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第三章 育雛 (1)

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2006/05/04 Thu.


 伯父さん一家は常浜市の港を望む賃貸マンションに住んでいる。南向きのリビングからはベランダ越しに沿岸地帯の全景が一望できる。
 常浜市は神部市とよく似た商業港の街だが、この地が大震災に見舞われたのは八十三年も前のことだ。眼下に広がる埋め立て地の高層ビル群や遊園地には、災厄の跡などどこにも見あたらない。切り分けたリンゴみたいな形のホテルビルと大きな観覧車の間を白い点々が飛んでいった。カモメかアジサシだろうか。その先には遊覧船が湾岸と並行に航行していくのが見えた。
 僕はベランダに面したサッシ戸から離れ、リビングダイニングのPCデスクへ戻った。
 今、この家にいるのは僕ひとりだ。伯父さん夫婦と小学生の従妹、僕の両親と勇は朝からテーマパークに出かけている。伯父さんのイプサム二四〇Sは六人定員なので、僕が遠慮すれば全員が一台で移動できる。
「明日には先に帰ってしまうのに、なんで今日も別行動なんよ」
 母さんにはそう文句を言われたが、伯父さんは訳知り顔で笑っていた。
「もう親と一緒になんかいたくない歳だよな。ここまでついてきただけでも親孝行じゃん」
 そうしていたずらの相談でもするみたいに、僕の耳にささやいた。
「うちは光だからネットサーフィンも快適だぞ。ペアレンタルコントロールもかけてないしな」
 ありがとうと言って苦笑した僕に、履歴とキャッシュはちゃんと消しとけよ、と伯父さんはウインクした。
 伯父さんの想像と僕の意図は微妙にずれていたと思うけど、メモリをたっぷり増設した最新機種のPCと首都圏最先端のネット環境を使わせてもらえるのはありがたいことだった。
 あらためてデスクの前に腰を据え、ばりばりにカスタマイズされたブラウザを起動した。
 手始めに「明峰学園高等学校」から検索を始めた。ヒットしたのは入試情報や有名人OBの氏名、学校の沿革などが掲載されたサイトばかりだった。OBの中に外資系大手商社の重役である塩屋鷲太郎の名前をみつけた。この春から英国本社の勤務であること、家族構成などのプロフィールから、ほぼまちがいなく塩屋さんの父親だと思われた。
 現教職員にも卒業生が大勢いるようだ。学閥って高校にもあるもんなんだな。
 公式サイトからのリンクはほとんどがクラブ活動の連絡用掲示板だった。パスワードの入力を求められたが、部室棟に立ち寄った時、PCにべたべたとメモが貼ってあったのを覚えていたので、何の問題もなくログインできた。クラブ員の氏名をたどって個人運営のブログをいくつか探しあてた。内容は毒にも薬にもならない趣味や身辺雑記の類ばかりだった。
 大手のプロフ登録サイトからも在校生情報をさがしてみたけれど、それとわかる登録情報は皆無だった。さらに業界最大手のBBSのスレッドをたぐりながら考えた。
