日本人はどこから来たか!改訂版

2017年12月22日ブログ掲載 12月31日本ページ掲載 2018年1月13日改訂版掲載



 「日本人はどこから来たか!」とは、また陳腐な表題かもしれないが、そもそも日本人というのは、元々は中国大陸に居住していた人間であり、それが日本列島に渡来して日本人になったと言っても、過言ではないのではないだろうか? このようなことを言うと、「いや、中国だけではない。南方、北方と色んな所から来たのだ」と反発する向きもあるだろうが、ここで注意を喚起しなければならないのは、中国というものの多様性である。

中国の多様性
 日本では、中国人というと漢族のことだと思っている人が多いようだが、中国では漢族だけでなく、それ以外の55の少数民族も合わせて中国人と言っている。
 そもそも、現在のように漢族が全人口の圧倒的多数を占めるという状況が昔からあったわけではないし、もっと言えば、漢族などというものが最初から存在したわけではない。太古の中国には、現在の55の少数民族(*1)よりも、更に多様な民族が居住していたのであり、中国漢字文明の誕生と共にこれらが次第に統合され、ついには春秋・戦国の大激動(中国社会の大発展)、そして秦の始皇帝による中国統一帝国の形成、続く漢王朝の統治の中で雪だるま式に統合を拡大していって、統合されたものが漢族となり、統合されなかったものが山間部や辺境に少数民族として残ったのである。いわば、現在我々が目にしているような圧倒的に巨大な漢族と多数の少数民族からなる中国といったものは、ここ2000年ほどの産物に過ぎない。
 つまり、2000年以上前には、特に春秋時代より前には、中国中心部においても、雑多な民族が居住していたのであり(*2)、実際、中国最初の王朝と言われる夏にしても、夏人は長江流域から黄河流域に進出した「南蛮」出身であり、次の商(殷)人、続く周人は「北狄」出身と言われ、秦人も元々は「西戎」出身であったという(*3)。
 (*1)拙掲『中国少数民族一覧表』を参照のこと。
 (*2)有名なところで、『春秋左氏伝』「哀公十七(前478)年」に、衛の荘公が都の「城に登って見渡すと、 戎の人の町が見えた。」(竹内照夫訳『春秋左氏伝』平凡社)とある。
 (*3)橋本萬太郎編『民族の世界史5 漢民族と中国社会』(山川出版社 1983年)所収、岡田英弘「東アジア大陸における民族」。

中国史上の民族興亡
 伝説上の黄帝と蚩尤(しゆう)の争い、夏の成立、夏商(殷)革命、さらに歴史上でも、商(殷)周革命、呉越の興亡で日本にも知られる春秋時代の争乱、続く戦国の争乱、秦始皇帝による統一、漢王朝の誕生などの激動は、決して「漢族」内部の出来事ではなく、民族間の興亡として理解されるべきである。
 これらの諸民族間の興亡の中で、敗北した民族はどうしたかというと、勝利した民族の支配下に置かれ同化されるのでなければ、周辺諸地域に逃避していき、それがまた民族移動の玉突き現象を引き起こして行った。概して文化的に劣っていた民族が敗北して逃避して行ったと思われるが、それでも、その逃げた民族の方が前から周辺地域に居住していた民族の文化より優れていたと言ったことは、いくらでもあっただろう。
 例えば、中国南方、東南アジアにかけての民族分布を見ると、中心部に巨大漢族がひかえ(この漢族にしても南北差は相当なものがあるのであるが)、そしてその南方や山間部にはチベット・ビルマ語系諸民族、タイ語系民族、ミヤオ・ヤオ語系民族、南アジア(オーストロアジア)語系民族、南島(オーストロネシア)語系民族と民族の層をなしているのであるが、これらの諸民族は元を正せば、中国中心部=黄河長江流域に居住していたのであり、中心部での闘争に「負けた」順に南方へと移動していったのではないだろうか。
 実際、これら東アジア南方系諸族の言語は、語族の違いを超えて、ある種の共通点を持つ。つまり、言語学者が「順行構造」と呼ぶもので、動詞は目的語の前に来る(VO形式)のに対し、修飾語は名詞の後に来る。(例えば、マレー語で「森の人」を意味する「オラン・ウータン」は、「オラン」が「人」で、「ウータン」は「森」の意味である)。このような統辞法(文法)の一致は、これら諸族が元々は近隣地域に居住して影響しあった結果であり、広東語などの漢族南方方言にも、このような文法構造は残っている。
 その中で最も南方に位置する結果になったオーストロネシア人は、元々は大陸に居住していたものが、台湾に移り、そこからフィリピン、インドネシア、さらに太平洋諸島、遠くハワイ、イースター島、ニュージーランド、しいてはマダガスカル島にまで拡散したのである。これも、長江流域そして黄河流域での農耕の発展、続く中国文明の誕生が周辺民族にもたらした玉突き現象の結果であろう。農耕の発生・発展と共に、農耕民族と狩猟採集民族、漁撈民族、遊牧民族間の闘争、さらには農耕民同士の闘争も当然激化するだろう。また、文明の発生は、いわば階級対立の発生と同義であり、奴隷獲得のための民族間戦争も生まれてくる。
 (参考文献)
 橋本萬太郎編『民族の世界史5 漢民族と中国社会』(山川出版社 1983年)所収、橋本萬太郎「漢字文化圏の形成」、「ことばと民族」。

