浄瑠璃寺

  「浄瑠璃寺」は京都府の「山城(やましろ)」というところにある真言律宗のお寺で、山
号を小田原山と称します。所在地は京都府ですが、近鉄奈良駅から車で約10qという
近距離にあり、観光圏では奈良に属します。
 昔、山城は、政治・文化の中心地「平城京」から見ると、奈良坂から東に伸びる丘陵
地帯(山)の背後にあることから「山背(やましろ)」という字が当てられていました。が、
都が「長岡京」に移り、短期間の都でありましたがその長岡京から見ると、山の向こう
側でなく山の手前にあるのに山背とはおかしいということで山城に地名変更となりま
した。
 余談ですが、奈良の都を「南都」とも言いますが、これも都が「平安京」に移り、平安
京の南に存在した都ということで呼ばれるようになりました。
 
 平安時代には、「百塔参り」が流行し、「白河天皇」一代で21塔もの「塔」を建立されま
した。それだけに、数多くの塔が存在した平安時代であるのに、現在、京都で残って
いるのは、「浄瑠璃寺三重塔」と「醍醐寺五重塔」だけです。浄瑠璃寺の周辺で、石仏で
名高い「当尾(とうの・とうのお)」は昔、「塔尾」と書かれており色々な種類の塔が数多
く存在したからでありましょう。
 平安時代には応仁の乱を始め内乱が続き多くの堂塔伽藍を焼失しましたが、浄瑠璃
寺は幸いなことに平安京の都からはるか彼方に位置したので、戦乱の災難に巻き込ま
れることが無く幸いにも貴重な文化財が残りました。
 
 経典の九品(くぼん)往生説に従って、九体の阿弥陀仏を安置した「九体仏堂」が、京
都には30数棟建立されました。これらの仏堂の建立は財力豊かな天皇・摂関家に限ら
れておりましたのに、浄瑠璃寺の九体仏は少しこじんまりとしておりますが京の都か
ら離れた僻地にどうして建立されたでしょうか。この山城にも九体仏の阿弥陀堂が建
立出来る権勢を誇った小豪族が存在したことは確かであります。 

 現在の境内は地形的に狭小の地域で多くの堂宇を設けることが出来ないため創建当
初は周辺に散らばって南大門などの堂塔が築かれていたのでしょう。その伽藍も平安
時代は平穏無事であったのが南北朝時代に多くの堂塔を焼失し現在の姿となりました。しかしながら、
寺内の建物はことごとく焼失したのに「本堂」と「三重塔」とが残ったの
は奇跡としか言いようがありません。  
 九体仏堂で現在残っているのは浄瑠璃寺のみという貴重な寺院で、地元の方は浄瑠
璃寺とは言わず、親しみをこめての「九体寺(くたいじ)さん」と呼んでおられます。し
かし現在では、九体寺で情報検索を掛けると浄瑠璃寺と出て参ります。これらは、普
通名詞の九体寺が固有名詞のようになった例で、東大寺の正倉院も同じことが言える
でしょう。全国に存在した多くの正倉でしたが現存は東大寺正倉院の内の1棟のみと
なったからです。本来、正倉院とは正倉が建ち並ぶ一帯を表す言葉で1棟のみを表す
場合は正倉院ではなく正倉であります。

 現在は北が正面で、小山に囲まれた決して広いとはいえない境内で、中心にある宝
池(苑池、阿字池)の周辺に本堂、五重塔がひっそりと建っております。しかし、この
すっきりとした伽藍配置が浄瑠璃寺の最大の魅力とも言えるでしょう。

