当麻寺
 

  「当麻寺(たいまでら)」は、二上山(にじょうざん・古くはふたがみやま)の東麓の奈良
県北葛城郡当麻町にあります。山号は二上山禅林寺で、真言、浄土の二宗で管理されて
おります。
  「弥勒仏」、「本堂」、「東塔」、「西塔」、「当麻曼荼羅厨子」などの計七件の国宝指定物が
ある古刹ですがお寺までのアクセスが少し悪いので訪れる方はまばらで、奈良では一番
自然に囲まれた静かな佇まいの境内です。ただ、練供養会式、ぼたんまつりなどの行事
日は混雑いたします。

 創建は白鳳時代に聖徳太子の弟・「麻呂子王」が創建した大阪河内の寺院を当麻の地に
移されたとのことで、その証かどうかは分かりませんが当麻寺に隣接して「麻呂子山」が
存在いたします。それと異説では、天平時代に豪族「当麻氏」の氏寺として創建されたと
いうことです。
 ただ素人考えですが、白鳳時代創建ならば「薬師寺」の白鳳伽藍様式のように、金堂の
すぐ前に双塔を築き、その双塔を回廊内に取り込むべきなのに当麻寺の場合「金堂」と
「双塔」が離れ過ぎており回廊内に双塔の建設は考慮されていないような気がします。双
塔を回廊外とする天平伽藍様式で考えれば、当麻寺では両塔と金堂の間に中門、回廊が
建設できるスペースがあり天平伽藍様式で合致いたします。
 金堂の本尊である「弥勒仏」の制作は白鳳時代でありますゆえ麻呂古王が創建された寺
院の本尊であったことでしょう。
 その後、当麻に移築された際、天平伽藍形式で考えられたのかも知れません。しかし、
現状を眺めれば初めから中門、回廊の建設は毛頭考えられなかったのかも知れません。
 それと、寺地の地形は西から東へだけでなく南から北へも下る傾斜となっている山麓
で、少し離れれば幾らでも平地が確保できるのになぜ悪条件の場所に建設されたのか疑
問が残ります。二上山、麻呂子山に根強い信仰がありましたので現在地に執着されたの
でしょうか。古代寺院でも例えば現在の「法隆寺」は山を削り谷を埋めて造成をしており
ますが当麻寺は一切造成はしておりません。
 山岳寺院を計画されての伽藍配置のため変則的なものになりましたが一瞬一瞬変化に
富んだ景観が楽しめ興趣をそそる寺院です。両塔の南に存在するはずの「南大門」は山が
迫る地形のため建立されずじまいでした。創建当時なら南大門が正門となるのが普通で
す。

 奈良は京都と違って左右対称の伽藍配置でありますが、当麻寺ではそれらの原則を気
にせず、双塔は金堂からの南北軸に対して左右対称にならずしかも「東塔」と「西塔」は東
西軸からずれているだけでなく両塔の地盤の高さも違うという通常考えられない伽藍配
置です。西塔は平安時代の建立としても当初から西塔建立は予定されていた筈です。
 さらには、中世、当麻寺は基本軸が南北から阿弥陀信仰の東西に変わりますが「本堂」
の東西軸より「東大門」は南にずれております。東大門は本堂の東西軸に建設できる地形
ですがずれているのは何か深い訳があることでしょう。

 塔崇拝から仏像崇拝に変わる時代とはいえ金堂と塔は殆ど同時期に着手すべきで舎利
を奉安すべき「西塔」が遅れての建立とは理解し辛いですが氏寺ではいろんな意味で難し
いことがあったと思われます。とはいえ、平安時代に西塔が建立されたことは氏族が没
落する中で当麻氏だけは健在だったと言えるでしょう。

 興福寺の末寺だったため平重衡の南都焼討ちのとばっちりを受けましたが本堂、東塔、
西塔が被害から免れましたのは奇跡としか言いようがありません。

 時代は丁度平安末期に当り、末法思想が広まり現世での幸せを諦め、来世に阿弥陀如
来の極楽浄土に生まれ変わることを願う信仰が盛んとなりました。当麻寺も大檀越の当
麻氏が衰退していくのに対応して庶民の阿弥陀信仰の寺に変貌し、信仰形態が変わった
曼荼羅を本尊とする新生当麻寺として生まれ変わったのであります。「元興寺」も同じよ
うな状況を歩みました。  

 古代の伽藍形式では金堂と講堂があり、後世には金堂と講堂の役目を果たす本堂が誕
生いたしましたが当麻寺は金堂、講堂、本堂が存在するという両形式を持ち合わせた珍
しいお寺です。          
 当麻寺は牡丹の名所として有名です。

 


