南八下校区の社寺の歴史

中仙寺と牛頭天王坐像

石原町に融通念佛宗の「金宝山光明院 中仙寺」(本尊:阿弥陀如来 総本山:大阪市平野区の大念佛寺)がある。

当寺の開創年は不詳であるが、『大阪府全誌』によれば、当寺に安置している地蔵菩薩坐像には永享4年(1432年)の刻銘があり、享禄年中(室町時代)に納められたとの記載がある。

大念佛寺所蔵の延宝5年(1677年)の「大念佛寺45代記録并末寺帳」によると、もと浄土宗だったものを寛文6年(1667年)に融通念佛宗に改宗したとされている。

(旧中仙寺)

当寺の主な所蔵仏像としては地蔵菩薩坐像(石造・像高21,1㎝、室町時代の作)の他に、昭和47年に大阪府指定有形文化財に指定されている『牛頭天王坐像(ごずてんのうざぞう)』(木造像高59,0㎝)がある。

(牛頭天王坐像)

牛頭天王はインド舎衛城の祇園精舎の守護神であり、日本では京都祇園の八坂神社などに祀られて病気や災いを除く神として信仰されている。

当寺の像は顔が三面・手が四本の明王形であるが、正面から見ると三面であることを感じさせない配慮がされ、忿怒形でありながら直接的な怒りをあらわさない穏やかな感覚で表現されている。

頭と胴体の中心部は一材で彫出され、比較的スマートな体つきや浅い彫り口などから平安時代後期12世紀の作と考えられる。

なお、当寺の旧本堂は享保4年(1719年)に建立されたもので老朽化が進み、檀家の皆さんの力で再建され、平成5年3月に新本堂が落慶。山門を入って左側に堺市教育委員会が設置した大阪府指定有形文化財の解説碑文がみられる。

(現在の中仙寺)

また、前項「南八下小学校の創立」でも紹介したとおり、明治5年7月金田村郷学石原出張場が当寺本堂に開校され、南八下小学校発祥の地でもある。

参照:「堺市教育委員会中仙寺調査資料」より

 

熊野神社と鬼子母神

菩提には古くから「熊野神社」がお祀りされている(神社所在地は美原区菩提)。

(菩提の熊野神社)

熊野神社とは、紀伊半島南部の熊野にある本宮(ほんぐう)・新宮(しんぐう)・那智(なち)の三つの聖地のことで、総称して熊野三山と言い、また、参詣することを、熊野詣(くまのもうで)と言う。

朝廷の度重なる熊野行幸をきっかけとして、熊野は全国に知れ渡るようになった。その後、 皇室から武士さらには庶民へと熊野信仰が広がり、平安時代末から鎌倉時代にかけて身分を問わず大勢の人々が列をなして熊野に詣でた。

その参詣者の列が、まるで蟻が餌と巣の間を行列を作って行き来するように見えたので、「蟻の熊野詣」とたとえられるようになった。

熊野詣がこれほどの隆盛を見たのは、神霊である熊野神(熊野権現)が、身分や性別を問わず誰でも受け入れてくれる神々だったことによるものである。

菩提の熊野神社が、いつ頃に分祀されたかなど詳しいことは判らないが、地域の氏神様として今も継承されている。

また、菩提の熊野神社には「鬼子母神」が合祀されている。

鬼子母神は、元々インドの「ハーリーティ」という夜叉で、千人の子供の母であったが、しばしば人の子をとって食っていた。

ある時お釈迦さまが、ハーリーティが一番可愛がっていた末の子を隠したところ、ハーリーティは気も狂わんばかりにその子を探し回るが見つかりません。そこにお釈迦さまが現れて、「子供がいなくなるということがどんなにつらいものか分かったか?」と諭した。

この事件で、親の心を知り、心を入れ替えたハーリーティは仏道に帰依し、子供を守り、安産をさせてくれる慈愛の仏、鬼子母神となった。鬼子母神の霊験は、夫婦和合・安産成就・恋愛成就のほか、持病治癒・災禍除去とされている。

鬼子母神の像には、しばしば吉祥果(きちじょうか)と呼ばれる果物が見られる。これは、心を入れ替えた鬼子母神が、子供を食う代りに、この吉祥果を食うようになったからとされている。

吉祥果は柘榴(ザクロ)に似た果物で、菩提熊野神社の境内には柘榴の木が植えられており、この実を食べると子宝に恵まれるとの言い伝えが残っている。

(熊野神社の欄間にある柘榴の彫り物)

参照:「熊野三山のイロハ」「法明寺ホームページ」より

 

地蔵菩薩

菩提、大饗野、石原、八下の各町内には、昔から「お地蔵さん」「お地蔵様」と親しみをこめて、地蔵菩薩が祀られている。

(八下のお地蔵さん)

(大饗野のお地蔵さん)

