河童は木偶(もくぐう=人形)から   長崎市本河内町の水神神社
「長崎名勝図絵」の「川立神祠(かわたちのかみのやしろ)」の最初の部分に、「河童の由来」の一説が紹介されています。

水神神社にまつわる河童の話 【 そのV 】

川立神祠(かわたちのかみのほこら)

 橘家の祖、栗隈王(くりくまのおう)に仕えて河童が誓約したように、代々渋江家の側近くでよく仕えるので祠を作り守護している。

河童の灯篭(桃渓橋) 1998/5 撮影
中島川を守る会が建立した河童の灯篭
(桃渓橋・ももたにはし)

 一説によると、水神の社は大昔から大和国(やまとのくに)春日(かすが)の辺りに在った。
 天平神護(てんぺいじんご)の年(765年頃)春日神社造替の時、橘島田麿が造営奉行であり、飛騨の工(たくみ)の造った木偶(もくぐう=人形)を猿沢(さるさわ)の池に投げこんだところ、忽(たちま)ちこれが水魅(すいみ=かっぱ)に化けて種々の威霊を現したので、 これを川立の神(かわたちのかみ)と崇(あが)め、また、兵統良神(ひょうすべらかみ)と唱えた。
 これがいわゆる河太郎である。

中島川河童洞 1998/7 撮影
中島川河童洞 水神社 八天坊
S63/4 最所清 建立 (八幡町)

 橘兵部大柿が筑紫へ下って来る時、春日から水神の御爾(みしるし)を奉持して来たが川立もしたがって来た。その後公師・公姿が長崎に来る時もまた、つき従って来て、今の社地が定まると神社のそばの二股川(注・中島川のこと)に住んで渋江家を守護した。

<長崎名勝絵図 享保年間発行より>

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人形が河童になったという話の多くは、

 竹田の番匠(古代)、飛騨の匠(奈良、平安時代)、左甚五郎(江戸時代)などが社寺などを建立のとき、人手が足りないので呪術をもって木端、藁人形などに魂を入れて手伝わせた
 そして、完成後人形にもどし、川に流しましたが、こうして捨てられた人形は河童と化して、人畜に害を及ぼしたという話です。

⇒長崎県では、島原に同じ様な「河童の頭」の話があります。



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