小竹の宮 志野神社 紀伊国名所図絵1 迦具土命 小竹の祝
志野神社(小竹の宮)の御由緒
 志野神社は、天武天皇の第三皇子舎人親王らの編纂で養老4年(720年)に撰上された、わが国勅撰の最初の正史である『日本書紀』の神功皇后 摂政元年2月条の冒頭に出現する「阿豆那比の罪」に登場する小竹祝が、仕えた神社である。
 「阿豆那比の罪」の話を要約すると、忍熊王の反逆を討伐するため、紀伊の「小竹の宮」に進軍したおり、昼なのに夜のように暗くなった。
その原因を神功皇后が紀直(きのあたい)の祖豊耳(とよみみ)を通して翁にたずねると、「阿豆那比の罪」であると言われ、その意味は「二社の祝を、共に合葬したため」であるという。
ある人が言うには「小竹祝と天野祝とは『善友(ジェンダー平等)』であった。小竹祝が病を得て死んだとき、天野祝ははげしく泣いて、屍の側に伏して『自死』したので、2人を合葬した。
それ故に生じた現象ではないか」というので、墓を開いて別葬にしたところ、昼と夜との区別がつくようになった。
それによって、武内宿禰(たけしうちのすくね)が軍を進めることができ、宇治に陣取っていた忍熊王を近江の逢坂で追いついて破ったという話である。
 天野祝が仕えた神社は、現在の「世界文化遺産丹生都比売神社」である。
 現在の社殿は、『紀伊続風土記』によれば、「村の北にあり。志野北・南両村の産土神なり。古の社殿記録等天正の兵火に焼亡して事蹟も詳ならず。土人の口碑に遺りたる事もなく、痛く衰廃に及ひしを、慶安3年(1650)庚寅の春、村中に桜池を穿せられし時、明神の社殿より夜々奇異の霊光を発し、近辺地動の状ありしかは、土人震験せさるものなし。土功を掌りし人(有賀喜兵衛木村五郎太夫)即その事を注進す。

国君聞し召され、即時に本社・末社・瑞籬・鳥居等御造営あらせられ、尚又万治元年(1658)境内山林等を寄せられて、著き神社とはなれり」とある。神社名は、古くは小竹宮(しののみや)、その後志野神社となり、更に東屋御前神社と称したが、昭和19年10月17日志野神社と改称した。
小竹祝の古碑(塚)
小竹祝の古碑(塚)

小竹の祝
小竹の祝

紀国名所図会
紀伊国名所図会

神社神道演習研究論文

  祭神論による「阿豆那比(あづなひ)の罪」に関する一考察(pdf)

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