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第一章 孵化 (1)

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2007/07/14 Sat.


 机に置いた携帯が鳴った。マツムシの鳴き声は発信者不明時の着メロだ。
 シャーペンを置いて通話ボタンに手を伸ばした。
「烏丸(からすま)ですが」
「ラス。卵、孵ったで」
 僕は思わず椅子を押して立ち上がった。
「今か?コドモは?」
「つい三分ほど前や。うじゃうじゃおる」
「すぐ行く」
 ジーンズの尻ポケットに携帯をつっこみ、部屋を飛び出して階段を駆けおりた。
 玄関に直行しようとしたところでちょっと思いついたことがあった。台所にまわって冷蔵庫の扉を開け、小さなタッパーをつかみとる。
 リビングでTVを観ていた妹が振り向いた。
「どこ行くのぉ?」
「寿荘。七時までには帰るって母さんに言っといて」
「私も行くぅ」
「今日はやめといたほうがいいよ」
 バスケットボールを受けとめるようなかたちに両手のひらを外向けて、指をびらびらと動かしてみせた。
「勇(いさみ)の大っきらいなモノだらけだから」
「そんなことばっかり言ってぇ、ちっとも滋(しげる)くんに会わせてくれないしぃ」
 最後まで聞かずに玄関のドアを開けて外に出た。車庫の隅から愛車のMTBをひっぱりだして勢いよくこぎだした。
 真夏の夕まぐれ、太陽は傾いていてもあたりには熱気と湿気がむんむんと残っていた。ペダルを踏むたびに汗が吹き出したが、スピードをあげると顔にあたる風が心地よかった。

