「日本」形成における中国文明の働き

2017年12月29日ブログ掲載 2018年1月1日本ページ掲載



 中国文明の日本への影響について言及した時、少なからぬ人が、日本の文化的要素は「色々な所」から来たのだと反論する。筆者は、中国大陸の色々な要素が伝わった言うべきではないかと考えるわけだが、ここで忘れてならないのは、中国漢字文明の役割である。
 そもそも、ある一定地域の住民が、例えば中国、日本、朝鮮、越南とか言った規模で、国家なり民族なりの統合を実現するためには、文明というものが必要である。文明とは、言うなればそれを誕生させるに足るだけの生産力であるが、その中でも文字は必要不可欠の要素であり、一般に文字の発生をもって文明発生の標示とする。この文明が、内藤湖南流に言えば「にがり」の役割を果たして、これら国家・民族が統合・形成されるわけである。
 たとえ、列島に様々な要素が渡来したとしても、それだけでは「日本」などといったものは形成されない。そもそも、縄文期の日本列島が周辺から孤立していたというのは、前にも述べたように一種の「現代の神話」(信仰)に過ぎないが、たとえ周囲を海に囲まれて孤立した環境があったとしても、そのような状況は民族の統合を妨げるだけだろう。
 実際、大陸から離れ基本的に孤立していた環境と言えば、まず思い浮かべられるのはパプア・ニューギニアであるが、ここでは人々は数十、数百人程度の少人数の部族に分かれて生活し、それぞれの部族ごとに言語、習慣、伝統が異なっており、人口600万人に対して、言語の数は800以上にもなり、そのうち130の言語の話者が200人以下であり、290の言語の話者が1000人以下であるという。
 なお、パプア・ニューギニアでは言語の84%は「パプア諸語」と呼ばれるが、これは非オーストロネシア系の「先住言語」を「その他多数」と一くくりにしただけの話で、「パプア諸語」間の単語や文法など、相互関連性は皆無に近いという。(ウィキペディア「パプア・ニューギニア」)文明の洗礼を受けた現代においても、なおこの数字である。そもそも、原始時代においては、人々は上のような小規模単位で生活していたのであり、縄文期の列島の人口は最盛期で26万人というから、もし一つの部族の人口を単純化して500人とすれば、実に500ぐらいの部族(言語)が存在していた頃になる。
 もし列島が大陸から孤立していたとしたら、このようなニューギニア的状況が現出していたのであり、そこには日本民族なり国家なりの統合は存在しようもなかったであろう。様々な要素が伝播しただけでは、日本のようなものは形成されない。繰り返すが、そのような統合を実現したのは中国文明の伝播であったのである。
 思うに、中国周辺で日本、朝鮮、越南が現在独立し、一定規模の民族と国家を形成しているのも、中国からの距離という相対的「孤立」性と共に、中国文明が伝わらない絶域ではないという相対的「開放」性の結果であろう。むしろ、日本だけでなく朝鮮、越南も海を通じて中国と密接に結びついていたのであり、そのような海を通じた開放性が、かえって中国奥地の少数民族地域より、中国文明の伝播に有利であり、その結果、かえって国家・民族の独立が促されたのではないだろうか。
 最後に、指摘しておくが「日本」という名称自体、漢語つまり中国渡来であり、「ひのもと」という訓読みも、列島に存在していたわけはなく、「日本」を訓読(翻訳)した結果、生まれたものであろう。そもそも、列島を「日の本」(太陽の下=東方)と認識するのは、西方大陸の中国人であり、列島から見れば、「日の本」は太平洋である。これは決して列島で生まれたものではなく、列島で生まれたのだとしても、これは渡来した西方中国人の認識であろう。

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