が再興された。現在は2日にお城・大太鼓が、3日に雲浜獅子、水取・子供御輿、雲浜・大太鼓、山手・大太鼓、お城・大太鼓がそれぞれ宮入する。また2日には、かつて産土神“うぶすなかみ”であった廣峰神社に敬意を表して、お城・大太鼓と雲浜獅子が宮入する。
雲浜獅子(県指定無形文化財)は、藩主、酒井忠勝公が小浜藩に移封された際、縁起がいいということで、旧領の武州・川越から演技者ともども移し、城下の地名を冠したのが始まりで、老獅子と若獅子が1頭の雌獅子を奪い合う激しい様が、笛の音に合わせ華麗に舞い上げられる。約1時間という長い時間をかけて奉納される「典雅」な舞いは、その奥の深い芸術性において数ある小浜の祭礼の中では第一級のものであり、他の追随を許さない。祭りの「ツウ」と自認するムキには特にお薦めしたい逸品である。獅子の舞いは、小浜地区、多賀、男山、玉前、日吉各区へも伝承されており、若狭地方最大の祭り放生会でも見ることができる。
大太鼓は小浜藩の時太鼓として使われていたもので、直径90cm。城内区のお城・太鼓から雲浜区へ、さらに近年、山手区へ伝えられた。大太鼓と鉦の音の力強い饗宴に合わせて棒振りの舞いを勇壮に演じる。大太鼓を先導する棒ふりは、露払いの役を受け持ち、宮入りの時は真っ先に境内に入り、大太鼓を先導する。お城・大太鼓の棒振りと雲浜区、山手区の大太鼓の棒振りは、先導の仕方が少し異なる。小浜・住吉区の大太鼓とどちらが先に伝えられたかは定かではないが、棒術がもとになっている棒振りの見ごたえある演技は、藩士達、侍の武術が加わり、長い間に洗練されてきたと考えられる。
近年宅地開発により発展してきた水取区は、子供神輿を奉納し、祭りに参加している。また、3日 の午前と午後には能舞台で浦安の舞いが舞われる。
〔雲浜地区〕
→ 詳細は、雲浜獅子保存会 ( 木戸商会 )

西津祭り
( 5月3日〜4日 )平成30年度・祭礼表
西津地区、釣姫、玉津嶌、日吉各神社の例祭。隔年毎に御輿、棒振りに先導された大太鼓、鉦等が地区を練り歩く。但し、宗像神社は例祭のみである。
古くは5月14日が宵の祭りで15日が祭礼本日であったが、近年3〜4日に変更された。
玉津嶌神社は元々、三味線堀に建てられていたが、久安5年(1149年)五條三位俊成卿が神社を訪れた時、神のお告げをうけ、建長2年(1250年)現在の地、西津地区の湊に遷宮されたとされている。祭神は衣通姫“そとおりひめ”。日吉神社は山王宮と呼ばれ、天応元年(781年)、天ケ城山上に建設された。祭神は大山昨命。現在の神社は天徳2年(958年)、神社が国富地区・奈胡に遷宮された後、北塩屋に新たに建てられたものである。 釣姫神社は、創建年代も場所も不明だが、大日靈貴尊“おおひるめのむちのみこと”と薬師如来が合祀され、薬師の森と呼ばれていた。寛永年間(1624〜1644年)、酒井忠勝公が現在の松ヶ崎に神社を再建し、二条院讃岐姫を祭神として釣姫神社と改称した。この釣姫神社は内外海地区・田烏の釣姫明神から移転されたものらしく、また、薬師の森と呼ばれていた時代、二条院讃岐姫愛用のが祀られていたという伝説がある。僧・行基作といわれる薬師如来は明治になって羽賀寺に移管された。 おそらく酒井公は、城の鬼門の方角にある玉津嶌神社を中心に、男女の健康を祈願して釣姫神社、日吉神社を再建したのではないかと考えられる。
祭りの起源については定かではないが、江戸時代中期(1750年頃)ではないかとされている。小浜では最も古い歴史を持つとされる住吉区は、寛文11年(1671年)頃から祇園祭りに棒振りに先導された大太鼓を出しており、西津祭りの大太鼓はこの系譜を引くものであろうと推察される。
釣姫神社の氏子である板屋町の祭礼具には文政の頃(1820年代)のものがあるが、大太鼓は日吉神社の氏子である福谷区から伝わったものであるとされているため、住吉区から同時に伝わったというわけではないらしい。また、住吉区の大太鼓は先頭に傘鉾を立てて行くのに対して、西津地区の大太鼓は町名や神社の名を記した「出し」が先頭を行き、棒振り、大太鼓は御輿を警護する位置づけとなっている。
西津祭りは、「棒振り」の先引きによって御輿が宮出“みやで”され、大太鼓が付き従うという古い様式を今に伝えており、御霊が乗り移られた御輿の宮出、宮入りが重要な儀式である。
「棒振り」は棒術がもとであり、氏子や御霊の警護を勤める役として、悪を払いながら御輿を先導する。御輿は、この棒振りが数回出でましを促すことにより、 大太鼓の出迎えを伴って宮出される。大太鼓の基本リズムは“ドン・ドン・ド・ド・ドン”とほぼ4拍子に近く、そのバリエーションも多岐にわたるが、このリズムは“悪を払いのける”ものであるとされている。
宮出された御輿は、大太鼓を従えて地区内を巡幸し、商売繁盛を願う家庭や子供が生まれた家庭など、希望する家の入り口で大太鼓を打ち込ませることで家内安全を約束されるといわれる。巡幸中、随行する者は「ホオ〜、リョ〜ウ、リョオ!、リョオ!!、リョオ!!!」と掛け声をかける。
御輿の宮入りは祭り最大のクライマックスであり、大太鼓の出迎えの大音響のなかを棒振りが脱兎のごとく宮に走りこみ、御輿を宮内に御案内する。まずは、玉津嶌神社の子供神輿が玉津嶌神社に宮入りした後、釣姫神社の子供神輿(大湊・堀屋敷・福谷)が釣姫神社に宮入りし、神輿の宮入りを待つ。宮入りされた御霊は、何度も練り返し、上下にゆすられることによって豊漁、豊穣、家内安全を約束され、誰も気付かないうちに帰還されるといわれている。
釣姫神社の大太鼓は奉納するかしないかでもめるため「詮索太鼓」とも呼ばれているが、大太鼓をたたく技巧は小浜随一である。また、堀屋敷地区は明治初頭までは神楽を奉納していたが、中名田地区へ移管し現在はない。 日吉神社の御輿、大太鼓も隔年毎に奉納される。
(奈良時代以前、小浜の市街地は現在の甲ケ崎、阿納尻近辺にあり、それを古津と呼んだ。奈良時代になって役所を現在の小浜市街地に移転したが、この古津の西に相当するということで、西津“にしず”の名の由来がある。)
〔西津地区〕

