プロローグ :第一章 営巣 :第二章 抱卵 :第三章 育雛 :第四章 巣立 :

第二章 抱卵 (1)

前へ 次へ

2006/04/16 Sun.


 その後は夕食もほとんど喉を通らず、夜はなかなか寝つけなかった。うとうとしかけるたびに、いやな夢をみては目が覚めた。ぐっしょりと寝汗をかいていた。肌にはりついたパジャマが気持ち悪い。布団を蹴って何度も寝返りを打ち、やっと汗がひいて眠れそうになった頃には東の空がほんのり明るくなっていた。
 僕はもともと朝が苦手だ。血圧が低いせいか、元気な時でも目覚めから動き出せるまでタイムラグがあるほどだ。けれども、日曜日の午前中にしなければならないことは山ほどある。
 ヤドカリ水槽と金魚水槽の水換え。カメ水槽の掃除。プランターと裏庭の水まき……
 朝の光がベッドまで差し込んできた。頭からすっぽり布団をかぶって、もうあと三十分、あと十分だけ、と呪文のように唱えながら目をつぶっていた。
 いいかげんもう起きなければ、と理性だけが焦っていた時、階下で銅鑼を鳴らすようながなり声がした。
「どうもこうもありますかいな!このダボガキ、いっぺん絞めてもらわなわからへんわ」
 僕はあわてて立ち上がろうとしたが、身体は水銀をつめたように重くてうまく動けなかった。ベッドからずるりと落ちて、カーペットに後頭部をぶつけた。
 たいした衝撃ではなかったはずが、金槌で殴られたみたいにガンガン響いて吐きそうになった。空えずきが咳になって、喉がひりひりと痛んだ。
 なんとか咳を飲み込んで上半身を起こし、肌布団をかぶったまま部屋を這いだした。階段に尻を載せながら一段ずつ降りて、声のしたほうへ……一階のリビングへ向かった。
 部屋をのぞくと、普段は勇がゲームをしているコーナーが片づけられて、ソファが二脚、向かい合わせに置きなおされていた。手前のソファには僕に背中を向けて父さんが、奥には堂島さんとキアがこちらを向いて座っていた。
 僕が青虫のように移動していた間、ずっと大声でまくしたてていたのは堂島さんだ。右の頬骨のあたりに小さな青タンができていた。
 隣のキアは、ふてくされて、への字に曲げた唇の端に、ごま粒くらいの乾いた血をつけていた。両足を投げ出し、両手はジーンズのポケットにつっこんだまま、腰を前にずらして、ソファに身を沈めていた。
「まったく、あきれてものが言えんわ。腰落ち着けて働きたいから正社員の口さがしてくれ言うたんが、たった二ヶ月前やで。それが、仕事始めて一ヶ月たたんうちに、もう辞めるやと。そんなワガママが世間で通るわけないやろが。しかも、理由は言いとないぬかす。あほらしいて、ものも言えん。この恩知らずの、根性なしの、世間知らずの、自己チューの、ノータリンの、ロクデナシの……おい、ちょっと待て、なんできみが泣くんや」
 堂島さんのあわてた声に、全員が戸口に立った僕を振り向いた。
 そこで初めて、視界がぼやけているのに気がついた。肌布団の端っこで目をこすって、ふらつきながら部屋に踏み込んだ。
「滋は恩知らずでも根性なしでも世間知らずでも自己チューでもないです」
 そう言おうとしたのに喉がかすれて痰がきれず、鶏が絞められたようなみっともない音が出ただけだった。
 キアは気遣わしげに僕を見て、今までの倍くらいきつい目で堂島さんをにらみ返した。これでは心配するほうとされるほうがあべこべだ。
 堂島さんは、ようやく口を閉じて渋い顔をした。父さんが助け船を出した。
「堂島さん。まことにすみませんが……」
「俺がおったらできん話もあるてか。ああ、わかりましたわ」
「申し訳ない。後ほど連絡はいれさせていただきます」
 刑事さんは、おさまらない気持ちをなんとか抑えこんで、ひとり席を立った。僕の背中を押して自分のいた席に座らせ、ぽんと頭を叩いて出ていった。
 悪気はなかったのだろうけど、また釣鐘の下に立たされたみたいに頭がガンガン痛んだ。
 キアの指がすっと僕の額に伸びて、すぐにひっこんだ。
「熱はないよ」
