大学卒業後、はじめ大阪府内の私立高校教諭として5年間勤務し、その後は大阪府公立高校の教諭となって教頭・指導主事・校長職を経て、定年退職を迎えた。
この間、ずっと付きまとってきたワダカマリというか、疑念がある。
それは、公立・私学を問わず、どの学校でも、それぞれの教育方針と教育目標を掲げて教育活動をしているのであるが、こと教育活動の評価となると、文章表記による観点別の総合的評価の枠組みが一定ありながらも、数値的表記がしやすい教科・科目の成績評価に決定的に偏りがちであったことである。
この半ば公然たる乖離がいわゆる「知育」偏重、「ペーパーテストの点数による成績」偏重による教育活動全体の歪みを助長してきたと言っても過言ではない。
教科・科目(小生は社会科、地理歴史科・公民科の教員免許であった)のテスト成績においても、〇×を中心に教師が評価しやすい形式での評価であって、真に生徒の学力を評価するには「論述式」を中心とすべきであることは明白である。
これらのことが今般、(非常に多くの難関が予想されるものの)2020年度からの
「大学入学者選抜改革」に向けて最大課題となっていることは、大いに評価できる。
しかしながら、教科・科目内における教育評価の在り方にとどまらず、より大きな枠組みでの学校教育の在り方の見直しをすべきであると考える。
それは、多くの美辞麗句を連ねて「教育目標」を掲げながら、それらを数量的に把握しつつ教育評価するための「指標(ツール)」開発を学校現場が怠ってきたのではないか、という問題意識からである。(これは、もちろん痛切な自己批判を含めてである。)
そもそも「学問的」「科学的」であることを標榜し、めざしてきた学校が、客観的な検証にも耐えうるよう、数量的な把握が可能な「指標(ツール)」開発に必ずしも熱心ではなかったことが(今更ながら)残念でならない。
恥ずかしながら、自分自身もこのことに気付いたのは、かの全国調査の「学力問題」を通じてである。
「片々たる学力テスト成績に過ぎない」と言っても、それに対置できる(客観的な数値を示しうる)「指標(ツール)」がないことに愕然とする思いであった。
そして、その「指標(ツール)」開発は、学習者である一人ひとりの子どものためのものであり、個々の子どもごとに評価検証すべきものであることを前提とするならば、まずは学校現場でこそ開発の先鞭を付けられ、公開され、より良いものに改善・充実させていくべきものと考える。
上記の観点から、非常に稚拙なものながら、定年退職間際にようやく、同僚の先生方の協力をいただきながら試作したのが、この「指標(ツール)で」ある。
多くの学校現場と先生方に課題意識を共有していただき、地道に粘り強く、学校教育の改善に取り組んでいって欲しいと願うところである。
(定年退職の身ながら、小生も引き続き、こうした「指標(ツール)」開発と学校教育改善に微力を添えることができればと思っている。)