 浄瑠璃寺とは創建当初の本尊が、現在の「三重塔」に安置されている「薬師如来像」で
ありましたので薬師如来の浄土・東方浄瑠璃世界に因んで付けられた寺名です。当初
の本尊が「阿弥陀如来」であれば、阿弥陀如来の浄土である極楽から、「極楽寺」となっ
ていたかもしれませんね。メインの本尊が薬師如来から現在の阿弥陀如来に変わりま
したが浄瑠璃寺という言葉の響きが良いので寺名はそのままにされたのでしょう。
 薬師如来を本尊として建立されたたった60年後に阿弥陀如来を本尊とする寺院に
変革されました。しかし実際はそうではなく、本尊は薬師如来と阿弥陀如来の両如来
の寺院に変革されたのではないでしょうか。平安時代に迎えた仏滅の末法とは、暗黒
の現世では願い事も叶得ることが出来ず来世での幸せしか望めないということでした
が、衆生は現世、来世共に幸せを求める風潮があったことでしょう。そこで、薬師如
来が人々のあらゆる現世の苦しみを取り除き、阿弥陀如来が人々に来世の幸せの保証
を与える寺院へと変身されたのでしょう。このように浄瑠璃浄土と極楽浄土すなわち
東に薬師如来、西に阿弥陀如来がおわす寺院と言えば法隆寺、唐招提寺があります。
だが、唐招提寺の場合阿弥陀如来の代わりに脇侍の千手観音が祀られております。ま
た、浄瑠璃寺は薬師如来と阿弥陀如来は一直線に向かい合っておりますが法隆寺と唐
招提寺の両尊仏は並んで祀られ共に南面しております。 

 浄土伽藍の浄瑠璃寺は、時間の流れを忘れさせてくれ、本当にくつろげ、穏やかな
気分にしてくれる癒しの寺院です。しかも、観光ルートからはずれているため修学旅
行生は皆無、団体客も少なく、四季折々に美しい風情に満ちた境内は静まりかえる別
天地です。 

 


    参 道(正面が山門)   

   山門を潜るとすぐに宝池

 
             山  門

 掘辰雄の『浄瑠璃寺の春』に傍(かたわ)
らに花さいている馬酔木(あしび)よりも低
いくらい門
とあるように、参道の両側に
は馬酔木が林立し、その向こうには馬酔木
よりも低い簡素な
山門があります。
 
馬酔木はあしび、あせび、あせぼと三
つの呼び名を持っております。馬酔木とは
馬がその葉を食べるとしびれ酔ったように
なるのでそう言われております。
 正門である北向きの山門を潜ると視界に
は建物でなく宝池が飛び込んできます。

  三方が小高い丘に囲まれたこじんまりとした境内で、右手に本堂、中央に宝池、左
手に三重塔がある箱庭のような浄瑠璃寺であります。
 山門は簡素過ぎて茶室の躙口(にじりぐち)のようです。この山門からも境内の静け
さが想像出来ることでしょう。

  


                   本    堂  


          三重塔前から本堂を望む

 燈籠(本堂前)

 阿字池(宝池・苑池)の東岸が現世の「此岸(しがん)」で、対岸の阿字池の西岸がお彼
岸で知られる
来世の「彼岸」です。
 
我々衆生を此岸から彼岸まできなり物で運んであげようというのが大乗仏教の
教えで、我が国の仏教は大乗仏教であります。


 軒下(二軒の平行角垂木)

        舟 肘 木

   柱に直接桁をのせる

        端 の 間

     格 子 戸

    留 蓋
   

 薬師如来を本尊とする浄瑠璃寺の創建は永承二年(1047)で、その60年後の嘉承二年
(1107)に阿弥陀如来を本尊とする「本堂」が建立されました。それから50年後の保元二
年(1157)に本堂は
宝池の西岸の現在地に移されたということですが、そうであれば移
築前の本堂はどこにあったのでしょうか?現在ある三重塔の位置では狭小過ぎて九体
堂の建設は無理であり、西方極楽浄土の教主である阿弥陀如来を祀るのであれば現在
の位置でなければならず、最初の本堂も東向きだったのでしょうか?

