当サイトの基本テーゼ

2018年1月13~14日ブログ掲載 1月20日本ページ改訂掲載


     1 日本、中国、朝鮮などの前近代史は東アジア世界史として叙述されるべきである

     2 日本文化はじめ東アジア諸国の文化は、中国漢字文明によって形成された

     3 中国のウルトラ多様性と、その日本など周辺への伝播

     4 日本列島は古来からの他民族地域である

     5 日本語は漢語・漢文の訓読によって形成された

     
6 古代ギリシア・ローマは西アジアの派生文明である



1 日本、中国、朝鮮などの前近代史は東アジア世界史として叙述されるべきである

 東アジアにおいても、現在の中国、朝鮮、越南、日本のような国家・民族の枠組みが有効になってくるのは、せいぜい近代の直前においてであり、それまでの東アジア諸国の歴史は、現在の国家の枠組みを取り払った東アジア世界史という枠組みでないと理解は難しい。
 現に、高句麗のように中朝の国境にまたがり、中国、朝鮮・韓国のそれぞれが自国史の構成要素と主張する国家もあれば、朝鮮・韓国側がそれを認めないとしても、倭国が一時期、朝鮮半島南部を支配していたという主張もあり、そのような「倭国」を日本史の一部分と考えず、韓国朝鮮史の一部分と考える見方も十分成り立つのである。
 そもそも、古代においては現在のような意味での日本や朝鮮も越南も成立していないのであり、当時のこれら地域は「中国の一部」でなくても「中国の辺境」と考えた方が妥当なのである。
 なお、この場合の中国とは現代のような中国国家を指すのではなく、中国漢字文明の影響圏を指すのであり、これがここで言う「東アジア世界」の内容である。なお、その文明発祥地は黄河長江流域である。

(参考文献)
 この問題についての拙文:『中国文化が日本文化を誕生させた』(2007年)特に『あとがき』、『日本民族の形成(1)筆者の問題意識』(2018年1月)。
 少なくとも、「東アジア」の存在は誰かが言い出したものでもなく、自明の存在であると考える。


2 日本文化はじめ東アジア諸国の文化は、中国漢字文明によって形成された

 内藤湖南の言葉を借りれば、「日本」の種子のようなものが、中国文明の影響の及ぶ前からあって、その種子が中国文明を養分として発展したのではない。列島上に存在した様々な成分が、中国文明という「にがり」によって徐々に凝集されていって、今に続く「日本」を形成したのである。
 中国文明という表現が嫌なら漢字文明と言ってもいいが、その漢字文明が中心から周辺へと波及していき、それが「にがり」となって、東アジア地域の諸文化を凝集していった。漢字文明によって凝集されたことは、日本だけでなく、朝鮮やベトナムなどの東アジア諸国も同様であり、そもそも中国自体が漢字文明によって凝集され、今ある形になっているのである。であるから、現在の中国も、日本・朝鮮なども、みな根底にあるのは中国漢字文明なのである。
 言わば、上に述べたような「中国の辺境」とでも言うべき地帯に流入した様々な民族(文化)要素が、中国漢字文明に凝集されて行って、現在のような中国から独立した中国と対等の国家・文化が成立したのである。

(参考文献)
 この問題についての拙文:『中国文化が日本文化を誕生させた』(2007年)、『日本民族の形成(1)筆者の問題意識』(2018年1月)。
 やはり、内藤湖南『日本文化とは何ぞや(その一)』(1922年)、『日本文化とは何ぞや(その二)』(1921年)、そして『応仁の乱について』(1921年)は必須である。すべて『日本文化史研究(上)(下)』(講談社学術文庫 1976年)所収。
 同様の主張をしている論者は、寡聞かもしれないが既存出版界では書道家・石川九楊氏ぐらいであり、氏の『漢字がつくった東アジア』(筑摩書房 2007年)には触発された。なお、氏は同書に加え、『「二重言語国家・日本」の歴史』(青灯社 2005年)、『日本語とはどういう言語か』(中央公論新社 2006年)を「三部作」とされているが、『二重言語国家・日本』(日本放送出版協会 1999年)も上げておく必要があろう。氏の観点の全てに同意するわけではないが、非常に触発されたことは間違いない。
 

3 中国のウルトラ多様性と、その日本など周辺への伝播

 「日本人は色々なところから来たのであり、別に中国だけではない。」と主張する向きがある。筆者の主張するところは、そのような色々な要素が凝集されて日本が形成されるには、中国漢字文明が「にがり」として必要であったと言うことであるが、そもそも日本文化の中の色々な要素というものは、色々な所から来たと言うより、中国大陸の色々な要素が渡来したものと言うべきである。
 大体、我々がイメージするような巨大中国国家、巨大漢民族が初歩的に形成されたのは秦の始皇帝の統一以降であり、それ以前(特に春秋以前)の中国は、「南蛮・東夷・西戎・北狄」と称されるような多様な民族が居住する土地であった。これら諸民族が社会の変動の中で、中心部で漢族に凝集されていくと共に、周辺地域への民族移動が行われたのであり、南方や北方に移動したものが、東の海を越えて半島や列島に移動してくることは普通にあったものと考える。
 ポリネシア人などオーストロネシア人が中国大陸から台湾を経て、太平洋諸島へ拡散したように、さらに元々中原にいたという説もある匈奴がフン族としてヨーロッパに現れたという説もあるように、中国大陸中心部からの民族移動は、我々の想像を絶するものがあるのかもしれない。
 ヨーロッパ並みの面積を持つ中国は、やはりヨーロッパ並みの多様性を抱えているのであり、現在においても、漢族以外に55の少数民族を包含しているし、漢族にしても、その方言差を見ても分かるように、かなりの多様性を包含しているのである。

