日本民族の形成(2) 日本民族の構成要素

2018年1月14日 本ページ掲載 


 前回の文章(『日本民族の形成(1)筆者の問題意識』)において、「日本民族」と言いながら、結局、大和民族にしか言及せず、残るアイヌ族、琉球族について言及しなかった。もっとも、後二者については「違い」は明白であり、歴史上に現れたのも比較的はっきりしている。その点、昔から単一民族として存在しているように思われている大和民族の形成過程こそ、むしろ問題だとも思うのだが、やはりこの問題について言及しておく必要があるだろう。


日本民族=大和族ではない!

 まず、日本が多民族国家であると言うことは当然の前提であり、将来的に日本籍取得の韓国朝鮮人、中国人などのことも考えていかねばならないのだが、特に前者の場合、「各種の歴史的経緯」の一言では済まされない重い問題を抱えており、ここでは触れないで置く。日本社会が本当に過去の経緯を反省して彼らに接することがない以上、彼らの大多数は日本国籍を選択することはないだろうと思われる。
 少なくとも、近代以前に日本列島(というか現在の日本国の境域)に居住していたのは、大和・琉球・アイヌの三者である。なお、「大和族」という名称については、戦前の記憶から反感を持つ人も多いだろうが、それなら「大」を取って、「和族」もしくは「和人」とすればいいのではないか。たとえ「大和」=「日本」と考えられた時代が長いとしても、少なくとも日本という国号を変えない限り、やはり「日本民族」を上位概念とし、その下に対等のものとして大和族・琉球族・アイヌ族を置くべきである。
 筆者は、戴國輝の「上位概念としての日本民族は、大和民族の上にある。対等の概念としてアイヌ民族と大和民族があって、その上ではじめて日本民族が成立するのだと。そういう発想でないと」、アイヌを大事にしていることにはならない。(*1)という主張に全く同意するものである。
 この点、網野善彦などは、
 琉球王国が本州・四国・九州をほとんど「日本」と呼ばずに「ヤマト」といい、(中略)アイヌにたいして本州・四国・九州人を「和人」と呼ぶようになっているのも、「日本」と「大和」との不可分の関係をよく物語っている (*2)
と主張するのだが、筆者は上の指摘(直線部)から、むしろ大和(和)・琉球・アイヌで日本民族を構成させることは、十分合理性のあることであり、絶対に必要なことだと考える。
 しかるに、なぜ網野が斜体部のような結論に至るのか理解できない。これは、結局、網野が日本を単一民族国家とする考え方から脱却できていないからではないのか。もっとも、網野の場合、「日本」という国号を将来的に「われわれ国民の総意で変えることができる」(*3)とも発言しているので、かつて「大和」と同義で使われた「日本」という名称は、多民族国家の国号としてふさわしくないと考えているのかもしれない。
 いささか余談になるが、網野は同じ箇所で「中国大陸側に視点を置いた」日本という国号を「大嫌い」と述べた江戸末期の「国家神道家」について紹介しているが、もとより前(*4)にも述べた通り、列島を「日本」(日の本=太陽の下≡東方)と見る視点は、おそらく列島に渡来した中国人の発想であり、中国文明の波及によって徐々に独自性が出来上がっていった日本という国の有り様を端的に物語るものであり、筆者は大好きである。


アイヌ人は日本人ではないのか!