 掘辰雄の『浄瑠璃寺の春』では
阿弥陀堂と記述されており、つい最近まで「本堂」
ではなく阿弥陀堂と呼ばれていたようで
す。
 
 
法隆寺金堂の東側には過去の薬師如来、中央には現在の釈迦如来、西側には
未来の
阿弥陀如来が安置されております。浄瑠璃寺は宝池の東岸には薬師如来(三
重塔)
、西岸には阿弥陀如来(本堂)となっております。

 
九体阿弥陀堂は九体の阿弥陀を一列に祀りますのでどうしても横に細長い堂になり
ます。極楽浄土の建物であれば堂内は極楽浄土の華麗な荘厳(しょうごん)が通例です
が飾りもなく簡素そのものであります。直線で構成された
天井は「新薬師寺」と同じ化
粧屋根裏で
趣のあるものとなっておりますシーンと静まりかえる堂内は九つの慈悲
の光に満ちております。
 本堂は奈良の都市伽藍
のような堅苦しいものと違って周囲に縁をめぐらす大邸宅風
のうえ、
背景の木立に溶け込んで自然の中の一部となっており、日本人好みとなって
おります。
樹林に包み込まれた本堂の屋根は、野屋根が設けられた割には屋根勾配が
緩く穏やかな建物となっております。 

 寺院の中心堂宇である「本堂・金堂」の正面の柱と柱の間は、中央三間が等しくそれ
から端にいくに従って狭くなるのが普通です。が、
 興福寺東金堂    910141414109
  (7間)
 唐招提寺金堂  11131516151311 (7間・中央の間だけが広い)

  浄瑠璃寺本堂  86.56.56.57.2147.26.56.56.58  (11間)
                               (単位は尺)
 浄瑠璃寺の両端間(8尺)が三つの中の間(6.5尺)より広いと言うのは異例です。
                             
 
柱などの構造材は黒色ですが壁は白色です。建物の周りにめぐらされた「縁」で、白
壁の前は落ち着くのか坐って物思いに耽っている人も
居られのどかな状景です。

 正面に「向拝」が設けられたのは江戸時代で、浄瑠璃寺は早くから庶民信仰の寺とな
っておりましたが年々信者が増えてくるのに対処して増設されたのでしょう。

 屋根は桧皮葺だったのが江戸時代に現在の瓦葺に変更されたのは誠に惜しいことで
す。しかし、桧皮葺の寿命が短く維持管理が難しいのでやむを得ず瓦葺にされたので
しょう。 

   

  「九体仏」とは像の大きさは任意でありますが九体仏そのものの大きさは同一である
ことと九品(くほん)である九種類の印相の阿弥陀でなければならないのが一般的な考
えであります。
  九品の
印相は、上品上生(じょうぼんじょうしょう)、上品中生、上品下生、中品上
生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生(げぼんげしょう)までの九
通り
であります。九品の阿弥陀を祀ってある寺院は「九品寺(くほんじ)」とも言います。
それにくらべ、浄瑠璃寺は
中尊の上品下生と脇尊の上品上生の二品のみであり、同一
であるべき大きさも中尊(像高221p)の方が脇尊(像高140p平均)より大きな像となっ
ております。
 
 
常日頃の行いによって、阿弥陀さんが
上品上生から下品下生の9段階のどれか
で、漏れなく浄土に連れて行ってくださいますが、浄瑠璃寺にお参りされるような方
は、阿弥陀さんが
上品上生のランクでお迎えに来てくださること間違いなしです。 
 
余談ですが、我々が日常使う上品(じょうひん)、下品(げひん)の言葉は、上記の印
相から出た言葉です。 

   
  
    阿弥陀如来像(中尊・像高221p)

 中尊(本尊)の阿弥陀如来来迎
印(
上品下生印、施無畏・与願印)と
呼ばれる印相です。来迎印とは人が
亡くなれば、阿弥陀如来が極楽浄土
から迎えに来てくださる印相です。
 いっときも早く迎えに来てほしい
庶民の願いをかなえるため、鎌倉時
代には立ち姿で用意万端の
阿弥陀
如来像
が多くなります。
 相好は、弘仁・貞観時代作
新薬
師寺本尊
のような男性的な厳しさ
はなく、藤原時代作
平等院本尊
ように衣文の彫りも浅く、膝の厚み
も低く、藤原貴族好みの優しい像の
先走りといえる作品です。
 この時代にしては珍しい
なで肩
です。ふっくらとした顔立ちに大き
な目が印象的です。