(参考文献)

 この問題についての拙文:『日本人はどこから来たか!改訂版』(2018年1月)、『中国少数民族一覧表・再改訂版』(2006年)。
 また、中国の民族(文化)的多様性や拡散については、橋本萬太郎編『民族の世界史5 漢民族と中国社会』(山川出版社 1983年)所収、橋本萬太郎「漢字文化圏の形成」、「ことばと民族」など。


4 日本列島は古来からの多民族地域である

 日本列島(現日本国の領域)は古来からの多民族地域であり、近代の直前においては、大和・琉球・アイヌの三族が形成されており、この状況は現在も基本的に変わっていない。日本民族とは大和族だけを指すのではなく、琉球・アイヌなどを含んだ列島諸民族の総称とするべきである。
 古くから統一され形成されていたと考えられてきた大和族にしても、「ヨーロッパなら外国語」とも称される方言差から見ても、最終的に形成されたのは戦国以降であり、それが徳川の鎖国によって確立したものと考える。7世紀の「日本」国号国家の成立にしても、あくまで大和族の原型が都を中心に初歩的に形成されたことを示すに過ぎない。

(参考文献)

 この問題についての拙文:『日本民族の形成(2)日本民族の構成要素』(2008年1月)。
 他、橋本萬太郎編『民族の世界史5 漢民族と中国社会』(山川出版社 1983年)終章『座談会「現代の漢民族」』。  
 日本列島の古来からの多様性については、網野善彦『「日本」とは何か』(2000年)、『網野善彦著作集第十七巻』(岩波書店 2008年)所収。同論点の繰り返しかもしれないが、網野善彦『日本論の視座 列島の社会と国家』(小学館 1990年)。
 後、7世紀の「日本」成立時の多民族状況については、岡田英弘『日本史の誕生 千三百年前の外圧が日本を作った』(弓立社 1994年)
 それと、内藤湖南が『応仁の乱について』(1921年)中の「応仁の乱以前の歴史は外国の歴史と同じ」という指摘も、大きな示唆を与えてくれる。
 

5 日本語は漢語・漢文の訓読によって形成された

 日本語は比較言語学上、「系統不明の孤立語」とされ、日本文化の特殊性、自発性を示すものと考えられることが多かった。しかし、種々の状況から考えて、日本語は7世紀の日本国号国家成立と前後して、漢語・漢文の訓読作業によって形成されていったという説に賛同せざるを得ない。
 漢語・漢文を当時の大和支配層の言語(おそらく百済語と同系で、高句麗・扶余とつながるアルタイ系言語)の統辞構造に随って(動詞をひっくり返して)読み、漢語の翻訳語(訓読み)として、列島に行われていた種々の北方系、南方系言語から語彙を選び出して当てはめていく作業により、今につながる日本語は形成されていった。
 これは、日本国号国家成立時、たとえ畿内に限られるとは言え、日本国に結集した諸民族の共通語として考案されていったものであり、朝鮮語も、ほぼ同時期、同じような作業によって形成されていったものと考えられる。これによって日本語と朝鮮語が統辞構造で共通しながら、語彙の面でほとんど一致しない原因が説明されると考える。
 つまり、石川九楊などが主張するように、日本語は基本的に中国語(漢語・漢文)の影響(それに対する違和・反発も含む)によって形成されたものなのである。
 なお、日本民族は大和・琉球・アイヌの三者で形成されるという主張に従えば、国内的には「大和語」とか「共通語」とでも称されるべきかもしれない。

(参考文献)
 この問題についての拙文:『日本語の数の数え方について 「大和言葉」とはどういうものか?』(2006年)、
日本語の成立に決定的な影響を与えたのは中国語(漢語・漢文)である』(2017年12月)、ただしこれは習作。
 他、岡田英弘『日本史の誕生 千三百年前の外圧が日本を作った』(弓立社 1994年)。
   石川九楊『日本語とはどういう言語か』(中央公論新社 2006年)。


6 古代ギリシア・ローマは西アジアの派生文明である

 ヨーロッパ文明のルーツとされるギリシア文明が西アジア文明からの派生文明であることは間違いない。古代ギリシアしいてはローマも、古代西アジア世界史の一部として扱うべきである。実際、ギリシアを統一したアレキサンダー大王がペルシャ帝国征服に乗り出したこと、ローマ帝国の重点が東部分にあったことなどを考えれば、事は明白であると思う。
 ギリシア・ローマをもって「地中海文明」と称する向きもあるが、それならギリシア・ローマ文明の実質的後継者は、西アジア文明をも継承したイスラムである。地中海世界の大部分の地域のイスラム化は、実質上、古代ローマ的社会の社会変革という文脈で見るべきである。一方、ゲルマン民族に征服された西ヨーロッパで行われたのは、古代ローマ的社会の発展的変革ではなく破壊であり、西欧はいまだキリスト教の残る後進地帯となった。そこに行われたのがゲルマン土俗的キリスト教とも言うべきカトリックである。
 この時代、西洋史の表舞台はイスラム圏であり、それに東ローマが続く。西欧は「遅れた辺境」であり、西欧が「ヨーロッパ世界」としての実質を持つのは、やっと近代の入り口においてである。 しかし、歴史の弁証法と言うべきか、その「遅れ」が次の段階では優位に働いて、西欧ではいち早く資本主義が発達し、その後の世界史が展開する。しかし、この欧米の覇権も今や挑戦を受けている。

(参考文献)
 この問題については、特にまとまった文章を書いていない。長らく感じていたことをまとめただけである。



子欲居的東アジア世界TOPページへ