七年祭り
( 2013年 5月3日〜5日 )余興の紹介&平成25年度・祭礼巡幸表&見処紹介
同じく西津地区、宗像神社の例祭。正式には「宗像神社式年七年大祭」といい、約300年の伝統をもつ。祭神は宗像三女神、田心“たごり”姫、湍津“たぎつ”姫、市杵島“いちきしま”姫と、七福神唯一の女神、弁財天で、ともに海と航海を司る。
小松原区、新小松原区と北長町が氏子であるが、もともとは小松原区、新小松原区は雲浜地区の小浜城付近にあったが、慶長6年(1601年)京極高次公が小浜城築城の際、下竹原区同様、西津地区へ移転させられ、その時、宗像神社も現在の場所に移建されたものである。
七年祭りは、巳“み”年と亥“い”年に斎行され、御輿、子供神輿、七福神の宝船、太刀(小浜では唯一の出し物)、棒振りに先導された大太鼓、神楽など豪華・多彩な出し物が出て、初夏の祭りとしては最もスケールが大きなもので“宮出しや宮入りの迫力”は小浜一番であるという自負が氏子にはある。
小松原区、新小松原区は各通り毎に町の名がついており(祇園祭りの下竹原区も同様)、出し物は町単位の集合体で行われる。小松原区、新小松原区とも神輿各1体と太刀以外の同じ出し物をもって、互いに張り合っている。(御神体は小松原区)
祭りは御神体が各氏子町内を巡幸し、併せて宮司が御祈祷する神事が主体である。出し物は祭りの余興にしか過ぎないということで「余興“よきょう”」と呼ばれているが、余興であっても稽古期間は大変長くおよそ2ケ月に及ぶ。
お城祭り西津祭り放生会、等の出し物が最初から戸別に打ち込みしてまわるのに対し、7年祭りでは全ての出し物が神輿の渡御・還御にお供して行列を組んで巡行するという、江戸時代の祇園祭りの様式を今に伝えており、棒振りに先導された大太鼓や太刀が道先の露払いの役割を果たす。
神輿は宗像神社を宮出しされた後、途中、大川神社に宮入した後、新小松原区、小松原区の各御旅所“おたびしょ(仮宮)”に宮入される。神輿が御旅所(仮宮)で休息されている間、各余興は氏子の家々をまわる。神輿はまず、新小松原区の御旅所に途禦され、翌日小松原区の御旅所に途禦され、3日目に再び宗像神社に宮入されるが、いずれも宮入時は宮出しの時と同様に全余興がお供し、出迎える。宮入りの際、余興どおしが競り合うように競演する様は圧巻で、明治頃までは「けんかまつり」と呼ばれていたほどに迫力がある。
しかし、御神体の巡幸中は、たとえ子供であっても家の2階から見下ろすような不敬は許されない等厳しいしきたりがあり、出し物の稽古とも相成って氏子にとっては苦労の多い祭りであるため、祭りの打ち上げは楽作“らくさく”と呼ばれている。(他の祭りでは、これを足洗いと呼ぶ。)
また、丑“うし”年には、遷宮祭が行われる。正式には「宗像神社式年遷宮大祭・上遷宮祭」といい、この年に神社の屋根の葺き替えが行われた。屋根を銅板葺きにしてから、葺き替えはなくなったが、しきたりにのっとり、3月1日に御神体が仮宮に渡御される下遷宮祭が斎行され、5月4日の祭りの本日に本社に遷座される上遷宮祭が斎行される。(2009年には本社改修工事のための竣工式も3日に行われた。)出し物は7年祭りと同じであるが、神輿がすでに仮宮に遷座されているため、1日目は各区を別々に周り、本日の神輿の還御の時のみ全ての出し物がお供して行列を組み、宮入まで、各区を約9時間巡幸する。
漁師町の産土神らしく社殿左手には、久内町から奉納された千石船の船霊“ふなだま”が展示されている。船霊は船を象った絵馬で、その内部にお札が奉納されているが、非常に精巧な造りとなっている。
〔西津地区〕