 今度はなんとか聞こえるくらいの声を出すことができた。
 パジャマのまま来客の前に出たりしたら、すかさず母さんのNGがとぶはずだが、今は留守のようだ。勇を連れて出かけているのか。
「さて……」
 父さんはキアに向き直った。相手が口をきくまで、何時間でも黙って待てる人だ。
 我慢強さではキアも負けてはいない。長期戦になるかと思っていたら、父さんが先制した。
「きみが実際に見たり聞いたりしたことだけ話せばいいよ。判断はこっちにまかせなさい」
 キアは僕の顔色を見て、時間をかけるのはまずいと観念したようだ。腰をひき、背筋を伸ばして座りなおした。それから、低い声でとつとつと話し始めた。
「逆瀬川の和菓子は外箱に製造日のスタンプを押したシールを貼ったあります。シールには『本日中にお召し上がりください』て印刷したあります。工場の仕事は朝五時から始まって、九時には最初の出荷をします。店が開くんは十時やから、それに間にあわさんとあかんのです」
 逆瀬川というのは屋号で会社名で社長の姓だ。父さんはうなずいて、先を促した。
「ことの始まりは先週の月曜日です。蒸し器の調子が朝から悪うて、商品のできあがりが一時間ぐらい遅れたんです。毎朝、支店に出す商品は会社のバンに積んで運ぶんやけど……」
 僕も前に聞いたことがある。工場から支店まで、あの時間帯なら車で三十分はかかる。
「いつもは運転手さんが商品を取りにくるんやけど、遅なったらやばい思ぅて、俺ができたてを持って駐車場に走ったんです。ところが、車はもう出た後やった。あるだけの荷物積んで発車したんやて、駐車場の係の人は言ぅてたけど、俺が運んだんがその日作った最初の荷のはずやった」
 僕は父さんとキアの顔を交互に見比べた。
「水曜日は休みで雨やった。木曜日は晴れるて予報で聞いてたから、工場は朝からフル回転でした。ところが、天気はいっこうにようならん。思うたほど客が来んかった。支店から、もう商品を運ばんでええて電話があった時には、手元にはまだできたての菓子が山積みやった」
 僕らが校外学習に行った日のことだ。
「金曜日にはやっと晴れたのに、今度は午前中は作らんでええて言われた。なんでやねん、朝から作らなんだら売りもんがないやろて主任に言うたら、ふにゃふにゃわからん返事しかかえってこんかった」
 その時、キアの胸にわいたのと同じ疑惑が僕の頭の中でもうずまいていた。
「それで、滋くんはそれからどうしたのかね?」
「工場長に話し聞きにいったけど新入りは黙っとれて、それだけで。営業部長か社長に会いたい言うたらアホぬかせて叱られた。業わかしてうろうろしよったら、事務所のドアがちょっと開いとって、隅に山積みの箱が置いてあった。そういえば、一日の終わりに余った商品は、まとめて事務所に運ぶことになっとった。そこから廃棄にまわすんやと思ぅてた。日付シール刷っとうのも同じとこや。俺ら、普段はそっちの部屋には入らしてもらわれへん。それやったら……」
 父さんが急に立ち上がった。
「ちょっと、用事を済ませてくるよ」
 そのまますたすたと隣の部屋へ行ってしまった。僕はキアの側にかがみこんでささやいた。
「やばいことはしてないよな?」
 キアはうつむいてささやいた。
「事務所の窓のロックに細工はした。けど、忍び込むのはやめた」
 昨日のようすを思い出して、背筋が震えた。こいつは一晩中迷いながらどこをうろついていたのか……。
「そのこと、大人には絶対言うなよ。いいな」
 返事を聞くより先に、父さんが戻ってきて、何事もなかったようにもとの席に座った。
「滋くんは、このことを堂島さんにはまったく話していないんだね」
 この件を警察ざたにするつもりはないんだね。暗黙の問いかけに、キアは目を伏せてわずかにうなずいた。
「ゆうべいろいろ考えました。俺にはこの仕事は続けられへん。けど、全部ばらしたいとか、会社の信用を落としたいんやない」
「それでは、退職するにしても理由を表沙汰にできないね。後が大変なんじゃないのかね?」