 学校の知名度や偏差値ランキングのわりに、スキャンダルや暴露記事の類が極端に少ない。一時はメディアをにぎわしたはずの三年前の侵入事件の情報ですら、ほとんど手に入らない状態だ。いくら保守的な家庭や用心深い生徒が多くたって、個人情報をもらしてしまううっかり者はいるものだし、あら探しの大好きな輩はどこにだってひそんでいる。
 これだけつつきまわってもたいした収穫がないのは、誰かがすでにチェックをいれた後だからじゃないのか。携帯向けサイトも例外ではないところをみると、教職員だけでできる仕事とも思えなかった。そうこうするうちに、御影の個人サイトにたどりついた。
『ようこそ・ウィルウィッチアの花園へ』
 中学時代からハンドルは替えていないな。一見すると少女趣味まるだしの文芸サイトだが、ここは彼女にとっては張りぼての表看板だ。各ページのソースを読みながら丹念にさぐっていき、管理者プロフィールのHTMLに埋め込まれた隠しアイコンをみつけた。クリックするとここでもログインパスワードを要求された。心当たりをいくつか試してみたがリジェクトされた。
 僕は腕を頭の後ろで組んで背中を伸ばし、最後に会った時の御影の台詞を思い返した。
「助けて欲しいなら、いつでもいらっしゃい……か」
 半角英文字で打ちこんだ。
「ineedhelp」
 新しいブログが表示された。何の飾りも説明もないのっぺりしたページ。記事は一件だけしか登録されていなかった。
『かごめ かごめ かごのなかの とりは いついつ でやる』
 ページのあちこちを調べてみたが、隠されたリンクや仕掛けは見あたらないようだ。肩をすくめてログアウトしようとした。もとの表示画面に戻ると一件の新着記事が届いていた。
 『五月三日二十二時頃、籠川市で高校一年生の女生徒が母親にハサミで刺され、救急車で病院に運ばれた。女生徒は軽症で、生命に別状はないとのこと』
 どきっとして記事を読みかえし、PCに挿しておいた自前のフラッシュメモリにコピーした。さらに追加の情報はないかともう一度再読込みをしたら、さっきの記事はもう削除されていた。
 しばらく時間をあけて再訪してみたが、新着記事は増えていなかった。ニュース速報系のサイトに飛んで最近の事件記事を確認してまわった。女子高校生の傷害事件についてはどこにも掲載されていなかった。
 御影は僕がログインするのを待ち伏せしていたのか。自動応答の仕掛けを組んでいたのか。
 手の込んだ嫌がらせかもしれないが、メディアに流れなかった情報を教えてくれたのかもしれない。すっきりしない思いを抱えたまま、僕はPCを終了し、常浜の街へ出た。
 バスの通る坂道をだらだらと下り、おぼろげな記憶をたどって昔住んでいた借家を探した。僕の家があったはずの場所にみつけたのは築十年くらいはたっていそうなマンションだった。僕らが引っ越してからすぐに建て替えられてしまったのだろう。
 マンションの並びには、こじんまりしたパン屋兼タバコ屋が残っていた。この店へ最後におつかいに来たのは、五歳の頃だっただろうか。タバコ売場の窓口に掛けられた鍵が錆びついていた。もう何年も前から営業はしていないようだ。
 タバコ屋の向かいのコンビニでパズル雑誌を買って伯父さんの家に引き返した。

