古寺,名刹
大同元年(808年)征夷大将軍、坂上田村麻呂が創建したと伝えられる古刹。
山門をくぐると、堂々とした構えの本堂(国宝)と【三重塔】(国宝)が老杉木立に溶け込むように建つ。本堂は正嘉2年(1258年)に棟上げされ、文永2年(1265年)に供養された建物で、三重塔は文永7年(1270年)に建立された。共に鎌倉時代の建築様式の特色を十分に示しており、本堂に薬師如来坐像、降三世明王“こうざんぜみょうおう”立像、深沙大将立像の重文3体が安置されている。三重塔内には、釈迦、文珠、普賢の【三尊仏】が祀られている。
〔松永地区〕
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天平年間(729〜749年)に建立された若狭の国分寺は、残された基壇から、北側から南へ講堂、金堂、中門、南大門がほぼ直列に位置し、東に塔を置く伽藍配置となっていたことがわかっている。建物はやや小規模であり瓦が出土していないことから瓦葺ではなかったこと、塔の東西に直径50mの円墳(国分寺古墳)があったことなどが特徴とされ、特に、寺域内に古墳があるのは全国的にも珍しいとされる。
(塔から発掘された金銅製の相輪の破片は、若狭歴史民俗資料館に保管されている。)
現在の国分寺は、その跡地に宝永2年(1705年)に建立されたもので、鎌倉時代に建立された薬師堂には、春日仏師の作と伝えられる本尊【薬師如来坐像】(重文)が安置され、その両脇には、左手に釈迦如来坐像、右手に阿弥陀如来坐像(市文)が安置されている。また、慶長15年(1610年)山田一徳が建立したとされる釈迦堂には、かつての若狭国分寺の本尊(鎌倉時代に再刻)で高さ3mの釈迦如来坐像(市文)が安置されている。
昭和51年(1976年)国指定史跡に認定され、境内一帯が整備されて、散策や遠足に適した史跡公園となっている。境内の蓮池では、毎年、薄紅色の縄文蓮が花開き、彩りを添えている。
〔遠敷地区〕
僧・行基が若狭を巡礼した際に彫った【千手観音立像】(重文)が近くの岩屋に祀られていたが、後に弘法大師が現在の場所に伽藍を建立したと伝えられている。桧皮葺基の本堂(重文)は若狭最古の鎌倉建築として知られる。
〔今富地区〕
神宮寺は和銅7年(714年)和朝臣赤磨“わのあそんあかまろ”により「神願寺」として創建された。翌年には元明天皇の勅願寺となり、9月には白石に影向“ようごう”されていた彦火火出見尊を遠敷明神としてお迎えし、神仏両道の寺となった。宝治2年(1248年)に若狭彦神社を造営し、若狭彦神社と若狭姫神社の別当寺となり、「霊応山・神宮寺」と改称した。時の将軍頼経公より七堂伽藍二十五坊を寄贈され、鎌倉幕府勅願寺社7大寺7大社のひとつに数えられたが、度々の天災や火災、戦乱等で今では仁王門や本堂(いずれも重文)開山堂、円蔵坊、桜本坊を残すのみである。本堂は天文22年(1553年)朝倉義景によって再建され、日本古来の形式をとりいれた和様建築であるが、各所に唐風や天竺風の彫刻が施され、重々しい風格がある。本堂奥の院には男神坐像と女神坐像が安置されており、【神仏混合】の様相が多く残っている。
本堂の向かって左側に根回り15.27m、目通り6.17m、高さ17.5mのスダジイの巨木(市指定天然記念物)が生えている。また、境内には100本以上のモミジの木があり、秋の紅葉は見事である。
毎年3月2日に奈良二月堂へ「お水送り」を行う。
〔遠敷地区〕
羽賀の山に鳳凰の羽が舞い落ちたのが吉祥だとして、女帝、元正天皇の命により行基が霊亀二年(716年)に開創したと伝えられる古刹である。創建当時は「鳳祥山」と号した。
天暦元年(947年)山津波により堂塔全てを失ったが、同二年、【七堂伽藍をはじめ十八坊】を復旧。「本浄山」と改名した。後、2度の大火による焼失後、文安四年(1447年)に現在の青森県の武将、阿倍康季公により再建されて現在に至っている。
【十一面観音立像】(重文)は行基が元正天皇に似せて彫ったものであると伝えられる逸品で、当初の色彩を極めて良く残していることで全国的に知られている。
