四天王像のお話

  今回は天部の中の「四天王」について記述いたします。天部とは天を住処としておりま
すが何故天だけに部が付いたのか?それは、天でなく天部とした方が語感が良いからで
しょうか。
  仏教では、世界の中心に聳える山を「須弥山(しゅみせん)」と呼び、仏堂に設けられた
一段高くなった壇は須弥山を象徴したもので「須弥壇」と言います。皆様の仏壇の中にも
須弥壇があります。

 四天王は須弥山を守る役目を担うことから金堂、本堂などの須弥壇をも守ることにな
ったのでしょう。須弥山において四天王は帝釈天に仕えております。
 

 「四天王像」はインドで誕生した当時は憤
怒ではなく温和な顔付きのうえ華麗な装飾
を着けた貴人のようです。しかも甲冑を着
けないだけでなく「バールフト」の像にいた
っては武器すら手にせず合掌手の如くで守
護神らしくありません。
 バールフットの像には銘があり多聞天
(毘沙門天)となっております。邪鬼はおと
なしい蹲踞の姿勢で多聞天に踏みつけれた
苦しみから逃れようとする反抗的な態度は
見られません。
  「法隆寺金堂の四天王像」は現存最古の遺
構であり武器を手に執っておりますが貴人
がスッと立っているようでインド様式の名
残かも知れません。その貴人スタイルの四
天王が中国では甲冑を着けた武将像に変化


    四天王像
   バールフト


     四天王像
    サーンチー

いたしました。その様式が我が国に伝わり殆どが中国風の四天王像であります。

 四天王像は「仁王像」と同じく躍動感のある像なので人気があります。と言いますのも、
老若男女を問わずじっと立っているよりも動きのあるものの方が好まれるからです。我
が国古来の日本舞踊でも庶民には動きの無い「女舞」より動きがある「男舞」の方が世間で
受けるのと同じことでしょう。
 菩薩は「沓」を履きませんが四天王の殆どが沓を履いております。ただし、「東大寺三
月堂の日光・月光菩薩像」のような例外もあります。

  聖徳太子が発願された「四天王寺」の本尊が四天王、また、「東大寺」は「金光明四天王
護国之寺」と呼ばれ本尊が四天王であると思われがちですが他にも主役の本尊がありま
すので準主役扱いといった方が正確かも知れません。「東寺」の正式名は「金光明四天王
教王護国寺
秘密伝宝院(略して教王護国寺)」で四天王とはどういう関係があるのでしょ
うか?
 
戦勝祈願や国家鎮護の守護神として四天王が盛んに信仰されたようです。古代は戦勝
祈願の対象といえば四天王のみだったようですが時代が下れば「毘沙門天(後述)」「勝軍
地蔵」も現れて参ります 。
 
 
四天王寺は聖徳太子が物部氏との戦いで勝利を四天王に祈願され、そのご利益のお陰
で見事に勝利した後、太子の発願で建立されたのであります。四天王寺の創建は法隆寺
より古いですが第二次世界大戦で焼失したため戦後の再建でまだ新しい建造物ばかりで
す。ただ不思議なことは、四天王寺がどうして大阪に建立されたのかのと南北一直線の
伽藍配置であるのに通常の出入りは西側からという変則なことです。戦勝祈願のお礼と
いうより何か大きな目的があって大阪に四天王寺を建立されたのでしょう。

 四天王が天の「王」と言う尊称が付けられるくらいの主役待遇だったのは天平時代迄で
平安時代以降は脇役となります。須弥山、須弥壇の四方を守る護法神だったり国家を鎮
護する守護神だったり戦勝の守護神だったりと尊崇されていたのにガードマン如き脇役
となってしまったことは大変な格落ちであります。そこで善男善女の皆さん、お参りの
際最初に出くわす持国天に会釈した後本尊にお参りください。
 