中国から南北への民族の拡散
 
 主に南方に目を向けたが、北方についても、決して北方諸族が一方的に南下するだけではなかった。例えば、匈奴について言うと、『史記』「匈奴列伝」には商(殷)に滅ぼされた夏の子孫が逃げて匈奴になったと書いてあり、これは信用できないとしても、春秋時代には匈奴は中原(中国中心部)に居住していたという説(*1)もある。また、後漢になってから、匈奴は南北に分裂したが、後漢と連合した南匈奴に討たれた北匈奴は、逃亡して行方知れずとなって中華圏から姿を消したが、やがてフン族としてヨーロッパに現れて、ゲルマン民族の大移動を引き起こしたという説もある。もちろん、確かな話ではないが、北方への玉突き現象による民族移動も存在したと考えるべきだろう。
 もとより、中国文明発生以前のことであるが、1万年以上前にベーリング海峡を通って、アメリカ大陸に進出して行ったのは東アジアの住民であった。さらに、中国大陸からインドへの拡散も視野に入れるべきかもしれない。実際、稲作はインドより長江流域の方が圧倒的に古いことは分かっており、長江から四川・ビルマルート(かつての「援蒋ルート」)を経てインドに伝わった可能性は高いだろう。インド「原住」と考えられていたドラビダ人も、元はアーリア人と同じく西北方からインドに進出したのであり、その言語とアルタイ語との類似性を指摘する向き(*2)もある。
 ちなみに、南方諸族の「順行構造」に対し、アルタイ語に代表される北方諸族の言語は「逆行構造」で共通しているという。つまり、動詞は日本語と同じ「OV」形式、修飾語は目的語の前に来る。だから、日本語では「安倍総理」と行っても、「総理安倍」とは言わない。
 なお、漢語(中国語)は、動詞は南方系「順行構造」(漢文でおなじみの「VO」形式)であるのに対し、修飾語は北方系「逆行構造」で、だから中国語でも「習近平主席」と言っても「主席習近平」とは言わない。いわば、南北混合の構造であり、少なくとも書き言葉は夏王朝のそれを継承した商(殷)を北方系の周が同化した結果、このような構造が発生したという。
 (*1) 白寿彝「中国民族関係史上の幾つかの問題」、『歴史研究の理論と方法』(紅旗出版社 1983年)所収。原文中国語。白寿彝は王国維が『観堂集林』中の「鬼方・昆夷・葷粥考」で展開した考証に基づいて「匈奴の中原起源」を述べている。
 (*2) ウィキペディア「ドラヴィダ語族」。