若狭浦祭り
( 5月5日 )
若狭地区椎村神社の例祭。祭神は青梅首椎根津彦神と後に合祀された日吉山王神であるが、御幸の祭神は日吉山王神であり、神輿の宮出の前に王の舞“おのまい”の神事が行われる。 王の舞は、天狗が御輿の下に潜む獅子にみたてた悪霊を退治する様を表現した舞で「鼻高」とも呼ばれる。この天狗はニニギ尊が降臨されたときにおともした道祖神、猿田彦尊だといわれている。神事の後、神輿は神社所在の西の浦から東の浦の広場まで渡御し、広場で王の舞が再演される。かつては椎村神社の周辺に村落があったが、1000年程前疫病の流行により現在の地区に移住したため、神輿が渡御されるようになった。
王の舞は480年程前から伝ったものとされるが、奈良時代に中国から伝来した舞楽の系統をひくものであろうといわれている。
〔内外海地区〕

田の神祭り
( 5月16,17日 )
上中町と小浜市遠敷“おにゅう”、松永、宮川、各地区で田植えの終わった頃行われる祭。五月休み、ヤスンギョウ等と呼び、田の神に田植えの無事終了と秋の豊作を願う。子供達は早朝より神輿をくりだし、白や色紙の飾り竹を持って、それぞれに決まった掛け声や囃子言葉をかけながら各戸をまわる。各家では神輿を拝み金銭をお供えする。
若狭地方では田の神を長い間屋敷の神等と習合して祀っていたため、他の地方にあるような小祠や神像はない。
〔遠敷,松永,宮川地区〕

田烏祭り
( 5月25日 )
田烏地区天満神社の例祭。棒振り、鉦、大太鼓と女児による男太鼓、女太鼓が宮入り後、地区( 田烏、釣姫“つるべ”、谷及“たんぎょ”、須の浦 )を練り歩く。男太鼓は2人で並んでたたく円筒形の太鼓、女太鼓は締太鼓でいづれもきれいに着飾った女児によって叩かれる。棒振り、鉦、大太鼓は約100年程前に西津地区から伝えられたものである。かつては1間半から2間半(約2.7mから4.5m)くらいの木の骨組みに杉等の枝や飾りをつけた船型の山車“やま”がでていたが、昭和40年頃の天満神社の屋根の葺き替え以降はでていない。
〔内外海地区〕

すり鉢くぐり
( 6月30日〜7月1日 )
法雲寺中風地蔵尊で行われる中風除けのおまじない。6月30日夕方から中風除けの「大祈祷会法要」が夜を徹して営まれ、明けて7月1日午前4:00より、すり鉢を伏せた底に艾(もぐさ)を焚き、参詣者がその中を潜り抜ける「すり鉢くぐり」が行われる。
貞元1年(976年)2月20日比叡山延暦寺の座主“ざす”良源(元三大師“がざんだいし”)が鯖江市の中道院にて円融天皇の病気平癒と疫病退散を祈願して護摩供を修し、参詣者の頭に護摩炉をかぶせ灸をすえたところ、病ことごとく平癒したことがすりばちやいとの起源といわれる。戦国時代の織田信長の焼き討ちや一向一揆による焼失で途絶えていたが、戦火が収まった頃、元三大師の像を安置し供養していた秀運法師の夢の中に大師が現れ加持の秘法を授けた。秀運法師は3月2日に法印一千座の護摩供を修し、その護摩灰を混ぜて護摩炉をつくり参詣者にかぶらせ灸をすえたところ、信者が大いに参拝したといわれる。正式には御夢想灸“ごむそうきゅう”という。
小浜瑞光山法雲寺では、明和元年(1764年)、玄鳳が夢の中で延命地蔵尊のお告げをうけ、毎年6月1日に中風除けの儀式を行うようになったといわれている。
〔松永地区〕

愛宕祭り
( 7月13日)祭礼表(平成26年7月12日)
愛宕神社の火難よけの例祭。午後5時頃より氏子達が大松明を担ぎあげ「た〜いまっちゃ ちょ〜さいや」と掛け声をあげながら、後瀬山の急な斜面を登り、山頂の社殿に奉納する。
愛宕神社は愛宕大権現のお告げにより、京極高次の娘が後瀬山城跡(旧武田城址)の社堂を寄進し、元和元年(1615年)に火難よけの神社として創建されたといわれる。祭神は伊弉諾尊“いざなぎのみこと”とその息子で火の神・遇突智命“かぐつちのみこと”である。大松明は竹と藁で芯を作りさらに外周に藁を巻きつけたもので、長さが3m、直径が70cm、重さは200Kgもあり「火の神」に捧げるにふさわしく、奉納時には高さ10mくらいの炎が上がる。
かつては大松明の火は勿論のこと、氏子達が持つ松明の炎の列が山頂に向かって進んでいく様子が国富地区の丸山からも見えたという。
2014年は愛宕神社創建400年にあたり、大祭神事が斎行される。
〔小浜地区〕