 東南西北(通常、東西南北ですが時計回りでは)の守護神は、四天王の「持国天(じこく
てん)」「増長天(ぞうちょうてん)」「広目天(こうもくてん)」「多聞天(たもんてん)」の配置
となります。そこで、持国天の「じ」、増長天の「ぞう」、広目天の「こう」、多聞天の「た」
で「じぞうこうた(地蔵買うた)」と覚えるのがよいと伝えられております。そういえば、
先月は「地蔵菩薩像のお話」でしたね。
 持国天は須弥山の中腹で東方の門を守ります。右手で宝珠を執ることがあります。
 増長天は須弥山の中腹で南方の門を守ります。
 広目天は須弥山の中腹で西方の門を守ります。戦闘神たる武将が武器を持たずになぜ
          巻物と筆を持つのかは分からないです。
  多聞天は須弥山の中腹で北方の門を守ります。宝塔を右手で捧げていたのが平安時代
    は左手で捧げるようになります。
 四天王の「持物(じもつ)」に関しては広目天の巻物と筆、多聞天の宝塔ぐらいで決まっ
た定型がなく像一つひとつに変化があって四者の違いや甲や衣に施された華麗な文様を
調べられるのも一興かと思われますのでしっかりとご覧ください。それと同時に、方位
の五色では東が青色、南が赤色、西が白色、北が黒色ですが実際の四天王の肌色は何色
かを調べて見てください。
  須弥山なら四天王が東南西北の門の守護神でいいですが、須弥壇での現実は、持国天
は東南、増長天は西南、広目天は西北、多聞天は東北の方向を守っております。それは、
須弥壇の南に増長天を安置いたしますと本尊の真ん前となりそれでは不都合となるから
でしょう。それから、鬼がいる方向を鬼門といいそれは東北すなわち丑寅(うしとら)の
方向です。それゆえ、鬼の様相は頭に牛の角があり、口には虎の牙を供え、腰には虎皮
のフンドシを穿いております。それらを踏まえて、平安京の場合北方を鞍馬寺(後述)、
鬼門の東北を比叡山と2方向の王城鎮護が考えられたのでしょう。

 その昔、いろんな分野で四天王が選ばれ「何々の四天王」と呼ばれたものですが最近で
はあまり聞かなくなりました。浮世では浮き沈みが激しいので四者が揃うことが出来ず
せいぜい御三家どまりでしょうか。 

 時代が下ると「仁王」が中門から南大門に移りましたのを受けて中門には四天王のうち
二天を祀り伽藍を守らせたのであります。この門を「仁王門」に対し「二天門」と言います。
この二天には「持国天と多聞天」あるいは「持国天と増長天」の二通りの組み合わせがあり
ますが四天王の代表格である多聞天が入る持国天と多聞天の組み合せの方が多いようで
す。また、二天で須弥壇を守るケースもあります。

 四天王の足で踏みつけるのは「邪鬼(じゃき)」ですが「天邪鬼(あまのじゃく)」といった
ほうが理解しやすいでしょう。仏法の敵とは言えもう少し穏やかに優しく出来なかった
のでしょうか?と言いますのも建屋を守らせるのに中国、韓国では屋根に多くの霊獣が
おりますのに我が国では鬼瓦一辺倒で、仏敵の鬼に建物を守らせるのですから不思議な
風潮ですね。いずれにしても、我が国での鬼は毀誉褒貶の激しい生き物です。邪鬼には
一鬼、二鬼があります。
 四天王は邪鬼か「岩座」または、「岩座上の邪鬼」に乗ることもあります。
 最近は使われなくなりましたが人が亡くなると「鬼籍に入る」といい戒名が鬼の戸籍簿
に記されます。このことは故人が鬼になることですがここでの鬼は悪い鬼ではなく敬う
べき鬼と言うことでしょう。
 邪鬼が惨めな姿にされ虐げられるようになり、その後に反発する邪鬼に変貌した頃か
ら四天王がガードマン的な脇役となっていったようです。 

 平安時代になると広目天が従来の巻物と筆ではなく「赤い索」を持ち、多聞天は宝塔を
右手でなく「左手」で捧げるようになります。それと、長く広い袖を結び背面には裳裾が
垂れるようになります。  

 鎌倉時代になると天平以前のスタイルである広目天が巻物と筆を持ち、多聞天が右手
で宝塔を捧げます。広く長い袖を結ぶのは前代と同じですが結んだ袖と背面に垂れた裳
裾が大きく棚引くように翻り激しい動的な姿となります。動き易くするため袖を結ぶの
であれば袖なしにするとか長い裳裾がない方がフットワークにはよいと思われますが。
 
