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エピローグ

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2007/08/26 Sun.


 八月最後の日曜日、午前中のシネコンは家族連れでにぎわっていた。
 チケットカウンターの前の軽食コーナーも、幼児の泣き声や小学生のふざけあう声が響きあい、映画の予告を流すモニタの音楽とまざって頭をくらくらさせた。土も緑も海も見えない場所に長居すると落ち着かない。
「お兄ちゃんも一緒に観ればいいのに」
 勇は明るいオレンジ色のミニワンピで精一杯おしゃれして、友達二人とじゃれるようにはしゃいでいた。
「ファンタジーはパス。ここで待ってるからゆっくり楽しんでおいで」
「お昼はマクドだよぉ。そのあとエンジェル・ピンクとブルーハウスのお店に寄っていいかなぁ」
「はいはい。今日はしっかり付き添いますよ」
 女の子達はくるくると、かざぐるまのように軽やかにスカートの裾をひるがえして去っていった。
 僕は壁際のビニールソファにだらんと腰かけて、湿気たポップコーンを口に運んだ。
 Sugar and spice, everything nice...
 妹たちを見ていて、マザーグースの一節が頭に浮かんだ。甘くていい香りのする女の子達独特の世界。
 僕らが地上に呼び戻した蜘蛛姫さま。ママは天国、パパは監獄。今頃はたぶん一時保護所にいて、どんな夢をみているんだろう。アニメ映画みたいに守ってくれるヒーローはいない。彼女が勇と同じように、この世界が自分を好いていると信じきって、笑える日は来るんだろうか。
 汗臭い男がどさりと右隣に腰をおろした。防具袋を邪魔そうに床に置き、竹刀袋を脚の間に立てて頬づえをついた。
「……やっと終わった」
「審査会前の強化練習だって言われて、毎晩呼び出されてたもんな。お疲れさん」
「夏休みがパアや。おまけに登録料までとられるんやで。貧乏人を虐待しよって」
「昇段がいやなら手抜きすりゃいいのに」
「八百長は好かん。堂島にばかにされるのもけったくそ悪い」
「当分、あの人には逆らえないよ。刑事さん達にも、いろいろ取りなしてもらっちゃったし」
 特養のごたごたは福祉局の特別監査と税務調査と人権擁護が絡んで収拾がつかなくなってきているそうだ。その裏では県警も挽回をかけて働いているらしく、明智市の非合法団体の活動はずいぶんおとなしくなっているようだった。そのせいか、堂島さんがキアにはりついて目を光らせていた間、目立った動きはなかったようだ。
「チイがいなくなった」
 キアがぼそりと言った。ちょっとせつなげな顔をしていた。もっと早く説明しておけば良かった。
「そのことなんだけど……」
 僕のジーンズのポケットで携帯が鳴った。鈴虫の鳴き声は……
「堀川さんからのメールだ」
 あわててメッセージを確認した。読み進むうちに背筋がしゃんとして、頭の血流が改善したように感じた。
「久実さんからメールが届いたそうだ。今、神部市立の総合病院に入院しているって」
「保護委託か」
 キアが僕の手元をのぞきこんだ。
「父親の告訴がらみで所在を伏せているはずだし、発信源は個人のアドレスじゃなさそうだから、堀川さんからじかに返事を書くわけにはいかないな。まあ、病院なら一時保護所と違って手だてはある」
 あわてて会いに行くのが良いとも思えない。とりあえずは、久実さんの復帰を心待ちにしている人たちがいることさえ知ってもらえればいい。
「久実さんの保護者は順番で言えば清子さんになるはずだけど、児相が監護能力を認めるかどうかわかんない。中津の叔母さんと仲直りしてもらわなくちゃな。並行して、堀川さんのメッセージを久実さんに届ける方法を考えよう。病棟からの外出許可は出ていなくても、窓から外は見られるはずだから……」
「ちょっと待て。ラス、久実さんにいつ、堀川さんのこと知らせた?」
「チイちゃんだよ。漁網のかわりに、堀川さんの自筆メモをこよりにして結んでやった」
 つまり、僕の生徒手帳の切れ端だ。
「あの晩、チイを持ち出してたのか」
「久実さん、クモのフェロモンを上手に利用していたみたいだね。警察署で放してやったんだけど、ちゃんと元飼い主にたどりついてくれたよ。さすがだね」
「ふーん……」
 キアの左腕が僕の肩を抱くようにまわされた。あまりロマンチックなムードではなかった。
「あのどさくさに……黙って裏工作してたな」
 耳元でささやかれて、首筋の毛が逆立った。
「俺が堂島に小突かれもって、毎日空っぽのケージのゴキを入れかえよったこの一週間……何の説明もなかったな」
 あごの下にあてがった親指で、無理矢理上を向かされた。
「こっちも学校とか忙しくて……ごめん。ごめんなさい」
「ごめん思とうなら、分担かわれ」
「へ……?」
「おばちゃんらのネゴはお前やれ。俺は堀川さんの護衛と久実さんに会わす算段をする。それでちゃらにしたる」
「でも、こないだは久実さんにけっこう冷たかったじゃない。不細工とかなんとか……」
 真正面に迫ったキアの目が、ちろっと横にそれた。
「謝ればええんやろ。文句あっか」
 驚いた。チイちゃんの心配をしていた時と同じくらいには、せつなげな顔をしていた。
「文句なんて……会いたいならはじめっからそう言っといてくれたら……」
 顔面からソファに押さえ込まれて息がつまった。すぐに手は離してくれたので、のけぞって肺いっぱいに空気を吸い込んだ。吐き出す息が笑いになって止まらなくなった。
「声だして笑うな」
 キアが口をとがらせて早口で言った。
「お前さあ、ずいぶん普通っぽくなったよなあ」
「どういう意味や」
「いや、良かったよ。いつまでもひとりでいるつもりじゃなさそうだってわかって」
「お前こそ、いつまでムシやらエビやらの相手ばっかりしとう気や」
「人間だって捨てたもんじゃないよ。そう思うだろ?」
 また頭を押さえようとした手をかいくぐって、僕は久しぶりに、腹の底から気持ちよく笑った。

                <了>


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