中国文化が日本文化を誕生させた


1 日本の伝統や文化の大部分は中国に起源している
 そもそも、近代以前の日本の伝統や文化と言えるもので、日本独自と言えるものがどれだけあるだろうか。ほとんど無いと言っていい。「これぞ日本の伝統・文化だ」と欧米に紹介されたりするようなものの源流を探れば、その大部分が中国に起源している。
 こういうことを考えると、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」などと、日本の「伝統と文化」が狭い「我が国と郷土」だけではぐくまれてきたような書き方をしている、今度の「改正」教育基本法のいわゆる「愛国心」条項は、思い上がりも甚だしいものと言う他はない。
 もし、「我が国」の「伝統と文化を尊重」するというのならば、文化の起源地たる中国、そしてその中国文化の「我が国」への伝播に多大な役割を果たした朝鮮・韓国などのアジア隣国をまず愛さなければならず、そうしてこそ、初めて「伝統と文化を尊重」する姿勢も養え、「我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」という後半の文句も生きて来るというものである。
 外に中国や韓国、朝鮮と友好関係を結べず、内に在日韓国朝鮮人、中国人などに対する差別をなくせなくて、どうして我が国の文化や伝統が尊重できよう。

2 「日本」なるものが最初からあったわけではなく、「日本」は中国文化によって形成されたものである
 もっとも、このようなことを言うと、次のような反論が返ってくるかもしれない。
  「確かに、日本は中国文化の影響は受けたが、それを取捨選択し、独自の伝統と文化を主体的に創り上げたのは『我が国』である」と。
 しかし、これも思い上がりの一つであることを、この際、指摘しておかねばならない。「我が国」、つまり日本などというものは、決して最初から存在したわけではない。
 我々が、「日本」という時、まず思うのは「日本列島」と称される主要四島を中心とした島嶼群であろう。
 しかし、この「日本列島」などと称されるものが、別になんらの自然地理概念ではなく、政治概念であることを、この際指摘しておく必要がある。もし、これが自然地理概念であるならば、なぜサハリン(樺太)島は「日本列島」の内に入らないのか? 同じく、なぜ琉球諸島が日本列島の中に含まれるのか? これらは、ひとえに明治初年の日ロ、日清間の力関係の結果に過ぎない。
 下手をすれば、北海道でさえ、日本列島の中に数えることが出来なかったかもしれないし、現に明治になるまで、琉球王国は独立国であった。歴史の経緯によっては、現在、沖縄は琉球国として独立していたかもしれないし、中国の琉球民族自治区になっていたかもしれないのである。
 このように、「我が国と郷土」というもの自体、近隣アジア諸国との関係において、非常に相対的なものであることを、この際、指摘しておかなければならないだろう。
 それでもまあ、北海道、本州、四国、九州の四島並びに付属の島嶼が、現在「日本」として、政治的、文化的に一体化されていることは間違いない。しかし、そのような「日本」は決して最初から存在していたわけではないし、決して列島に独自に誕生したものでもないのである。
 言うならば、2000年にも及ぶ中国文化の影響によって、政治的文化的実態としての「日本」が次第に凝集され、形を成していき、現在の領域をまとめ上げるに至ったのである。
 忘れてはならないのは、最初から「日本」なるものが存在していて、それがたまたま近隣にあった中国文化を取り入れて発展していったのではない。中国文化の流入によって、列島の諸要素が凝集されて、次第に「日本」と呼べる政治的・文化的実態が形成されていき、一定段階になって初めて、中国文化を取捨選択できるような主体的な、言わば中国文化と対等の日本文化が作り上げられたということである。
 言わば、中国文化無くして、日本などというものは存在しなかったのである。