    當麻蹶速像

 
       當麻蹶速之塚

  「近鉄南大阪線・当麻寺駅」から当麻寺に向かう途中に、「当麻蹶速(たいまのけは
や)」と「野見宿禰(のみのすくね)」が相撲を取り、そして負けて亡くなった当麻蹶速を
祀る五輪塔があります。
 昔は、土俵が無く相手を死に至らしめるまで闘うスタイルだったので当麻蹶速が命
を失って決着が付いたということではないでしょうか。
  当麻蹶速像は赤矢印の所にあります。
 野見宿禰の子孫には、学問の神様と言われた「菅原道真」がおられます。

 

 
               二 上 山


  檜原神社からの夕日

  当麻蹶速之塚と過ぎると間もなく右前方に「二上山」が見えてきます。   
 二上山は前方後円墳の側面に見えるとも言われております。二上山は字の通り北の
雄岳(おだけ・517m)と南の雌岳(めだけ・474m)の双峰からなります。明日香の都か
ら二上山を眺めれば、夕日が二上山の二つの峰の間に沈むことから西方極楽浄土の霊
山として崇められました。

 二上山を越えた西側の磯長谷(しながだに)(河内郡太子町)には歴代の天皇陵や古墳
が数多くあり、二上山が結界となっております。また、二上山は奈良県と大阪府の県
境でもあります。

  死火山二上山は凝灰岩の産地でありましたので奈良の寺院の基壇などに多く使われ
ました。ただ、凝灰岩は風化し破損しやすいので、現在は多くの寺院の基壇は花崗岩
に代えられております。
 当麻寺の南側を走っておりました「竹内街道」は、大阪(河内)と奈良(大和)を結ぶ古
来重要な交通路でありましたので当麻を寺地に選ばれたのでしょうか。古代の竹内街
道は現在の国道166号線です。二上山は当麻寺境内からもご覧になれますのでどうぞ。

 夕日の撮影に3月13日に「桧原神社」へ行きましたらカメラマンの数が少ないので社
前の茶店で尋ねますと双峰の間に夕日が沈むのは11日だけで本日は北にずれるとのこ
とでした。たった2日でこれほど北へ寄るとは知りませんでした。さらに夕日が沈む
に従って早いスピードで北へ北へと斜めにずれて山の彼方に沈むときは写真の右端ま
できておりました。夕日は幻想的で美しいですが何となく物寂しいのは死者の霊が赴
く西方極楽浄土を連想するからでしょう。今回の撮影で自然現象に対していかに無知
であるかを認識いたしました。   
 右(北側)に少し寄り道をいたしますと次の写真のような「双塔」が遠望できます。

 


 東 塔                西 塔

 鬱蒼とした樹間に埋もれた東西
の「三重塔」が僅かに頭を出してお
ります。両塔は古代創建時の姿で
残る唯一の遺構ですがこの双塔が
樹林に沈んで見えなくなるのも時
間の問題でしょう。現在はまだ幸
いなことに眺望出来ます。
  東西の「両塔」が国宝であると言
うのは当麻寺だけで貴重な三重塔
です。

 

 
        東 大 門

 当麻寺駅から「東大門」まで徒歩で
約15分の距離です。
 東大門は三間一戸の楼門です。
 創建当初はどの門が「正門」だった
のでしょうか。通常なら南大門です
が南大門は建立されなかったようで
どこからの出入りだったのか、ミス
テリーな話です。中世には信仰形態
が西方極楽浄土におわします「阿弥
陀如来」の崇拝と変わりましたので
正門が東大門となりました。
 東大門から本堂へはまっすぐ西に
あるのではなく少し北よりです。

 

  
       鐘  楼

             
           石 灯 籠

   「石灯籠」は金堂の前庭にドンと座ってお
ります。

   「東大門」を入って最初に目に
  飛びこんで来るのが「鐘楼」です。
   鐘楼には現存最古の「梵鐘」が
  吊り下げられております。ただ
  残念なことに鳥害から守るため
  ネットが張られており少し見づ
  らいです。   

  高さは2.17m。二上山で産出した凝灰岩で
造られております。凝灰岩で造られているた
め風化が著しいですが重要文化財です。現存
最古の遺構で貴重なものです。金堂は鎌倉時
代の再建ですが燈籠は当初の金堂と同じ天平
時代に建てられたものでしょう。
  火袋は木製に代わっておりますが素朴な感
じがする燈籠です。

 

  

 
           金 堂(裏側)

 「金堂」は興福寺別当が
当麻寺別当を兼務した影
響で平重衡の南都焼討ち
にあい被災したため、鎌
倉時代の再建です。
 創建当初は金堂が中心
堂宇でありました。
 金堂は南面して建ちま
すが正面には前述の石燈
籠があって撮影できず、
裏側から撮影した金堂で
すがこの裏側が拝観者の
出入り口です。