 四天王の影が薄くなる平安時代頃から、多聞天が単独で祀られるようになりその際尊
名を「毘沙門天」と変え尊崇されるようになります。四天王が公の祈願ですが毘沙門天は
公、個人共の祈願として広く信仰され、後には「七福神」の仲間にも選ばれ個人祈願の神
として庶民の人気が続きました。七福神といえば毘沙門天より奥さんでもある「吉祥天」
の方が宝珠(参照:後述の法隆寺像)を持っておられるので適任だと思われますが「弁財
(才)天」が嫉妬して駄目だったのかも知れませんね。嫉妬深いといえば恋人同士で弁財
天をお参りするとそのカップルは別れることになるという言い伝えがあります。ゆえに、
付合っている相手と別れたい時は弁財天にお参りすることです。誰ですかもう少し早く
弁財天を知っておけば良かったと悔やむ不心得者は。
 インドでは単独尊の毘沙門天の方が四天王より早く出現したらしいですが我が国では
毘沙門天は四天王より遅れて現れます。
 毘沙門天は戦勝神、財宝神などとして広く信仰を集めました。「楠木正成」は「信貴山
朝護孫寺」の毘沙門天に安産祈願して誕生したので幼名を「多聞丸」と名付けました。ま
た、「上杉謙信」は毘沙門天を尊崇し戦勝祈願をしたので軍旗は「毘」の一文字が刷り込ま
れておりました。  
 毘沙門天の像容は多聞天とほぼ等しく右手か左手で宝塔を捧げその反対の手で戟か矛
を執ります。 
 邪鬼か岩座に乗るのが通例です。
 

 「兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)」は我が国では数少なく中国では毘沙門天より
兜跋毘沙門天の方が多いということで我が国とは大きな違いです。像容については後述
の「東寺像」で記載いたします。

  「奉先寺洞(中国・龍門石窟)」は五尊仏で本尊を挟んで弟子、菩薩像、天王像、仁王
像となり本尊は「盧舎邦仏」で俗称「奉先寺大仏」と呼ばれるものです。本尊・盧舎邦仏
の像高は17.14mで現在の東大寺大仏が14.98mに比べ約15%も大きく、いかに奉先寺
洞が大型のものか想像いただけますことでしょう。
 天王像と仁王像は左右の壁(緑矢印)に造られており正面からは眺めることは出来ま
せん。向かって右の緑矢印の先に僅かに見えるのが天王像の顔で、菩薩より像高は低
いです。本尊に向かって右へ阿難像、菩薩像、多聞天像、仁王像です。逆は迦葉(かし
ょう)像、菩薩像、持国天像(?)、仁王像となります。これ以外にそれはそれは多くの
像があり大変見応えのある洞です。四天王は動きのある武将像ですが憤怒相ではあり
ません。憤怒相の四天王は我が国の方が中国より多いような気がいたします。
 中国は我が国と違って四天王像より二天像の方が多いとのことですが中国では石窟
像が多いため、壁面に四天を彫ると四天王像だけが目立ちバランスが取れないからで
しょう。

  

 

  「鞍馬寺」は今年(2005)のNHK大河ドラマ「義経」の舞台の一つで牛若丸、鞍馬天狗、弁
などでお馴染みの名刹寺院です。歴史に刻まれた深い地名、鞍馬を訪れた時は掻き集
めた雪がまだ残る季節で、人影もまばらでしたがシーズンともなれば人、人の波でしょ
う。「仁王門」を潜ると間もなく「ケーブルカー」の山門駅ですが駅前に立て看板があり、
「山頂本殿まで木立の中の九十九折
(つづらおり)参道は約1キロメートルです。途中、
重要文化財の
由岐神社拝殿や、義経公供養塔など諸堂めぐりもできます。むかし、清少
納言や牛若丸も歩いた道です。健康のためにもできるだけお歩き下さい」と書かれてお
ります。親切な忠告によって殆どの方が徒歩で登られますが私はこの後の予定が押して
おりましたので往復ともケーブルカーを利用いたしました。いずれかの日に仁王門から
名高い「鞍馬の火祭」が例祭である由岐神社、本殿金堂、霊宝殿、奥の道を巡り貴船神社
までのんびりと散策気分で歩きたいものです。
 「竹伐り会式(たけきりえしき)」の鞍馬法師が竹を大蛇に見立てて斬りつける勇壮なシ
ーンは圧巻で見る人を感動させております。これらの映像はTVで報道されますが関西
地域のみの放送かも知れませんが。