3 かつては中国も、朝鮮も、日本もない時代があった
 そもそも、原始、人類は氏族制であり、多くても2~3千人以上の集団を形成することはなかった。例えば、現在でも石器時代が残るというニューギニア島では、人口300万の島に一千を数える言語が存在しているという。
 一説には、縄文全盛期の列島の人口は約20万と言うから、列島には数十から百ぐらいの言語が存在していたと考えておかしくない。
 人々は、現在の55の中国少数民族を連想させるような多様で小規模な集団を作って生活していたのだろう。縄文時代のような原始時代から、列島の住民が何らかの一体性を持っていたなどと考えるのは全く馬鹿げたこととしか言いようがない。
 現在、北海道から沖縄までに分布していたという縄文文化も、ミクロ的に見れば、地域差の非常に大きい多種多様な文化群といえないこともないし、むしろ、マクロ的に見れば、「日本列島」を越えて、東北アジア全域に広がる大きな文化の一環ではなかったのかと思われるのである。
 この辺りのことは、「網野史学」で名高い網野善彦氏が何度も言われてきたことであり、本来、筆者ごときが出る幕ではないが、氏も言われるように、海はあっても、決して越えられないような海ではなく、むしろ海を通じた大陸との交流は盛んであっただろう。
 というか、海路より陸路の交通の方が何かと困難を極めた時代である。海を越えての人々の往来交流を妨げる国家権力も存在しない。実際、「日本列島」といっても、九州と東日本より、むしろ一衣帯水の九州と朝鮮半島との方が、交通も簡単であり、人の交流も盛んではなかったのだろうか。このようなことは、九州のみならず、西日本全体に言えることであり、西日本と朝鮮半島、しいては中国沿海部との関係の方が、西日本と東日本との関係より密接であるような時代は、かなり長期にわたって続いたのではないだろうか。同じことは、東日本にも言え、西日本とよりも、北海道、サハリンを通じた沿海州などの大陸部との関係の方が密接であったことが想定できるのである。
 まとめるならば、いまだ(文化や国家としての)中国も朝鮮も日本もない時代があったのであり、人々は大規模な集団を作ることもなく、自由に交流、往来し、列島・大陸を問わず移動を繰り返していたのである。

4 まず中国文明が誕生し、拡大した
 しかし、歴史はそこで止まっていたわけではない。中国大陸では、黄河・長江流域で農耕が始まった。当初、これは別に彼の地の先進性を意味するものでもなく、むしろ彼の地の自然条件の悪さが人々を農耕に走らせたものらしい。一方、列島などは、自然条件がよく、海の幸、山の幸が豊かであり、特に農耕などに頼る必要がなかったものと考えられる。
 だが、農耕の発展はやがて余剰生産物を生み、農耕民族の人口の増大をもたらし、文明を誕生させた。昔は「世界四大文明」と言って、黄河文明しか数えなかったが、どうも最近発見されつつある長江文明の方が古いらしい。しかし、これらは基本的に黄河長江文明と言っていいと思う。
 もっとも、この発生したばかりの文明はまだ「点と線」に過ぎず、東アジア世界に過大な変化をもたらすことはなかった。中国中心部においても、「文明」諸族は点在しているだけで、各都市国家とその周辺を支配しているに過ぎず、都市国家間の広大な森林、草沢には、現在の少数民族を思わせるような狩猟採集民が多数居住していた。後の匈奴でさえ、春秋時代には中原に居住していたという説がある。
 後に「三代」と呼ばれる「夏・商(殷)・周」などの王朝にしても、単にこれらの都市国家群の盟主たるに過ぎず、決して秦漢以降のような統一国家と言えるようなものではなかった。
 その点では、春秋以前の中国もまた、我々が現在イメージするような中国とはほど遠かったことを指摘しておかねばならない。漢民族と呼べるような巨大民族はいまだ存在せず、人々は基本的に氏族単位で生活していたのである。
 しかし、西周末、春秋時代から始まる中国文明の更なる発展は、今まで「点と線」に過ぎなかった文明を「面」に拡大した。主に、鉄器と牛耕の普及による農業生産力の飛躍的発展が社会変革をもたらした。「斉」や「晋」のような伝統的な各都市国家では、次々と「革命」的政変が起こり、今までの「点」的な都市国家は、「面」的な領域国家へと変貌していった。いわゆる「戦国七雄」(斉・楚・秦・燕・韓・魏・趙)と呼ばれる諸国である。
 これら諸国の人口は爆発的に増大し、耕地も爆発的に増大したが、それとともに今まで都市国家間の広大な森林、草沢で活動していた少数民族たちは、文明諸族に同化融合されるか、四方に逃げるしかなかった。北方へ、南方へ、西方へ、東方へ。このような民族の移動は、更に移動した先で、「玉突き」現象を起こし、更なる民族の移動を生んだことは間違いない。
 やがて、中国の戦国時代は、始皇帝の秦の強大化によって終わりを告げ、中国は統一される。歴史上、例を見ない大帝国の出現である。秦自体は30年ほどで滅びたが、続く漢も秦の衣鉢を継いだ巨大帝国であった。
 この統一帝国の出現により、中国の北(黄河流域)と南(長江流域)は基本的に統一され、今に続く漢民族が出現した。我々が現在イメージするような中国の出現である。帝国の拡大により、漢民族は雪だるま式に拡大し、周辺諸民族に影響を与え出した。

