田平のがわっぱ   北松浦郡田平町(たびらちょう)

田平のがわっぱ(河童)と系譜−田平町郷土誌より

年代
主要なできごと(★田平町の河童)
紀元前100年前
漢後期
(約2000年前)
   河童のふるさとはシルクロード地区の、パミール山地にある渓水の一つであった。この洪水は新彊省タクラマカソ砂漠を流れるヤルカンド河の源流にあたっている。
 しかし、そのころ、この地方は猛烈な寒気に襲われ、酷寒と食糧不足に耐えかねた一族は、移動することを決意し、直ちに行動を開始した。
 頭目、漠斉坊が率いる西隊はパミール高原を越えて、ペルシャ(イラン)に出てトルコを通過、地中海を渡ってハンガリーに到着、ダニューブ川を住み家とした。
 また頭目、九千坊に引率された東隊は、中国の東部をめざして出発、まずヤルカンド川を下り楼蘭(ろうらん)を通過、敦煌(とんこう)、王門関(ぎょくもんかん)等を経て、一応青海に落着いたのである。
西暦100年 さらに一行は、黄河を下って西安の東、龍関(りゆうかん)の測に到達し、ここを住まいとしたが、ここも依然として食糧不足に見舞われた。 
 ★この頃、田平里の一帯は、弥生文化の最盛期に当り、住民はその繁栄した暮しを楽しんでいた時代であっ た。
376年
応神天皇
 そこで九千坊は東にある蓮来島(ほうらいじま・瑞穂の国・日本)に渡ることを決意し、部下の全部を引連れて黄河を下り、 黄海に出て、直ちに東に向って出発した。
 ところが、出発後間もなく大怪物・梅若の襲撃にあい一族はばらばらになって、やっと難を逃れた。
388年
仁徳天皇
(約1600年前)
 頭目、九千坊の本隊は、熊本県八代に泳ぎ着き、徳渕「徳の津の渕」に上陸して球磨川を安住の地と定めた。
ここは魚類野菜、共に豊富で千余年を平穏におくった。
 ◎徳渕には河童渡来の記念碑があり、碑文にはオレオレデーライタ「呉人呉人的来多」と刻んであり、ここで は毎年六月二十四日に河童祭りを行っている。
 また、組頭八天坊の一族は、長崎に到着、中島川を住み家とし幸せに暮らしたという。
 ◎長崎市炉粕町に祭られていた水神社の神主は、伊予水軍の祖に繋がる渋江氏であるが、その家来は、八天坊が率い る八匹の河童であったと伝えられている。
 ★さらに、組頭浄海坊一族の別動隊も殆んど同じ頃、田 平町野田免にある、つぐめの鼻海岸に到着、一匹は是心寺下の沼(今は道路工事で埋立てられた) に住みついた が、残りは城山、轟を通って里池に落着き、下亀のがわっぱ池から荻田方面や浦谷川あたりまで駆け回り、これ また幸せな毎日を送っていた。
552年
欽明天皇
(皇紀1212年)
 このころ、百済(くだら)から金銅製の仏像が初めて渡来、いよいよ我が国に仏教が広まっていくようになるのである。
625年
大唐時代
(高祖李淵)
 ★田平で楽しく過ごしていた浄海坊は、高祖李淵の治世中、菩薩によって召喚され、使いに来た孫悟空の欽斗雲 に乗って故郷に帰ったが、ここで流砂河の主として永年地域のために働いた功績を賞され、菩薩より「砂悟浄」 の法名を授けられた。
 ★組頭、浄海坊が帰った事が平川の封石騒動の遠因となったのは、まことに皮肉なことであった。
639年
大唐時代
(太宗世民)
 貞観13年9月大宗皇帝「世民」の命を受けた洪福寺の住職三蔵法師は、経典を求めて天竺「印度(インド)」に向って 大唐の都、長安を出発したが、菩薩の命により、孫悟空、砂悟浄、猪八戒もこれに随行することになった。
641年
大唐時代
(太宗世民)
 三蔵法師は天竺の大雷音寺にて大乗仏法の経典を入手し、無事持ち帰った。
650年
大唐時代
(高宗 冶)
 西遊記によると、砂悟浄(旧名浄海坊)はこの年、西天に帰って成仏し「全身羅漢」の贈り名を貰ったという ことである。なお孫悟空の贈り名は西天大聖であった。
804年
延暦2年
 ★この年、青年僧空海が遺唐使船の一行と共に、平戸田の浦港を出発した。
1618年
元和4年
 眉目秀麗な小姓を殺したことで九千坊一族は、当時の 肥後城主加藤清正公の怒りに触れ、球磨川を追放された。その後一族は筑後、久留米の有馬藩主を頼って筑後 川へ移住し、久留米水天宮の守護の役に就いた。
1638年
寛永15年
 江戸の有馬家下屋敷に水神様分霊を祭ることになり、九千坊一族もまた江戸品川に移住、墨田川に住みついた。
 しかし9000匹の中には、好色なものや、酒癖の悪いもの、悪戯者等もおったので頭目から破門されたも のも数知れず、破門された河童は利根川を始め次第に全国の河川に散らばっていった。
 ◎はるぼん(春分村)の吉田文左衛門に腕を切られた佐 世保相の浦川のわる河童や、庄屋の娘に惚れた島原、有馬川の助平河童等は皆この仲間と思われる。
1647年
正保4年
 江戸は、部下を統率するのには、問題が多いと判断した九千坊は、再び藩主の許しを乞うて古巣、筑後川に帰って来た。
1700年
元禄13年
(五代綱吉)
 元禄、宝永年問は河童が民衆の根深い信仰を受け、最も繁栄を極めた時代であった。
 当時の河童は九千坊一族のほか、海御前、安芸の森源左衛門、利根川のネネコ、松前(まつざき)のおたた等国内化成のものも多数居たようである。
1739年
元文4年
 ◎八天坊一族が仕えた長崎の水神社がこの年に炉粕町から八播町の中島川の河畔に移された。
 ◎中島川では毎年7月23日に河童祭りを行っていたが、平成4年から5月5日に変更した。
1752年
宝暦2年
 ★田平に上陸した一族は、浄海坊(後の砂倍浄)が帰った後、放縦(ほうしょう)を極め、子供に相撲をせがみ、水中に引きず り込んだり、馬の尻子玉を引抜いたりの、いたずらがひどく、これを見かねた長寿寺の住職、性山和尚が平川で 諭し、「この石が腐るまで姿を見せてはならぬ」と川に大石を沈め、小石六万個に観音経一石一字を書いて川岸 に埋め、がわっぱを封石した。宝暦二壬申年九月十五日のことであった。
 ★現在、平川橋の側に立っている「大乗妙典一字一石塔」がこれであり、碑文には次の文字が刻まれている。大意は次の通りである。
 なんでいなさる川の神
 これこれ! おまえ等「がわっぱ」よ
 怪しげなこと繰返し
 なんでそんなに仇をする
 お互い寿命があるものを
 身をつつしんで暮らさぬと
 永く地獄に堕ちて行き
 時の裁きを受けるはず
 天の神様お腹立ち
 地の神様も許されぬ
 あぁ! 哀れなりおまえたち
 人の恨みは怖いもの
 力におまえ等驚くな
 川のほとりに碑を立てて
 永久(とわ)に鎮めて見せるから
釜田川・平川橋の大乗妙典一字一石塔
1755年
宝暦4年
 ★同じ仲間で、野田方面をねじろにして暴れていた一匹 も、二年後のこの年、是心寺下の沼のほら穴で昼寝をしているところを、当時の是心寺住職によって幽閉され、 田平のがわっば騒動も一応終結したのである。
 ★現在、野田の久原(くはら)家に保存している幽閉石がこれである。
幽閉石
手前が幽閉石、後は「もち」の大木
昔は是心寺前の池(今は道路)にありました
1988年
昭和63年
 ★この年、たびら史談会、郷土の自然を見直す会、下里区等が世話人となり、がわっぱ祭り伝承会が結成され、 7月16日第一回がわっば祭りが行われた。
がわっば祭りのわっぱ行列 がわっば祭りの相撲大会
1998年7月11日の、がわっば祭り