 余談ですが先月(2005.07.11)、読売新聞の『子を抱く親心』で「子を抱く狛犬」が安置
された「由岐神社」と先月掲載いたしました「帯解寺」の「腹帯地蔵」が大きく紹介されてお
りました。


                   仁 王 門


     ケーブルカー
 運賃は100円で所要時間は2分でした。オフシーズンでしたので行きも帰りも私一人の貸切でした。


          本殿金堂 

 
     霊 宝 殿

 鞍馬山全体が大自然の宝庫。一階はその宝庫の展示室です。

 「本殿金堂」は歴史の重さを背負った樹林を背景に色鮮やかで優美な姿を見せております。

  
   毘沙門天立像(鞍馬寺)

  「毘沙門天立像(びしゃもんてんりゅうぞう)」は本殿
金堂の本尊ではなく「霊宝殿」に祀られております。
 鞍馬寺は平安京の真北に当たるので北方の守護神
「毘沙門天像」を祀り平安京の鎮護とされましたゆえ当
初は本像が本尊だったことでしょう。
 創建当時は私寺建立禁止であるにもかかわらず特別
に建立許可されたのは王城鎮護という重要な役割を担
った寺院だったからでしょうか?  
 本像は橡(とち)の一木造で橡が素材の像は初めて見
ました。彩色などの装飾はなく檀像風で黒っぽく見え
ましたが通常なら漆箔が剥落して下地の黒漆が現れる
筈ですが本像は何の装飾彩色は施しておりませんので
素材の色でしょうか。
 守護神に相応しい鍛え上げた隆々たる肉体でしかも
全体に黒光りしておりましたので余計に頑強な感じが
いたしました。 
  毘沙門天のシンボルである宝塔を持っておらず、左

手を髪の生え際の少し上にかざし、精悍な鋭い眼で平安京を望見しております。いかに
も都の守護神らしいスタイルと言えましょう。後述の「浄瑠璃寺像」、「唐招提寺像」は左
手を腰に当てているように手を腰に当てる像は結構あり、本像も手を腰に当てるべきと
ころを作者のユニークな発想で手をかざす様式にしたのでしょう。この様式は鞍馬様と
呼ばれ途中の疲れを吹き飛ばしてくれる創意にあふれ神秘的魅力を持った逸品です。
 毘沙門天(像高176p)を中尊とし奥さんである「吉祥天(像高100p)」とお子さんである
「善膩師童子(ぜんにしどうじ)(像高95p)」が脇侍の如く安置されております。毘沙門天
より吉祥天は小さく造られておりますが後述の「法隆寺金堂像」の場合は毘沙門天と吉祥
天とはほぼ同寸法で造られております。これら吉祥天の違いは、王城を鎮護する役目の
毘沙門天の脇侍としての立場と法隆寺像のように吉祥悔過の本尊を務める立場の違いで
このような像高差になったのでしょう。毘沙門天三尊では現存最古の遺構です。
 天部は独尊で尊崇されるのは少ないのに毘沙門天と吉祥天とは単独尊でありますから
結婚が出来お子さんが生まれたのでしょう。尊像が家族で表現されるのは稀なことです。
  「兜」の中央には宝珠が刻まれており宝珠がある毘沙門天は珍しいです。宝珠があれば
福徳神だと分かり衆生に広く信仰されたことでしょう。 
 邪鬼ではなく岩座に乗っております。
 
霊宝殿は休日がありますので調べてからお出かけください。


       冬 柏 亭

 「冬柏亭(とうはくてい)」は霊宝館の目の
前に設置されております。この建屋は与謝
野晶子さんの「書斎」が回りまわって現在地
の神々しい鞍馬山に移築されました。
 霊宝館には「与謝野記念室」が設けられ与
謝野さんに関する資料が展示されておりま
す。
 与謝野晶子さんといえば「鎌倉大仏」を思
い出し懐かしくなりました。
 「阿弥陀如来像のお話」をご参照ください。

  右の階段を登っていきますと「これより奥の院へ」で貴船神社までのルートですが私
はここから引き返しました。残念!