  光背は後世の補作でありますが、飛天が舞う千仏光背の二重円相光で絢爛豪華
さを極めたものとなっております。上方に設けられた
飛天の4像(青矢印)は創像当
時のものといわれております。

 九体仏は、柱間毎に一体ずつの阿弥陀如来が納まり、八方吹寄葺蓮華の九重蓮華座
上に安置されております 

  
       脇尊像(七号像)(像高140.8p)

 脇尊の「阿弥陀如来像」は八体横一列の
パノラマ状態で安置されております。脇
尊の八体は本尊の左右に四体ずつが安置
されサイズはほぼ同じであります。
 脇尊の八体はすべて上品上生の印相で
あり、上品上生は
弥陀定印とも言われ
ます。
 平安時代以降、
密教の曼荼羅の西方尊
が定印の阿弥陀如来ということで、密教
が普及するともに弥陀定印が流行いたし
ました。

 脇尊は、穏やかな表情ですが作風は一
体一体
互いに異なって造像されておりま
すので、見極めながらじっくりご覧くだ
さい。
法衣の形式も違っておりますので
見比べてください。

 脇尊の八号像だけが鎌倉時代に新造されたもので、この像の光背だけに鳳凰が刻ま
れておりますのですぐに見分けがつきます。 
  脇尊は向かって右から左に従って番号を付けております。

 

 九体仏堂は本来、上品上生から下品下生の印相を表した阿弥陀如来を九体を安置す
ることですが人間は自己を過大評価する生き物ですので自分の阿弥陀への信仰を最上
と思い、浄土への往生を上品上生の阿弥陀如来に念ずる人が大半でしょう。極悪人の
ランクである下品下生に念じなければ救済されないと考える人間は居ないと考えられ
ますので九体仏を必要としなかったのではないでしょうか。そこで考えられることは、
九種類の極楽往生とは九体の阿弥陀如来がおられるのではなく一体の阿弥陀如来が居
られ、その阿弥陀如来にお祈りすると信仰の度合いや生前の行いによって九段階に篩
い分け漏れなく救済するということではないでしょうか。余談ですが、「九体寺」は浄
瑠璃寺以外に見当たりませんでしたが「九品寺」という寺院は数多くあり、詳細には調
べておりませんがお聞きした所では阿弥陀如来像は一体のみでありました。
 
 
今も昔も、日本人は宗派、神仏に関係なく多くの神仏にお祈りする民族ですので九
品の阿弥陀仏が安置されていればその総てを拝んで安心を得たのでしょうか。それと
も、平安時代、亡くなれば直ちに浄土へ欣求されることを願い、その願いを叶えるに
は「数」の多さが決め手となる時代で、数多くの仏塔が造られ、積善の度合いを競いま
した。京都市の「百万遍」と言う地名もその名残です。九品仏の造像は造寺造仏の数を
競った時代の名残でしょうか。

 平安時代、九体阿弥陀如来像を安置した寺院の建立は、皇族、有力な貴族に限られ
個人的な祈願のためでありました。例えば、藤原道長の臨終の際、九体の阿弥陀如来
の手に五色の紐を掛け、その九本の紐を束ねた末端を握って浄土に向かったと言うこ
とですが浄瑠璃寺の場合も左右の脇尊の四体を、五色の紐で結びその紐を中尊に集め、
その紐を束ねた末端を臨終者の手に握らせて浄土に向かわせたのではないでしょうか。
それで、浄瑠璃寺の場合脇尊は最高の上品上生で中尊は極楽浄土からの来迎である来
迎印(上品下生)にされたのでしょう。本命の中尊の安置場所は脇尊の場所より広いス
ペースで、太い柱、一段高い天井という構造となっております。それゆえ、九体仏は
浄瑠璃寺のように二品の阿弥陀如来の安置か一体の阿弥陀如来の安置が正解と言える
のではないでしょうか? 

