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第一章 営巣 (1)

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2006/03/27 Mon.


 出会いは三月にさかのぼる。
 薄曇りの空の下、まだつぼみの固いソメイヨシノの梢を揺らして、ひんやりした風が吹きすぎた。僕が歩いているのは幅三メートルほどの石畳の歩道だ。右手には桜並木。左手にはハンドボールコート。歩道はゆるやかにカーブした上り坂。行く手には柔らかな若葉を広げかけた落葉樹の茂み。薄緑の霞の向こうには、籠川市随一の名門私立校、明峰学園高等部本館の時計塔がそびえ立っていた。
 周囲には五、六組の親子連れ。男子も女子も中学校の制服姿で、ちょっぴり緊張した面もちだ。誇らしげに着飾った母親がぴったりつきそってワンセットという感じ。正門から先は一般車乗り入れ禁止だから、パンプスのヒールを石畳の隙間に噛まれながらかれこれ十分以上は歩き続けているはずなのに、誰ひとり不満そうではなかった。
 普段着のトレーナーに綿パンという僕の格好は浮きまくっていたようだが、いつものことだから気にならなかった。
 また少し強い風が吹いて、木の枝が音をたてて揺れた。ときおり遠くでウグイスのさえずりが聞こえる。コートの裏の竹藪からだろうか。車道の喧噪はもう届かない。だらだらした坂道を歩くのにはちょうどよいくらいの気温だった。集合時刻にはまだたっぷり余裕があったから、僕は散歩気分であたりを観察しながら歩き続けた。
 視界の端をちらりと小さな影がよぎった。
 振り向くと、百円玉大の茶色い薄羽根がひらひらとサクラの木の裏に逃げていくところだった。シジミチョウの一種のようだが、それにしては後翅の形状が不自然に見えた。ちょっと気になって、道をはずれて木の幹の向こう側をのぞきこんだ。
 眼前に現れたのは意外にうっそうとした雑木林だ。さっきのチョウが半分は風にのり、半分は逆らうようにして飛んでいく。後を追うことに決めて、しっとりした林の下生えに足を踏み入れた。少し奥に入りこむとサクラも歩道も見えなくなった。薄緑色の小枝をかきわけながら進むうちに、クヌギの若葉の匂いが髪や肌に染みて、自分まで一匹のムシになったような気がしてきた。
 チョウを探して目をこらしていた時、数メートル先の木の梢から、何かがばさりと飛び立った。びっくりして見上げた時にはもうかなり上空にいたので、ハトくらいの大きさの野鳥らしいとしかわからなかった。最初に音のしたあたりに視線を戻した僕は、そこで予想外のものをみつけてぽかんと口を開けた。
 後から考えるとばかみたいだが、その時にはチョウが化けたのかと思ったくらい唐突だったのだ。
 緑の背景からくっきりと浮き上がった白いシルエットは、栗色の髪をいただいた横顔だった。僕に見られていることにまったく気づいたようすはなく、ただ一心に鳥の飛び去った方向を見上げていた。相当距離は離れていたはずなのに、弓なりの眉、長く揃った睫毛の下の大きな目まで不思議なくらいはっきりとしていて、網膜に写った美しい姿がそのまま僕の視覚中枢に焼きついてしまったようだ。
 人影は現れた時と同じくらい唐突に消えた。
 一、二歩前に進んで、さっきのシジミチョウが少し離れた枝の先にとまっているのをみつけ、現実にひき戻された。やはり後翅の形状が普通じゃない。息を止めて手を伸ばし、縦に畳まれた四枚の翅を一度につまんだ。捕まえた、と思った瞬間に足元の腐葉土がずるっとすべった。
 落ち葉が厚くつもっていたのでうっかり見過ごしていたが、急斜面から手を伸ばしてしまっていたらしい。あわてて踏ん張ろうとした足の下には何もなく、ふわりと身体が宙に浮いた。直後にくるはずの衝撃に備えて身体をまるめようとした時、左腕をつかまれてぐいっとひっぱりあげられた。
「……キ……」
 友達の名を呼ぼうとして、ここにいるはずがないと声を飲み込んだ。
 両足が再び地面を踏みしめているのを確かめ、ほっとして顔をあげた。
「ケガはないかな?」
 張りのある男らしい声で聞いてきたのは、僕より指一本分くらい長身の青年だった。
 カッターシャツとスラックスは高等部の制服のようだ。ブレザーを着ていないので、がっしりした肩と分厚い胸の線がはっきりと見てとれた。腕をつかまれるほどそばにいたのに、どうして気がつかなかったのだろう。僕の考えを読んだように、青年が笑った。
「後をつけるつもりじゃなかったんだけどね。声をかけようとした途端に、きみが足をすべらせたから」
「ありがとうございます。おかげで助かりました」
 綿パンの土汚れを払おうとして、まだチョウをつまんでいたことに気がついた。そっと指を離してみると、二枚の後翅が対称形にちぎれて、紋が見えなくなっていることがわかった。
 それでもチョウはふわふわと僕の手のひらから飛び立った。
 僕らはしばらく、小さな命が遠ざかっていくのを無言で見送っていた。
「新入生だね。説明会なら急いだほうがいいよ。講堂は本館よりずっと坂の上だから」
「重ねてありがとうございます。……先輩」
「塩屋だ」
「烏丸です」
 もう一度頭をさげて、さてどちらから来たのだったかと思案した。
 塩屋さんは木々の間を指さした。
「このあたりでは堀を渡れないから、歩道に戻ったほうがいい」
 三度目に頭をさげて、教えてもらった道を走った。再び校舎が見え始めた頃になって、塩屋さんはあの栗色の髪の人に会いに来ていたんじゃないか、と思いついた。


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