この地蔵信仰はいつごろからどのような目的で信仰されたのであろうか。

梵名クシティ・ガルバで、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。クシティは「大地」、ガルバは「体内」「子宮」の意味で、訳して「地蔵」と言う。

大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々を無限の慈悲の心で包み、救うところから名づけられたとされる。一般的には「子供の守り神」として信仰されている。

日本においては、浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生のかなわない衆生は、必ず地獄へ落ちるものという信仰が強まり、地蔵に対して、地獄における苦しみからの救済を求めるようになった。

また、地蔵菩薩の像を六体並べて祀った六地蔵が各地で見られるが、これは仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は六種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道のそれぞれを六種の地蔵が救うとする説から生まれたものである。

この地域では、小寺共同墓地に六地蔵像が見られるように、墓地の入口などによく祀られている。

石原町中仙寺境内の地蔵堂に祀られている地蔵菩薩坐像には、「永享四 壬子卯五」の刻銘があり、この銘にある室町時代・永享4年(1432年)に製作されたものと思われる。

(中仙寺地蔵堂の地蔵菩薩像)

『大阪府全志』には、「中仙寺には地蔵堂があり、地蔵堂に安置せる地蔵菩薩は、比叡山の沙門叡好なる者、肥前国肥御前に感得して比叡山に安置ありしを、後河内国高安の里に移し、享禄年中同地の某なるもの石造を負いて廻国し、更に当寺に納めしものなりという。」との記載があるように古くから祀られていたようである。

当校区の各町内で実施されている「地蔵盆」は、地蔵菩薩の縁日である8月24日に向け、その前日の宵縁日を中心とした3日間の期間を言い、そのうちの日を選んで行われる地蔵菩薩の祭りのことを言う。

地蔵菩薩は、中世以降に子供の守り神として信仰されるようになった。広く知られる伝説によれば、地蔵菩薩が、親より先に無くなった子供が、賽の河原で苦しんでいるのを救うと言う。

このことから地蔵祭りにおいては、特に子供が地蔵の前に詣り、その加護を祈る慣わしになっている。

参照:「フリー百科事典ウィキぺディア」「大阪府全志第4巻」「堺市教育委員会中仙寺調査資料」より

 

弁才天(弁財天)

石原町の吉田池に祀られている「弁才(財)天」はどのような神様であり、いつ頃からどのような目的で祀られているのであろうか。

(現在の弁天島)

弁才天は、インドでは「サラスバティー」と言い、聖なる河の名を表すサンスクリット語で河の神様・水の神様として、また、河の流れる音からの連想から音楽神とされ、福徳神、学芸神など幅広く崇拝されている。

日本の弁才天信仰は、東大寺法華堂安置の日本最古の立像に見られるように奈良時代に始まっており、中世以降、神道や日本土着の水神である市杵島姫命や宇賀神と習合され、神社の祭神として祀られることが多くなった。

元来、インドの河神であることから、日本でも水辺、島、池など水に深い関係のある場所に祀られることが多い。

石原町の弁才天は、「弁天さん」と親しみをこめて呼ばれ、昔から溜池の守り神、水の神として祀られている。

狭山池水懸かりである当地域の溜池の成り立ちは古く、水田耕作に無くてはならない溜池を守るための神様として昔から祀られていたと推測される。

なお、現在の吉田池の弁才天は、昭和63年から平成5年にわたり溜池改修工事が実施され、その際に整備されたもので、以前は池の中に浮かぶ小島に祀られていた。

(吉田池改修前の弁天島)

 

八坂神社

石原町に古くから地域の氏神様として祀られている八坂神社の祭神は、京都祇園の八坂神社の分社と伝えられている。ではいつ頃から祀られているのであろうか。

(八坂神社)

京都祇園の八坂神社の歴史は古く、社伝によると平安建都の約百五十年前の斉明天皇2年(656年)と伝えられ、都の発展とともに日本各地から広く崇拝を集め、現在も約3,000の分社が日本各地にあり、その内の一つが石原町の八坂神社と言える。

祭神は素戔鳴尊(スサノヲノミコト)、櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)、八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)で、日本神話でも知られるように、スサノヲノミコトはヤマタノオロチ(八岐大蛇=あらゆる災厄)を退治しクシイナダヒメノミコトを救って地上に幸いをもたらした神として災難厄除け、家門繁盛の神様として知られている。

八坂神社すなわち祇園さんの祭神であるスサノヲノミコトは、インドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神である午頭天王(ゴズテンノウ)ともされている。

現在、石原町中仙寺に安置されている牛天王坐像(大阪府指定有形文化財)は、もと当寺の南に接する八坂神社に祀られていたものを、明治時代の神仏分離の際に中仙寺にもたらされたもので、坐像の作り方から平安時代後期12世紀の作と言われている。

このことから、石原町の八坂神社は、今から約900年前には、既に当地の氏神様としてお祀りされていたものと思われる。

(お社)

参照:「京都八坂神社ホームページ」「堺市教育委員会編 堺の文化財」より