祇園祭り
( 7月17〜18日)祭礼表(平成27年7月18〜19日)
廣峰神社に500年以上前から伝わるとされる例祭。戦国時代に一時中断されたとみられている。
廣峰神社は貞観2年(860年)に創建され「天王社」または「祇園」と称したが、明治8年に廣峰神社に改称した。素箋鳴尊“すさのおのみこと”、稲田姫尊“いなだひめのみこと”(素箋鳴尊の妻、櫛稲田姫尊)、五男三女神(御子神)を祀り、それぞれ、上竹原“かみだわら”下竹原“しもだわら”、府中、丸山、各区の祭神である。
上竹原、下竹原の名は、慶長6年(1601年)京極高次公が小浜城築城の際、竹原の村民を現在の西津地区へ移住せしめたことに由来する。
祇園祭は、3基の御輿と1基の子供神輿が各々御座船で渡御されることが特徴である。
3基の神輿のうち、一の神輿は天井に金色の蕪“かぶら”を冠することから蕪神輿と呼ばれ、本体が六角柱で、その重さは120貫(450Kg)、 二の神輿、三の神輿は本体が四角柱の神輿で、共に鳳凰を冠し、その重さはそれぞれ100貫(375Kg)、80貫(300Kg)といわれている。いずれの神輿も若狭随一と称された祭礼の神輿にふさわしく、重厚さと気品をただよわせたものである。
御神体は祭礼前日の深夜に御輿におうつりになり、当日は例祭斎行後、神輿発御祭(がわら豆神事)が行われる。
神輿は府中の氏子によって「福泉寺」の境内にある、府中・廣峰神社に宮入され、鎌鉾取り神事が行われる。そして、再び本社・廣峰神社に宮入された後に、上竹原の氏子によって旧小浜漁港へ、さらに下竹原の氏子によって御座船で西津漁港へ渡御される。下竹原では、前日に仮宮の設置、神輿船の修祓をして神輿を迎え、神輿が仮宮に宮入された後、宵宮祭、厄除け祈願が行われる。翌日、神輿は下竹原区を巡幸された後、再び御座船で西津漁港から旧小浜漁港まで渡御される。
二の神輿と子供神輿は大手町通り巡幸後、三の神輿から順に宮入される。神輿は社殿の中で何度も激しく上下に揺すられ、御神体が帰還される。社殿からでた神輿は、頭上高く持ち上げられ、氏子や参詣者の労をねぎらった後に、展示館に収められ鎌鉾取り神事が行われる。鎌鉾は廣峰本社に3本(上竹原と丸山、下竹原、小浜町民)、府中・広峰神社に1本あり、一竿の鉾に6本の木製の鎌を放射状につけたもので、これが社殿の前で倒されると、氏子達は先を争って取り合う。鎌鉾の一片でもよいから戸口の壁に貼り付けると、家内安全や厄除け等の御利益があるとされている。

祇園祭りは魚市場に作り山(屋台)を飾っていたが、慶長12年(1607年)に中止されたという記録がある。祭礼の詳細な記録が残されているのは、寛永11年(1634年)、酒井忠勝公が小浜(雲浜)城主になって後である。
小浜城は南川、北川を天然の堀として築城された城であるが、雲浜城下全図その一では、廣峰神社は天王社と称し、城内にある。そのため、藩士達の大多数が天王社の氏子となり、また、城主の命により、寛永15年(1638年)から、小浜52町の町民も家業を休まず祭りに加わった。(小浜町民は八幡神社の氏子であり、放生会祭りでは家業を休んだ。)神輿の八幡神社への渡御および小浜町民による練り物行列はこの年から始まっている。祭りは8日間で、代々城主も見物した。
神社での例祭、神事は現在と変わりはないが、祇園祭りは以下のような形態で、数々の変遷を辿って現在に引き継がれている。
当日の早朝、下竹原の氏子達は、赤褌に鉢巻姿で西津漁港から3艘の舟に乗りこみ、一斉に船太鼓(どんどこ太鼓)を鳴らしながら、先を争って南川河口へ向かい、真っ先に漕ぎついた氏子の集落が「蕪神輿」の御座船を提供することとなり、且つ「蕪御輿」をかつぐ光栄を得た。神輿は、天王社から裃姿の丸山、法被姿の上竹原の氏子達に担がれて「百間橋」(旧小浜漁港)まで渡御し、待機する御座舟に乗舟して、南川をさかのぼって現在の竹原橋より少し上流の「浅ヶ瀬」で下船され、中央より30cm幅に砂利を敷き詰め清められた道を通って府中・天王社まで渡御された。
神輿は府中・天王社での宮入、神事の後、夕刻、八幡神社へ渡御され、7日間在座した後、翌日の午後、天王社に還幸された。この八幡神社の宵宮祭は多くの参詣者で放生会以上の賑わいだったといわれる。神輿の還幸の際には小浜町の練り物行列がお見送りとして御供した。祭りの行列は小浜町、住吉区の傘鉾を先頭に小浜町の練り物行列が続いていて、練り物は主に大太鼓、神楽、練り子である。大太鼓は現在に伝わる棒振りに先導された大太鼓、練り子は仮装を施された子供達であるが、後に子供に代わって屋根付きの車にのせられて綱で引かれている木や布等で作った大きな人形が登場し、やがてこの人形をのせた車がだんだん華美になり、屋台の形をとり、やがて人や囃子をのせた引山(山車)となっていったと考えられている。小浜が誇る古刹、羽賀寺 は1447年、現在の青森県の武将、阿倍康季公により再建されたものであるが、引山の様相は、現在の「ねぶた」の形態にも類似するところがあり、興味深いものがある。 その後を、般若の面を被った「ヤセ」、天狗の面を被った「鼻高」、火男“ひょっとこ”がついていった。行列の順番は籤引きできめられていたが、住吉区の傘鉾、大太鼓だけは災厄を払うという意味合いから、必ず行列の先頭になるきまりだった。この小浜町の練り物行列は、廣峰神社所蔵の祇園祭り祭礼絵巻に見事に描写されている。
明治維新後、天王社は廣峰神社に改称するが、明治初年にだされた豪奢なものを禁止する法令と、小浜町が52町から24地区へ改編されたこと等により、小浜町は練り物をださなくなる。(小浜町の練り物は練り子を除いて、後に放生会祭りに引き継がれていく)また、明治8年(1875年)小浜神社が創建されたことにより、小浜藩士達は小浜神社の氏子となり、獅子舞はお城祭りへと引き継がれることとなる。小浜町ではその代り、各区1人計24人の「甲冑武者」をだし、八幡神社から廣峰神社へ還幸する神輿の護衛にあたった。そして、大正13年からは、神輿が下竹原へも御座舟で渡御されるようになり、毎年通りを代えて仮宮を設置して神輿をお迎えすることとなった。 一方、丸山地区の氏子は、戦後しばらくの間は白裃姿の正装で御輿をかつぎ、活躍したが、地区への御輿の渡御の希望が叶わず、以降は参加を断念、さらに昭和35年を最後に御輿は八幡神社への渡御を中止、現在の形態となっている。
府中へ渡御される神輿の行列を巡査が先導している風景や、本物の甲冑をつけた武者行列出発の際の記念写真、八幡神社から廣峰神社へ宮司や禰宜“ねぎ”が人力車に乗って帰る風景等の写真などからは、盛大であった過去の祇園祭りが偲ばれる。また、昭和初期の写真には、氏子達が神輿をかついで南川堤防の松並木を行く風景があり、今はもう取り戻すことができない、可恰小汀“うましおばま”と形容される、小浜の《風情》というものを感じとることもできる。

