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イザ!時空間の旅へ(わっきん編)

  
【書評】【エッセイ】【小論文】、その他


書評『チャイナ・ジャッジ』(遠藤 誉 著)

 遠藤誉氏の著書『?子』(チャーズ、文春文庫)を読んで深く感動したのは、第1刷(1990年刊)を大事に手元に保管してあるのをみると20数年前である。
 その後の著作では、堪能な中国語を駆使しての膨大な量の第一情報の収集を下地とした『ネット大国中国-言論をめぐる攻防』(岩波新書、2011)が印象深い。
 さらに、『チャイナ・ジャッジ』(2012)の続編と言うべき『チャイナ・ナイン』(2014)、『チャイナ・セブン』(2014)と、著者の飽くなき探求は続く。
 そして、『毛沢東 日本軍と共謀した男』(2015)の刊行に至る。
 この日本軍との「共謀」ないし謀略については、ユン・チアン氏が『マオ』(2005)において、盧溝橋事件(1937)における毛沢東の策謀を生々しく検証したのが嚆矢だと思うが、遠藤誉氏はさらに、日中戦争時代における毛沢東及び中国共産党の政治・軍事の基本的な戦略にも踏み込んでいく。米国や台湾の書庫深くに眠っていた、膨大な中国語文献を渉猟しながら「日本軍と共謀」の事実関係を的確に検証して曝露していくのである。
 氏の最新刊『習近平vs.トランプ』の「あとがき」に、「あれから戸惑いと葛藤と、『なぜだ』という疑問への追及が途絶えたことがない。どこまでも真相を求めて喰らいつき、整合性のある解が出るまでは引き下がらない日夜を、今もなお続けている」とある。
 また、最新の世界情勢に関する氏の言説は、webサイトの『Newsweek 日本語版』で、日々拝読できる。
 本日2017年8月16日の投稿は「北の譲歩は中国の中国軍事同盟に関する威嚇が原因」であるが、過日2017年7月14日は「劉暁波は大陸に残ったがゆえに発信し続ける-習近平には脅威」が投稿されており、その末尾に、劉暁波氏への賛辞が付されている(下記)。
 「勇気を持って、真実に向かう者の方が真の勝利を収めることを、劉暁波の死は私たちに教えてくれている。せめてそこから教訓を学び取ってほしい。劉暁波氏の魂は、永遠に自由と民主と人権とともにある。求めているのは、真実を語っていい言論の自由と、命を賭して真実を語る勇気だ。それが世界を動かす。劉暁波氏に心からの敬意を捧げたい。」
 「命を賭して真実を語る勇気だ。それが世界を動かす。」(これは、遠藤誉氏のことでもあるのではないか。)



書評『意味不明でありがたいのかーお経は日本語で』(戸次公正著)

 久しぶりに戸次(べっき)さんの近況を知りたいと思って、「戸次公正 南溟寺」でyahoo!検索したところ、You Tube投稿の「讃仰講演会」でのご講演「伝統を現代に-お経・正信偈の心を子や孫にわかる言葉で-」がヒットした。早速、92分45秒のご講演を映像を交えて拝聴させていただいた。
 ご講演の内容と趣旨は、ほぼ著書の内容に沿ったものであったが、さらに裾野を拡げつつ掘り下げて、宗祖・親鸞が生きた時代背景とともにその生き様を語り、再興した蓮如による「白骨の御文章」にも触れ、さらに自然な流れの中で、大乗仏典の成り立ちやカントやジョン・レノンにまで言及されておられるのに驚いた。 高校1年の冬休みに、自宅の本箱にあった『歎異抄』(弟子の唯円著)を初めて読んだときの鮮烈な印象が蘇ってくる。「善人なおもて往生を遂ぐ、況や悪人をや」の有名な章句はもちろんであるが、親鸞は「一人の弟子も持たず候」という絶対孤独のまま「仏」(神?)と向き合うことを信心の根本に据えるという、ちょうど同じ頃に読み耽っていた『新約(聖)書』に通底する思想に深い感銘を受けた。
 浄土真宗でいう「御同朋」「御同行」の意味は、ここにあるものと理解しているところである。同断で、高校教員になった後、深遠な学問世界(ひいては現実世界)にまずただ一人で向き合うべきという意味で、学習者である児童生徒と教師は「御同朋」「御同行」ではないかと考え続けてきた。
 その後、高校教員の仕事の合間を縫って、親鸞の主著とされる『教行信証』も繙いたのであるが、内容がよく理解できず、僭越ながら「それがどうした?」という印象であった。しかし、岩波文庫で『親鸞和讃集』を読んで、『歎異抄』や『教行信証』の世界とも全く違う(と思われる)親鸞の姿を垣間見ることができた。
 上記のご講演の最後の方で、戸次さんは『親鸞和讃』や中世社会で流行した「絵解き」の重要性にも言及する。
 『親鸞和讃集』を文字(視覚)情報として読んでも感じ入るものがあったのだが、驚いたことに、戸次さんは当時の民衆の身になって、「今様」大流行と後白河法皇が編纂した『梁塵秘抄』等の時代背景をわかりやすく紹介しながら、音声(聴覚)情報による『親鸞和讃』の節回しの再現を試みようとされる。
 以前に著書を拝読して「書評」を書かせていただいた御蔭で、ご講演の内容と趣旨がより理解できるようになったような気がする。




