泡沫戦史研究所/ドイツ治安警察部隊史/警察装甲車/戦車部隊(1942年〜1945年)

第7警察戦車中隊
7.Polizei-Panzer-Kompanie

 第7警察戦車中隊は1943年1月13日付けのSS全国指導者及び警察長官通達によりウィーン警察自動車学校の要員から編成されることになり、次のような編成が計画されました。


第7警察戦車中隊
7.Polizei-Panzer-Kompanie

中隊本部
  指揮班
  修理工場小隊
  補給段列
第1小隊:シュタイヤー装甲車×3両
第2小隊:シュタイヤー装甲車×3両
第3小隊:ルノー装軌式装甲車×5両

 しかし、2月15日付けの通達により第1小隊と第2小隊のシュタイヤー装甲車×6両と乗員はすべて第13警察戦車中隊に編入されることになり、かわりに第8警察戦車中隊に配属予定のパナール装甲車×6両を編入し次のような編成になりました。

第7警察戦車中隊(1943年2月15日現在)
7.Polizei-Panzer-Kompanie

中隊本部
  指揮班
  第6修理工場小隊
  補給段列
第1小隊:パナール装甲車×3両
第2小隊:パナール装甲車×3両
第3小隊:ルノー装軌式装甲車×5両


 中隊は1943年3月18日付けの治安警察司令官通達により第11SS警察連隊に配属されることとなり、1943年3月29日にウィーン警察自動車学校から高級SS及び警察指導者「南部ロシア」(HSSPF. Rusland-Sud)の管轄地域に在る第11SS警察連隊第2大隊に向けて出発しまし、それに先立つ3月23日には士官1名、下士官5名による先発隊が出発しました。
 中隊は1943年から1944年の間、高級SS及び警察指導者「南部ロシア」の管轄地域であるホメリ(Gomel)地区で第11SS警察連隊第2大隊に配属されて活動しましたが、同じ時期に連隊の第1大隊には第10警察戦車中隊が配属されており、それぞれの中隊の作戦地域はしばしば隣接したり一部は重複したりしていました。

 両方の警察戦車中隊は第11SS警察連隊とともに1944年1月初めから第13軍団の前線に移動し、Kostopol〜リブネ(Rowno)~ドゥブノ(Dubno)〜クレメネチ(Kremianez)〜ブロドゥイ(Brody)地区(当時はポーランド、現在はウクライナ領)で防衛戦に投入され、6月になると両中隊で増強された第11SS警察連隊は、それまでの第13軍団戦区から戦線後方のヴィッスラ河屈曲部に移動しました。
 1944年7月16日から始まったソ連軍第1ウクライナ戦線による攻勢は、北ウクライナ軍集団の戦線を大きく突破し、7月29日にはヴィッスラ河屈曲部に達しており、その後9月まで第7警察戦車中隊と第11SS警察連隊の各部隊は第174予備歩兵師団及び第214歩兵師団とともに戦線を突破したソ連軍を阻止するためヴィッスラ河で防衛戦を展開しました。
 1944年9月13日付けの治安警察司令官通達により第7警察戦車中隊はすべての兵員、機材とともに第11SS警察連隊を離れて後方へ引き上げられることとなり、9月25日には第11SS警察連隊第2大隊と別れて10月2日にはウイーン警察自動車学校に帰還しました。


 第11SS警察連隊第2大隊の大隊長は、1944年9月25日付け日常命令で第7警察戦車中隊について特にふれて次のように記録しています。
 『1944年9月25日付けをもって第7警察戦車中隊は第11SS警察連隊第2大隊から転属となった。私はこの機会に戦車中隊に所属した全員が示した忠誠、任務遂行への強い意志及び模範となる姿勢に感謝の意を表す。第7警察戦車中隊は対ゲリラ戦でも前線においても、戦車戦であれ歩兵戦闘であれ常にその戦場に在った。中隊の被った士官2名を含む16名の戦死者、2名の行方不明者、44名の負傷者という損害が粘り強く行われた戦闘の証人である。戦車中隊の働きは大隊の上げた成果にとって不可欠であった。』


 1944年7月7日付けの治安警察司令官命令により第11SS警察連隊はクラカウ警察司令官の管轄下で再編成された際には、連隊に配属されていた第7警察戦車中隊と第10警察戦車中隊はいずれもウィーンの警察自動車学校に帰還することになっており、7月15日付けの治安警察部隊の戦力概要によると第7警察戦車中隊は第17軍管区のウィーン治安警察司令官(BdO. VInna)からすでに帰還が報告されていましたが、実際には上記のように第7警察戦車中隊は10月2日に到着が報告されています。

 この時期の中隊の構成人員については特に記載がないのですが、同様の編成内容の第2戦車中隊は118名の人員で編成されていましたので、合計62名もの死傷者は中隊人員の半数以上にあたり、中隊はこれまでの防衛戦でウィーン帰還時には戦闘能力をほとんど失ったものと思われます。
 修理工場小隊を除き中隊の士官、下士官・兵は再び出動するためウィーン警察自動車学校の警察予備戦車大隊に配属され、中隊の回復した傷病兵も順次これに合流しました。
 1944年10月20日付けの治安警察部隊の兵力概要によると、第7警察戦車中隊は17軍管区(ウィーン)及びウィーン警察司令官(BdO. Wien)の管轄地区にありましたが、兵員や機材の補充についての情報はありません。
 中隊に配属されていた第6修理工場小隊は1944年3月3日付けの国家指導者通達によりイグラウの警察自動車学校の修理工場部隊として配属されて車両と設備の修理作業に従事していましたが、1944年9月26日に再び出動準備が整いました。
 第7警察戦車中隊は再び出動することはなかったようですが、中隊の要員は装甲車輌を持たないまま、最期は警察予備戦車大隊とともに出動しオーストリア/ハンガリーの国境付近で終戦を迎えました。


2000.9.17 新規作成
2000.10.8 「第8軍団」を「第13軍団」に訂正
2000.11.12 一部改訂

2023.12.9 一部追記

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