(神輿3基は、雲浜地区・千種にある「廣峰神社」に展示されており、常時見学することができる。向かって右手より一の神輿「蕪神輿」、二、三の神輿が配置されている。現在、日本では「蕪神輿」のような六角柱の神輿は4基しか現存していない。それを越える神輿はなく、特殊なものでも四角柱である。)
近年、神輿の担ぎ手不足から、祭りの日程が17〜18日近辺の土、日曜日に変更されることが多い。 〔雲浜,西津地区〕

川濯祭り
( 7月28日 )
“カワソサン”の名で親しまれている、六月祓“みなつきばらえ”神社の例祭。半年間の罪、穢れを祓い無病息災を祈願する夏の大祓“おおはらえ”で(冬の大祓は大晦日)、「茅の輪」“ちのわ”をくぐって疫病祓いをおこなう。
六月祓神社の祭神は男神の住吉三神・表筒男命“うわつのおのみこと”、中筒男命“なかつのおのみこと”、底筒男命“そこつのおのみこと”と女神の大山昨命であるが、神社に鎮座されているのは女神だけで、三人の男神は男山の八幡神社に鎮座されている。 祭りは前日の夕刻、男神の表筒男命、中筒男命、底筒男命の御神体が八幡神社から戻られ、当日午前中に例祭が斎行される。夕刻、社殿の裏手に設置した茅の輪をくぐりに、参詣者が訪れる。茅の輪は茅草“ちがや”(稲科の多年草で、丈の低いものをアサヂ、高いものをチガヤという。)を直径1.2mほどの輪に束ねたもの。
地元では、「茅慧」“ちえ”の輪を8の字に3回くぐると知恵を授かり、千寿を保つといわれているが誤った伝承のようである。男神の御神体は翌日八幡神社へ戻られる。
川濯とは、罪や穢れを流し注ぐ意味であるが、川裾“かわしも”から転位したのではないかという説もある。
津島の六月祓神社は慶長9年6月29日に創建されたが、なぜか明治以前は神社の記述がなく、毎年、遠敷“おにゅう”上下宮(若狭彦神社、若狭姫神社)より神輿を奉じ祭礼を行っていたといわれている。現在の神社は明治11年に再建されたものである。
祇園祭りもそうであるが、この頃になると露店や帰り道で「桃」を買い、水の豊富な一番町の伊勢屋で「葛饅頭」を食べるというのがお定まりのコースとなっている。
〔小浜地区〕

虫送り
( 8月10日 )
鉦や太鼓をたたいて田に潜む害虫をおびき出し、松明の炎でひきつけて田から遠ざけて稲を害虫から守り、豊作を祈願する宮川地区の伝統行事。
日没とともに、宮川地区の各集落から人々が松明を持ち、鉦や太鼓を叩きながら田の畦道を歩き、途中合流しながら宮川小学校へ集合する。小学校の校庭で松明を燃やすと、設置された虫供養の祭壇の前で長泉寺の住職が読経し、虫供養が行われる。その後各集落の子供達による子供太鼓の競演が行われる。
昔から害虫特にイナゴやウンカ等の稲の害虫は、時として大発生し農村に多大な被害を及ぼした。また銀をためこんでいたために村人に殺された男の霊が、虫となり村を襲った善徳虫という言い伝えが奈胡区(国富地区)にあり、虫の大発生は霊の祟りとして恐れられてきた。虫送りは農薬の無い時代に考え出された害虫駆除法であり、また慰霊も兼ねていた。虫送りは農薬の普及によりすたれていったが、昭和54年(1979年)「虫送り保存会」を中心に虫供養や子供太鼓の競演等をとりいれ、夏のふれあいまつりとして復活した。
〔宮川地区〕