書評『シェールガス革命で世界は激変する』(長谷川慶太郎・泉谷 渉 著)

 長谷川慶太郎氏の大胆かつ的確な情報発信は、(以前よりペースが若干落ちた感があるが)その後も止まることなく、トランプ大統領当選後の出版物に限っても、『トランプ新大統領誕生で世界はこうなる』(田原総一朗氏との共著)、『緊急出版 大転換』、『世界が再び日本を見倣う日』、『トランプ幻想に翻弄される日本』と、手元に4冊もある。
 驚くべきことは、経済・政治・軍事の評論家と自認しておられる多くの方々が氏のイチ早くの情報発信に大きな影響を受けつつ、「二番煎じ」の情報発信をしておられるように見受けられることである。また、1テンポ、2テンポ遅れで、日本の政治経済の動向にも確実に影響を及ぼしているように思われてならない。
 この観点においても、日本のオピニオン・リーダーの第一人者と言えるのではないか。




小論文『教育活動の《見える化》の試み』(脇田孝豪)

 大学卒業後、はじめ大阪府内の私立高校教諭として5年間勤務し、その後は大阪府公立高校の教諭となって教頭・指導主事・校長職を経て、定年退職を迎えた。
 この間、ずっと付きまとってきたワダカマリというか、疑念がある。
 それは、公立・私学を問わず、どの学校でも、それぞれの教育方針と教育目標を掲げて教育活動をしているのであるが、こと教育活動の評価となると、文章表記による観点別の総合的評価の枠組みが一定ありながらも、数値的表記がしやすい教科・科目の成績評価に決定的に偏りがちであったことである。
 この半ば公然たる乖離がいわゆる「知育」偏重、「ペーパーテストの点数による成績」偏重による教育活動全体の歪みを助長してきたと言っても過言ではない。
 教科・科目(小生は社会科、地理歴史科・公民科の教員免許であった)のテスト成績においても、〇×を中心に教師が評価しやすい形式での評価であって、真に生徒の学力を評価するには「論述式」を中心とすべきであることは明白である。
 これらのことが今般、(非常に多くの難関が予想されるものの)2020年度からの「大学入学者選抜改革」に向けて最大課題となっていることは、大いに評価できる。
 しかしながら、教科・科目内における教育評価の在り方にとどまらず、より大きな枠組みでの学校教育の在り方の見直しをすべきであると考える。
 それは、多くの美辞麗句を連ねて「教育目標」を掲げながら、それらを数量的に把握しつつ教育評価するための「指標(ツール)」開発を学校現場が怠ってきたのではないか、という問題意識からである。(これは、もちろん痛切な自己批判を含めてである。)
 そもそも「学問的」「科学的」であることを標榜し、めざしてきた学校が、客観的な検証にも耐えうるよう、数量的な把握が可能な「指標(ツール)」開発に必ずしも熱心ではなかったことが(今更ながら)残念でならない。
 恥ずかしながら、自分自身もこのことに気付いたのは、かの全国調査の「学力問題」を通じてである。
 「片々たる学力テスト成績に過ぎない」と言っても、それに対置できる(客観的な数値を示しうる)「指標(ツール)」がないことに愕然とする思いであった。
 そして、その「指標(ツール)」開発は、学習者である一人ひとりの子どものためのものであり、個々の子どもごとに評価検証すべきものであることを前提とするならば、まずは学校現場でこそ開発の先鞭を付けられ、公開され、より良いものに改善・充実させていくべきものと考える。
 上記の観点から、非常に稚拙なものながら、定年退職間際にようやく、同僚の先生方の協力をいただきながら試作したのが、この「指標(ツール)で」ある。

 多くの学校現場と先生方に課題意識を共有していただき、地道に粘り強く、学校教育の改善に取り組んでいって欲しいと願うところである。
 (定年退職の身ながら、小生も引き続き、こうした「指標(ツール)」開発と学校教育改善に微力を添えることができればと思っている。) 
 




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