  

 

 「東寺」は今までに建築物で紹介してまいりましたが後述の「兜跋毘沙門天像」が展示さ
れております「宝物館」しろすべての建物がまとまった位置関係にありこれほど楽に回れ
るのは京都では他にないでしょう。

  
       多聞天像(東寺)

  「多聞天像」は講堂の東北隅に祀られ須弥壇を守護して
おります。
 密教と顕教との違いは密教の場合堂内に多くの尊像が
安置されていることです。講堂には四天王と合わせて密
教の諸尊の数は21尊もあります。それゆえ、東寺は密
教美術の宝庫と言われる所以でしょう。ただ、天平時代
の宝石箱と言われる「東大寺三月堂」には狭小の内陣に
15尊も安置されていると言う例外もありますが。
 憤怒の表情、勇壮な姿には見る人を圧倒させる四天王
のです。
  多聞天像は補彩が施され息を吹き返したようで創像当
初の煌びやかな像容が偲ばれる見応えのある像となって
おります。
 台座は邪鬼や岩座ではなく後述の兜跋毘沙門天の様式
である尼藍婆(にらんば)、毘藍婆(びらんば)の二邪鬼と
地天女(ちてんにょ)でありこの様式は本像だけと言う独
創性に富んだ像です。ですから、尼藍婆、毘藍婆の二邪

 鬼と地天女であれば兜跋毘沙門天だという区別が出来なくなりました。

    
   兜跋毘沙門天像(東寺)

  「兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)」は中国の故
事により王城鎮護には最適の守護神といわれたのを受
けて、中国からの請来像を平安京の表玄関にあたる
「羅城門」の楼上に安置されました。ところが、その羅
城門が強風で倒壊いたしましたので東寺に移安された
のが本像です。
 本像は中国産の魏氏桜桃という桜材で造られており
中国で制作されたことは間違いないようです。魏氏桜
桃の素材と言えば「清涼寺の釈迦如来立像」が思い出さ
れます。本像を中国から持ち帰ったのは弘法大師空海
でしょうか、それとも伝教大師最澄でしょうか?
 法隆寺金堂の四天王像のように直立不動の姿勢です。
兜跋毘沙門天と聞くだけで敵が恐れをなして尻込みす
るのか威嚇のポーズではなく節度あるスマートな像容
であります。
 熟練の仏師が緻密に彫り込み、胸には鬼面のような
ものが二つと腰のところに獅嚙、その他色々な装飾文
様など細かい細工が見事に表現されております。 

 背の高い山型宝冠の中央に鳳凰や孔雀、金翅鳥といわれる鳥の文様が前面一杯に彫
られております。鳥そのものではなく鳥の羽が付いているのは後述の「戒壇院の持国
天像」で見られます。
  ハーフコートのような衣装を着け大陸風の姿でもなく西域風の様相で異国情緒あふ
れる像です。
 この像も右手に戟を執り、左手で宝塔を捧げていたことでしょう。
 尼藍婆(にらんば)、毘藍婆(びらんば)の二邪鬼を従えた地天女(ちてんにょ)が両手
の掌で直立する兜跋毘沙門天の足を受け止めております。
 我が国では何故か兜跋毘沙門天はあまり多くは造像されなかったようで間もなく衰
退いたしますが東大寺中門には近世の兜跋毘沙門天像が安置されております。  
 本像が展示されております「宝物館」は春季、秋季しか開扉されませんので調べてか
らお出かけください。 

  
    持国天像(浄瑠璃寺)

