以下の記事は、伯太高校の元教諭・元校長による学校と地域社会への応援ページです(^^)/~~~
(1).大阪府立伯太高校は、「和泉(いずみの)国」にあります(^_-)-☆
「伯太高校」の「伯太」は「はかた」と読みます。
和泉市(いずみし)伯太(はかた)町に立地しているので、「伯太高校」という校名になったのだと思います。
でも、伯太高校は、正確には「伯太町」と「府中町」との境に立地しています。つまり、「和泉国」の国府跡のある府中町に隣接しています。古代の街道筋である「熊野街道(小栗街道)」が学校の正門前を通っていますが、その熊野街道を正門前から500mばかり南へ行くと、東側に御館山(みたちやま)公園があり、和泉国の「国府跡」の碑が建っています。
そして、熊野街道をはさんで「国府跡」の向かい側には、和泉国の名前の由来とな「泉井上神社」があって、その境内からは数十年前までは滾々(こんこん)と泉が湧いて、そこから周辺の田んぼへの灌漑用水も引いていたと地元の方から聞いています。
実は、伯太高校の校地内にもこの泉が湧いていて、創立20周年記念事業の一環として、中庭に泉水がつくられて、生徒たちの憩いの場となり、生徒有志による野外ステージ「ハッピーフライデー」の会場ともなっています。
ですから、和泉市(この市名も和泉の国府跡が由来です)にある、和泉の国の国府跡近くの学校だから「和泉高校」としたかったところだと思いますが、すでに岸和田市内に「和泉高校」があったので、町名の方をとって「伯太高校」となったのだと思います。
(2).「伯太(はかた)」地名の由来は?
この「伯太(はかた)」という町名にも、奥ゆかしい由来がありそうです。江戸時代の和泉の国には、岸和田藩5万石と並んで伯太藩1万3千石の大名が置かれていました。岸和田藩には岸和田城がありましたが、伯太藩には城郭はなくて、「陣屋」と呼ばれる、いざという時には砦のような機能も果たせる門と塀で囲まれた大名屋敷がありました。その門は現在、堺市豊田にある「小谷(こたに)城郷土館」に移築されたと聞いています。
でも、この「伯太(はかた)」の地名の由来が江戸時代よりもずっと古いことは、江戸時代以前から「伯太神社」が町内にあることでもわかります。その伯太神社を訪ねてみると「伯太比古(ひこ)」・「伯太比(ひめ)」が祭神となっています。
同様に、「伯太彦(はくたひこ)」・「伯太媛(はくたひめ)」が祭神となっている「伯太彦(はくたひこ)神社」が大阪府柏原市にもあって、いずれも大陸からの先進文化をもたらした百済系渡来人豪族が由来となっている神社です。大和川の支流である石川も、かつて「伯太(はくた)川」とも呼ばれていたようです。
また、島根県安来市にも「伯太町(はくたちょう)」があります。「たたら」と呼ばれた古代製鉄業の「和鋼博物館」のある安来市です。「伯太(はくた)川」という川もあって、あの「やまたのおろち」伝説で有名な斐伊川水系です。
瀬戸内海には製塩で有名な「伯方(はかた)島」があって、そして九州には古代以来の朝鮮半島への玄関口である「博多」があります。
なぜ、「はかた」(「はくた」)とつく地名が西日本に広く分布しているのでしょうか?