 白壁と腐食した木組みで昔の面影をひっそりととどめる金堂ですが少し小規模の印
象を受けます。
  地形が西から東へ下降する地勢でありますが基壇を見れば分かるように西端と東端
に高低さがあります。古代は治水工事もままならず、西側に聳える山々から流れ出る
大量の雨水を処理するために西から東への地形の勾配をそのままにしておいたのでし
ょう。基壇の高さが調整し易いように当時主流だった壇正積でなく乱石積の基壇にし
ております。講堂でも同じことが言えます。  
 簡単な法要は一部の僧だけで執り行われ、堂前の基壇上で執り行われたのか深い軒
となっております。
 東大門から西へまっすぐ向かいますと金堂の前庭に到着することから創建当初の伽
藍配置でも東大門が正門であったかも知れません。 


     弥 勒 仏 坐 像 

 「弥勒仏坐像」は像高 2.2mで丈六仏より一回
り小さいです。
 如来は「仏」の中では最高のランクにあり白鳳
時代なら「金銅像」であるはずですが、材料は一
番安い「塑造」です。塑像では現存最古の遺構と
して有名です。ただ、塑造の場合、材料は安価
ですが材料の仕込みと制作には相当な手間が掛
かりますので高価な像となります。天平時代ま
では手の込んだ制作工程で作品を完成させてお
りますので出来上がりは抜群でその証拠に南都
焼討ちの際、猛烈な火炎を浴びたにもかかわら
ず致命的な損傷も無く当初の姿を持ち堪えたの
であります。  
 雲母入の細かい塑土の上に漆箔仕上げです。
 「台座」も表面の化粧板以外は土で出来ており
ます。
 「中宮寺弥勒菩薩像」のあどけない愛くるしい
顔立ちとは大分違いますね。
 古代は尊仏を五体倒地の姿勢で低い位置から
見上げるように礼拝していたため、視覚上頭部

を六頭身ぐらいの大きさに造っておりました。その流れを受けて本尊も頭部は大きめ
に造られております。身体つきも量感あふれるがっちりしたものです。
 「螺髪」が殆ど無くなり、ひどい痛みようです。首には三道があるなずなのに首その
ものが見当たりません。
 白鳳時代のゴムまりのような丸い童顔、可愛い細長い目です。膝が高く、堂々とし
ておりますがずんぐりとした印象です。
 同じ白鳳時代製作の興福寺の山田寺仏頭に相通じております。
 
 弥勒は飛鳥時代は菩薩形で、白鳳時代になると菩薩形から如来形に変わりますが、
尊名は弥勒はまだ兜率天で修行中のため如来とせずに仏とされたのでしょう。後代に
は如来の尊称が付けられます。


   南山弥勒谷石仏坐像

   軍威三尊石仏 阿弥陀三尊像

 当麻氏は新羅に派遣されるなど新羅との交流がありました影響で新羅仏の造形様式
に似ているといわれております。「慶州南山弥勒谷の如来像」によく似通っております。
「慶州北道軍威 阿弥陀三尊像」にも相通じており、当麻寺金堂像も軍威三尊石仏のよ
うに三尊形式であったのに脇侍が何らかの事由で失われたのでしょう。現在、本尊の
両脇の基壇には脇侍が安置されていたと思われる大きな枘穴がそのまま残されており
ます。
 当麻寺が本尊に弥勒仏を選ばれたのは新羅の影響でしょう。飛鳥時代は「釈迦・弥
勒」時代でしたが白鳳時代ともなれば薬師如来か阿弥陀如来の崇拝となる筈です。

 

  
    持 国 天 像
 本尊は塑像で「四天王像」が脱活乾漆造でありますこ
とから何故素材の違いが出たのか不思議です。塑像の
安価な粘土に比べ脱活乾漆像は割高な高純度の漆で制
作されました。
 ランク付けをすると如来、菩薩、(不動明王)、天部
となりますから素材の使い方から考えられることは創
像当時は弥勒三尊像であったのが脇侍が失われたので
どこからか移安されてきたのでしょう。それというの
も、金堂内には脇侍と四天王の両方を安置するスペー
スはありません。
  白鳳時代の作で脱活乾漆造の現存最古の四天王像で
すが一般的な脱活乾漆造と違うところは像の胴部辺り
の造りは、桐の薄板で作られた円筒状のうえに「乾漆」
で整形仕上げをしていることで、このことは脱活乾漆
像の制作において試行錯誤した結果でありましょう。
  「持国天像」は「法隆寺金堂四天王像」と同じように憤
怒相でなく穏やかな顔付きで脚を少し開いた直立不動
の姿勢です。
 