 「持国天像」は「九体仏」と壁との隙間に遠慮がちに
立っております。装飾の見本帳ともいわれるくらい
豪華絢爛たる像で完成された様式美が心ゆくまで味
わえます。
  平安時代の四天王像としては屈指の名作といわれ
る像がこれほど間近で拝観できるのは幸せなことで
す。九体仏もいいですがこの四天王像だけでも訪れ
る価値は充分あります。
 袖、裾を翻しているのは中門なら風が吹き込んで
きますが堂内なら風もそよ風くらいですので仏敵と
闘っている激しい動きの瞬間を表しているのでしょ
う。それだけに、気迫のこもった力強い感じがいた
します。
 「邪鬼」は小太りでぎょろ目の可愛らしい相好で重
量のある四天王に踏み付けられてもそんなに苦しん
でいるようには見えず逆に微笑んでいるように見え
ました。  「浄瑠璃寺のお話」をご参照ください。

 

 
 増長天像(法隆寺)

 


  毘沙門天像(法隆寺)


  吉祥天像(法隆寺)

 「増長天像」は皮革製の甲冑で身をかためているようにも見えずしかも憤怒相であり
ません。兜ではなく宝冠を被り異国的な様相を示しております。
 すらりとしたプロポーションの本像に対し邪鬼の体系は大き過ぎるぐらいなのと踏
みつけられてもだえ苦しむのではなく素直な従者の如く憎むべき鬼ではなく眷属のよ
うであります。踏み付けられているというよりもちょんこと乗って貰っているという
方が適切かもしれない。
 四天王は四者で様相に違いがあるのが通例ですが法隆寺金堂像はさほど変わり映え
がしない古典的な像容です。四天とも直立不動で動きはなし、広目天以外の他の三天
は共に左手に戟を持つという姿です。

  「毘沙門天像」、「吉祥天像」共に法隆寺金堂に安置されております。
 平安時代から吉祥悔過が盛んに行われるようになり吉祥天(像高116p)と毘沙門天
(123p)のご夫婦像が本尊の左右に増設されました。ご夫婦像としては最初の記念す
べき尊像です。しかし、吉祥悔過の本尊は吉祥天であり何の役目のため多聞天が動員
されたのでしょうか?吉祥天像の左手には「宝珠(青矢印)」が捧げられております。
 気品ある像容の毘沙門天像、均整の取れた美人像である吉祥天像と共に当初の漆箔、
切金文様、彩色がよく残っており見る人の心を魅了せずにはいられない像です。
 毘沙門天像は創像当初は邪鬼か岩座に乗っていたことでしょう。
 平安時代から多聞天は左手に宝塔を捧げるようになりますが『陀羅尼集経』による
場合は宝塔を右手で捧げます。しかし、法隆寺像は『金光明最勝王経』の経典により
造られたらしいのでなぜ右手の宝塔となったのかは分かりません。多聞天ではなく毘
沙門天だからかまたは同じ金堂安置の飛鳥時代の「四天王像」に合わせて古式で制作さ
れたのでしょうか?お経に関しては何の知識も持ち合わせておりませんので詳しいこ
とは分かりません。  

 
     持国天像(東大寺)

  「持国天像」は東大寺戒壇堂に安置され、四天王は須弥
壇の中心に向かって立っておりましたが現在は四天王総
べて南向きに改変されております。
 四天王像は当初の像ではなくどこからか移安されたも
のらしいです。これだけの見事な像は東大寺内のいずれ
かの仏堂かそれなりの名刹寺院にあったものでしょう。

 像容は天平時代の特徴である軽快な姿で敏捷な動作が
取れるスタイルです。時代的に一番スリムな体付きを的
確に表現し写実の妙として感動を呼びますが次の平安時
代のように恰幅がよくありませんから威圧感は乏しいで
す。

 
「邪鬼」は頭が大きいうえ目、鼻、口が大きく、指は潰
れており、まるで妖怪のようです。四つん這いの姿勢で
頭と腰を踏みつけられており苦しみのあまりか口を大き
く開けております。諧謔に富んだ邪鬼と言えましょう。 

  写実を重んじる彫刻と言えば、削り過ぎたりすると修整が難しい木彫ではなく、修
整が幾らでも効く塑造か脱活乾漆造であります。塑造は手間、乾漆造は費用を要しま
すので国家体制が充実していた天平時代以外では無理な技法でした。塑造の手間とは
焼きもせず高温多湿の奈良で保存させるため素材の仕込みに年月を掛けてからまず最
初に裸形像を造りそれから我々が着付けるように下着を着けそして順次装っていき最
後に装飾品で飾るのであります。材料費は土ですから無料ですが余りにも制作時間と
手間が掛かりますので本格的な塑像は天平時代までしか制作されませんでした。それ
ゆえ、国宝指定の塑像は奈良以外では存在いたしません。それら名品の制作に膨大な
国家予算をつぎ込んだため財政破綻を起こし財政再建が迫られたことが平安京への遷
都の一因となったのであります。
 本像は天平時代の終わりに見られる誇張された表現ではなく古典的な節度ある表現
といえましょう。  「東大寺のお話」をご参照ください。