拡散の列島への波及

 さて、本題に戻るが、日本列島がこのような民族移動の影響を受けなかったはずは決してない。
最終的に大陸から切り離されて以来、列島は周囲を海に囲まれて大陸から孤立し、その中で、列島の住民は独特の発達を遂げた、などというのは、すでにある種の論者の信仰でしかない。
 このあたりの海を通じた交流については、網野善彦などがよく書いていることで、ここで繰り返すつもりはない。実際、オーストロネシア人の太平洋拡散という事実を見れば、日本列島が縄文時代、孤立していたなどと言うことは、決してあり得ないだろう。事実、福井県鳥浜貝塚からの出土物は、稲がないだけで、中国・長江流域の遺跡の出土物とよく似ているという指摘(*1)もある。
 弥生時代になると、もはや大陸からの渡来は否定できないのであるが、有名なところで、弥生時代以降の千年間で、年間一千人としても、都合百万人が渡来した(*2)という説がある。
 また、渡来人というと朝鮮からの移民を云々する向きがあるが、そもそも日本民族と同様、朝鮮民族が問題になる(あくまで「問題になる」のであって、形成されたとまでは言っていない)のも、新羅が半島を統一して半島に居住していた諸民族を統合してからであり、それまでの半島は列島と同様、雑多な諸民族の居住地であり、その諸民族の大多数は元を正せば、中国大陸からの移民・難民、流亡者であったのである。
 朝鮮半島では、もとより伝説に過ぎないが、商(殷)が滅亡した際、殷の王族、箕子が東方に赴いて、箕子朝鮮を建国したという。なお、考古学的発見によると、当時、中国北部には箕姓の人々が住んでおり、彼らが商の滅亡の際、中国東北部、朝鮮半島へと移住した可能性が指摘されている。(*3)また、衛氏朝鮮は、その実在について疑いのない半島最初の国家であるが、中国戦国時代の燕の出身であった衛満が漢初に「一千戸を率いて」半島に逃亡して建国したものである。
 その後も、後漢末の争乱、中国の南北朝の争乱などで、中国大陸を後にした亡命者や難民は相当な数に達したことは間違いない。いわば、そのような中国各時代、各地域からの重層的な流浪者のコロニーが中国周辺諸地域に作られたのであり、日本列島にも、当然、その波は及んだのである。
原住民と行っても、元を正せば、より古い時代の中国大陸からの移住者であったろう。そう言えば、最近は「先住民」と言っても、「原住民」という語は余り聞かない。
 大陸から太平洋に拡散したオーストロネシア人、その他、かつて中国中心部に居住していた南方系諸族、特に稲作との関連で長江流域と列島との関連が指摘されるが、長江流域に居住していた呉越の民族(おそらく南方系諸族であろう)の渡来も十分考えられる。
 そもそも、日本文化の中に存在するという南方系・北方系要素というのは、もとは中国大陸中心部に存在した雑多な要素が周囲に拡散していったものが、海を越えて東方に渡来したものではないのか。先にも書いたように、中国中心部がそもそも「東夷・南蛮・西戎・北狄」といった多民族の居住地であったのである。
 いわば、古代の日本列島というのは、各時代、各地域に渡来した中国の南方系・北方系諸族、さらには各時代、各地域から渡来した漢族が雑居する地帯だったのである。なお、漢族と言っても、一様ではなく、地域ごとの方言差は非常なものがあるし、時代が違えば、言語風俗も「外人」のように違う。例えば、椅子を使わないで床に座るのは、中国では漢代以前の風であり、日本人の伝統生活を見た中国人は「古代の中国を見ているよう」と感じたりするそうである。
 倭人というのも、原住民と言うより、渡来人より前に列島に渡来した言わば「先住民」であり、おそらく言語的にもかなり雑多な要素が含まれていたことであろう。
 そのような雑多な中国大陸からの渡来民が、やがて統合されて日本人となっていくわけであるが、その統合に際して、豆腐を凝固させる「にがり」のような働きをしたのが、日本だけでなく朝鮮や越南のようなアジア諸国の場合、中国漢字文明であったのである。
 (*1) 多分、安田喜憲の指摘であったと思うが、何で読んだのか忘れたので、以下のページをリンクしておく。「長江文明の伝播と水田稲作を拒否した縄文人」。
 (*2) 人類学者・埴原和郎の説で、多分、梅原猛との共著『アイヌは原日本人か』(小学館 1982年)で読んだと思う。有名な説で、特に引用先を明記する必要はないかもしれないが、現代では「100万人は過大」だとする説が有力らしい。
 (*3) ウィキペディア「箕子朝鮮

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