 

 平安時代の「四天王像」としては屈指の名作といわれる像がこれほど間近で拝観でき
るのは幸せなことです。九体仏もいいですがこの四天王像だけでも訪れる価値は充分
あります。

    
      持 国 天 像 
 持国天像の肉身部は赤色に塗られています。
 花飾りの鉢巻をしております。
 兜を被らず垂髪で、頸がないのに顎を引いて
いるので余計頸がないように見えます
 憤怒の眼で眼下の敵を威嚇するため黒目を眼
の下部に描いております。
 口はカッと開いた阿形ですが
恫喝するほどで
ありません。
 腕の袖には鰭袖があります。結んだ袖口と

を翻しているのは中門なら風が吹き込んできま
すが堂内なら風もそよ風くらいでありますので
仏敵と闘っている激しい動きの瞬間を表してい
るのでしょう。それだけに、気迫がこもり威容
のある像となっております。
 胸には獅嚙(しがみ)(
黄矢印)が付けられてい
ます。

 装飾の見本帳ともいわれるくらい多種多様な文様で彩られた豪華絢爛たる像で、そ
の文様には
亀甲」「七宝つなぎ」「唐草に獅子」「花喰鳥」「田の字形 」牡丹に唐草文」な
どがあります。鮮やかな彩色の文様を心ゆくまで味わってください。 
 「邪鬼小太りでぎょろ目の可愛らしい相好で、重量のある四天王に踏み付けられ
てもさほど苦痛を感じないのか無邪気に微笑んでおります。

 
持国天は斜め右向き、増長天は斜め左向きであります。
  光背の輪光のなかに持国天は独鈷杵、増長天は独鈷杵と三鈷杵を交互に配されてお
ります。

 「
増長天像も持国天像と同じように身体は赤色に塗られています。
 眼は吊りあがっていますが、口は閉じた吽形です。
 右手には
三鈷杵(さんこしょ)、左手には「戟(げき)」を持っています。
 文様には、
斜格子」「菊花」「唐草文などがあります。

 「広目天像と「多聞天像」は東京、京都へ出かけられてお留守ですが持国天、多聞天
の二天だけでも重なるような
窮屈な配置なのは数少ない「国宝指定の四天王像」だけに
残念なことです

   
   
          吉 祥 天 像 

  「吉祥天像」は日本一の別嬪の天女だと言われて
いるとおり息を呑むような凛々しく美しい顔です。
 厨子に納められた箱入り娘で、昔は一年一回の吉
祥悔過のときだけ悔過の本尊として開扉される秘仏
でした。常は厨子は閉じられておりましたので保存
状態がよく、鮮やかな繧繝彩色の文様が今なお残り
華麗な吉祥天像で艶かしい限りです。仏師が自分の
憧れの女性像を目指したのかもしれませんね。
 中国の貴婦人の服装で、下膨れの顔は胡粉で白化
、三日月のような細い眉、切れ長の澄んだ眼、口
紅の朱色が残った小さなかわいいおちょぼ口で、愛
らしい表情をたたえております。
 ◎ 「秘仏の吉祥天像」の開扉日は毎年
  1月 1日〜 1月15日、
  3月21日〜 5月20日、
  10月 1日〜11月30日の予定です。 

  吉祥天像に憧れて開扉を待って浄瑠璃寺を訪れる方がおられるほど人々を魅了し続
けております。余計ですが本日の更新日(10/1)から開扉です。 
 吉祥天の左手には宝珠が持つのが一般的です。頭上を飾る宝冠には色んな装飾物が
あり他の像では見れないものばかりです。胸飾り、瓔珞は金属製であるのが通例なの
が木製です。 
  衣の袖と裳裾は雲型に巻き上がる文様(赤矢印)でまとめられているという珍しいも
のです。
 六角形の框、荷葉(かしょう)、蓮華の三重蓮華座です。天部でありますのに蓮華座
でありますのは菩薩扱いされるほど重んじられたのでしょう。 
 