5 そして日本が萌芽し形成されていった
 列島の場合、教科書の記述はともかく、既に縄文末期には原始的農耕が伝わり、西日本などを中心に行われていたらしい。しかし、鉄器と水田耕作とを伴った弥生文化の伝播は、秦漢巨大帝国出現の余波であり、従来のおそらく(幾層もの)文化の伝播とは、質を異にしたものだった。列島にも、文明の曙光が及びだしたのである。
 階級が、そして国家が萌芽し出し、戦乱の時代が始まる。戦乱が一通り終結した時、大和地方の豪族たちが列島主要部に勢力を拡大していた。
 この際、推測は出来るだけ避けたいが、白村江の戦いに見られる大和朝廷の百済への尋常ならざる関与を考えた時、時の朝廷と百済など朝鮮半島との関係は我々の想像以上のものがあったのかもしれない。<
 日本は、どうやら朝鮮半島(というか東北アジア)の百済と「同系」と見られる部族を中心に、その他、出自を異にする諸族を凝集して形成されだしたのだろう。
 そして、その凝集に必要不可欠であったものが、漢字に代表される中国文化であったのである。他の論文でも述べたが、元々日本語あって、それが漢字・漢語を取り込んでいったと言うよりも、むしろ漢字・漢語の翻訳作業によって、日本語が形成されていったものと考えられるのである。
 そして、我々の先祖の苦闘により、日本語は平安時代初期には、一応の完成を見せる。そのメルクマールは仮名文字の発明である。
 こうして、日本文化と言えるものが形成されていくのであるが、これはあくまで「都」の貴族たちのものであり、その意味では、まだまだ「点」に過ぎなかった。
 この「都」の日本文化が全国的なものとなるのは、内藤湖南などが指摘するように、応仁の乱から始まる大乱によって、旧体制が完全に崩壊し、下から日本国が再編されだした戦国時代であろう。
 こうして最終的に、「都」のものでしかなかった日本文化が、基本的に列島の大部分に広がり、今に続く日本民族の文化的一体性が形成され、太閤秀吉による天下統一、それに続く徳川幕府による日本支配、更には鎖国政策によって、ここに初めて中国文明と対等の日本文明が形成されるのである。
 なお、南北朝の大乱、応仁の大乱と続く列島社会の大戦乱は、列島などでの中国銅銭の大量流通を可能とさせたような、宋以降の新たな中国文明の発展と密接な関係があると思われるが、これはまたの機会に譲ることにし、この小論を終わることにする。

参考文献
1 内藤湖南『日本文化史研究(上)(下)』(講談社学術文庫 1976)
    特に所収の「日本文化とは何ぞや(その一・二)」、「応仁の乱について」
2 網野善彦『日本の歴史をよみなおす(全)』(ちくま学芸文庫 2005)
3 石川九楊『日本語とはどういう言語か』(中央公論新社 2006)

  2006年12月26日

追記
 なお、「改正」教育基本法第1章「教育の目的及び理念」第2条(教育の目標)の「5」=いわゆる「愛国心」条項には、次のようにある・
 「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」  



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