6世紀頃の朝鮮半島では、高句麗・百済・新羅の三国が相争っており、その1つである百済は、小国連合「馬韓」のうちの「伯済(はくさい)国」を中心にまとまって成立した国です。ひょっとすると、「伯太(はかた)」というのは、その「伯済(はくさい)」が「はくたい」→「はくた」→「はかた」と訛ってきたのかも?と勝手な想像を巡らしてしまいます。
(3).「池上・曽根遺跡」と「大阪府立弥生博物館」
伯太高校から自転車で10分くらいのところに、有名な
「池上・曽根遺跡」(最寄り駅はJR信太山駅)があります。膨大な弥生式土器とともに、大型家屋の柱跡や井戸囲い、文字通りの「鳥居」に用いたかもしれない木製の鳥形が出土して、九州佐賀県の吉野ケ里遺跡等と並び評される弥生時代の代表的な遺跡です。この遺跡出土の木材の分析から、紀元前52年に伐採されたものが使用されていることが判明しました。少なくとも2千年前から栄えていた遺跡であるようです。
ちなみに、この「池上・曽根遺跡」は、「池上町」(和泉市)と「曽根町」(泉大津市) の境界域にある遺跡です。現在、この池上曽根遺跡の一角に、
「大阪府立弥生文化博物館」が建てられており、伯太高校生がフィールドワークに出向いたり、博物館の方からも伯太高校に「出前授業」に来ていただいたりしています。
(4).「聖(ひじり)神社」と「伝説の国、歌枕の地」
小生の母校である
和泉市立信太(しのだ)小学校の校歌の歌い出しに、「伝説の国・わが和泉、歌枕の地・わが信太、歴史輝く学びやに♪♪」とあります。
清少納言(せいしょうなごん)の『枕草子』は「春はあけぼの」が有名ですが、その百七段目に「森は」とあって、何番目かに「信太の森」が出てきます。また、紫式部の『源氏物語』「若紫(上)」に、光源氏が情熱的なヒロイン「朧(おぼろ)月夜」を闇夜に訪ねて行くシーンがあるのですが、原文では「信太の森」と喩えられる人物に案内されていく設定になっています。
平安時代に「熊野詣」が流行したことから、熊野街道の「信太の森」が京の貴族たちの間で語り草となっていたようです。
その「信太の森」の名残が、伯太高校から熊野街道を1km余り北上したところにある「聖神社」の周辺の林です。おそらく平安時代には、熊野街道を挟んで聖神社から「葛の葉神社」辺り一帯を深い森が覆っていたのではないかと想像を巡らせてしまいます。
この森を舞台にした、中世の説教節「葛の葉」(聖神社に祈願に来ていた阿倍保名が猟師に追われていた狐を助けたところ、美しい女性「葛の葉」となって現れて結ばれたが、花に見とれてしまって尻尾が見つかり、子どもを残して郷里の信太の森に帰っていく物語。その子どもが高名な陰陽師・阿倍清明となって宮中に召し出されるという後日談)が語られるともに、もう1つの説教節「小栗判官」(関東武士の小栗判官は毒を盛られて瀕死の姿となったが、愛する照手)姫が曳く土車に乗せられて熊野に参詣する中で、奇跡的に健康を回復して関東に戻って復讐を成し遂げる物語)も有名となって、熊野街道は別名「小栗街道」とも呼ばれるようになったようです。
ちなみに、時宗(一遍宗)の総本山である、神奈川県藤沢市の清浄光寺を訪ねたとき、伝説のはずなのに、境内に小栗判官と照手姫の真新しい墓が並んで建てられているのにビックリしました。
聖神社の「聖(ひじり)」は「日知り(ひしり)」に通じて、暦や農業を司る神様とも考えられているようですが、同じ名前の「聖神社」は埼玉県秩父市にもあって、その聖神社は、あの「和同開珎」鋳造のきっかけとなった銅鉱山が発見された場所で、ご神体は自然銅です。
また、「聖神社」という名の神社は、ひろく日本各地に分布しています。日本の中世社会において、高野詣りや大寺院や神社への寄進を募りながら、出家僧の姿で全国各地を流浪して歩いた「高野聖」や「勧進聖」等の民衆の尊崇も集めていたのではないでしょうか。
(5).「黄金塚古墳」・「取石(とろし)池」・「等乃伎(とのぎ)神社」
伯太高校前から熊野街道を3kmばかり北に行くと、最新鋭のごみの焼却工場のすぐ横に、有名な「黄金塚古墳」があります。全長は100m近くある前方後円墳で、4世紀頃、洪積世台地である信太山丘陵の北端を利用して築造されています。
この古墳から、邪馬台国の卑弥呼が魏に遣使した「景初三年」(239年)の銘のある銅鏡(東京上野の国立博物館で実物が公開されています)が出土して話題を呼びました。邪馬台国と何らかの関係があったのでしょうか?