 僕の家のある明智市の西部は、震災以降急激に開発が進んで神部市のベッドタウンになった。新興住宅地をぬけて、渋滞する国道を横目に狭い旧街道を走る。青々とした水田のあぜ道に乗り上げ、貯水池の土手をつっきる。キャベツ畑とレンタルCD店の間を折れて、斜めに伸びた砂利道沿いの古い住宅地に入り込んだ。
 モルタル壁にひび割れの走る古い木造アパートの前で停車した。鉄柵にMTBをくくりつけ、手すりの錆びた階段を一段抜かしで駆け上がった。
 外廊下の西端、二〇五号室がゴールだ。ドアには油性マジックで「葺合(ふきあい)」と殴り書きしたかまぼこ板が貼りつけてある。ノックするとぺかぺかと薄っぺらい鉄板の音がした。
「開いとうで」
 少しかすれた低い声が応えた。
 ドアを開けると六畳の和室ひと間、上がり口の半畳はコンクリのたたき。奥には何のしきりもなく狭い板の間が続き、流し台とコンロ台がちんまりと並んでいた。
 キアは和室の真ん中に古風なちゃぶ台をおいて食事をかきこんでいた。
 仕事のあと風呂屋に行ってきたらしい。黒無地のTシャツに黒のスウェットパンツという格好で、まっすぐな黒髪の房が首筋にはりついていた。
 大皿と汁椀はもう空になっていた。どんぶり飯のおかわりをついだところに持参のタッパーを追加してやった。
「筑前煮。残りもんで悪いけど」
「ごち」
「クモは?」
「トイレの天井」
「孵るのはもっと遅い時間帯だと思ってたな」
「運が良かった。俺のいる間で」
 トイレはコンロ台の並びの狭苦しい一角にあった。白熱灯をつけたとたん、天井の細かい点々模様がざわっと動いた。
 目をこらすと点々ひとつひとつに八本ずつ、かわいらしい脚がはえている。親指と人差し指を直角に伸ばし、両手あわせて一辺約五センチの正方形の窓をつくり、天井にあてがって素早く窓の中の仔グモを数えた。
「一平方メートルに散らばっているとして、ざっと六百四十匹か」
 こんなに小さいのに、ひとつひとつが懸命に生きて動いている命だと思うと、なんとなくいじらしくて頬がゆるんでしまう。
「十匹ぐらい、うちに連れて帰ってもいいかな」
 台所ではもう食器を洗う音がしていた。
「家の人がいやがらへんか」
「母さんは平気だよ。勇には黙っとくし。採集瓶を持ってくりゃよかった」
 天井と壁の境目に、親指の先くらいの大きさの、和紙をしわしわにまるめたような薄汚れた物体がはりついていた。一週間ほど前、母グモは、この卵嚢を重そうにかかえてキアの部屋に逃げ込んできたのだ。
「母グモはいなくなったのか?ゆうべまでそのへんうろうろしてたろ」
「ん……今日は見てない」
 皿洗いを終えたキアは、ちゃぶ台を片づけてストレッチを始めた。
 ベッドもTVもAVもPCも無い、潔いほどに調度の少ない部屋。それでも狭い。僕は邪魔にならないよう流し台にもたれて見守った。
 キアが背のびをすると低い天井に指先が届いた。上から下へ身体をゆっくり伸ばしてから、体操選手のまねみたいなことを始めた。
 表情はそっけないが、こんなふうに手足の動きが元気なのはかなり上機嫌な証拠だ。両足を開いて座り、胸までぺたりと畳につけた。両手のひらを躯幹に引き寄せて支え、腕の力だけでゆっくりと腰を持ち上げ、バランスをとりながらするすると逆立ちした。
 Tシャツがずりさがって平らな腹が半分見えた。さきほどの食事がどこに収まったのか不思議なくらい、余分なところのない体格だ。つま先が天井に触れる寸前、前後に脚を開く。背中にまわした足先を音もたてずに畳につけた。上体を起こそうとして小さな声をあげた。
「おった」
 目線を追うと、天井からさがった蛍光灯の陰に、母グモが縮こまって隠れていた。長い脚を広げると音楽CDほどの大きさに見えるが、びっしり灰褐色の毛のはえた胴体はイチゴくらいのものだ。
 僕が首を伸ばして近寄り、しげしげと眺めても逃げようともしない。
「元気ないな」
「卵を守ってる間、断食だったせいかな。アシダカグモって産卵が終わっても死なないはずだけど」
 キアがふっと眉根に皺を寄せた。
「ラス。台所のタッパーとって」
「って、僕が持ってきたやつ?」
 洗ったばかりの空容器を持っていってやると、右手でちょいとクモの尻をつつき、歩き出したところを左手のひらですくって容器に放り込んだ。
「咬まれるぞ」
 母さんには黙っておこう、と心にメモして横からのぞきこんだ。無言で指さされたクモの右第二脚に、何か赤っぽいものが絡まっていた。
「糸?クモの吐いたの……なわけないか……」
 縒りのない糸は褪せた赤褐色で、かなりへたっていたものの、合成繊維らしい硬さを残していた。誰かがクモの脚に結びつけたらしく、小さな結び目も見えた。
「どっかでひっかけて絡まっただけ、じゃなさそうだ」
「器用な仕事や」
「何日も前から見てたのに気がつかなかったな。動きが素早かったからかな。こいつ、誰かのペットだったのか?」
「脱皮するやつの脚に糸結ぶか」
 僕らは顔を見合わせた。
 目覚まし時計がチリチリと無遠慮に鳴り出した。
「時間切れや」
 タッパーを中身ごと僕の手に載せて、キアは小さなポーチを腰に巻きつけ、厚手のソックスとジョギングシューズを手早く履いた。
「そいつ、頼むわ。出る時は鍵も」
「土曜の夜くらいバイトはずせよ」
「わけありでな。あと一週間で夏休みやし、平日の夜はあけとく。下旬のシフトは月金オフや。そっちの期末は?」
「うちは二期制だから、休み前のテストは無いよ」
「そやった。お先」
 言い終わった時には身体はもうドアの外、二階の手すりに片手をついてひょいと地面に飛び降りていた。
 部屋から首をつきだすと、国道に向かって軽快に走っていく後ろ姿が見えた。バイト先まであの足なら七、八分で着くだろう。
「さて……」
 部屋に戻ると、仔グモ達はトイレのドアの隙間からあふれだし、壁を伝っててんでに散らばっていくところだった。
「クモの仔を散らすってこういうことか。なるほどね」
 じっとしたままの母グモを見おろす。
「安心しなよ。みんな元気に旅立っていったから。さて、あんたはどうしよう?」
 とりあえず携帯内蔵のカメラをマクロ設定にしてクモの全体像と脚部のアップを撮影した。ストラップにぶらさげたミニサイズのスイスアーミーナイフからハサミをひきだし、赤褐色の糸の端を数ミリ切り取ってそっとティッシュに挟んだ。
 それが何かの役にたつかとか、そのときに考えていたわけではなかった。


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