 重苦しい沈黙。親の保証も健康保険もあてにできないキアにとって、正社員になれるかどうかは死活問題だ。卒業と同時に就職できたのは奇跡的な幸運だと、当時は思っていた。それがこんな結果になるなんて。
 それでもキアは、決心を変える気はないようだった。
 父さんは再び立ち上がると、今度は電話の子機を持って出ていった。数分して戻ってきた時にはもう、外出着に着替えていた。
「逆瀬川がどうしても明日でないと会えん、というんでね。今からちょっと職場に行って、休暇をとる段取りをしてくるよ」
「社長に?なんで烏丸さんが話にいかんとあかんのですか。これは俺の……」
「滋くんの問題じゃない。逆瀬川の問題だろう。あいつは一応、私の友人だ」
「そんな、仕事休んでまで……」
「世の中には勤めより大切な用件もあるんだよ」
 さらに反論しようと立ち上がりかけたキアの肩に手を置いて、父さんは静かに言った。
「留守中、聡の面倒をみてやってくれ。母さんと勇は夕方まで帰ってこないからね」

 父さんの依頼を受けて、キアの使命感が燃え上がった。僕をベッドまで抱きかかえて運ぼうとするのを、必死で拒否して自分の足で戻った。
 そのあとは、台所の片づけ、僕の食事の準備、水槽の動物たちの世話、裏庭の手入れと、休みなしに働き続けてくれた。トイレ掃除や洗濯物の取り入れまでしなくていい、と何度も言い聞かせて、ようやくベッドサイドに腰を降ろしてくれた頃には三時を過ぎていた。
「卵酒、作ったろか?」
「そこまで病人じゃないよ。未成年だし」
 半日寝かせてもらったおかげで、喉もかなり楽になっていた。これ以上お世話をされたんじゃ、かえって落ち着かない。
「今日は、仕事休んだんだね」
「工場長に、もう現場には行かんでええ、店の隅にでも座っとれ言われた。やっとれんわ」
「脅しのつもりだろうけど、うまくいってないな。へたくそな連中だ」
「脅されてびびるやつなら、はじめから黙っとうやろ。けど……はなから堂島にぶっちゃけとったら、ラスの親父さんに迷惑かけんですんだんかな」
「店の経営を悪くしたくない理由があるんだろ」
 キアは目をすがめて、ベランダの外を向いた。うっすらと霞のかかった空気の向こうに小さな海が見えていた。
「工場の職人さんたちは、何も悪いことしてへん。一晩おいても大丈夫なように、一所懸命和菓子を作ってるだけや。俺以外はみんな先代の社長と一緒に働いてきた、この店しか知らない、気のええ人らや。家族みたいに仲ようて……俺にもいろいろ教えてくれた……」
 もともと低い声がさらにかすれて、最後のほうは聞き取れないほど小さくなっていた。
「他の人たちには黙って、ひとりで辞めるつもりなのか?みんな、うすうすは気がついててそのままにしてたんだろ。それって同罪じゃないか」
「おおかたは妻子持ちや。子供は何も知らん」
 だからって、また一人だけ思いを飲み込んで立ち去るつもりだったのか。
「……あんなに一所懸命だったのに」
 お前、また居場所をみつけ損なったのか。僕は身体を転がして、布団に顔を押しつけた。
 ベランダの水槽で金魚がぽちゃりと跳ねた。
 キアはこきこきと首をまわして立ち上がり、両手を組んで大きく伸びをした。ため込んでいたものを吐き出してしまえたからか、身体を思いきり動かしたからか、午前中よりはずっとさばさばしたようすだった。
「お前もちょっと頑張りが過ぎたんとちゃうか。ここんとこ、相当帰りが遅かったみたいやな」
「……たいしたことじゃないんだけどさ」
 長田との出会いのいきさつをかいつまんで説明した。
 キアは野鳥よりも中国拳法部に興味を持ったようだ。
「洪家拳の演武は見たことある。剣術とか棒術も一緒にやるもんやと思ぅてたけど、徒手空拳だけの練習なんか」
「クラブ活動なんで、自主規制してるみたいだね。でも、トップの人たちは学校の外でも稽古してるんじゃないかな。師範も教職員じゃなかったし」
「塩屋隼一郎、か……」