伯太高校から南に少し行って、
岸和田市北部の摩湯町(まゆちょう)の小高い丘の上に、これも前期古墳として名高い「摩湯山古墳」があります。堀で囲まれた前方後円墳なのですが、卑弥呼の墓かもしれないと言われている奈良県桜井市の前期古墳「箸墓古墳」と比較して、少し小ぶりなだけで形状がそっくりです。
和泉市の黄金塚古墳のすぐ横の海側の辺りは土地が低くて、熊野街道がどう通っていたのかよくわかりません。和泉国の一宮である鳳神社の鳥居前から古くからの鳳駅前商店街を抜けて行くのが熊野街道であるのは確かなのですが・・どうも、この辺りには大きな「取石(とろし)池」が広がっていたようです。
そして、その近くに、『古事記』にも、「その樹の影は、朝日があたれば淡路島に届き、夕日があたれば(生駒山の隣の)高安山を超えた」と伝えられるほどの1本の高い樹があって、その巨木があった址に「等乃伎(とのぎ)神社」が建てられているのかもしれません。
ちなみに、その樹から「枯野(からの)」という名の当時の高速船が作られ、破れ壊れるとそれを燃やして塩がつくられ、焼け残った部材から琴を作ると、その音は7里(約28km)四方に響いたと伝えられています。
(6).「家原寺(えばらじ)」・「鶴田池」・「久米田池」・「土塔(どとう)」
JR津久野駅から少し山側に行くと、日本史の教科書にも登場する奈良時代の高僧「行基」の生誕地に建てられた「家原寺」があります。行基の父方は、日本に漢字を伝えた百済の王仁の子孫といわれる渡来系の高志(こし)氏で、母方は泉北丘陵一帯に勢力をはる蜂田(はちた)氏です。
この「高志(こし・たかし)」氏に由来する神社が「高石神社」で、
高石市の市名もこの「高志(こし・たかし)」に由来するようです。また、「蜂田(はちた)」の方も、八田荘(はったそう)・八田寺町(はんだいじちょう)・蜂が峯(はちがみね)といった今に残る地名にかつての勢威が伺えるようです。そして、須恵器生産の中心であった「陶邑(すえむら)」とも重なるのではないかと想像したりしています。
その行基がリーダーとなって築造・修築した大規模な灌漑施設が「鶴田池」(堺市)・「久米田池」(岸和田市)・
「狭山池」(大阪狭山市)といわれていますが、家原寺の周辺にも多数みられる池や川の堤にも行基一族の活躍の名残が伺えるように思われてなりません。
そして、南海高野線「深井駅」近くの「土塔(どとう)」も行基が造営したものと伝えられています。日本ではユニークな形状ですが、仏教発祥の地であるインドの「ストーパ」(塔)に似ています。当時は高価であったはずの瓦を大量に使用しているのを見ると、やはり当時の地場産業であった「須恵器」生産の伝統を継承しているようにも感じられてなりません。
(7).「方違(ほうちがい)神社」・「三国ケ丘(みくにがおか)」・「堺(さかい)」(境)
8世紀後半以降の古代の国割りを記した
「手書きの地図」をご覧ください。摂津国の南、和泉国の北・東、河内国の西にある三つの国の交点に位置するのが「三国ケ丘」であり、「方位の無い清らかな」地に立地するのが
「方違(ほうちがい)神社」です。この神社の辺りで、古代の幹線道路であった竹之内街道・長尾街道・西高野街道、そして熊野街道が交差しています。
学生時代に読んだ「共同体の尽きるところ、交易が始まる」(『資本論』)というカール=マルクスの意味深な章句を想起してしまいますが、古代の三つの国境が交差する地点かつ交通の要衝ですから、「無縁」の地である神社の境内周辺に、古くから市が立って交易が行われていたのではないでしょうか。
南北朝時代(14世紀)から室町・戦国時代(15-16世紀)にかけての動乱期に入ると、自衛のための地域住民組織が農村部に限らず都市部でもひろく形成されていったようですが、日明貿易が盛んになるとともに堺港の方向に広がるようにして自治都市「堺」の町が形成されていったのではないでしょうか。
もちろん、堺市内に「大仙陵(仁徳陵?)」・「履中陵?」・「反正陵?」をはじめ、海上からも遠望できる大古墳があることから、5世紀頃の当時も、海外進出や交易に深く関わる政治・経済の中心の1つが
