校外学習  2000年
 
2000年 美濃路をゆく
水の流れに沿って 琵琶湖疎水から哲学の道を歩く
北九州に歴史を探る
『播磨灘物語』を歩く 姫路・御着界隈
あなたの知らない神戸 三宮界隈

 この夏は、フィールドワークに出かける事が多い。はやり「百聞は一見にしかず」、現地を知らずして、社会科教師は務まらない。
 この夏に出会ったモノや人たちの紹介をしましょう。

【コース】 美濃路をゆく

8月29日(火)〜30日(水) 説          明 写真
@ 関ヶ原 笹尾山〜決戦地  関ヶ原の戦い400年ということで、以前とは様変わりし、笹尾山の展望台がとてもきれいになっていました。赤いボタンを押すと、解説が流れます。ちょっとだけドラマティックに。娘のリクエストで鍾乳洞にも行って来ました。
A 杉原千畝記念館  岐阜県八百津町に、ご存じ「日本のシンドラー」の記念館が、7月30日に人道の丘公園に開館しました。館内は杉の香りが強くて、鼻炎がひどくなりました。
 書籍をいくつかと教材になりそうなものを求めてきました。
 「杉原千畝をたたえる会」があります。 〒 503−0034 大垣市荒尾町1810−74 電話 0584−91−1587 です。
 八百津は自然が豊かな町です。が、ちょっと神戸からは遠かったです。
B 長良川河口堰  長島スパーガーデンで遊ばせた後、これからはお父さんの時間だと言いながら、輪中の町を回りました。河口堰には、その規模に驚きました。
C 輪中の郷  閉館時間を過ぎていたのに、入場させてもらい、学芸員の方にとても丁寧に解説をしていただきました。資料も本当にたくさんいただいて、感謝にたえません。お話も興味深いものばかりでした。
 輪中の生活=洪水・大変!ではない。確かに伊勢湾台風の時など、洪水で多くの人が亡くなったが、表作の米作が洪水でだめになっても、裏作の菜種で充分食べられるほど、土地は豊かなんだ。貧しくなったのは、明治になってから、とくに昭和になって、菜種の輸入自由化が始まって価格が下落してからだと興味深い話を次々としていただきました。
 是非再訪してみたい施設です。私の自宅からでも3時間でいけるので、みなさんも是非行ってみてください。
 輪中の郷に近くにある、水屋が現役で残っているお宅も教えて頂きました。
 今年の夏休みは、長崎→広島(1588q)→岐阜(700q)ほぼ日本縦断の距離を走破し、「教材狩り」に走り回れたので、満足でした。
 千畝と輪中の教材化をしてみたいものです



【コース】 水の流れに沿って 琵琶湖疎水から哲学の道を歩く

 総合学習の試行をかねて、この秋に校外学習を行う。今日はその下見だ。
 8時半西明石駅集合!と思って、ぶどうパンにかぶりついていると、携帯がなる。「誰やねん、今ごろ!」と思って取ると、「今どこにいるの?」「家!」(背後でどよめき、笑い)「……えっ、集合8時半ちゃうん?」
 集合は7時半だったという。はぁー……、1時間遅れか……。
 というわけで、京都駅で追いつきました。
 なぜかみんな笑顔で迎えてくれました。

8月9日(水) 説          明 写真
@ 琵琶湖疎水・疎水記念館  琵琶湖の水を京都に引こうと、1885(明治18)年に着工し、1890(明治23)年完成した用水路。飲用水の確保とともに、日本で最初の水力発電所もでき、その電力で日本で最初の市電を走らせたそうです。
 疎水ができて舟運がさかんだった当時、荷物を積んだ船が台車に乗って坂を上下するインクラインもすぐ近くにある。
 入場無料。AVルームもあり、VTR上映、説明もしていただける。(所要時間 1時間程度 要予約)
A 南禅寺  1291(正応4)年、亀山天皇の離宮を改めた禅寺。京都五山の最高位の格式。
 南禅院前には、上部に疎水を流すレンガ積みの水路閣がある。古代ローマの水道橋を模したという。
 8月6日(日)だったと思うが、NHKBSで琵琶湖疎水を越前屋瓢太が下るという生中継をやっていてとても興味深かった。
B 哲学の道  疎水沿いに桜並木の散策路が続く。哲学者西田幾太郎がよく散歩をしたという。9日は雷雨!!!近くの喫茶店で昼食をとったが、エビピラフ900円。卵がどかっと固まっていて、味も今ひとつ。これで900円はぜたいに高い。
C 銀閣寺  室町幕府8代将軍義政の山荘を寺に改めたもの。ここには国宝の東求堂がある。春には東求堂も開放される。以前二日酔いの私はこの同仁斎で寝転がっていた。ふーっ、気分!気分!




