日本民族の形成(1) 筆者の問題意識

2018年1月8日 本ページ並びにブログ掲載


 「網野史学」で名高い網野善彦の著作を色々と読んできて、色々と教えられることは多かったのだが、もう一つしっくりしないところがある。このように思っていたのは、別に筆者だけではなかったようで、古い毎日新聞の切り抜きの中の「日本は単一民族国家で統一国家が古くからあるという通説を壊そうとしている。一応は分かるのだけれど、壊した後のイメージがはっきりしません。壊すことに目的があるのでしょうか」という一節(*1)に、ラインマーカーを引いていたのを最近、見つけ出した。そう、従来のイメージは壊されたのだけれど、網野の著作を読んでいても、も一つ先の日本史像が見えてこないのである。

 確かに、「通説」を壊した網野善彦の功績は大きい。しかし、ここで考えねばならないのは、「日本は単一民族国家で統一国家が古くからある」という従来の通説は、戦前から継続していたものであり、しいては『日本書紀』の枠組みではなかったのか、と言うことである。戦後、確かに『書紀』の史実性は否定され、「神武紀元」などは否定された。しかし、我々の日本史像は今なお『書紀』に呪縛されている。(史学界はいざ知らず、網野の観点はまだ現代の日本に一般的ではないと思う)。
 そもそも、「単一民族国家で統一国家でなくても文化的統一性が古くからある」という主張は、(外国の影響を受けない)日本の独自性、固有性、しいては特殊性の主張であると言える。白村江の敗戦で列島への逼塞を余儀なくされた時、当時の大和支配者は列島の諸民族を結集して「日本」国を作ろうとし、更には最初の歴史書『日本書紀』によって、大陸から切り離された列島の「独自性、固有性」を主張した。明治政府は、言わば古代「日本」国への「復古」を目指したのだが、「天皇絶対」を標榜し、欧米列強に対抗して中国・朝鮮などを侵略しようとしていた当時の日本にとっては、この「独自性」の主張はそのアイデンティティとして必要不可欠のものであった。そして、戦後もこの状況は根本的に反省されず、踏襲されている。
 思うに、「左翼思想の影響が強い」と言われた戦後歴史学も、戦前の皇国史観も、ただ「天皇」に対する立場が違うだけで、基本的には同じような歴史認識の下に、それぞれ違う面から、歴史を叙述していただけではないのか?
 実際、「戦後の日本も、戦前の日本と同様、国家のアイデンティティを確立しようと思えば、日本文化の特殊性、固有性を言い立てるしか方法はなかった」、「だから戦後歴史学は根本的に皇国史観を超えることはできなかった」「戦後歴史学は、戦前期歴史学と、実は連続している」という小路田泰直の指摘がある。そして、戦後歴史学は津田左右吉を「媒介に戦前期歴史学と連続し、その伝統を受け継いだ」(*2) と小路田は言う。
 戦前、『古事記』『日本書紀』に関する研究をめぐって弾圧を受けたことから、戦後、「進歩的」なイメージの強い津田左右吉であるが、次のような彼の発言に、例の『国民の歴史』の西尾幹二と共通するものを見いだすのは筆者だけだろうか。
 日本の文化は日本の民族生活の独自なる歴史的展開によって独自にかたちづくられて来たものであり、随って支那の文化とは全くちがったものであるということ、日本と支那とは別々の歴史をもち別々の文化をもっている別々の世界であって、文化的にはこの二つを含むものとしての一つの東洋という世界はなりたっていず、一つの東洋文化というものはないということ(津田左右吉『シナ思想と日本』まえがき)
 『国民の歴史』を少し読んだ人なら、「日本の文化は東洋と西洋との二大文化が対立するそのなかの、東洋文化の一翼では必ずしもない。西洋の文化ばかりではなく、東洋の文化に対しても対立的なものを孕んでいる。」(*3)という記述を記憶されていると思う。
 言わば、日本文化の特殊性、独自性(特に中国らからの)を主張している点では、津田左右吉も西尾幹二も、基本的に同じスタンツに立っていると言っていいのである。
 『国民の歴史』現象も既に過去のものとなった(と思う)が、確かに津田と同様、「中国文化と日本文化の絶対的非和解性への確信」は「やはりほとんど人々の常識に訴える力を持たなかったから」(*4)であろうが、それにしても既存歴史学界からの同書に対する批判は必ずしも活発ではなかったように記憶している。
 その要因は、上の小路田の指摘通り、(左翼史観の影響が強いと言われる)戦後歴史学界にしても、結局、西尾幹二などの一派と津田左右吉的なものを媒介として連続しており、結果、日本史全体像の事実認識において、言うほどの差がなかったからではなかろうか?(むしろ、「網野史学」の出現などに見られる戦後史学の変化が、西尾をして『国民の歴史』執筆に至らしめた大きな動機の一つだったのかもしれない。)
 確かに、現代の日本では、津田・西尾のように全面的に中国文化の影響を否定することはないが、それでもそれ以前に固有の日本文化が存在していたというような見方が一般的であり、日本文化のは中国文化の影響によって徐々に形成されていったとするような内藤湖南的な見方は、少なくとも既存学界にはほとんど見かけない。
 先にも書いたように「神代」の存在は否定されたものの、それに代わって「縄文」の存在が強調され、その1万年にも及ぶ歴史の中で、日本文化の固有性・独自性は形成され、中国文化の影響を受けるようになっても、日本の独自性は失われなかったという見方が一般的なように思える。
 いくら時間をさかのぼってみても、外来文化に影響されない日本固有の文化の存在など発見できないとすれば、その存在を証明する方法は一つしかなくなる。それは、歴史以前的な「絶対的過去」を歴史のはじめに想定し、その「絶対的過去」に、日本固有文化の形成期を見つけ出すという方法である。(*5)
 この「絶対的過去」が、「神代」から「縄文」に代わっただけで、中国文化の影響を受ける前の日本文化の固有性を主張する点では、戦後史学も依然、『書紀』を踏襲していると言うほかはない。