 
吉祥天は鬼子母神(訶梨帝母)の娘で、毘沙門天の奥さんです。最初のご夫婦像
法隆寺金堂に安置されています。毘沙門天とは四天王の多聞天が単独で祀られ
る時の像名です。
 
 吉祥天像は人気ナンバーワンの女神でしたが、鎌倉時代を境にその人気は「弁財(才)
天」に奪われ、「七福神」の席は弁財天の指定となっております。

 古代の奈良では、国家安泰、五穀豊穣を祈念して、吉祥天にお参りする吉祥悔過
が盛んに行われました。
  
 厨子の扉で絵画が描かれた羽目板は現在東京芸術大学に寄託されております。

 

 
 

  透き通るような青空、澄み切った空気、四季折々の草花が秘めやかに咲く境内
 

 
       
阿字池(宝池・苑池)

 平安時代に造られた苑池で極楽浄
土伽藍を表現する「浄土式庭園」です。
この浄土式庭園は特別名勝及び史跡
に指定される程価値のある庭園です。
 苑池は、三重塔側の上から見た形
が、
梵字種字(しゅじ)の阿(あ)
字を形作っているので、
阿字池
も呼ばれております。  
 
梵字種字の阿とはどんな形をし
た字かを調べて、現地でご確認くだ
さい。

 


       三 重 塔

     三 重 塔

 

 

 


 相 輪


      縁

    三手先   

  二軒の平行角垂木

 和様の前触れである周囲に設けられた縁。
 


     三層目

     二層目

    初 層

 「三重塔」は高さ16.0mという小振りな塔で阿字池の西側の高台に建っております。 

 京都一条大宮のありました寺院の「塔」を解体移設したらしいですが、寺院名も不明
ではっきりしたことは分かっておりません。
 平安時代に、塔を量産しましたがすべての塔が破損焼失した中で残った貴重な三重
塔です。もし、三重塔が移設されることなく一条大宮に残っていたならば戦火で焼失
していたことでしょう。 

 三重塔の遺構の中で、初重と三重目の間口の逓減率は一番小さく、初重の間口
100とすると、
三重目の間口は82です。これとは逆に、薬師寺三重塔三重目の
間口
は42と逓減率は大きいです。
しかし、木立に囲まれているのでずんぐりとは見
えず、しかも、桧皮葺きの
大きい屋根なので安定感に富んだ建物となっております。  
 
華やかさをみせている朱塗りの塔は、木立に見え隠れしながら背景に溶け込んで素
晴らしい眺めです

 相輪の高さは、塔高の約三分の一の時代に、三割七分もあり少し長いような気が
します。  

 中備の間斗束は初層と二層だけで肘木が短いので三層にも設けられるのになぜか設
けられておりません。  
 塔には必ずある四天柱がないのと心柱が初重の天井上に設けられている構造は、当
時としては革新的構法であります。初重内には構造材はなくすっきりとした塔内(厨
子)となっており時代の先端をいく建物となっております。ただ、四天柱は三重塔だ
から省略出来たのであって五重塔では構造力学的に不可能であります。部材の斗、肘
木は同寸法です。このような構造になりましたのは本尊の薬師如来像を祀るため金堂
のような内部に壁、柱のない空間を確保するためでしょう。

 古代寺院の塔には釈迦の象徴である「肉舎利」「法舎利」を納めましたが、後代には、
仏像を納める「仏像舎利」が起こりました。当三重塔には仏像舎利として薬師如来像
が祀られております。創建当初の浄瑠璃寺の本尊だった薬師如来像だと伝えられてお
りますが現在は秘仏で、毎月八日、正月三ケ日、春秋彼岸の中日(ただし好天の時に
限る)のみ開扉されます。