2006/05/05 Fri.


 予定どおり、僕は家族より一足先に常浜を立った。明智駅で下りの新幹線から在来線に乗り換え、自宅へは向かわずに籠川駅で下車した。学校の最寄り駅よりひとつだけ東寄りだ。
 広東料理店「桂花園」は改札口のすぐ北側に見つかった。店構えは平凡な安食堂という感じだ。
 僕の見ている前で、隣のパチンコ店の駐車場にタクシーを停めた運転手がまっすぐにこの店を目指してきた。常連客はついているようだ。運転手に続いて店にはいった。
 内装も簡素だが、掃除は行き届いている。十一時を少し過ぎたばかりだったからか、店内はまだ混んでいなかった。隅のテーブルに席をとって、本棚の上に積んであった瀬戸日日新聞に手を伸ばした。社会欄を丹念に読んでいったが、女子高校生の傷害事件は載っていなかった。
「ご注文は?」
 てらてらのおデコが紙面の上辺からひょこりとのぞいた。新聞を畳むと一昨日と変わらない劉さんの笑顔が見えた。ごちそうになったラーメンの味が思い出されて、なんだかほっとした。
「負けず嫌いで意地っ張りの定時制高校生、置いてます?」
 親指をたてて指さしてくれたのはカウンター席のさらに奥に見える厨房だ。ランニングシャツ一枚で寸胴を洗っているキアをみつけて安堵のため息がもれた。
「昨日は、お忙しい時間に電話してしまって申し訳ありませんでした」
「心配せんでも、店はほとんど息子にまかせてますねん。お昼のお勧めは唐揚げ定食ですよ」
「それ、お願いします」
 劉さんはわざわざプーアル茶の急須とほかほかの大根餅を運んできて僕の前に座った。
「滋くん、ようやってはりますよ。さすがに仕事の飲み込みがはやい」
「あいつがよく、ここで働くことを承知しましたね」
「木刀代を弁償する言ぅて引かんかったんはあっちです。ここのバイト代から天引きで返してもらうことにしました」
「朝は道場にも行ってるんですか?」
「アタシと勝負したかったら剣道の試合に限るて言うたったからねえ」
 若い人と話をするのは大好きだ、と劉さんはにこにこしていた。
「劉さんのご家族は日本に来て長いんですか?」
「長いも何も、アタシはこの国の外に出たこともあらしません。もともと飛行機も広東語の勉強も嫌いやったし。曾曾祖父さんが神部に住み着いて、曾祖父さんが料理店を開いて、次男坊だった祖父さんが明智に暖簾分けしてからずっと、ここの住人。息子は日本籍を選びました」
 籠川に中華学校はなかったから、小中高ずっと公立だったそうだ。
「剣道を始めたのも中学校の部活からやし」
「それじゃあ、うちの高校に来てる郭師範のことなんて、ご存じないですよね」
「華人の社会はそんなに広いもんやないけど。最近ビジネスで来日する人たちは、軸足を本国に置いてるからねえ。でも、郭玲さんは有名人やね」
「そんなに強い人なんですか?」
 劉さんはひらひらと手を振った。
「拳法は副業。本来の勤め先は外資系総合商社。切れ者専務の部下として売り出し中やとか」
「その専務さんって」
「P&P社の塩屋鷲太郎さん」
 塩屋さんのお父さんだ。そういうつながりなんだ。拳法部や自警団の運営に保護者はどれくらいかかわっているんだろう。
 ご主人に負けないくらいころっころの奥さんが定食を運んできてくれた。
「滋が劉さんといい勝負できるようになるまで、けっこうかかるでしょうね」
「どうでしょうねえ」
 一瞬だけ、劉さんの目が細められた。
「ルールのある試合やったら、今は勝てますけどな。年の功なんていつまで持ちますやろ」
 唐揚げをかじりかけて動きをとめた僕に、大根餅の皿が勧められた。
「堂島さんはねえ、滋くんが迷子にならないかとずっと心配してはりましたよ」
 劉さんはふたつの湯飲みにプーアル茶をつぎながら、血色の良い額をなでた。
「才能は余るほどなのに指導者がいない。このままほっといたら、けんかの方便ばかり覚えて気持ちがすさんでいくんやないかてねえ」
 熱々のお茶を吹きながら、刑事さんのごま塩頭を思い出す。今回の計略は堂島さんの発案だったのだろうか。どちらかというと、劉さんの流儀なんだろうな。
「それでアタシに鉢がまわってきたんやけど、相手してみてわかりましたわ。滋くんにはちゃんと、師と仰ぐ人がおるて。今は離れとっても、あの子は教えられたことを忘れてません」
「そうですか……」
「聡くん、知ってたんでしょ?剣道の人?」
「はい……」
 僕が煮え切らない返事をしたので、劉さんはちょっと意外そうにまばたきをした。安心させようとしてくれた気持ちはありがたいのだけど、今の話を素直に喜ぶことはできなかった。
 キアは、今でも、あの人に師事しているつもりなのか。さっさと気持ちを切り替えて、劉さんの弟子にでもなってくれたほうがどれだけほっとすることか。劉さんはそれ以上尋ねてはこなかった。
 厨房から男の人のでかい声が聞こえた。
「ザーレンは刀やない言うとろうが!こんなとこで振りまわすな、アホ!」
 劉さんは苦笑した。
「師匠の教えだけでは終わらん子やね。武具を持つ気になった途端、なんでも試しに振ってみないと気が済まんようになってますな」
 僕はあらためて、劉さんに深々と頭をさげた。


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