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少し前のことになりますが、2010年4月中から5月中に、バルカンの国 ブルガリア、セルビア、クロアティア、それとイタリア・ローマにかけ 旅しました。 それぞれの街で 私の興味を引き、目についた事がらを描いてみました。 また旅の思い出をいつまでも 覚えておくため、食事・宿・交通手段なども書きました。 2010-11-22 第8回目 スプリット (クロアチア) クロアチア・クーナ (Kn): 1Kn=18..31円 ザブレグ から スプリト に行く ザブレグに2泊し、これからアドリア海に面した世界遺産の街 スプリットに行く。 ![]() 左の切符は ザブレグのトラム(電車)の切符で1区間で、8クーナ。 長距離バス・ターミナルまでの料金。 ザブレグからスプリットのバスチケット バス代 185クーナ ザブレグ長距離バス・ターミナルを10時発 午後3時スプリト到着 到着のバスターミナルは 旧市内のディオクレティアヌス宮殿に近く、真前えに フェリータミナルがある 港に着いた。 ![]() ディオクレティアヌス宮殿の再現図 都市スプリト の成り立ち ディオクレティアヌス宮殿は、クロアチアの都市スプリトに残っている宮殿で、295年-305年、ディオクレティアヌス帝によって造営された。 宮殿はどっしりとした構造をしており、ほとんどローマの軍事要塞のようである。 宮殿南側は海に面し、その城壁は170メートルから200メートルの長さで囲む(高さは15から20メートル)。城壁内の面積は38,000平方キロメートルであった。宮殿の水道は堅固な作りで、ディナル・アルプス山中のヤドロ水源から水道路で供給されていた。この潤沢な宮殿と周囲には、当時8,000人から10,000人の住民が暮らしていた。 639年頃にサロナがアヴァール人とスラヴ人の侵攻で略奪されると、住処を失った市民の大多数が近郊のアドリア海諸島へ逃れた。東ローマ支配が地域で復活するにつれ、ローマ市民は大セヴェルスと呼ばれる貴族の主導のもと、本土へ戻った。彼らはスパラトゥムにあるディオクレティアヌス宮殿に住むことを選択した。宮殿が強固な要塞状だったためである。この時には宮殿は長く打ち捨てられていたが、建造物内部はサロナからの避難民によって、新しい属州の首都として以前より大きな都市に改造された。 ![]() 今日、宮殿はスプリト市の内核として存在しており、今も商店や市場・広場、住宅があり市民が暮らしている。古い聖堂(かつてのディオクレティアヌス帝霊廟)は、旧宮殿の階と通廊の中に折り込まれている。 宮殿を囲む城壁をそのまま都市壁とし、地下室を市の食料庫に転用(現在は一部商店が立ち並んでいる)するなど、遺跡をうまく利用した独特の街並みとなっている。 1979年にはユネスコは、ディオクレティアヌス宮殿と周辺のスプリト歴史地区を、世界遺産に登録した。 (クロアチアの世界遺産 - Wikipedia より抜粋) この地図の黒く四角い部分が、旧ディオクレティアヌス宮殿の城壁部分。 ![]() スプリトのランド・マーク 大鐘楼 大聖堂と鐘楼
ホールの天井は無く空が見えていた 。すごく響きのよいホールでのアカペラグループの歌声は素晴らしい!!
散髪 どうです 男前でしょうー!? 散髪代 50Kn
宿で教えてもらったレストラン こちらの料理は全体に 量は多目 ビール 1本とで 80Kn
手には「Sobe」のパンフレットを持っている。1泊の料金を聞く。150Kn 中心部に近いので決定。 ======================================= |このページのトップに戻る| |
![]() ![]() 記事一覧 第1回目 (トルコ) イスタンブールにて 第2回目 ギリシャ から ブルガリア リラ の 僧院 第3回目 (ブルガリア) ソフィア ヴェリコ・タルノボ 第4回目 (ブルガリア) カザンラク・ブルガス 第5回目 ソフィア(ブルガリア) そして ベオグラード(セルビア) 第6回目 (セルビア) ベオグラード にて 第7回目 (クロアチア) ザブレグ に行く 第8回目 (クロアティア) スプリット 第9回目 (クロアチア) トロギールへ日帰りで行く 第10回目 (クロアチア) ドブロヴニク 第11回目 スプリット (クロアチア) 〜アンコーナ(イタリア) 第12回目 アンコーナ(イタリア) 〜ローマまで 第13回目 ローマでー1 第14回目 ローマでー2 第15回目 おまけの旅行 ドバイにて |