【コース】 北九州に歴史を探る

7月31日〜8月5日 説明 写真
@ 志賀島(金印公園) 「漢委奴国王」と刻まれた金印がここから発見されたという。
A 蒙古首塚 金印公園からすこし車で走ったところに首塚がある。階段を上ったところに大きな石碑が建つ。昭和2年建立だから、1927年だ。建立の際の寄付を警察署長がとりまとめて行った碑がある。さらに、昭和6(1931)年に安南省から22名の中国人らしき人たちが「参拝」したという石碑も建っている。何か違和感がある。
B 福岡市立博物館 もちろんここには本物の金印がある。……………………が、この日は月曜日。休館日ではないか。ここまで来ておきながら……、残念!!(金印は2度ほど見ているのでいいのだが)
C 蒙古防塁跡 西南大学体育館の裏手に防塁跡がある。いまの地表面より低いので変な感じがする。国の文化財になっていると石碑が建っていた。……が、指定された年が、昭和6年とある。やはり1931年、「満州事変」が引き起こされる年だ。「神国日本」「国防意識の高揚」などと関係があるのだろうか?
D 吉野ヶ里遺跡 言わずと知れた、最大級の弥生時代の遺跡だ。V字に掘られた還壕や10bをこす物見櫓が壮大である。のハズなのだが、物見櫓は工事中でシートの覆われて、遺跡の半分しか歩けなかった。
(以上、7月31日)
F 出島跡、出島資料館 いままでは何もなかった出島だったが、日蘭交流400年で様変わりをしていた。展示物に象の大きな絵が掛かっていた。受付の女の子に、この象はどこから荷揚げされたかと聞いてみたが、はやりわからなかった。
G 旧香港上海銀行長崎支店記念館 長崎の洋館群の中あっては最大級出、1階部分を連続アーチのアーケードとして、2・3階部分にコリント式の円柱を通した大オーダーとし、その上に三角破風の屋根をのせている。
H グラバー園 よくご存じの通り。グラバー園に行く前に、大浦天主堂へも行った。
I シーボルト記念館 明石のことをぼろくそに書いたシーボルトがいた鳴滝に行った。お滝さんやいねの絵が印象に残った。
(以上、8月1日。なお、8月1日午後〜3日までは歴教協長崎大会)
J 長崎原爆資料館 入館すると時計の音がカチカチと聞こえてくる。暗い中に被爆の実相が浮かんでくる。人が少なかったから、親身にせまってきて、鳥肌が立った。『はだしのゲン』の原画展が同時にあった。ゲンを見ていると涙が出そうになる。
K 長崎市立博物館 ちょっと貧弱な展示か?地下室の特別展「九州南画展」は照明さえ入っていなくて、真っ暗???
「享保の象」がどこから荷揚げされたのか、ここの学芸員さんに教えて頂いた。やはり出島だそうだ。
L 岡まさはる記念
長崎平和資料館
日本の加害側面に焦点を当てた展示。在日朝鮮人や中国人の強制連行に関する資料展示が多い。
館の方々はボランティアのような形で運営されているのだろうか。とても親切でお話をしてくださった。
M 諌早ゆうゆうランド 干拓の里
諌早 干拓資料館
 資料館で「こんなところに、修学旅行なんて来ませんよねー」と失礼なことを聞いた。「いいえー、100校ぐらい来ますよ。」ということだそうだ。
旧干拓堤防にはどうやったら行けるか、諌早干拓地をどこから見ればよく分かるか、すくい漁はどこで行われているか、知りたいことに全部係員の方がていねいに答をくださった。
記念に『干潟と干拓』(川内知子著)を500円で買った。
 わらすぼ亭で昼食にした。「むつごろう」の蒲焼き(600円)も食べた。わりとおいしかった。
食事をしながら、本を見ていると、ふとこの本の作者があの係員の方?と言う気がしてきたので、再び資料館へ。果たしてその通り、川内さんだった。「サインをしてください!」とミーハーで言うと「そんな!!」と断られた。
「修学旅行できた場合、川内さんがお話をしてくださるのですか?どんなお話ですか?干拓推進のパンフレットがありますけど、こんな話ですか?」と聞くと、言葉強く、「ここは『資料館』ですから……。干拓は昔からやられてきています。前も困ったんです。反対派の人たちが来られて……。」とピシャリと言われた。
「歴史のお話や、人と干潟の関わりなどを話していただくのがいいのです。」と私も答えました。私たちの教育は、干拓賛成派や反対派を育てることが目的ではないですから。
 その後、車を走らせ、潮止め堤防を真上から見えるような位置で写真を撮った。
 この日は広島まで車を走らせた。(以上、8月4日)
N 岩国基地  広島の原水爆禁止世界大会に初めて参加した。5日は「動く分科会」で、岩国基地の調査と抗議行動だった。基地は沖縄で少しは見たことがあるが、本格的に見るのは初めてだ。
 説明を聞いていると、基地のMPがやってきて、軍用犬をつれて、監視をしている。私たちがカメラを向けると、「写真を撮るな!」と言った。日本人が側にいて、アメリカ人の代わりに私たちに言ってくる。「外から写真を撮るのは自由でしょう」と説明の人が抗議をすると、「アメリカ人が言っているのだ。」と言う。なにかアメリカ人に使われているこの人がかわいそうになった。
 広大な岩国基地だが、いま海面を埋め立てしてもう一本滑走路を建設中だった。標高120bほどの愛宕山を50bまで削り取って、コンベアで運び、基地を拡大するのだそうだ。
 「日本の中の外国だ」と私は思った。神戸の居留地は100年たつとまわりの景色にとけ込んで神戸らしい風景をつくっているが、米軍基地は50年たって、同化するどころか、異化するばかりで、まさに「ガン細胞」と言われた言葉がぴったりだと感じた。
この後錦帯橋を見学した。
(以上、8月5日。7月31日〜8月5日まで通算1588qを走破した。)