堺市にもあった可能性が濃厚です。
(8).「熊野街道」・「九十九(つくも)王子」・沿道の地蔵の祠
「熊野街道」は、京都から船で淀川を下って京阪電鉄「天満橋駅」付近の八軒家浜で上陸し、現在の谷町筋を南下して四天王寺前、阿倍野を経由して、「方違神社」から南海高野線「堺東駅」前、「鳳神社」前、鳳駅前商店街を通って、「聖神社」の鳥居前、「伯太高校」前に到り、一路南下して、岸和田市・
貝塚市・
熊取町・
泉佐野市・
泉南市、そして
阪南市山中渓から和歌山県に入り、世界遺産である熊野三山(熊野本宮大社・那智大社・速玉大社)に到る古代の街道です。
この熊野街道沿いに、遥拝所(遠くから拝(おが)むための施設)と休憩所を兼ねて「王子社」(熊野権現の末社)という簡単な建物が建てられ、その数が多いので「九十九(つくも)王子」と呼ばれ、今も残る、和泉市王子町、貝塚市王子、等の沿道の地名は、その王子社に由来します。
熊野街道を歩いていて、否応なしに気付くのは、沿道の地蔵堂やお地蔵さまの数多さです。今でも早朝、近隣住民の方々が花を手向け線香をあげて合掌しておられる姿をしばしば拝見します。
古代国家が平安末期頃から崩壊に向かって以降、近世初期から前期にかけて江戸幕藩体制が整備されるまでの中世社会は、膨大な数のいわゆる「流浪の民」を生み出し続けたのではないでしょうか。
寺社を含む宮廷貴族の荘園領主に隷属していた手工業者が古代国家の没落とともに庇護者を失って、商人としても販路を開かざるをえなくなって行商して歩くようになったことは、平安末期以降の宋銭への需要増大と大量流通にも現れていると思います。
また、芸能の民や宗教者も同様で、説教節や各種の芸能を通じて、街道筋を中心に「葛の葉」伝説や「小栗判官」伝説を伝え、熊野詣でや高野詣で、そして伊勢詣でを推奨(すいしょう)して歩いたのではないでしょうか。ちなみに、かの小栗判官の墓のある清浄光寺は、国道一号線つまり旧「東海道」沿いの寺です。
そして、旅の途中で飢えや病に行き倒れ、身寄りも無く路傍に葬られる人も多かったに違いありません。そうした「無縁仏」を葬った跡に、冥福を祈って石を置き、小さなお堂を建てたりして、沿道の住民で引き継がれてきたのが、熊野街道筋の地蔵堂であり、お盆の地蔵祭りであるような気がしてなりません。
(9).物部守屋の滅亡と「捕鳥部萬(とりべのよろず)」、そして「天神山古墳」の墓石
仏教の受容か排斥かを巡って表面化した物部氏と蘇我氏の対立は、587年の物部守屋が東大阪市から八尾市にかけての本拠地で、蘇我馬子らに攻め滅ぼされて決着し、推古天皇と聖徳太子、蘇我馬子の三頭政治が始まり、飛鳥時代の開幕となることはよく知られています。
その物部守屋の有力な部将が「捕鳥部萬」です。
阪南市に「鳥取ノ荘」があり、古くからの「波太(はた)神社」が鳥取氏(捕鳥部)の祖先神を祭る神社であることを思うと、本拠地は阪南市辺りにあったはずなのですが、配下の者を故郷に帰して自らは本拠地に帰らずに、妻の実家のあった岸和田市の「有真香邑(ありまかむら)」に行き、蘇我氏が差し向ける軍勢に孤軍奮戦して立ち向かい力尽きて自害します。その遺骸を愛犬が守って餓死したのを憐れんで傍に葬ったのが、天神山古墳の頂上付近にある2つの墓石であるとされています。
この春(H23年3月)、たまたま所用があって近くを車で通ったので、その墓を確かめに公園となっている墳丘を登っていくと、全く驚いたことに、その墓には真新しい花が丹念に活けられているのです。1400年余りの昔のことなのに、妻方のご子孫の方なのか、捕鳥部萬の冥福が営々と祈り続けられているなんて、一体どのような人物だったのでしょうか?
しかし、政治的・軍事的に敗れた側の事績や伝承は、明治時代の西南戦争における西郷隆盛の場合を例外として、歪められたり消されたりしていくのが歴史の通例です。阪南市の豪族・鳥取氏はその後も続いたようですが、泉南地方の古い歴史や伝承は、捕鳥部萬の滅亡で相当に失われてしまっているのではないでしょうか?