 網野善彦の功績は、「孤立した島国・日本」という、言わば「現代の神話」を打破したことであり、さらに、彼は日本の歴史を通じて連続した「海を通じての周辺諸地域との交流」や、その結果形成された「列島各地の多様性」について繰り返し言及し、従来の日本史像を破壊する上で非常に大きな功績を残しており、その点は否定できない。
 しかし、最初にも述べたとおり、読んでいて「なるほど」とは思うのだが、どうもしっくり来ない。「一応は分かるのだけれど、壊した後のイメージがはっきりし」ないのである。この原因を筆者なりに考えてみると、次の通りである。
(1)「日本」なるものは、もとより最初から存在していたわけではないが、少なくとも現時点では「日本」は確固として存在しており、列島統一国家を形成し、東西の文化差をはらみながらも、文化的均質性を保有している。網野の場合、従来のイメージを壊すことに執心する余り、そのような「日本」の最初からの存在を否定するだけで、それがどのように形成されて行ったかについての追究が弱い。
(2)思うに、「日本」なるものが形成された要因として、中国文明の影響は最大必要不可欠なものであるのだが、網野はそれを諸地域との海を通じた交流として相対化しているために、中国文明が「にがり」として、列島の多様な要素が凝固されていき、「日本」なるものが徐々に形成されていったという過程を追究できないでいる。

 浅学の身を顧みず、以上のように網野の問題点を考えてみたのだが、いささか拙速の感がないわけでもない。今後も、この文章は機会を見て補足することになると思うが、以後、筆者なりに日本文化の形成過程、言わば日本民族・国家の形成過程の大まかなアウトラインを描いて行きたい。
 筆者は、現代の日本文化に独自性がないとは思わない。しかし、それは中国文明の影響によって徐々に形成されていったものであるという、内藤湖南の主張に基本的に同意するものである。アウトラインも、そういう観点で描いていきたいと思うのだが、所詮は浅学の素人、この問題意識以上の分量にはならないだろう。
 ただ最後に指摘しておきたいことは、「日本」形成における中国文明の「にがり」的要素という事実を閑却している限り、いくら「マルクス主義的手法の応用」を主張してみても、その歴史記述は、戦前の皇国史観と大して変わるものとはならないということである。その点をはっきりさせたのが『国民の歴史』であったのかもしれない。マルクス主義の基本が「実事求是」である以上、「日本」形成における中国文明の「にがり」的要素という事実を閑却していてはならないのである。

(*1)毎日新聞2005年10月18日『「網野史学」が残したもの 上』の尾藤正英・東京大名誉教授(日本近世史)の発言。
(*2)小路田泰直『「邪馬台国」と日本人』(平凡社新書 2001年1月22日)
(*3)西尾幹二『国民の歴史』(産経新聞社 1999年11月30日)
(*4)小路田前掲書。
(*5)小路田前掲書。


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