日本国号は中国起源という問題に関連して

2018年1月2日掲載 1月13日若干改訂



 先日の文章(『日本形成における中国文明の働き』)で、「日本」という名称は、中国伝来もしくは西方から列島に渡来した中国人の考え出したものではないかと書いた。そもそも、日本列島を「日の本」(太陽の下=東方)と認識するのは、西方大陸の中国人であり、列島から見れば、「日の本」は太平洋であり、根っからの列島先住民なら、このような認識は持たないだろう。
 これはむろん、筆者の独創ではなく、若い頃にこのような考え方に接したことが、私の本格的な歴史研究のきっかけとなっていることは否定できない。正直言うと、今までこのような考え方に100%の確信を持っていたわけではないが、最近、岡田英弘の著作を読んで、筆者は西方から列島に渡来した中国人(それも漢族)の発想と確信するに至ったのである。もちろん、岡田がこのような考えを述べているわけではないが、彼の関連著作には繰り返し、古代、日本列島には多数の「華僑」(中国人)が渡来したこと、彼らが日本語始め日本文化を形成したこと。そして、日本国号国家、「日本民族というアイデンティティ」(当時においては、あくまでアイデンティティであり、実体ではないが)の実質的形成者であることが述べられている。
 ところで、「日本」が「日の本」(東方)ならば、「朝鮮」は「朝が鮮やか」であり、これも東方の意味である。「朝鮮」もまた、「日本」と同じく、半島先住民の発想ではなく、西方大陸から渡来した中国人の発想であろう。古代朝鮮半島についても、おそらく日本列島と同じ様な状況があったのであり、これについては、拙文(『日本人はどこから来たか?』)を参照していただきたい。
 さて、拙文に対し、古くからのネット上の知友である劉公嗣氏からいただいたコメントによると、「平安時代の『日本書紀』の講読では、日本は中国(唐)からの他称との説が主流だった」そうであるが、そう言えば、網野善彦が次のようなことを書いていた。
 この国号については、平安時代から疑問が発せられており、承平六(九三六)年の『日本書紀』の講義(『日本書紀私記』)において、参議紀淑光が「倭国」を「日本」といった理由を質問したのに対し、講師は『隋書』東夷伝の「日出づる処の天子」を引いて、日の出るところの意と「日本」の説明をしたところ、淑光はふたたび質問し、たしかに「倭国」は大唐の東にあり、日の出る方角にあるが、この国にいて見ると、太陽は国の中からは出ないではないか。それなのになぜ「日出づる国」というのかと尋ねている。これに対し、講師は、唐から見て日の出る東の方角だから「日本」というのだと答えている(中略)
 延喜四(九〇四)年の講義のさいにも、「いま日本といっているのは、唐朝が名付けたのか、わが国が自ら称したのか」という質問が出たのに対し、その時の講師は「唐から名づけたのだ」と明言している(『釈日本紀』)。実際『史記正義』という大陸側の書には、則天武后が「倭国を改めて日本国」としたとあり、そうした見方も早くからあったのである。(*1)
 もとより、網野が言うまでもなく則天武后云々は誤りであるにしても、「日本」国号は「唐人より呼候(よびそうろう)」ものであること(「中国大陸側に視点を置いている」こと)は否定できないであろう。
 ただ、筆者のあくまでつたない漢文知識から言っていることであるが、「日本」とか「朝鮮」と言うのは,何か漢文としては変則的なような気がするのであるが、この辺については専門家のご教示をいただきたいところである。ただ、変則的だとしても、これは「和臭」(日本人の漢文の癖)とか言ったものではなく、渡来漢人の多様性(地方性、その他あらゆる意味での)によるものだと筆者は考えている。どうも、「和臭」も含めて、「和」というものは「漢」が作ったのではないかと考える昨今である。

 (*1)網野善彦『「日本」とは何か』 『網野善彦著作集第十七巻「日本」論』(岩波書店 2008年5月23日)P117〜118。もとより、『日本の歴史00巻「日本」とは何か』(講談社 2000年10月)初出の文。

2017年12月30日初稿


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