ひるがえって、大和政権の草創期以来の大豪族であった物部氏の正確な事績や伝承も、同様に大部分が消されてしまっているのではないでしょうか。
(10).「曽根神社」、「二田町(ふったちょう)」、「条里制」
(3)の「池上・曽根遺跡」公園に隣接して「曽根神社」があります。この神社の祭神は曽根氏の祖先神であるようですが、曽根町の西隣は泉大津市二田町で、その二田氏は有力な物部氏の一族です。ちなみに、佐賀県にある有名な弥生時代の環濠集落
「吉野ケ里遺跡」は、池上・曽根遺跡よりも大きなスケールですが、驚いたことに、その近くにも物部神社があります。ひょっとすると物部氏は、弥生時代以来の交易都市や水田地帯の相当な部分を全国レベルで継承していた豪族だったのではないでしょうか。
ほかにも共通点は、池上・曽根遺跡が和泉市池上町と泉大津市曽根町の境にあるのに似て、吉野ケ里遺跡も少し古い地図で見ると神埼町と三田川町と東背振村の境界に立地していること、そして両者とも、当時の海に近くて河川の水運の便にも恵まれ、大規模な水田耕作地帯にも隣接していたらしいことです。このことは、自治都市「堺」の立地条件にも似ており、両者とも当時の工業生産と交易で栄えていたのではないか、と想像してしまいます。
また、
泉大津市の市街地図を見ると、二田町の北に隣接して「条南町」、その北は東助松町ですが「上條小学校」があります。そして寿町を挟んで南には「下条町」があるではありませんか。明らかに、古代の条里制の痕跡であって、古代政権も重視する農業生産の先進地帯であったに違いありません。その水利は、現在よりもはるかに水量の多い湧水が河川となって池上・曽根遺跡をかすめ、条里制の水田地帯を潤して海に注いでいたのではないでしょうか。
(11).「泉大津」の由来、「小津(おづ)の泊(とまり)」
高校の古典の教科書にあるように、日記文学の始まりは、紀貫之の『土佐日記』です。40数年前、古典の先生が黒板に「女性に仮託」と板書されたのが想い出されます。紀貫之は赴任地の土佐国(高知県)から、海賊に怯えながら船で京都に戻るのですが、
岬町の港に着いた後、風雨の中を大阪湾を沿岸伝いに北上して、阪南市の「箱の浦」を経由して、泉大津の「小津泊(おづのとまり)」に到って詠んだ和歌が、「行けどなお行きやられぬ妹(いも)が績(う)む小津(おづ)の浦なる岸の松原」です。どうも海岸から綱で船を曳航して、ようやく小津の浦までたどりついたようです。
「小津(おづ)」からいつしか「大津(おおつ)」と呼ばれるようになっていましたが、琵琶湖畔の大津市の方が先にできたので、昭和17年に市制を施行する際は「泉大津市」となりました。
(12).繊維産業の隆盛、「久保惣(くぼそう)美術館」・「正木美術館」・「田尻歴史館」
江戸時代から泉州一帯は綿花生産が盛んで、繊維産業の素地がありましたが、幕末以降は国内の綿花生産は開国で壊滅的打撃をうけました。しかし、安い輸入綿花を使っての紡績(綿糸生産)工業を中心に輸出を伸ばして、泉州一帯の繊維産業は大きな発展を遂げました。
繊維産業の中でも、泉大津市では戦前から、毛布生産で日本一の生産量を誇っていました。泉佐野市から熊取町にかけては、タオル生産が有名です。
繊維産業で大きな資産を築いた方々の中には文化方面にも高い関心をもって、世界有数の美術品を収集し、それらを美術館等として公開している施設が数多くあります。
「和泉市久保惣(くぼそう)記念美術館」、
忠岡町の
「正木美術館」、
田尻町の
「田尻歴史館」が有名ですが、他にもあります。
特に、珠玉の名品が、「和泉市久保惣(くぼそう)記念美術館」にある剣豪・宮本武蔵の筆になる『枯木鳴鵙(めいげき)図』です。若き新聞記者時代に美術評を担当していた司馬遼太郎は、『宮本武蔵』(朝日文庫)の冒頭で、「みごとな?墨で水辺の茂みがえがかれ、枯木の枝が、天にむかってのびている。その先頭に、鵙がいる。するどくはげしく鳴き、やがて弦が切れたように鳴きやみ、その瞬間にひろがった天地の枯れはてた静寂というものが、この絵ほどみごとに表出されているものはないであろう。」と評しています。
『和泉(いずみの)国(くに)の歴史探訪』(泉南編)
⇒以下、「目次案」(今後の予定、サテハテいつ出来上がりますことか・・)
(13).岬町、深日・淡輪・多奈川・岡田・孝子
(14).地域の共同体と宮座、秋祭り(ダンジリなど)
(15).海塚・近木・水間寺・願泉寺
(16).熊取・五門・中家
(17).日根野荘・市場・食野家
(18).田尻町・・ヤグラとダンジリの境界
(19).信達牧野・信達市場
(20).山中渓・波多神社
(21).泉州弁にみられる地域文化の個性
最近の歴史探訪
弥生時代の代表遺跡の1つです。
出土土器の絵から唐古池の縁に樓閣が復元されました。銅銭や銅鏡の鋳型なども発掘されています。
継体天皇陵に比定されてきたのは、隣の太田茶臼山古墳ですが、現在では今城塚古墳が有力です。埴輪工房の遺跡も出土しました。
海上交易活動にも関心を寄せた平清盛ですが、大輪田泊(神戸市)修築とともに、この瀬戸内海航路の難所の開削が有名です。