 

 
  広目天像(興福寺)

  「広目天像」は「東金堂」の須弥壇に安置されております。
 東金堂は堂名の通り興福寺の東側に西向きに建立され
ておりますので通例通りの東南西北の守護神とはならな
いため当初からこの配置だったのでしょうか。
 四天王の持物に関して記載されているものは『陀羅尼
集経(だらにじっきょう)』という経典だけでその経典に
基づいて制作されたのが東金堂の四天王像です。広目天
といえば巻物と筆を持っておりますのが通例ですが東金
堂像では右手に少し判別し難いですが索(青矢印)を執り、
左手には広目天以外が手に執る「戟(げき)」を執っており
ます。戟とは先が三つ(緑矢印)に分かれているもので分
かれていない一つのものは槍です。多聞天は右手で宝塔
を捧げております。
 天平時代はスマートな体格ですが平安時代になると亀
の子のように縮めた首、目をむいてしかも重量感のある
筋肉質の体格でまさに仏敵と闘う寸前の迫力で今にも動
きだしそうであります。  

 邪鬼は身体が柔らかいのかそれとも重量感のある四天王に踏みつけられているた
めか身体が海老のように二つ折りになっており苦しみに耐える邪鬼の姿には哀れみ
を誘います。

 

 
    増長天像(唐招提寺)

 「増長天像」は右手に金剛杵、左手は腰に当てるポー
ズです。寺伝では天平時代の作となっておりますが広
袖の先を絞り、長い裳裾が垂れる様式からは次の平安
時代初期の作と思われます。しかし、多聞天像が宝塔
を右手で捧げておりますので天平と平安に跨って造ら
れた像でしょう。
 大陸的な悠揚迫らぬ風貌で兜は被らず宝髻というの
は仏敵も幼稚な武器しかない和やかな時代だったから
でしょう。
 木彫像、一部乾漆仕上げでこれからまもなく木彫全
盛時代となり彫刻の歴史は木彫の歴史となります過渡
期の作品です。
  増長天像(187p)の少し斜め後の千手観音像(535p)、
本尊の盧舎邦仏像(304p)、薬師如来像(336p)と比べ
ると脇役の四天王といえども像高が低すぎます。しか
し見方によっては三尊が大き過ぎるとも言えます。な
ぜこのような像高の差が出たのか歴史の謎には興味が
尽きないですね。
 他の三天が閉口で本像のみが開口です。

 

   
   広目天像(当麻寺)

 「当麻寺金堂」の本尊が塑像で四天王が脱活乾漆像であ
り何故素材の違いが出たのか不思議です。
塑像は安価な粘土に比べ脱活乾漆像は高価な漆で制作さ
れています。ランク付けをすると如来、菩薩、(不動明
王)、天部となりますから素材の使い方から考えられる
ことは創像当時においては如来と四天王は対等の関係に
あったのかそれともどこからか移安されてきたのかは分
かりません。それが現在では四天王は脇役になっており
ますのは寂しいですね。
  見事な顎鬚と口髭を付けた異国的な四天王像は他では
見たことがありません。これらの鬚髭(しゅし・あごひげ
とくちひげ)の表現が出来たのも乾漆なので難しくなかっ
たことでしょう。というのも木彫像でも髪の毛などの細
かい表現には乾漆で制作することがあります。飛鳥から
白鳳時代の作と言われる「法隆寺の六観音像」も素材は樟
ですが髪の毛などには木屎漆で仕上げられております。
 後の時代の「邪鬼」は仰向けや横向きになり暴れて反抗
していますが、「邪鬼」は手を組んで蹲り畏まっておりま
す。 
 「当麻寺のお話」をご参照ください。


                                                            画 中西 雅子