 いささか脱線したかもしれないが、やはり日本国で最大多数を占める民族の名称については、これくらいの議論が必要なのだろう。
 もっとも、大和族のみを日本民族(日本人)と見る見方は依然として根強く、むしろこっちの方が「日本人の常識」といった感がある。有名なところで、天下の岩波文庫がアイヌ民族の叙事詩である『ユーカラ』を「赤」(外国文学)に分類しているし、上の戴國輝の発言も、「アイヌ民族を日本民族の中に入れない」日本人アイヌ研究者に対して行われたものであり、戴國輝はその研究者に対し、「いま先生の話をいくら聞いても、先生がアイヌを研究し、アイヌをだいじにしているというのは、僕はちょっと疑問をもつ」(*4)とまで発言している。これに対し、言語学者・橋本萬太郎は戴國輝の発言に賛同して、このような「日本人の常識」は「世界の常識からいったら、ずいぶんとおかしな考え方」(*5)と述べている。
 なお、戴國輝は台湾出身であるが、彼のような考え方は、台湾にしろ大陸にしろ、中国では一般的なようであり、事実、中国では漢族だけでなく55の少数民族をひっくるめて、「中華民族」(中国人)と称している。それに対し、「少数民族は中国国民であっても、中国人ではない」(同様、アイヌは日本国民であっても日本民族ではない)と考える向きが多いようだが、筆者はいつまでも、そのような考えた方では行けないと思う。
 ※なお、戴國輝の批判を受けたアイヌ研究家「北大アイヌ研究室」の「児玉先生」は、「アイヌ人骨収集問題」で批判を受けた児玉作左衛門(*6)のことであろう。


琉球は大和ではない!

 新年早々、お笑い芸人・ウーマン村本が、沖縄について「もともと中国から取ったんでしょ」と発言したとかいうことで、「小学生以下の知識」とか色々とたたかれているらしい。ちなみに、本人自身は、「(琉球王国が)明と冊封関係を結んでおり、これは琉球が明の従属国となることをいいます」とのネット記事を「拡大解釈」したものと「反省のツィート」をしている。
 しかし、ウーマン村本が引用したように、沖縄は明治になるまで、琉球王国として中国王朝と冊封関係を結ぶ独立国だったのである。その独立国だった琉球王国を、当事者の意志に関係なく、「琉球藩」を経て「沖縄県」として、日本に併合してしまった(「琉球処分」)ことを、むしろたたいている当の人間たちが、どれほど知っているのだろうか。
 アイヌが「日本人」から排除されるのに対し、「日本人」との同一性が強調されるのが、琉球民族である。前述の戴國輝は、「日本人のほとんどが革新系をふくめて、沖縄復帰でなぜ琉球民族を大和民族の一分支と位置づけ、両者の類似性ばかり強調して、強引に大和民族に帰一させたがるのか、僕にはわからなかった」、「ああいう強引な大和民族国家論というものにたいして、疑念がつきなかった」と述べている。念のために補足すれば、戴國輝は「僕は中国人として沖縄がかつて、(日本・中国への)両属関係をもったということで、強引に琉球というのは、中華帝国の一部であると主張し、琉球独立論を唱えるつもりは全然ない。」とも述べており、「琉球民族は民族として存在し、また琉球王国も歴史的に存在したのは史実でしょう。それをふまえて日本民族、日本国家の統合を主張しても、べつにおかしくない」と述べている(*6)。
 筆者も基本的に同意見であり、上にも述べたように日本民族は大和・琉球・アイヌの三者で構成されると考える。
 沖縄人は、たとえ「聞いていて分からない」と言っても「日本語の方言」を話す日本人だと言う向きもある(「日琉同祖」)一方、琉球語は「日本語と同系(同語族)であるが別言語である」(*7) と考える向きもある。しかし、その言語が「方言」か「外国語」であるかを決めるのは、当事者の意識の問題なのである。中国語の方言のように、聞いていても全く分からない言語どうしでも、同じ中国語と意識される場合もあれば、聞いていて十分、意志を疎通し合える関係の言語同士であっても、別言語とされている例は世界的にはいくらでもある。
 琉球語を単なる大和語の一支と見る考え方は慎むべきであろう。琉球民族は形成に当たって、確かに平仮名に代表される大和文化の影響を受けたのであるが、それと共に深く中国文化の影響を受け、大和とはまた違った文化的統一体が形成されたのであり、やはり中国文明との関連において、大和と対等の存在と考えるべきだろう。共に中国文明の伝播によって、一定地域の種々の要素が凝集されて、国家・民族・文化の形成を見たのである。