【コース】 『播磨灘物語』を歩く 姫路・御着界隈

7月24日(月) 説明 写真
@ 水瀬源製作所 皮革加工業、水瀬修さんは兵庫県皮革産業協同組合連合会の会長。皮革産業もいまが一番悪く、震災以後景気が回復せず、未だ8割復興だという。
A 旧西国街道 国道2号線と平行して走っている。西国街道を歩くときはいつも暑い。
B 天川橋跡 西国街道が天川をこすところに天川橋がある。かつては幅3.6b長さ25bの石造りの美しい橋(1828年造)であったが、1972年洪水で流出した。現在、姫路市の出張所の裏に移築され一部分だが復元されている。
C 御着城跡 1519年赤松氏の家臣小寺政隆の築城になったが、秀吉によって攻略された。近くに黒田官兵衛の祖父、母の廟所もある。
D 檀場山古墳 全長140b、高さ約10b、県下第3位の前方後円墳で、後円部の頂上には石棺が露出している。
E 播磨国分寺跡 江戸時代に建立された現在の国分寺の南に、奈良時代の金堂。燈籠、中門をへて、南大門に至る遺構が、確認されている。土塀が再建されている。
F 高ノ木神社・聖神社 製革業を始めた老人(聖翁)を祀っている神社。
G 明珍火箸本舗 明治維新で禄を失い、甲冑の注文がなくなり、火箸を考えついたという。燃料革命で火箸の需要もなくなったが、火箸で風鈴をつくるアイデアが生き、現代に技術が受け継がれている。6500円の風鈴の音の後、玉はがねでつくった風鈴の音を聞かせていただいた。他にたとえようのない音色だった。富田勲が次作にこの音を取り入れているそうだ。ちなみにお値段は50万円だ。

【コース】 あなたの知らない神戸 三宮界隈

7月23日(日) 説明 写真
@ 旧西国街道 この街道には大名行列や旅人が歩いていった道(西国街道)とともにそれと平行して浜街道もあったそうだ。
A 境界 八部郡・兎原郡の境界を示す。この碑は行方不明になっていたそうだが、発見されて現在地に。震災で少し折れたそうだ。
B 北向地蔵 昔大雨が降ったときに川の土手が切れないように守ってくれたという話があるお地蔵さん。
C 生田神社 平安時代の延喜式に書かれた神社で、神戸の名前の由来にも関係がある。多くのたたかいがこの場所であった。
D 三宮神社 旅人がよく休んだ場所。生田神社と関係の深い神社。幕末神戸事件があった。
E 旧居留地 明治の半ばまであった外国人だけが住んでいたり、事務所があった場所。
F 東遊園地 昔の生田川の土手の後で、1922年から東遊園地とよばれている。外国人たちのスポーツの場所でもあった。