南八下校区の地名のおいたち・史跡

南八下のおいたち

中世、この「南八下」の地域は河内国に属し、平安時代後期に丹比郡から分立した八上郡といわれた。

分立後の八上郡は元の丹比郡の中央部西端を占め、その範囲は西除川より西の地域で、北は摂津国住吉郡及び丹北郡、東は丹南郡、南と西は和泉国大烏郡に接していた。

石清水八幡宮寺領の諸荘園の存続・停止を規定した延久4年(1072年)の太政官牒(石清水文書)に八上郡の郡名が初めて見られる。

近世、江戸時代初期は徳川氏の直轄地であったが元禄13年(1701年)石原・野尻が、また、正徳3年(1713年)菩提・大饗・小寺の各村が上野館林藩秋元氏領となり幕末まで続いた。

近代、明治4年(1871年)廃藩置県により郡内の各村は堺県、館林県に属したが、明治22年(1889年)の町村制施行により八上郡の南花田・中・野遠・河合の各村が合併し北八下村となり、大饗・石原・菩提・小寺・野尻の五力村が合併して「南八下村」となった。

村名のいわれは、八上郡の下にできた村という事から「八下」となり、北八下に対して南八下と名づけられた。

明治29年、南河内郡の成立により同郡に所属。昭和33年に堺市と合併(小寺、大饗、菩提の一部が美原町へ分かれる。)し、現在に至る。明治22年の人口は2,001人、明治44年には戸数417戸、人口は2,315人とある。

時代の移り代りにより地域に「南八下」の名が残るのは今や、小学校・中学校・自治連合会・地域会館・農協のみとなった。

(大正末期に建てられた南八下村役場)

参照:「日本地名大辞典27巻」「大阪府の地名」「堺の歴史探索・地名あれこれ」より

 

 

石原のおいたち

「石原」という地名は、古くは奈良時代に見られる。平城宮造営の使役に出た人々の中に路傍で餓死する者が多数に及び、その人々を救済するために高僧「行基」が宿泊施設を造営した。

その施設は「布施屋」と称され山城、摂津、河内、和泉で9箇所造営された。その一つがこの地に在ったとされ、「行基年譜」の天平13年(741年)記に「石原布施屋在丹比郡石原里」とある。

石原布施屋は現在の石原町からほど近い、日本最古の官道と言われる「竹内街道」(校区の近くでは中央環状線の北側、野遠町・金岡町を通り東西に横断している道路)すなわち丹比道に沿って設けられ、古くから交通の要地として栄えたことが推定される。

(現在の竹内街道)

近世(江戸時代)では、「河内国一国一村高控帳」に河内国八上郡石原村として村高500石(1石は約150kg)が記されている。

石原村は当初幕府直領であったが、その後武蔵川越藩秋元氏領、出羽山形藩秋元氏領、上野館林藩秋元氏領となり明治時代に至っている。

参考までに、弘化2年(1845年)の家数90軒、明治9年(1876年)の人口404人と記録されている。

参照:「日本地名大辞典27巻」「日本歴史地名辞典28巻」より

 

菩提のおいたち

菩提の地名は、古くは天平年間(729年~749年)光明皇后によって当地(現在の美原区大饗付近)に河内国分尼寺が創建されたとする伝承があり、同寺開基の天竺僧「菩提遷那」にちなんで地名が生まれたと云われている。

現在の南八下小学校の南東に国分池が現存し、その周辺からは奈良時代後期から鎌倉時代にかけての瓦が出土している。

同寺は室町時代の明徳の乱(1391年)で廃絶し、残った一支坊が真言宗小出山宝珠院であると伝えられている。宝珠院は「溜池の歴史」で紹介した南八下小学校西側で、今は都市開発で姿を消した小出山池(菩提ファーストサカイ付近)周辺にあったと云えるのではないか。