 有名な当尾の無人スタンドは、浄瑠璃寺
境内にあった7本の柿の木から取れた柿を、
販売したのが始まりと言われております。
 
九体寺の柿ということで評判を呼んだら
しいです。 
 味が自慢の
自家製の季節野菜、果物、漬
物、大和茶などが無造作に並んでいて、ほと
んどが
百円均一です。秋に訪れられると柿
が多く並んでいます。   

   

 バスを利用して、浄瑠璃寺」「岩船寺を訪ねて、さらに当尾の石仏を巡られる場
合は、まず最初に岩船寺をお参りして、当尾の石仏へ回られるほうが、途中の道が
下りとなるので楽です。そして最終の浄瑠璃寺に到着です 。
 浄瑠璃寺、岩船寺へのバスの本数は非常に少ないです。それと、浄瑠璃寺のバス停
は「浄瑠璃寺口」と「浄瑠璃寺前」がありますが「浄瑠璃寺口」はバスの便はよいですが停
留所から浄瑠璃寺までは上りでしかも2km以上の距離があります。
 一方、近鉄奈良駅から岩船寺までも不便で、バス停「岩船寺口」下車ですが徒歩25分
もの距離があります。しかし、観光シーズンには「岩船寺南口」行きの臨時バスが出ま
す。岩船寺南口下車だと徒歩10分の距離です。浄瑠璃寺、岩船寺へバスを利用される
方は事前調査してお訪ねください。浄瑠璃寺、岩船寺へのバスの本数は極端に少ない
ので観光タクシーを利用される方も結構居られます。
 それと、本数は少ないですが「浄瑠璃寺前」から「岩船寺前」を走るバスもあります。
私は浄瑠璃寺で一旦車を預け、このバスを利用して岩船寺に向かい、岩船寺から下り
の石仏巡りをして浄瑠璃寺に戻って参りました。このコースはマイカーで来られ石仏
巡りをされる方に推奨いたします。これらの情報は2006.10.01現在のもので刻々と変
わりますのでご注意ください。 
 
奈良交通<時刻運賃案内>  http://jikoku.narakotsu.co.jp/form/asp/
     ホームページの50音検索では、「近鉄奈良駅」は「き」で、「JR奈良駅」は「し」で
   引きます。

 
 「岩船寺」までのコースについて高崎市にお住まいの中島さんから連絡いただきま
した。それはJR「加茂」駅から「加茂山の家」行きのバスですと20分足らずで岩船寺
の門前に到着するとのことです。
 午前中のバスの便は平日が2本、観光シーズンの休日は3本と少ないですが
岩船寺、当尾の石仏、浄瑠璃寺を巡られる方には最適なコースと言えるでしょう。
                               2008.01.14

   

 「当尾の里」は「石仏の宝庫」ですが紹介は極一部です。時間の許す限り多くの石仏をお
回りください。岩船寺を出ますと案内には浄瑠璃寺まで下り1.5kmとあります。 

   
      不動明王磨崖仏

 不動明王磨崖仏は岩船寺から3分程
のところです。山道から急な階段を降り
ていったところで、薄暗い狭い場所にあ
ります。
俗称「一願不動」で熱心にお祈りすれば一
つの願い事を叶えていただけるというこ
とです。
 「興福寺」には一言観音が居られます。

 

 

 
   「不動明王磨崖仏からまもなく分か
  れ道
に出ます。分かれ道を右(緑矢印)
  の自然石の階段を行きますと下の写真
  の所に出て来ます。
   足に自信がない方は左(青矢印)の道
 を行かれますと、少し回り道となりま
 すが、左下の写真の舗装された道にで
 ます。

 

 分かれ道を青矢印の方向に進むとこの
三叉路に出て参ります。舗装された山道
を青矢印の方向に少し行きますと「わらい
ぼとけ」に到着です。

 分かれ道を緑の矢印の方向に進むと
ここに出て参ります。右へ行くと浄瑠
璃寺への方向ですが逆の左に行くと間
もなく「わらいぼとけ」です。

 