 ◎また、この年の6月、長崎では中島川のほとりに、河童祠と陶製の河童八天坊の座禅像が献納された。
1989年
平成元年
 ★田平に初めてブロンズ製のがわっぱ座像ができ上り、 これからのがわっぱ祭りには「がわっぱ神輿」として利用される事になった。
田平町民センター・がわっぱ座像
1992年
平成4年
 追記 先人は、恐らく大水や水難事故等を河童のせいにして、その対策や子どもの指導などに旨く応用したのではあるまい か。しかし、いずれにしても河童伝説には夢があり、教訓的な示唆に富む話も少なくない。永く言い伝えていき たいものである。

 最後に「田平に伝わるがわっぱに関する言葉」を書き抜いて終ることにする。

  • 河童が井戸に居たら茄子(なす)を入れると逃げて行く。
     また、瓢箪(ひょうたん)を入れろと言う地方もある。(茄子も瓢箪も浮くので水中に持ち帰れない。胡瓜(きゅうり)は沈むので河童の好物と言われている)
  • 河童に出会ったら丁寧にお辞儀をするがよい。相手もつられてお辞儀をし、天皿の水をこぼす。
  • がわっぱんかた(河童の家)・・・川の深みのこと。
  • がわっばの屁(木っぱの火の転化)・・・簡単な事。
  • がわっぱの川流れ・・・名人でも失敗があるという教え。

<田平町郷土誌 郷土誌編纂委員会 田平町教育委員会 平成5年3月発行より>



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