名所

蘇洞門
“そとも”
日本海の荒波で削られた絶壁や奇洞は将に豪壮雄大。華洞門“かどうもん”、唐船島、千畳敷き、親子亀岩などと名づけられた奇岩などが多数ある。
なかでも 大門、小門と呼ばれる洞門は圧巻で、小浜湾口から、延々6Kmに及ぶ船の旅は「若狭湾国定公園」の名に恥じない天下の景勝が楽しめる。

エンゼルライン

小浜市内から内外海“うちとみ”半島に聳える久須夜ケ岳“くすやがだけ”頂上に至る全長10.5Kmの観光道路。走行中も頂上からも、その眺めはすばらしく、大島半島、小浜湾、常神半島など、若狭湾国定公園の大パノラマが一望できる。
2002年7月より無料開放。

蒼島

小浜湾内、加斗地区よりキロ沖の青戸の入り江に浮かぶ面積8250平方メートル、高さ39メートルの無人島。暖地性植物が数多く自生繁殖している全国でもめずらしい島である。特に、最大目通し2.42メートルの巨木、ナタオレノキの最北限地である。昭和26年(1951年)蒼島暖地性植物群落として、国の天然記念物に指定された。

赤礁崎
“あかぐり”(大飯町“おおい”)
赤みを帯びた岩肌が独特の景観を造り出す、あかぐり崎は、日本海の荒波に削られた雄大なリアス式海岸。その海岸線には、さわやかな遊歩道が続き、灯台のある岬へと誘ってくれる。

瓜割の滝
(上中町)瓜割名水まつり2015
若狭町天徳寺境内にある湧水。日照り続きでも涸れることなく、その冷たさは瓜をも割るという故事から命名された。幾つにも分れて流れだしているため、ここ一帯の地下水系は「水の森」と呼ばれ、その水は五穀成熟、諸病退散の効き目があるといわれている。
昭和60年(1985年)、「全国名水百選」に選ばれた。


三方五湖レインボーライン
“みかた・ごこ”(三方町)
五つの湖が連なる三方五湖は、濃度や形の異なる湖面がそれぞれ五色に輝き、それをとりまく濃いブルーの日本海とともになんともいえない美しさに目を奪われる。レインボーラインは五つの湖と日本海の展望を楽しみながらその間をぬって通る有料道路。


小浜城跡

慶長6年(1601年)、京極高次により、北川と南川に挟まれた中州に建設が始められ、27年をかけて酒井忠勝の時代に完成した。
明治4年、天守閣に小浜県庁がおかれたが、同年焼失。その後、明治6年から大正3年まで、日本で最も古い灯台が設置されていた。灯台に使われていたホヤは、中国から輸入された赤いギヤマン製のもので、燭光用途としては最も古いとされる。このホヤは、明治8年に創建された城跡・本丸内にある小浜神社に保管されている。
また、小浜神社が創建されたとき、櫓跡に鐘つき堂が設置され、6:00、12:00、21:00の3度、市民に時報を告げていた。現在、小浜市役所が電子チャイム(それ以前はメロディ付きサイレン)によって7:00、12:00、17:00の3度、時を告げているが、これはこの鐘つき堂を継承したものであり、告知時間の変遷から人々の生活パターンの変化が読み取れる。
尚、現在は城郭の石塁を残すのみ。明治8年、当時80歳であった〔 安部華麓 〕によって描かれた城の鳥瞰図で当時を窺い知ることができるだけである。
社殿東側玉垣の傍らには、9本の幹が束ねたようになっている九本ダモ(国指定天然記念物)の木が立っていたが、残念ながら、2004年に枯死してしまった。その奥に八助稲荷八助稲荷という稲荷社がある。また、社殿西側、能楽堂の裏の井戸の前には、かつて石橋だったというころび橋の石板が置かれている。 西側の門を出ると、すぐ横の石垣の前に、組屋地蔵尊が祀られている。

後瀬山城跡

後瀬山は万葉集、枕草子などにも出てくる山である。甲斐・武田氏と同族である若狭の守護、武田元光が大永2年(1522年)に築いた山城で、京極高次が慶長5年(1600年)城主となったが、翌年小浜城の築城に伴い廃城になった。現在は本丸、二の丸の石塁跡があるのみ。戦国時代の城郭跡をとどめるのみであるがAここからは、北川・南川、小浜湾を一望することができ、天然の要塞であった昔の山城の雰囲気を実感することができる。若狭国分寺跡岡津製塩遺跡に次ぐ、3番目の国の史跡指定地である。