     わらいぼとけ

          わらいぼとけ

  「わらいぼとけ」は阿弥陀三尊像であります。これほどはっきりと笑いを浮かべた
「阿弥陀如来像」も珍しく、訪れる人に常に優しく微笑みかけております。
 わらいぼとけを眺めていると「三千院」の阿弥陀三尊像を思い出しました。ただ、本
尊の印相は「弥陀定印(浄瑠璃寺の脇尊の印相)」ですが三千院の本尊は施無畏・与願印
の「来迎印(浄瑠璃寺中尊の印相)」でした。脇侍の跪坐、観音菩薩が蓮台を捧げ、勢至
菩薩が合掌印であることは同じです。
 本尊を来迎印にすべきが石像のため出来なかったのでしょう。インドでは石像が多
く彫刻の際五指を切り離すと強度的に弱くなり何かの衝撃で指を破損いたしますので
補強のために残した部分が如来の「縵綱相」として採用されたのであります。我が国の
如来像は石像ではなく木彫像、金銅像などが大半であることから縵綱相については余
り気にしなかったのか縵綱相が記し程度の大きさの如来像が多く、中には縵綱相が全
く無い如来像もあります。

 


地蔵菩薩像

     からすの壷二尊

   阿弥陀如来像    

 「からすの壷二尊」は「阿弥陀如来」と「地蔵菩薩」であります。地蔵菩薩像は阿弥陀如
来像に向かって左側面に刻まれております。

 


    あたご灯籠

        やぶの中三尊

 「やぶの中三尊」は向かって左側から阿弥陀如来像、地蔵菩薩像、十一面観音像の三
尊が刻まれております。地蔵菩薩像の錫杖は錫は残っておりますが柄の部分が欠損し
ております。十一面観音像も錫杖を持つ珍しいものです。
 「長谷寺」の本尊十一面観音像は右手に錫杖と念珠を持つ長谷寺式と言われるもので
す。地蔵菩薩は錫杖と宝珠を持つのが通例ですが古式地蔵は錫杖を持ちません。その
例が「浄瑠璃寺」の子安地蔵菩薩像で右手は錫杖を持たず与願印ですので是非ご覧くだ
さい。「矢田寺」の本尊地蔵菩薩像の右手は、阿弥陀如来の来迎印の右手と同じという
特殊なものです。

                  石仏の里にて

 
           石 風 呂
    

            山  門

 「岩船寺」は聖武天皇の勅願で建立されたという由緒ある寺院で、大自然の懐に抱
かれたのどかな佇まいの境内です。
 岩船寺も浄瑠璃寺と同じ北向きの寺院で浄瑠璃寺とは車で2.5qの近距離の位置
にあります。宗派も浄瑠璃寺と同じ真言律宗です。
 正面奥に見えるのは
三重塔です。
    
  「石風呂(いしぶろ)」は説明によると「寺塔三十九坊の僧が身を清められ岩船寺え
参られた」となっておりますが巷間、舟形の岩風呂が岩船寺の寺名の由来と言われ
ております。しかし、お寺で真偽の程を確かめると寺名は経典から名付けられたも
ので岩風呂とは関係ありませんとのことでした。石風呂は山門の手前左側にありす
ぐに分かります。 

 

 
                  本  堂

 「本堂」は本尊が阿弥陀如来
ですので当然東向きです。
 こじんまりとした仏堂です
が重厚感のある威厳ある建物
となっております。
 
本堂の本尊は、弘仁・貞
観時代の仏像様式と藤原時代
の仏像様式の双方の特徴を持
つ価値ある像として著名です。 

 

 

       
   十三重塔
 
 

             
        三 重 塔

 「三重塔」は緑の木立に包み込まれるよ
うに建っております。
 桧皮葺ならばしっとりとしてよかった
のですが維持管理が大変なので瓦葺とな
ったのでしょう。
 三重塔は装いも新たになり、創建当初
の極彩色で彩られていて、往時の姿を偲
ばせてくれます。
 二重、三重に比べて初重の軒高が高い
のが特徴です。


 樹林の中に建立されており撮影出来る
位置は塔の北側のみです。 

   

 

     画 中 西  雅 子