菩提村は古くは丹比郡に属したが、平安時代後期以降は同郡から分立した八上郡に属し東大饗、西大饗とともに大饗村を構成していた。

近世(江戸時代)では、「河内国一国一村高控帳」に河内国八上郡菩提村として村名が見られ、村高538石余(1石は約150kg)、内257石が幕府領、281石が大阪町奉行久貝正俊領とされている。以後の変遷は、石原村と同じである。

ただ、菩提村は水利関係の古文書などから寛政3年(1791年)に東菩提と西菩提に分けて記載されており、実質的には2村に分かれていたと考えられる。

参考までに、明治9年(1876年)の人□は332人と記録されている。

(堺市と合併当時(昭和33年)の菩提付近)

参照:「日本地名大辞典27巻」「日本歴史地名体系28巻」「大阪府の地名Ⅱ」より

 

 

大饗野のおいたち

大饗野の地名は、大饗に由来する。

大饗の地名は、古くは「続日本紀」天平神護元年(765年)10月28日条に称徳天皇が紀伊国行幸の帰途、河内国丹比郡に至ったとの記事があり、この時、当地が饗宴の場となったので地名が生まれたと言われている。

大饗は古代、丹比郡に属したが平安時代後期以降は分立した八上郡に属し、弘安9年(1286年)の金剛寺(現河内長野市)、応永元年(1394年)の西琳寺(現羽曳野市)寺領田畠関係目録文書に「田井御庄大饗郷」、「正税分、但大饗郷内在之」が見られる。

大饗郷は鎌倉期~室町期に見える郷名で西除川中流左岸に位置し、東西大饗村、菩提村と一村を形成、西は枝郷引野(現引野町)に至る。寛政二年(1790年)「東西大饗村・東西菩提村立会麁絵図」(都立中央図書館加賀文庫蔵)に、菩提村の北西部、菩提村枝郷「大饗野」と記される集落が見られる。

このことから、大饗野は大饗郷の枝郷であったが、その後分村し、菩提村の枝郷となったと考えられる。

大饗村は東西の大饗村と菩提村の総称で、江戸時代初期には既に三村に分立していたと思われる。水利関係などでは一括して大饗村として扱われた。

明治6年の地引絵図(壇野家文書)には三村の村領が各集落周辺部を除き、錯綜地として描かれている。

(昭和17年当時の大饗野と菩提付近)

参照:「日本地名大辞典27巻」「日本歴史地名体系28巻」「大阪府全志第四巻」より

 

出屋敷(八下)のおいたち

出屋敷は、菩提村の枝郷である大饗野と同様に、小寺村の枝郷であったと考えられる。

小寺の地名は、室町期の明徳の乱(1391年)に焼失した長和寺(平松寺境内に長和寺の銘文をもつ五輪塔の地輪が残存することから長和寺跡と考えられる。)の所在に由来し、「古寺」の地名が生まれ、永禄年間(1558年~1596年)守護代安見美作守の頃に小寺の字に改めたと伝えられる。また、字地に「田地坊」が見られ、「デジボ池」はこの字名からつけられたと思われる。

(現在のデジボ池と八下町)

小寺村は西除川左岸の八上郡東部の村で、北は野遠村、西は菩提村と石原村、南は東西大饗村、東は丹南村、今井村、太井村に接する。

また、「続日本紀」天平神護元年(765年)10月28日条に称徳天皇が、和泉国日根郡から弓削行宮に向かう途中、丹比郡に至っているが、丹比行宮が当地の北部にあったとされ、周辺字名に神殿池・馬場浦が見られる。神殿池付近から唐草文軒平瓦が出土したと伝えられるが未調査。

参照:「日本地名大辞典27巻」「日本歴史地名体系28巻」「大阪府全志第四巻」より

 

石原遺跡

石原町遺跡は、昭和60年6月に石原町3丁及び菩提町2丁で実施された埋蔵文化財有無確認の試掘調査により、新たに発見された古墳時代(6世紀)と中世(12~15世紀)を中心とする複合遺跡である。