岡津製塩遺跡

昭和53、54年(1978、79年)に発掘、調査され、塩汲み場とみられる旧汀線護岸遺構、彩かん工程の場ではないかと思われる焼土面、石を敷き詰めた9基の製塩炉跡等、古墳時代後期〜奈良時代にかけての土器製塩工程が把握できる、国内では大変貴重な遺跡である。
小浜では、製塩遺跡が数多く確認されており、朝廷へ塩を税として納めていたことが、裏付けられている。

上中古墳群
(上中町)
脇袋古墳群、日笠古墳群、向山古墳群などが主要なもので、中でも「上ノ塚古墳」は若狭最大級、全長60mの規模を誇る。これら古墳群からは、埴輪は勿論、珠、冑、金具などが多数出土しており、宮内庁が管理する副葬品なども含まれている。


綱女の墓

小浜信用金庫・西津支店手前30mのR162沿いにある。車ではアッという間に通り過ぎてしまい、気がつくことはほとんどない。そんな喧騒の中、綱はひっそりと眠っている。幼くして奉公に出された彼女は、奉公先での子守りの際、犬に襲われた。身を挺して子供を守ったが、不幸にも狂犬病にかかり、明和6年(1769年)15歳でこの世を去った。この碑は彼女の崇高な精神を供養するために設けられたものであり、毎年、慰霊祭もとり行われている。

松木神社
(上中町)
義民、松木長操(庄左衛門)を祀った神社。
17世紀前半、藩主の増税に農民は困窮した。長操はそのとき、わずか16歳で庄屋の総代に選ばれ9ケ年の長きにわたって年貢減免を訴え続けた。慶安元年(1648年)歎願強訴の罪で長操などの庄屋は投獄されたが、ほとんどの庄屋は歎願をとり下げ出獄した。が、彼だけはそれを拒否し、慶安5年、27歳の若さで日笠河原で処刑された。処刑場とされた場所に、一本の老松が聳え立っており、石垣で築かれた彼の生家が今も残る。千葉県・宗吾霊堂ほどではないが、政治家、官僚、企業・役員に是非お勧めしたい場所である。



龍王岩

青森県・戸来“へらい”にある「キリストの墓」と肩を並べるくらい貴重な“迷所”である。
応永15年(1408年)スマトラより南蛮船が古津へ渡来。時の将軍、足利義持への献上品の中に一頭の「像」や孔雀等が含まれていたことが記されている。龍王岩は別名「船止め岩」とも呼ばれ、日本に初めて象を運んできた南蛮船を繋いだとも、象を繋いだともされるである。甲ケ崎区、円明寺の北側にあり龍王明神として祀られている。
これに因み、その地に最も近い「内外海小学校」は、子象の石像をシンボルとしており、市役所ロビーには像が初めて日本に上陸したときの模様を描いた想像図の壁画が掲示されている。この壁画は昭和62年(1987年)市役所新築記念として、16世紀に描かれた狩野内膳の屏風絵を基に造られたものである。


鯖街道

鯖街道とは、若狭から京都へと海の幸を運んだ街道の愛称である。
海の幸の国である若狭は、志摩、紀伊、淡路の国などとともに「御食国“みけつくに”」(天皇の食料を恒常的に献上する国)とされてきた。若狭湾や広く日本海で捕れた鯖、鯛、鰈などの魚介類や、北前船から陸揚げされた多くの物資が、都へと運ばれた。
この海の幸を鯖が代表したのは、朝、ひと塩して担いで行けば、京の翌日の夕食に間に合い、しかもちょうど食べ頃となっておいしく香り、貴族にも庶民にも愛されたゆえであろう。
最近、この鯖にちなんだ催し物が多数開かれており、環境庁が整備する「近畿自然歩道計画」のひとつに決まった。

近畿自然歩道
( 小浜市近郊のコース )
鯖街道ルートは、小浜市「犬熊」から上中町「熊川」間で、「国宝めぐりの道」、「熊川宿散策の道」の2コース、延長16km。他、「阿納・古道と歴史をさぐる道」、「久須夜ケ岳展望の道」、「若狭湾展望と鳥辺島を望む道」等。若狭湾ルートは、福井県・敦賀市を起点に、高浜町・青葉山を終点とする合計10コースが予定されている。