入母屋造りの本堂(重文)は、室町中期、北山文化の代表的な密教建築である。勅願寺にふさわしく華麗な【山門】を有していたが、大正13年7月13日、付近の民家からの失火によって焼失し、現存しているのは【本堂】(重文)のみである。
今はなき山門を出ると眼前には田園風景が広がるが、かつては国の天然記念物であり福井県の「県鳥」にも指定されたことのある「コウノトリ」の生息区域となっていた。創建時の称号などから、その当時から生息していたものと推察されるが、残念なことに昭和40年代前半、農薬等の影響により絶滅するに至った。
尚、羽賀寺には面白い伝説が残っている。羽賀寺の宝物としている碁盤には大きな爪の食い込んだ跡がある。これはその昔、羽賀寺の住職と天狗とが碁の勝負をすることになったとき、負けた者は“ユビジッペイ”を受けることとなった。結果は住職の負けとなり、そのペナルティを受ける際に手を引いスため、天狗の爪が碁盤に深く食い込んで、現在の爪跡が残ったというものである。その際に折れた天狗の爪も桐の箱に入れられて宝物として残されているという。
〔国富地区〕
荒木、黒駒、法海“のりかい”から成る飯盛“はんせい”区では、毎年1月6日に「六日講」が行われる。これは、縄で長さ4m程度の「大蛇」を作り、集落の入り口にかかげて家内安全、五穀豊穣を祈願するもので、翌年の「六日講」まで掲げられる。
「大蛇」をくぐり、集落を抜けて、その背後にある飯盛山“いいもりやま”を上ると、飯盛寺“はんじょうじ”へと導かれる。飯盛寺は、霊亀養老(8世紀)の開祖と伝えられる古刹で、明文16年(1484年)山火事の悲運にあい焼失した。その後の復興や解体修理などを経て、現在の【本堂】(重文)は平成10年、4年の歳月をかけての解体修理の結果、昔の面影を取り戻したものである。
解体修理の際に、本尊・木造薬師如来坐像内から願文や経典など多数の貴重な資料が発見されている。
〔加斗地区〕
万徳寺ははじめ音無川沿いに「極楽寺」として建立され、応永年間(1368〜1374年)に覚応法印によって若狭真言宗の本寺「正照院」となった。さらに天文13年(1524年)武田信豊によって若狭唯一の「駆け込み寺(寺に入った重罪人の刑を免除する)」の資格を与えられ、慶長7年(1602年)現在の地(小浜市金屋)に移り、「延宝山・万徳寺」と改称した。
本堂には極楽寺からの本尊、阿弥陀如来坐像や絹本著弥勒菩薩像など国、県、市認定文化財の彫刻、絵画、書画が納められている。
客殿南側の庭園(国指定名勝)は後方の山とその斜面を利用した枯山水式の造りになっている。平地には白砂が敷き詰められ、斜面には大小さまざまの景石が配置され、中央には大日如来にみたてた高さ3メートルの巨石が置かれ、その間につつじ、さつき、五色の椿、山茶花、松等の潅木が植え込まれている。五色の椿は1本の木に赤、白、桃色等五色の花が、毎年3月中旬頃から咲く。万徳寺の他には奈良の白髭寺にしか無い珍しい木である。東南部には小さな池があり、初夏にはモリアオガエルの産卵がみられる。その上に山モミジが見事な枝をはり、後方の山には杉の老木がそびえたつ。かつては根回り3.6メートルの山もみじの巨木(国指定天然記念物)がたっていたが、近年枯れてしまい惜しまれる。寺の別名「花の古寺」にふさわしく、春の若葉、つつじ、夏の青葉、蓮の花、秋の紅葉、冬の椿、雪景色と四季折々の風情が楽しめる。
〔遠敷地区〕
円照寺は大日如来像を奈良・三笠山より移遷、奉安するため、大日山裾の若狭堂谷に建立され、遠松寺“えんしょうじ”と称していたが、南川の洪水による土砂崩れで崩壊した。文安元年(1444年)に現在の地に再建され、慶長17年(1612年)瓜生城主の娘・了岳慶智尼により、地久山・円照寺と改称された。
本堂の右手の大日堂は寛政7年(1795年)に再建され、本尊大日如来像と不動明王像(いずれも重文)が奉安されている。12世紀初頭に造られた本尊大日如来像は、高さが約2.5m、全身に金箔がほどこされている。間近で拝観するとその大きさと金色の輝きに圧倒される。大日如来像の傍らに使者として奉安されている不動明王立像は迫力ある憤怒の形相をしている。対称的に本堂に奉安されている地蔵菩薩立像(市文)は穏やかで円満なお顔立ちである。
