リカンベントの歴史  2008/2/24

リカンベントという乗り物がどのようにして作られるようになったのか興味あるところです。 無名ライダーがアワーレコードを次々と更新したことから、競技の世界から締め出されたということは知っていたのですが、 あらためて次のHistory of the recumbentを読んでみるとその出発点が子供のための四輪車だったとは意外なことでした。 以下に同ページから簡単に引用ダイジェストしてみます。 但し、私の英語力が乏しいので間違いもあるかと思います。 また後半は割愛しています。原文の方もお読み頂けると助かります。

ベロカーの写真

シャルル・モシェ(Charles Mochet)は彼の妻が彼らの息子にとって普通の自転車は危ないと思ったことからペダルによる四輪車を作りました。 四輪車は非常に速く、簡単に他の子供たちの自転車を後ろに追いやることができました。 これはすぐに車両の需要に至り、彼は『Velocar』と呼ばれる大人のための二人乗り四輪式のペダル車を作りました。 弟一次世界大戦後のフランスのひどい経済のもと、自動車の代替として売れました。 実際、Velocarsは非常に速く、時々それらが自転車レースのペース車両として使われました。 しかし高速度でのコーナリングは危険で、カーブでは激しくブレーキをかけなければならず、再び加速するために激しく漕がなければなりませんでした。

ベロカーの写真

3輪の車両も試されましたがカーブでの傾向は四輪車よりさらに酷いものだったようです。

モシェカーの写真

そしてついに2輪のバージョン(実質的にリカンベント自転車)を造りました。 これがリカンベントの発明となりました。

モシェはリカンベント自転車が一般の自転車より速いことを示すことだけでなく、ツーリングと日常的な使用にも非常にふさわしいことを伝えることを願いました。 モシェはレースで彼の新しいリカンベント自転車に乗る良いライダーを探しました。 最初、アンリ・リモワーヌ(プロのサイクリスト)が乗りました。 アンリは、快適さとそれが容易に操縦できるのに驚きました。 それでも彼はレースには出ませんでした。 おそらく他のサイクリストの嘲笑がそれをさせなかったのだと思われます。

次にライダーはフランシス・ファール(有名なサイクリスト、ブノワ・ファールの兄弟)でした。 フランシスはリモワーヌ、彼の兄弟ブノワより明らかにより小さいライダーでした。 しかし、彼は本当にリカンベント自転車に関心をもった最初のサイクリストでした。 数回の試乗の後、彼はそれに乗ってレースに参加することを決めました。

最初、他のライダーは彼を笑い 「ファール、君は疲れているにちがいない、その上で居眠りをしたいのか。なぜ、まっすぐに体を起こして男らしく漕がないのか?」と言いました。 ファールが彼ら全員を後にしたとき、彼らは笑うのをやめました。 その後、彼らは彼のおかしい自転車をドラフト(自転車競技で風圧を避けるため前車の直後を走ること) することさえできないので動揺しました。 次々とフランシス・ファールはヨーロッパであらゆる第一級トラックサイクリストを破りました。 そしてリカンベントのはっきりした空気力学的な優勢を利用しました。

疾走するファールの写真

注)リカンベントの後ろについてもリカンベントが低いために一般のロードでは風圧を避けられません。

ファールがいろいろなショートコース上の世界新記録と他のリカンベントのサイクリストがロードレースで彼らの競争相手を手際よく叩いたと確認したあと、彼らは長い間『最終的な』記録と考えられていたアワーレコードに挑むことを決めました。 1907年に打ち立てられた毎時41.520kmの記録は20年間破られることはありませんでした。 その理由としては戦争の間に、多くのサイクリストは命を失ったり負傷したりトレーニングができなかったなどということもあったでしょう。

1933年7月7日、フランシスファールはパリ競輪場において毎時45.055km(27.9マイル)でこの記録を破りました。
このことは問題となり、UCIで討議されることになりました。 UCIの中でも好意的だったり批判的であったりと二分されましたが、一部にはフランシスファールのような二級サイクリストに世界記録を作っているイベントに参加する権利がないという意見がありました。 これらの批評家は明らかにファールより強い選手を望みました。

UCIはレギュレーションを変更し、

  • ボトムブラケットは、地面より上に24と30cmの間になければならない。
  • サドルの前はボトムブラケットの後12cmのみ。
  • ボトムブラケットから前輪の車軸までの距離が、58と75cmの間になければならない
としました。 これによりリカンベントは2つの車輪とチェーン、ハンドル、座席と人間の推進力を持つにも関わらず自転車と認められなくなりました。 これは1934年4月1日に実施されました。

ダイジェストはここまでです。

このようにしてリカンベントは競技の世界から排除されました。 もしファールが一流のレーサだったら多分、違った結果となり今頃リカンベントはメジャーな存在になっていたかも知れませんね。 当時のUCIのメンバーの中にも好意的だった人たちもいたようで、そのような可能性もあったようです。 HPV(人力駆動車)最速への挑戦は現代でも行われており、毎時130kmオーバーに突入しています。 参考:
Battle Mountain
World's Fastest Bicycle!←動画

ちなみにリカンベントは正式には自転車ではないという意見があります。 もしUCIのレギュレーションに合わないものは自転車でないと定義すると競技車両以外は全て自転車ではないということになります。 なにも競技のための定義で自転車かどうかなんて決めつけなくても良いのになぁと思うのですが。 そういう理由からかHPV(人力駆動車)と呼ばれてます。

話は変わりますが、リカンベントに乗り始めた頃、雨降りのときも乗れるように屋根とかあればなぁと思ったものです。 でも考えてみれば、それってベロカーそのものではないですか。 実際、ベロモービルとかいってそういう製品もあるようですし、また観光地ではベロタクシーというのも走っています。 なんだかベロカーが復活しているような気がしてきました。

ベロカーの写真