 はっきり言って、日本政府筋などは琉球人が大和とは違った文化的伝統を持った人々であることを重々承知の上、「同じ日本人だ」と言い繕って、基地負担を押しつけるという実質差別を行っているのではないのか。少なくとも、あのような基地負担は、本土とは違った歴史的文化的背景のある沖縄にしか押しつけられないことである。一昨年の本土警官による「シナ人」「土人」発言を見るに付け、実は政府筋の人間は、琉球人を「中国の少数民族」としか見ていないのではないかと思ったりする。
 そもそも、明治初年の日清の力関係、戦後のアメリカの動向(*8)によっては、沖縄が今頃、中国・琉球民族自治区になっていても、おかしくないのである。こんなことを言えば、あれこれ言う人が出てきそうだが、少なくとも、日本に付くか、中国に付くか、独立するかの決定権は琉球人が持っているのである。だいたい、米軍や自衛隊の基地などを撤去して、観光施設などを作って中国人観光客などを誘致した方が、補助金に頼るより、沖縄の経済は発展するのではないだろうか。
 それにしても、昨今の米軍基地問題と、それに対する日本政府の対応を見るに付け、沖縄の人々の間に「本土の人間(ヤマトンチュ)」とは違ったアイデンティティを求める声が出てくるのは必定のように思えるし、こうなっても沖縄の人々を日本に引き留めるためには、彼らを大和族とは違った文化的伝統を持った存在として(大和族とは対等の一つの民族として)承認し、その地位を保障していくほかはない。
 そして、「地位保障」の実質的な内容は、沖縄の基地問題の解決=実質、日本からの大部分の在日米軍基地の撤去しかないと思う。(トランプさんの望むところかもしれないが。沖縄の海兵隊など、日本政府が引き留めなかったら、遠からずアメリカの都合で出て行くのではなかろうか。)
 岩波文庫の問題で言えば、『おもろさうし』のような琉球の古典を『ユーカラ』とは違い、「黄」(日本古典文学)に分類している。よろしく、『ユーカラ』も、「黄」に分類するか、共に日本少数民族文学として、新しい色の分類を作るべきである。
 以上、政論のようになってしまったが、事の問題上、一定やむを得ないと思う。

(*1) (*5) 橋本萬太郎編『民族の世界史5 漢民族と中国社会』(山川出版社 1983年)終章、座談会「現代の漢民族」より。
(*2) 網野善彦『東国と西国、華北と華南』(1992年)、『網野善彦著作集第十五巻』(岩波書店 2007年)所収。なお、網野は同書において、上の戴國輝の発言を批判的に紹介している。
(*3) 網野善彦『「日本」とは何か』(2000年)、『網野善彦著作集第十七巻』(岩波書店 2008年)所収。
(*4) 拙文『日本国号は中国起源という問題に関連して
(*6) ウィキペディア『児玉作左衛門
(*7) 筆者は、これを「日本語族」ではなく、「大和・琉球語族」と呼ぶべきだと思う。
 なお、言語学者・橋本萬太郎は「言語の方からみたら——とくに発音の組織の面に限っていうと、沖縄のことばは、日本語じゃありませんね。日本全国の方言をみてみると、あそこだけしかないものが、あるわけです。しかも、その特徴は全部、大陸の、なかでも沖縄と相むかいになった長江(揚子江)下流域の言語だけと共有しているわけなんですよ。」(橋本萬太郎編『民族の世界史5 漢民族と中国社会』山川出版社 1983年終章『座談会「現代の漢民族」』)と述べている。
 琉球語、しいては琉球民族の形成について、有益な示唆を与える指摘であると考える。
(*8) 筆者の友人の中華人民共和国出身者は、「アメリカが沖縄を日本に返還したのは、中国で共産党が蔣介石に勝ったからであり、もし蔣介石が勝っていたら、中国に返しただろう。」という見方を披露したことがある。なお、その友人は別に中国による沖縄の領有を主張しているわけではない。

子欲居的東アジア世界TOPページへ