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第二章 脱皮 (1)

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2007/07/24 Tue.


 明智市沿岸部の最東端は市内最大の商業地域と最大の漁港が隣接しており、TVのグルメ番組なんかでおなじみの観光地でもある。もっとも、そのあたりは今回の調査区域をはずれてしまう。
 僕が手始めに訪れた漁港はもう少し西寄りで、市内第二の規模と言われている。なかなか立派な漁協施設があって、漁師の奥さん達が水揚げされた魚の選別や生け簀の管理に忙しく立ち働いていた。
 昼網の競りの準備を終えた奥さん達にまじってひなびた食堂にはいり、新鮮な魚料理と世間話にご相伴させてもらった。
「地理の勉強で漁村の生活を調査しています」
 という僕に、
「漁港があるからゆぅて、漁村があるなんて今どき決まってへんよ」
「こんな土地の値段の高いとこに、私ら家買えんしね」
 奥さん達は豪快に笑いながら答えてくれた。
「サラリーマンと変わらんのよ。毎朝家から通ぅて来て、水揚げは全部河岸でさばいて、晩ご飯つくりに帰るんやから」
 話題はそれから、漁港の堤防のすぐ脇に建った高層マンションのことになった。三十階建ての窓から釣り糸を垂らしてチヌが釣れるかとか、今年の台風で絶対土台が傾くにちがいない、とか。
 あっけらかんとした冗談が飛び交うのを聞いているのは楽しかった。でも、こちらの目的にはあまり近づいていないな、という気もした。試しにキアが拾った網の残骸も見てもらった。
「底引き網やね。この手の色は、この辺ではもう使わへんね」
「漁村が見たいんやったら、もうちょっと西に行ってみたら?」
 調査区域の西端は隣の籠川市と一体化した臨海工業地帯で、埋め立て地に工場や倉庫が並んでいる。次に行ってみるとしたら、そのすぐ東の漁港付近だろうか。その名も「浜町」と呼ばれる地域だ。

2007/07/25 Wed.


 ここ数日、いやになるほどの快晴が続いていた。
 高校の補講が終わるのを待ちかねて浜町の漁村に直行し、集落から少し離れた防風林の中でムシ探しを始めた。植栽はほとんどクロマツで、マツノマダラカミキリがすぐにみつかった。虫害のせいか、立ち枯れたマツも多かったが、手入れや防除はあまりされていないようだ。
 日陰にいても、アンダーシャツはすぐに汗でずくずくになり、制服のカッターにまで滲みだしてきた。僕はクロマツの樹皮の隙間に目をこらし、下生えをかきわけて、もそもそ這いだしてきたオオゾウムシだのヤスデだのをチェックし、愛用のフィールドノートに記載していった。
 黙々と作業を続けながら、林のすぐ横の車道を行き来する人たちのチェックも怠らない。もちろん、初日から見ず知らずの人たちに声をかけたりはしない。
 ほとんどの人は僕に気づきもせず、気づいても無視して通り過ぎる。ときたま、怪訝そうな顔でこちらをうかがう人がいれば、軽く愛想笑いしてすぐに作業に戻った。
 

2007/07/26 Thu.


 同じ林で調査を続けた二日目、日も傾きかけた頃になって、小学生が数人近寄ってきた。僕のノートを後ろからのぞきこんで、喚声をあげた。
「うわぁっ、ゲジゲジやで。キモッ」
「きしょいムシの絵ばっかりやん。趣味悪う。ヘンタイ」
 口ではけなすが、男の子達の目は輝いている。僕も笑って別のページをめくってみせる。
「どの場所にどんなムシがいたかスケッチしてるんだよ。まじめな研究だぜ」
 取り巻きの人数がちょっと増えてきたところで、サービスをしてあげた。
 立ち枯れのクロマツの木の幹に足をかけてひょいと高所に手を伸ばす。つかみとったのはウバタマムシだ。シブい光沢のある前羽を見て、子供達が喚声をあげた。
「触らせてよ」
「みんなが触ると弱っちゃうから、見るだけにしとこう。あとで元の木に帰すからね」
「あんちゃん、大学の先生か?」
「そんな年じゃないよ。まだ高校生」
「なんや。姉貴と一緒か」
「チュウのねえちゃん、明智ショーギョーやろ。ムシなんか関係ないやん」
「そうかあ。僕の学校はメイホウっていうんだ」
「俺、カナブンのみつかるとこ、知っとう」
「昨日、アブラゼミつかまえてんで」
 小学生はまだまだかわいい。この子達もあと数年もすれば、ムシなんか相手にしなくなっていくんだろうか。ちょっと寂しいな。
 ひとしきり遊んで、海に夕焼けが映える頃、僕らは手をつないで家路についた。玄関先で立ち話していたお母さん達に挨拶し、子供達に手を振って別れた。ムシを調べている変な高校生の話題が、今晩の食卓にのぼってくれるだろうか。


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