電車の終点蛍茶屋(ほたるちゃや)停留所から国道を左の方へはずれ、少々登って行った所に水神神社(すいじんじんじゃ)がある。
水神とは、主として淡水をつかさどる水の神である。とくに、水の湧出、魚類等の繁殖、降雨現象などをつかさどったり、火災を防護したりしてくれる神、として昔から人々に親しまれている。 なお、記紀神話のミズチ・竜・大蛇(おろち)をはじめ、ヘビ・ウナギなどの動物は水神の化身と考えられ、河童はその落ちぶれた姿とされている。
水神神社 この長崎の水神神社は、その名にふさわしく、現在、中島川の上流、本河内水源池の下にあり、長崎住民の生活水を護ってくれているかのようである。
実は、この水神神社の拝殿の裏に河童石という大きな石が据えてある。 この河童石を中心に、この神社にまつわる河童の話を紹介してみよう。
【 そのT 】この水神神社は、大正時代になって現在地に移るまでは、中島川の中流、高麗橋より上手の八幡町にあった。
水道や水源池とてない昔は雨水のみが頼りで、日照りが続き農作物が育たなくなると、「雨乞い」の行事が水神神社で行われていた。そんな時、神官が水神に祈りをささげ、この石の表面に自生している苔の色や状態を見て降雨を占ったという。
当時は、この石を「どんく石」(どんくとは蛙のこと)と呼んでいたようである。
川立神(かわたちかみ)の宿る河童石 当時、中島川は清流で、付近の人々は川の水を飲料水にも利用していた。
しかし、時代がくだり人家が多くなるにつれて汚物を川に流したり捨てたりしたため、川が汚れてきた。
清流でしか住めない河童は生活ができなくなり、たびたび付近の人々に悪戯(いたずら)をするようになった。そこで、水神神社の2代目神官渋江公姿(しぶえきんなり)氏が、5月の吉日を選んで河童を神社に招き一晩中いろいろと御馳走し、もてなすことにした。
神官渋江氏の家は、むかし、河童族を統率していた栗隈王(くりくまおう)の家柄であった。
だから河童たちも渋江氏には一目おき、敬服していた.それで、その晩には多くの河童たちが集まってきて、神官を囲んで朝がたまで賑やかに宴が続いた。しかし、拝殿が締めきってあるので、河童たちの異様な声や皿の音のみ聞こえ、その様子を誰も見ることはできなかった。
中島川(八幡町)のかっぱ地蔵
H4/5 最所清 建立おもしろいことには、料理の献立に必ず「竹の子の輪切り」が出された。その時、神官にはやわらかい本物の竹の子を盛り、河童たちには老い竹の輪切りを盛ってあったので、平気でうまそうに食べている神官を見て、「人間というものは、何と歯が強いのだろう」と驚き、ますます敬服した。
以来、河童たちは人間に悪戯する ことも少なくなり、神官とも親しくなった。神社のお祭りの供物が必要なとき、または、客人があって御馳走をしたい時には、その前日、「河童の献立」と書いた紙に必要な品名を書いて、神官が、「どんく石」の上にのせておくと、翌朝には要求したとおりの新群な野菜や魚などが河童たちの手によってのせられていたとのことである。
それ以後、「どんく石」は、人々によって「河童石」と呼ばれるようになった。
<長崎県教育研究 NO371 56年10月発行より>
<「ふるさとの民話・伝説 長崎大学教育学部附属中学校教頭 久富和幸著」>
カッパは水神さまのお使いと考えられ、兵統良神(ひょうすべらがみ・河童のこと)と称されました。⇒ 東彼杵郡波佐見町長野郷に、水神宮があり、佐世保市の宮村に、同じような民話が伝わっています。
⇒ 福岡県久留米市瀬下町の水天宮にも、河童の九州全体の総元締の「九千坊」に、青竹の輪切りをご馳走に出し、感服させた話が伝わっています。
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