シーボルト 明石の印象 

 やはりここまで言われると、郷土愛がむくむくとわく。(生まれたところでもないくせに!!)
 「二時近く我等は明石Akasiに来る、カナリ大なる市街にして、(中略)秩序にも礼儀にも乏しき、取るに足らぬ所なり。」
 ここまでいわんでもええんちゃうん!シーボルトさん。
 キ・ミ!、明石方面で人気落ちるデー!!

 五七 シーボルト江戸参府紀行   異国叢書
    五 室より大阪への陸上旅行
 (千八百二十六年−文政九年)三月十一日(中略)
明石
 二時近く我等は明石Akasiに来る、カナリ大なる市街にして、松平左兵衛督Matsudairakioje-no-ske(中略)と云ふ大名の治所なり。秩序にも礼儀にも乏しき、取るに足らぬ所なり。我等は海岸に傍ひて進み淡路島を我前に西南南に見る。此島と日本(○本土との間の海路は日本の一里 (凡そ四キロメートル)程の広さにて、海水はカナリ十分に深さが如く、我等は日本船の縦横に往交所を見たり。舞子浜Maikoにて我等は海景の絶美なるを縦にし、其近くにて余は海のコンパスを以て数ケ所を観測したり。一ツの松の森ありて、其の中に地蔵尊Dsizooの像立ちて、頭を繞れる御光の冠は人目を惹けり。明石より兵庫Hiogoの半途に於て蕎麦より作れる饂飩にて名ある飲食店(中略)途に当れり。人々すべて 食して気を引立つるなり。そこを一ノ谷ltsinotaniと名づく。余は終日烈く歩みしかば、こゝにて乗物に就く。
 明石市史料(近世編)第6集より


シーボルト【Philipp Franz von Siebold】
ドイツの医学者・博物学者。一八二三年(文政六)オランダ商館の医員として長崎に着任、わが国の動植物・地理・歴史・言語を研究。また鳴滝(ナルタキ)塾を開いて高野長英らに医術を教授し、実地に診療。二八年帰国の際、荷物の中に国禁の地図が発見され罪を問われた。五九年(安政六)再び来航、幕府の外事顧問となる。六二年(文久二)出国。著「日本」「日本動物誌」「日本植物誌」など。(1796〜1866)
 広辞苑第4版 CD−ROM版 岩波書店