泡沫戦史研究所/ドイツ治安警察部隊史/警察装甲車/戦車部隊(1942年〜1945年)

第10警察戦車中隊
10.Polizei-Panzer-Kompanie

第10警察戦車中隊は1943年3月11日付けのSS全国指導者及び警察長官通達によりウィーン警察自動車学校の要員から編成され、本来ならば第9警察戦車中隊と同様に次のような編成になる予定でした。


第10警察戦車中隊

中隊本部
  指揮班
  補給段列
  修理工場小隊
第1小隊:パナール装甲車×3両
第2小隊:パナール装甲車×3両
第3小隊:ロシア製装軌式装甲車×5両


 1943年4月9日には第27修理工場小隊が配属されたものの、第3小隊は装備するはずの装甲車輌が手配できず、1943年12月2日付けの通達により中隊は第3小隊を本国に残した状態で出動することになりました。第3小隊の編成が完了したのは1944年3月16日になってからで、鹵獲T26戦車(装軌式装甲車)を装備したようです。

 第1小隊と第2小隊は第27修理工場小隊とともに、高級SS及び警察指導者「南部ロシア」(HSSPF. Rusland-Sud)の管轄地域に出動し、第10SS警察連隊に配属されて1943年5月12日から6月8日まで戦闘団「シーマナ」(Kampfgruppe "Schimana")の一部としてパルチザン掃討作戦に参加しました。その後中隊は第11SS警察連隊に転属となり、1943年6月から11月まで引き続きパルチザン掃討作戦で4回の作戦行動に参加しました。
 1944年1月初めから3月20日まで、中隊は配属先の第11SS警察連隊とともに第13軍団の前線に移動し、Kostopol〜Rowno〜Dubno〜Kremianez〜Brody地区で防衛戦闘に参加しています。

 一方、ウィーン警察自動車学校で編成の完了した第3小隊は、中隊本隊に合流すべく1944年3月17日にジトミル(Jhitomir)を目指して出発しますが、途中で退却行動に巻き込まれるなどしたため鉄道輸送の途中で何週間も足止めされ、やっとブロドゥイ(Brody)地区西方約80kmのリヴィウ(Lwow、独名レンベルグLemberg)で中隊に合流することが出来ました。
 その間、中隊の主力は第11SS警察連隊の各部隊と伴に第13軍団の第361歩兵師団に配属されて1944年4月22日から6月13日までの間ブロドゥイ(Brody)地区の北方で防衛戦を展開し、その後リヴィウ(Lwow)で第3小隊と合流して休養することができました。

 1944年7月15日付けの治安警察部隊の戦力概要および第17軍管区、ウィーン警察司令官(BdO. Vienna)への報告によると、第10警察戦車中隊は第7警察戦車中隊とともに第11SS警察連隊を増強して戦線後方のヴィスラ河の屈曲部へ移動しており、そこで7月24日から9月4日まで第10警察戦車中隊と第11SS警察連隊の各部隊は第174予備歩兵師団及び第214歩兵師団とともに戦線を突破したソ連軍を阻止するため防衛戦を展開しました。

 この間の東部戦線の状況は、7月16日から始まったソ連軍第1ウクライナ戦線による夏季攻勢によって、ドイツ軍北ウクライナ軍集団の戦線は第4戦車軍と第1戦車軍の接合部が南北約200kmにわたって突破されてしまいました。7月22日にはリヴィウ(Lwow)前面にソ連軍が迫るとともにリヴィウ(Lwow)の北側を突破したソ連軍は約100km西方のヤロスワフ(Jaroslaw)に達し、更に北ではソ連軍は早くもルブリン(Lublin)にまで達して第4戦車軍が包囲の危機にありました。
 6月まで中隊が配属されていた第13軍団はブロドゥイ(Brody)地区で孤立後、22日に何とか脱出に成功したものの大損害を出しているようです。7月29日にはソ連軍はヴィッスラ河の屈曲部に達して一部では西岸に橋頭堡を築き、はるか北ではワルシャワ近郊に達していました。

 9月までに中隊がロシア戦線で失った人員や機材の損害は第7警察戦車中隊と同様、中隊の半数以上の兵員を失ったのではないかと思われ、、第10警察戦車中隊にも9月には損害を補充するためウィーンへの帰還命令が出されました。


 1944年10月20日付け治安警察部隊の戦力概要によると、第10警察戦車中隊は第18軍管区でウィーン警察司令官(BdO. Vinna)の指揮下にありました。その後12月4日付けの治安警察長官通達により第10警察戦車中隊はウィーン警察自動車学校からイタリア警察司令官 (BdO Italien)の下に配属されて移動することになり、12月7日には車輌などの装備一式が鉄道輸送によりイタリア警察司令官の管轄下に到着しました。
 その後ベローナ(Verona)の東30Kmほどのロニゴ(Lonigo)でイタリア製P40戦車を受領して再編成され、第15警察戦車中隊とほぼ同様な編成となったようです。


第10警察戦車中隊

中隊本部
  指揮班:装軌装甲車P40×2両
  予備班
  補給段列
  修理班(第27修理工場小隊)
第1小隊:装軌装甲車P40×4両
第2小隊:装軌装甲車P40×4両
第3小隊:装軌装甲車P40×4両


第10警察戦車中隊(1944年12月現在)

中隊本部
指揮班

Stkw.4.

Krad Bwg

K-Pzkw.P40

K-Pzkw.P40
補給段列

Stkw.4

Stkw.4

Stkw.4

WkW.mit Feldkuche

Wkw.

Wkw.

Wkw.

Wkw.

Wkw.

Wkw.

Wkw.

Wkw.
車両整備班(第27修理工場小隊):

Stkw.4

Krad Bwg.

Wkw.

Wkw.

Zugwagen

Wkw.
予備班:

Wkw.
第1小隊

Stkw.4

Krad Bwg.

Wkw.

K-Pzkw.P40

K-Pzkw.P40

K-Pzkw.P40

K-Pzkw.P40
第2小隊

Stkw.4

Krad Bwg.

Wkw.

K-Pzkw.P40

K-Pzkw.P40

K-Pzkw.P40

K-Pzkw.P40
第3小隊

Stkw.4

Krad Bwg.

Wkw.

K-Pzkw.P40

K-Pzkw.P40

K-Pzkw.P40

K-Pzkw.P40
 このスケールで縦1m、横5mです。

 1945年4月9日付けの最高級SS警察指導者「イタリア」(Hst.SSPF Italien)の戦闘序列によると、第10警察戦車中隊はSS警察指導者「上部イタリア中央」(SSPF. Oberitalien Mitte)の管轄下でベローナ(Verona)近郊のサン・ミケーレ(St. Michele)にあり、士官3名、兵120名で編成されており、P40戦車×15両、マシンピストル×30丁、小銃×50丁、ピストル×100丁を装備していました。
 その後中隊はベローナ(Verona)〜Ponton〜リヴァルタ(Rivalta)〜アラ(Ala)〜ロベレト(Rovereto)地区へと撤退する陸軍部隊を援護しながら移動し、5月6日には南チロル地方のボルツァーノ(Bolzano =Bozen)にあって4月9日付けと同じ装備状況を報告した後、アメリカ軍に降伏しました。


2000.11.12 新規作成
2002.3.17 一部改訂
2020.8.12 一部修正
2023.12.10 一部追記

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