また、江戸時代初期に造られた庭園(市指定名勝)は、中央に池を伴い、小さいながら均衡のとれた落ち着いた趣きがある。初夏には蓮の白い花が咲き、モリアオガエルが産卵する。
〔今富地区〕
近世における密教系寺院本堂の様子をよく残している。薬師如来、日光菩薩、月光菩薩の三尊像(いずれも重文)を中心とした、若狭屈指の仏像の宝庫である。
〔今富地区〕
藩主、酒井家の菩提寺。元々は大永2年(1522年)、若狭の守護武田元光以降、武田氏の守護館であったが、慶長5年(1600年)に京極高次公が雲浜に築城して以後、その子忠高公により 館跡に父・高次を祀る泰雲寺“たいうんじ”が建立された。泰雲寺は寛永11年(1634年)酒井忠勝が父・忠利を祀り、泰雲山健康寺となり、その子・忠直公が忠勝の法号、空印を寺名とし、酒井家の菩提寺となった。
境内に属する山麓には、人魚の肉を食べたために800歳まで生き続けた【八百比丘尼】“はっぴゃく・びくに”の入定洞がある。これにちなみ、小浜湾を一望する日吉の海岸には、コペンハーゲンにあるような人魚の像が設けられている。
空印寺には、内容の異なる【八百姫物語】“やおひめ・ものがたり”も伝えられており、これをもって八百比丘尼と称することがある。
〔小浜地区〕
神明神社は九州の姫が【伊勢神宮の託宣】によって創建したといわれる。姫の乗っていた船をつないだ「大明神船留岩」と姫が子を産んだ「産岩」“うみいわ”が残されている。この姫は八百姫“やおひめ”とも伝えられ、境内には八百姫神社があり、社殿には八百姫の像が収められている。また、境内には八百姫が植えたとされる椿の大木が見事な花を咲かせている。
祭神は天照皇大神“あまてらすおおみかみ”と豊受皇大神。伊勢大廟を代表する神社として尊ばれ、かつては大勢の参拝者で賑わったといわれる。空印寺所蔵の「神明神社社頭風俗図」(市文)から当時の様子を偲ぶことができる。
また、大宝2年(702年)創建とされる役行者“えんのぎょうじゃ”を祀る祠は、明治時代の廃仏毀釈で極楽寺を経て、現在鵜の瀬公園資料館に祀られている。
〔小浜地区〕
若狭彦神社は、小浜で最も歴史が古く、格式高い国幣中社である。和銅7年(714年)に下根来“しもねごり”の白石に創建され(元宮・白石神社)、鵜の瀬を経て、霊亀元年(715年)に神願寺(現・神宮寺)内に祀られ、宝治2年(1248年)現在の地に遷された。祭神は【海幸・山幸】の神話で名高い「山幸彦」、天津日高彦火々出見尊“あまつひこほほでみのみこと”である。
神社内は高い杉の老木が立ち並び、昼でも常夜燈がともる程うっそうと暗く、静謐で厳粛な趣きがある。江戸時代後期に建てられた神門(県文)と吉祥天女8人が祀られている随神門(県文)の間には、昭和40年の風害で倒壊した拝殿の礎石が残る。【本殿】(県文)は文化10年(1813年)に造営された三間社流造、桧皮葺、素木造の簡素ながら古風で荘厳な神殿である。左手にある清めの御水は遠敷の豊富な湧水を竹の長い筒でひいている。
彦火火出見“ひこほほでみ”尊には「海幸・山幸」の他に、【神社の由来】や内外海地区【泊】“とまり”の名の由来、大飯郡大島の「見返り神事」等様々伝説がある。
若狭彦神社と約2Km下流にある若狭姫神社(下宮)は総称して「若狭一の宮」、彦火火出見尊と豊玉姫命は共に遠敷明神と呼ばれている。
〔遠敷地区〕
若狭姫神社は養老5年(721年)に若狭彦神社から【分社】して創建され、祭神は龍宮城の乙姫、豊玉姫命“とよたまひめのみこと”である。遠敷地区の中心にあり参拝者も多く、若狭彦神社とは対称的に明るく壮麗な趣きがある。江戸時代中期に建てられた神門(県文)と吉祥天女8人が祀られている随神門(県文)の間には、昭和20年の雪害で倒壊した拝殿の礎石が残っていて、その奥に享和3年(1803年)に造営された三間社流造、桧皮葺、素木造の【本殿】(県文)が配置されている構成は上宮と同じであるが、個々の建物の構造に違いがある。本殿から向かって左側には海商・古河屋が寄贈した燈篭がある。
境内には「遠敷千年杉」の巨樹がそびえ立ち、彦火火出見“ひこほほでみ”尊と豊玉姫に縁の桂の木や市指定天然記念物となっているオガタマノキが生えている。このオガタマノキは明治時代に御所より拝受され、植樹されたといわれている。また、裏山にはカゴノキやムクノキ等、若狭地方の代表的な広葉樹林がそのまま残されていて、神社本来の姿と威厳を保っている。