 階下で電話の呼び出し音が鳴った。僕が身体を起こすより先に、キアは脱兎のごとく階段を駆け下り、子機を持って駆け戻ってきて僕に手渡した。
「はい、烏丸ですが」
「篤やんか。さっきの話やけど、やっぱり日を替えてくれ。明日では都合がつかん……」
 だみ声の年輩男性だ。誰が出たのかも確かめずに一方的にしゃべり続けようとしてきた。
「えーっとぉ、お父さんは今、いませんけどぉ」
 僕はなるべく頼りない子供っぽい声色を使って返事した。
「息子さんか……またかけ直すわ。ボク、すまんけどお父さんに、逆瀬川のおじさんから電話があったて言うとってくれ」
「お父さん、いつ帰るかわかりませんけどぉ」
「ああ……もし帰って来はったら、ともかく明日はだめやと、それだけ伝えてくれ。ええな」
「はぁ〜……」
 父さんはそれから十分もたたないうちに帰ってきた。
「明日来られちゃ困るってさ」
 僕の伝言を聞いて、ふむ、と顎をしごいた。
「今から休暇の変更もできないし、ずるずる先延ばしにされるわけにもいかないからな。息子の伝言がはっきりしなかったので、ともかく出向いた、ということにしておこう」
 少し遅れて母さんたちも帰ってきた。
「今晩だけは特別に友達と長電話してもかまわない」
と言われて、勇は大喜びした。逆瀬川社長がまた電話してきても、うちはずーっと話し中だ。
 母さんは熱いほうじ茶をいれてくれた。男三人、僕の部屋でティーブレイクになった。
「逆瀬川にとっては、いろいろ誤算だったみたいだなあ」
 父さんは愛用の湯飲みを両手で持ってのんびりと茶をすすった。
「ひとつ。滋くんが、こんなに短期間で偽装に気がつくとは思っていなかった。ふたつ。気がついたことを即座に真っ正直に問いただすとも思っていなかった。みっつ。その話を周囲の大人にもらすとも、大人がまともに聞くとも思っていなかった。よっつ。私が仕事を休んでまで事実をただしに行くとは思っていなかった」
「その、みっつめはどういうこと?」
「私が身元引受人にならなかったこと、堂島さんが代わりに引き受けてくれたことが誤解のもとだったみたいだねえ。会社捜しの手伝いをしただけで、滋くんとはたいした縁じゃないと思われたようだ。堂島さんが仕事上、滋くんの保護観察かなんかをしていると早合点しちゃったんだな」
 手前勝手な思いこみだ。世の中、自分の都合のいいように動くと勘違いしている大人だな。
「滋くんの要望だったし、堂島さんが滋くんと話しやすくなるかと思ってたんだが、傍目にはそうは見えなかったんだな。申し訳ないことをしたよ」
 キアは首を横に振った。僕の腹立ちはおさまらない。
「はじめっから立場の弱い人間を雇って黙らせておこうとしたわけだろ。卑怯だよ」
「昔から詰めの甘いやつだったからなあ。学生バイトを雇うより、中卒者を正規採用したほうが黙らせやすいなんて、本気で考えてたのかな。今頃、あわてて対策を考えているだろう」
「あまり工作する時間を与えないほうがいいんじゃないの」
 キアが僕の脇を肘で押した。
「親父さんの友達やぞ」
「ふむ。だからこそ、はっきりさせておきたいんだがね」
 見かけは落ち着いているけど、父さんだって本気で怒っていると思う。
「相手持ちの考慮時間はこちらも有効に使わせてもらうまでだよ。ところで聡、体調はどうかね。朝よりは元気になってきたようだが」
「明日は学校休む」
 僕は断固とした口調で宣言した。
「父さんと滋が社長に会って帰ってくるまで、家で待ってる」
 キアが僕に耳打ちした。
「べっぴんさん、ほったらかしてもええんか?確実に会えるのは月金だけなんやろ?」
「風邪がぶり返したらいやだから休むんだ」
 お前のことのほうがよっぽど心配なんだ、とは口に出して言えなかった。
「ゆっくり休んできちんと治す、というならそれでいいが」
 父さんはおっとりと微笑んだ。
「病人さんは夕食もお粥にしといたほうがいいね。母さんは焼き肉の準備をしていたようだが、なに、滋くんがいれば食材が余ることはないだろう」


前へ 次へ
第一章 営巣 (1) に戻る