発掘調査に至る経過は、地域の人口増加により、日置荘中学校のマンモス化を解消するため、分離校として新設された南八下中学校の造成工事に先立って実施されたものである。

(現地説明風景)

出土した遺構・遺物は、旧石器時代の石器類と土壙、古墳時代後期の窯祉・土壙・溝・ピットと須恵器・土師器、鎌倉時代から室町時代にかけての溝・土壙と土器・陶磁器類、江戸時代の土壙と陶磁器類である。

遺跡調査から推論される石原町遺跡は、窯祉を中心とする古墳時代後期の須恵器生産者集団の活動拠点の遺物と、12世紀頃より開墾された水田耕作地で開墾者集団が用いた遺物に大別される。

後者の遺物からは、日常用品の出土に加えて、当時として高級品であった白磁ないし青磁等の輸入陶磁器の破片が多数出土し、開墾者集団の居住地が近辺に存在する可能性を十分に示すものである。

加えて、この開墾者集団は、本遺跡の南方の美原区大饗にあるとされる大饗城をはじめ、美原区余部遺跡における中世の「城館」址等から、この地域に盤裾したかなり大きな勢力の一部であったことが推定される。

参照:1989.3堺市教育委員会編「石原町遺跡発掘調査報告」より

 

溜池のなりたち

校区には、国分池・あたらし池(菩提町)、石池・新池・吉田池・細池・埴池・鴨池・芦池(石原町)、デジボ池(八下町)等多くの溜池が現存する。そのほかに、今は都市開発などで姿を消した小出山池(菩提ファーストサカイ)、鍋田池(八下町グランド)、下池(引野町児童公園)、小池(小池グランド)などもあった。

(現在の吉田池)

これらの溜池はいつ頃、何の目的で築造されたのだろうか。

校区の溜池の水源は、狭山池(大阪狭山市)である。狭山池は、「古事記」や「日本書紀」にも築造の記録が見られる日本最古の人工池である。奈良時代の高僧行基の業績をしるした「行基年譜」によれば天平13年(741年)の頃に狭山池の修理をしたと記されている。

溜池の名称が記されている最も古い資料としては「狭山池水下かんがい図」(慶長年間1600年頃)に、狭山池を水源として東除川・西除川池水用水路流域に130有余の池が示されており、その中の重要な池として国分池、吉田池、埴池、デジボ池の名が見られる。

このように狭山池水懸りである南八下校区の溜池も、狭山池流域の水田耕作地の開墾が始まった頃(前項の石原町遺跡の出土遺物から12世紀頃と推測される)に水田かんがい用として既に存在していたものと推定される。

現在、溜池の果たす役割は、かんがい用以外に治水ダムや地域住民に散策やジョギング、魚つりなど市民生活上の憩い・うるおいを提供するかけがえのない場所である。先人から受け継がれたすばらしい遺産を、地域で大切に守っていきたいものです。

(吉田池改修記念碑)

参照:「大阪府立狭山池博物館資料」「狭山町史第2巻」より

 

南八下小学校の創立

1872年(明治5年)7月3日、「金田村郷学石原出張場」として石原村中仙寺本堂を仮校舎として開校。通学区域は石原・菩提・引野の三村。太政官布告により学制が公布される1ヵ月前のことです。

(懐かしい栴檀(せんだん)と旧講堂)

翌年、郷学制度が廃止。学区制度となり「河内国第2番小学」と改称、その後「石原尋常小学校」、1902年(明治35年)「八下尋常小学校」に校名改称し現在の校地に移転等様々な変遷があり、1946年(昭和21年)「南八下村立小学校」となり、1958年(昭和33年)南八下村が堺市と合併し「堺市立南八下小学校」となる。

今年で創立136年になり、堺市で最も歴史のある当校では、「自ら考え活動する子」の育成を教育目標に掲げ、平成24年度までに7,394名の卒業生を世に送り出している。

(昭和10年頃の小学校)

参照:堺市立南八下小学校創立120周年記念誌「せんだん」より