六斎念仏
( 8月13日 )
現在、口名田地区・西相生や国富地区・奈胡、中名田地区・和多田等に伝わるお盆の行事。 「南無阿弥陀仏」を唱え、詠唱に合わせて、鉦や太鼓を叩きながら踊る念仏で、悪鬼を払って仏を供養する行事である。古くから「行為を慎み、殺生をするべからず」とされた六斎日(毎月8,14,15,23,29,30日)、特に涅槃会(2月)、彼岸(3,9月)、盆(8月)、十夜(10月)に行われた。
念仏は、鉦、笛(紋付羽織)、太鼓兼踊り手(浴衣、角帯、白足袋、深編み笠)が各々3人づつの構成で行われる。踊りは、1人を親2人を子とし、仏壇の前で「序曲」、「米つき」、「神楽」、「もぢりばい」、「しゃくしまい」、「ふるばい」、「げっさん」、「にっさん」の7節を、鉦、太鼓、笛(神楽、しゃくしまいのみ)に合わせて、1時間30分にわたって踊り続ける。 各地区により、節や踊り方、衣装等が異なる。西相生では、9月8日にも地区の観音堂で行われる。和多田区は市指定無形文化財の認定をうけながら、後継者不足等の理由で保存会が解散、中断していたが、平成11年に保存会が再び発足し、復活するはこびとなった。
六斎念仏は、天慶年間(938〜947年)に、空也上人が京都で六斎日に人命を奪う悪鬼を慰め、庶民を救うために、鉦、太鼓を叩きながら、念仏を唱え、踊りまわったことが始めとされ、若狭地方には、鎌倉時代以降に伝えられたといわれる。
〔口名田,中名田,国富地区〕

精霊船送り
( 8月15日 )
甲ケ崎でお盆に行われる行事。竹や麦わらで作られ、緑・黄・赤・白・青の順で構成された五色の紙旗で飾られた、長さ6m幅2m程の精霊船“しょうらいぶね”に「おしょうらいさん」と呼ばれる各戸のお供物をのせ、僧侶の読経のなかを送り火を焚いて西方浄土へ向けて流す。
〔内外海地区〕

地蔵盆
( 8月23日 )
西津、雲浜地区で特に盛んな子供の祭り。参加資格は幼児から中学2年までで、年長者から「大将」「中将」「少将」と呼ばれる位があり、大将がまとめ役として指示をだし、皆が手分けして準備にとりかかる。
まずは、お地蔵さんの「一年の垢」を洗い落としてベンガラや絵の具で化粧を施すことから始まり、行灯や五色旗を準備する。行灯は半紙にマンガのキャラクタなどの絵が描かれたもので、地蔵盆を迎えるにあたっての成果を左右する重要な要素であり、子供達が最も力を入れるところでもある。 また、青・赤・黄・緑・白の順で構成した和紙に、毛筆で「南無地蔵大菩薩」と清書して笹に取り付け、七夕飾りに似た門飾りを用意する。門飾りは、大将、中将、少将の人数分あり、その頂上に半紙で構成した五色旗よりも一回り大きな一色旗を吊るす。一色旗には、大将、中将、少将、各々の直筆で「南無地蔵大菩薩」と書かれている。
当日は「宿」と呼ばれる祭壇を提供する家に集まり、地区民からのお供え物と共に皆で準備した行灯や飾りなどと一緒にお地蔵さんを奉って供養する。「南無地蔵大菩薩、山椒と味噌と、唐辛子と芥子」と囃して太鼓や鉦を打ち鳴らし、道行く人には「参ってんの、参ってんの」といってお参りを促す様は将に子供の祭りと呼ぶにふさわしい。
少しまえまでは夜が明けないころから太鼓や鉦を打ち鳴らして騒ぎ、通行者(車)などを強引に引き止めてお地蔵に参ってもらったものである。また、暗くなると隣接地区まで「行灯破り」に出てその破壊行為を競い合った。
現在は至って「おりこう」になり(昼間、五色旗を巡る攻防戦となっている。)、型破りな子供の行事とはいえなくなってしまったが、日没後の御詠歌、チャリン・チャリンと鳴る鉦の音などは将にお盆らしい風情があり、小浜が京文化に近かったということを感じさせてくれる。最終日(24日)はお供えものを配分し、お地蔵さんを地蔵堂に戻して終わる。
特に、御家族連れの観光客には、地元の子供達といっしょに地蔵盆を楽しまれることをお薦めしたい。
〔西津,雲浜地区〕

松上げ
( 8月23日 )
滝谷等に伝わる火除け、盆の送り火、虫除けの性格を併せ持つ神事で、南川川原で行われる。麻がらや茅で作った籠「モジ」に藁等を詰めて竿の先に取りつけて立て、松のジンを束ねた松明に火をつけて「モジ」目掛けて投げつける。これが燃え尽きると神事は終了となる。
〔口名田地区〕