尚、豊玉姫を玉依姫“たまよりひめ”と混同されて書かれているパンフレット等があるが、玉依姫は豊玉姫の妹で豊玉姫とは別人である。
〔遠敷地区〕
八幡神社は、神護景雲2年(769年)に、九州宇佐八幡宮の御神体をお迎えして建立された。祭神は宗像三女神である多紀理比売命“たごりひめのみこと”、多紀都比売命“たぎつひめのみこと”、市伎島比売命“いちきしまひめのみこと”と応神天皇、神功皇后で、小浜地区(旧小浜町【雲浜城下全図その二】)の産土神“うぶすながみ”である。氏子のみならず歴代の守護大名・藩主達からも格別に崇敬されてきた。
応永2年(1395年)に守護大名・一色詮範公により寄進された大鳥居(市文)は、それぞれ左巻きと右巻きになっている榁“むろ”の大木で造られており、全国でも珍しいものである。寛永2年(1625年)に小浜藩主・京極忠次公が寄進された能舞台は、京風の造りで、放生祭りでは三匹獅子舞や能楽が奉納された。現在、男山区の獅子舞はこの能舞台で奉納される。社殿は鎌倉時代の初めに建立され、その後、神殿と拝殿が正保2年(1645年)に藩主・酒井忠勝公によって再建された。社殿内には天文7年(1538年)守護大名・武田信豊が奉納したといわれる吉入道宗長作の太刀(市文)と藩主・酒井忠直公が奉納した近江守久道作の太刀(市文)が社宝として収められている。
また、境内の中には、お稲荷さんをはじめ13、4の小宮さん(摂末社)が整然と並んでいる。その中に朝鮮帰化人・新良伎“しらぎ”、高良“こま”を祀った小宮さんがあり、改めて小浜と朝鮮のかかわりの深さが感じられる。
〔小浜地区〕
天神社は浅間区、浄土寺の中に在り、背後に瀧があったため、「瀧の天神さん」と呼ばれている。祭神は菅原道真公。浄土寺には菅原道真公自作といわれる自身の【像】が安置されている。
境内横には「瀧の清水」といわれている湧水があり、その水源は不明であるが、大変水質が良く、昔から【酒】の醸造や煎茶をいれる用途に使用されてきた。また、水道が引かれるまで小浜地区内の飲料水および生活用水の水源であった。
〔小浜地区〕
市の塔は、今富地区和久里の西方寺境内に建てられた高さ3.5mの宝篋印塔で、若狭では稀少な石造建造物である。
南北朝時代、南朝の小浜代官長井雅楽介“うたのすけ”は北朝の武将達によって所領を没収され、やむなく西方寺にて隠遁生活に入り、朝阿弥“ちょうあみ”と号した。彼は精霊供養を思い立ち、できるだけ多くの人々に供養してもらうため、延文3年(1358年)小浜港の魚市場にこの宝篋印塔を建てた。その後魚市場が大繁盛したため、塔はいつしか「市の塔」と呼ばれるようになり、江戸時代には供養のために塔の前で壬生狂言が行われるようになった。
塔は江戸時代初期には突抜町(今宮区)へ、寛永17年(1640年)には永三小路(八幡神社の通り)へと市場が開設される度に移建されていたが、明治6年(1873年)に創健者の朝阿弥ゆかりの西方寺境内に移された。
壬生狂言も伝承され、7年毎に塔の前で奉納されている。
〔今富地区〕
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→ 寺院の詳細は、こちら
太良、鳴滝、定国、日吉谷から成る、国富地区の太良庄“たらんしょう”は、京都・東寺(教王護国寺)に遺された「東寺百合文書」のなかに多くの記録が残されており、中世荘園の成立、当時の農民の暮らし、訴訟や一揆などの内容が判ることで、中世史の研究者から注目されている地域である。
毎年11月には独自のふるさとまつり(荘園まつり)が開かれる。まつりに振舞われる古代米(荘園時代に京に納めていた米と同種)のお結びや「荘園そば」は栽培から収穫、調理まですべて同地区で行われたもので、素朴ながら手作りの暖かさが感じられる。また、平成8年に発足した「太良庄ふるさとづくり推進会議」を中心に荘園時代の歴史を学び、伝えようとする数々の試みがなされている。
〔国富地区〕
注)祭神の漢字の表記および読み方については問い合わせしないように。(^_^;)