酒事
( 9月1日 )
“さかごと”五穀豊穣と大漁を祈願して旧暦の8月1日(八月朔日)に行われる八朔“はっさく”祭の神事のひとつ。この日は立春から数えて二百十日にあたるため、台風除けの祈願も併せて行われる。小浜市では内外海地区・泊区の若狭彦姫神社と堅海“かつみ”区の久須夜神社、今富地区・多田区の多田神社で行われている。
拝殿の前に宴の席を設け、禰宜“ねぎ”を中心に区の役員、世話係、戸主等がすわり、順に酒をついで飲み交わす。若狭彦姫神社と久須夜神社では日暮れに棒ふりに先導された大太鼓が披露される。
若狭彦姫神社は貞観元年(859年)遠敷若狭彦神社より勧請されたといわれているが、若州管内社寺由緒記には養老年間(717〜723年)に建立されたと書かれている。祭神は天津日高彦火々出見尊“あまつひこほほでみのみこと”と豊玉姫命で、区の由来となった伝説に基づいている。
久須夜神社は久須夜ヶ岳の由来となった神社で、山全体が神として祀られていた。延喜式神名帳には延長5年(927年)から存在していたとかかれている。祭神は大己貴命“おおあなむちのかみ”。拝殿裏手から「烏帽子の森」が広がり、昔、神(大国主命)が岩上に鎮座されたという大神岩(別名狼岩)と常に御憩いされたという御越掛岩がある。大神岩はエンゼルラインの中腹にあり、毎年4月に山開きの儀式が行われる。
多田神社は天平神護2年(766年)に創建されたといわれ、祭神は久須夜神社と同じ大己貴命である。
〔内外海,今富地区〕

放生会祭り
“ほうじょうえ”( 9月14日〜15日 )2015年9月19・20日
地元では“ほうぜ・まつり”と呼ぶ。300年以上受け継がれた八幡“はちまん”神社の例祭で、若狭地方の祭りでは最もスケールが大きい。
放生会とは、殺傷を戒めるため、年に一回、家で飼っている鳥獣など生き物を放して功徳を積む儀式で、奈良時代に中国から伝えられ、各地の主に八幡神社で行われてきた。八幡神社は、神護景雲2年(769年)に、九州宇佐八幡宮の御神体をお迎えして建立された。祭神は多紀理比売命“たごりひめのみこと”、多紀都比売命“たぎつひめのみこと”、市伎島比売命“いちきしまひめのみこと”、応神天皇、神功皇后である。小浜地区(旧小浜町雲浜城下全図その二)は、この宮を中心に成立、発展してきたもので、区民のほとんどが氏子である。
小浜地区26区の内、旧小浜町に相当する24区が12区ずつ、隔年毎に山車“やま”や神楽、大太鼓、棒振り、獅子舞(雲浜獅子)などの出し物を奉納。華やかな動く文化財として守り継がれている(市指定無形民俗文化財)。特に香取区の神輿は2年に1度、御神体を奉戴し、各区を巡幸する。
山や神楽のデザイン、囃子、西日本では大変珍しい三匹獅子の舞いなどは、各地区様々な趣向がこらされたもので、小浜が誇る芸術品である。各区の拠点である本陣には、代々の出し物の飾りや由来等が展示され、祭りの歴史を垣間見ることができる。
各区の出し物の紹介 見処案内図

放生会は中世時代には、流鏑馬“やぶさめ”が行われていた(その道具は現在も神庫にあるといわれる。)が、戦国時代に途絶え、江戸時代に復活した。延宝3年(1675年)に14日に宮相撲、15日に神事能や狂言を奉納したという記録がある。小浜町民は、出し物を廣峰神社の祇園祭りに出していたが、寛保3年(1743年)の八幡神社上葺以来、毎年、放生会に出し物を奉納して、祇園祭には出さず、遂に宝暦5年(1757年)に城内より厳命が下り、再び廣峰神社に戻ったという経緯がある。
明治維新後、藩廃置県や禁止令、町改編等により一時中断した後、小浜町の出し物はまた放生会へと移り、内容もそのまま引き継がれていったもの、他区から新たに伝習したもの等、時代とともに変っていった。明治後半から大正時代にかけては、5月14、15日の春祭・卯祭と9月の放生会に全ての出し物が奉納されていたが、費用の高騰と仕事や交際に支障をきたしてきたことから、大正末期には卯祭が中止され、放生会の出し物も現在は隔年ごととなっている。
平成7年に発足した明放会(明日の放生会を考える会)が小浜の誇る伝統行事として、放生会を支えている。

〔小浜地区〕

加茂神社例祭
( 9月26日 )
中名田地区和多田、加茂神社の例祭。本来は10月2日であるが、事情によりその直前の日曜日に行われる。
加茂神社は9世紀初め、坂上田村麻呂が北陸を制圧して小浜から中名田の小屋“おや”方面へ入った時、京都・上賀茂神社の神のお告げをうけ、田村川沿いの矢波前“いわさき”に創建したと伝えられる。祭神は別雷神で、上田“かみだ”区、下田区、和多田区が氏子である。その後、京都上賀茂神社直系の宮と認められ、京都・上賀茂より賀茂県主・西池氏が宮司として宮につかわされて七代にわたって宮司を務めた。明治維新後、西池氏が京都へ戻ったあとは地元の代表者が宮司を努めている。
祭りは例祭斎行のあと浦安の舞いが舞われ、併せて七五三の祈祷が行われる。出し物は上田の神楽、下田の神楽、和多田の棒振りに先導された大太鼓で三年交代で出される。 神楽にはおたふく、ちょろけん(火男)、天狗が、大太鼓には、般若の面をかぶったやせ等の道化が付き添い場を盛り上げる。
〔中名田地区〕

遠敷祭り
( 10月9日〜10日 )祭礼巡行表
遠敷“おにゅう”明神・若狭彦神社及び若狭姫神社の例祭。小浜では最も格式が高い祭礼で《国家安泰》、五穀豊穣を祈願する。若狭彦神社は、和銅7年(714年)に下根来“しもねごり”の白石に創建され、鵜の瀬を経て、霊亀元年(715年)に現在の地に遷された。祭神は「海幸・山幸」の神話で名高い「山幸」、天津日高彦火々出見尊“あまつひこほほでみのみこと”。若狭姫神社は養老5年(721年)に若狭彦神社から分社して創建され、祭神は龍宮城の乙姫、豊玉姫命“とよたまひめのみこと”である。いずれも、国の鎮守・大社であり、若狭彦神社が上社、若狭姫神社が下社の関係にある。
若狭彦神社、若狭姫神社を総称して「若狭一の宮」(彦神社から分社した姫神社を抱合する)とも呼ぶが、例祭は上社である若狭彦神社で斎行される。かつては、出し物の奉納などは若狭彦神社を中心に行われていたが、現在は、若狭姫神社の方がにぎわう。若狭姫神社の例祭は3月10日である。
出し物は、中村・島・市場区の大太鼓お多福(お亀)、火男、検見坂・池田区の神楽(以上、遠敷一区)、遠敷一〜六丁目区(旧遠敷四区)の大太鼓で、遠敷上下宮に奉納し、厄除けをしながら、各役員宅をまわる。特に、遠敷一区は若狭姫神社と関係が深く、明治維新の神仏分離の際、神宝であった紙本墨書大般若経600巻(重文)の管理を委ねられ、後に区の所有物として神通寺に保管している。大太鼓は、起源は不明であるが古くからの風習である、区の境(村境)で太鼓を打ち込んで悪霊払いをする儀式を今に受け継いでいる。太平洋戦争中は一時中断を余儀なくされたが、昭和23年(1948年)から遠敷一区太鼓保存会を中心に再興し、当日の「ワラジ」履きに至るまで、できるだけ昔の祭り姿を再現しようとしている。大太鼓の特徴は、幼児から若者に至るまで、夫々独特の曲打ちを行い、道行きすること。 さらに、火男おこべおかめの三役が笑いを添える。宮入は笠鉾を先頭に棒振りが厳かに太鼓を先導し、かつての棒術から発達してきたことをうかがわせるに足る、迫力ある演技で観衆を魅了する。
神楽は、獅子頭と筒型の太鼓をのせた本屋台と2台の締太鼓をのせた前屋台で演奏される。小浜でこの前屋台をもっているには、放生会祭りと遠敷祭りの神楽だけである。福井銀行遠敷支店裏手のコンクリートの壁には、神楽の絵が描かれている。
以前は遠敷一区の太鼓と神楽が隔年ごと交互にでていたが、近年、遠敷一〜六丁目区(旧遠敷四区)が太鼓を新たに造り、神楽の年にでるようになった。

若狭一の宮は国幣中社であるため、祭礼には勅使が参向し、流鏑馬“やぶさめ”が奉納されていたが、流鏑馬は戦国時代に途絶えた。江戸時代からは、能楽堂で申楽が奉納され、太平洋戦争前までは、姫神社・社殿前に位置する能楽堂で早乙女の舞等が奉納されていた。
若狭彦神社が創建された下根来や、それよりも山間の上根来は現在でも山深いところであるが、かつては中央である「奈良」との交易ルートであり、奈良時代以前をも含めて「」などの年貢、そして、京へ物資を運ぶ「鯖街道」、いわゆる「歴史街道」として発展してきたもので、現在、「鯖街道」と呼ばれている上中町・熊川宿ルートとは異なる「鯖街道」。おそらく、それよりも古くからあった中央への最短ルートであり、それ故に、この地に国幣中社が存在するものであると推察される。

〔遠敷地区〕

阿納祭り
( 10月15日 )
阿納“あの”区、春日神社の例祭。春日神社は天徳2年(958年)に創建され、祭神は武甕槌命“たけみかづちのみこと”、斎主命、天児屋根命“あまのこやねのみこと”である。境内神社、白山明神社(白山権現)があり、祭神は伊弉諾尊“いざなぎのみこと”、伊弉冉尊“いざなみのみこと”、菊理姫命“くくりひめのみこと”である。
阿納祭りは、神社の創建年代からして、その歴史を感じさせるが、明治中期頃に途絶え、わずかに残された太鼓の胴体とばちから、当時、棒振りに先導された大太鼓が奉納されていたことが判明した。このため10年前、祭礼具一式を新調し、太鼓の指導を西津地区より伝習、現在に至っている。出し物は棒振りに先導された大太鼓で、神社に奉納した後、子供太鼓(叩き手が子供)を中心に厄除けをしながら、犬熊“いのくま”の得良神社まで各戸をまわる。
境内には北前船を精巧にかたどった船絵馬が展示されている。
〔内外海地区〕

注)祭神の漢字の表記および読み方については問い合わせしないように。(^_^;)