襟のたった甲肩には布を巻き、長い袖、裳裾の広
がりなど
手の込んだ甲の表現は見事です。法隆寺金堂
四天王像の甲は丸首ですが後世の様式である襟が前開きになっております。
 
見事な顎鬚と口髭を付けた日本人離れをした表情で、これほど異国的な顔貌は他で
は見たことがありません。これらの鬚髭(しゅし・あごひげとくちひげ)の表現が出来
たのも乾漆なので難しくはなかったことでしょう。というのも、木彫像でも髪の毛な
どの細かい表現には乾漆で制作することがあります。飛鳥から白鳳時代の作と言われ
る「法隆寺六観音像」も素材は樟ですが髪の毛などは乾漆で造られております。
 邪鬼は手を組んで蹲り畏まっております。邪鬼は法隆寺では台座のような大きさで
あるのに対し小さくて、邪鬼が少しでももがけば四天王は滑り落ちそうでありますが
白鳳時代の邪鬼は大人しいです。次の天平時代になりますと四天王の動きにつれて邪
鬼も踏みつけられた重圧から逃れようと仰向けや横向きになり暴れて反抗するように
なります。 
 
現存では法隆寺に続いて二番目に古い四天王像ですが南都焼討ちで蒙った損傷の補
修をもう少し丁寧にしておれば、間違いなく「国宝」に指定されていたのに残念ながら
「重要文化財」です。ただ、南都焼討ちでの損傷とするともう既に本尊の脇侍は存在し
なかったことになり難しい問題です。

 

 
            講  堂

 「講堂」は「金堂」と同じく
平重衡の南都焼討ちで被災、
鎌倉時代の再建です。
  金堂の背面にあり講堂は
こちらが正面で講堂だけが
南側から撮影できます。
 基壇は壇正積でなく乱石
積であります。
 変形な基壇から分かるよ
うに境内は高低差のある条
件の悪いところです。    

 経典の解説の聴聞や法要などが行われたので多くの僧が参加するため金堂より大き
く造られております。 
  通常通り金堂の背面に建っておりますが現在の当麻寺では東大門から入りますと金
堂の裏側と講堂の正面の間を通り本堂に向かいます。

 
 当麻寺の前身を創建されたと言う
「麻呂古王」に因んで命名されたのか
どうかは分かりませんが「麻呂子山
(赤矢印)」です。写真の右の建物は
本堂で左の塔は西塔です。講堂の基
壇上からの撮影です。

 

                           
                本   堂 

 「本堂」は東面して建ち、創建当時の本堂は天平時代の住宅建築古材を転用しての建
築だったということです。
 有力スポンサーである当麻氏の没落で廃寺となるのを避けるための知恵として、仏
像ではないですが「當麻曼陀羅」を本尊として安置して、浄土信仰のお寺として庶民に
支持されることで寺の維持を考えたのでしょう。よって、当麻寺の中心仏堂は金堂か
ら本堂に変わりました。本堂は當麻曼陀羅を祀ってあることから「曼陀羅堂」とも呼ば
れます。

 「東大寺」の三月堂で、双堂(ならびどう)が本堂に変わっていく話をいたしましたが、
当麻寺は当初「礼堂」がなく、当初の庇に増設の孫庇が加えたものを礼堂(外陣)とする
本堂形式へと永暦二年(1161)に改変され現在の姿となりました。
 孫庇の増設により本堂に変わっていく貴重な遺構です。曼荼羅を礼拝する浄土信仰
の霊場といえば元興寺も同じですが元興寺の本尊は智光曼荼羅です。当麻曼荼羅、智
光曼荼羅、青海曼荼羅は浄土三曼荼羅として有名です。
 正堂が本堂に変わっていきますが本堂とは金堂、講堂の機能を併せ持ったものであ
りますから必然的に両建物より大きな建物となります。爾後の本堂はますます礼堂を
広く取る奥行の深い建物となっていきました。 
 野屋根を採用した割には屋根勾配は緩やかなものとなっております。


       閼 伽 棚


      蟇 股


    木瓦葺と蟇股

  本堂の背面には「閼伽棚(あかだな)」がありますが付属的な建物には見えず閼伽井屋
と勘違いするほど豪華な建物です。
 閼伽とは仏菩薩に供える聖水、香水(こうずい)を意味しますが閼伽水とも言います。
閼伽棚は霊水や花、供養具を置く棚のことです。
 汲み上げる井戸があれば閼伽井屋となり、東大寺二月堂、園城寺金堂などが有名で
す。
 屋根は板葺で今では珍しくありませんがその昔、当麻寺金堂、講堂、「室生寺五重
塔」なども木瓦葺(こがわらぶき)でした。現在でも「中尊寺金色堂」の屋根が木瓦葺と
なっております。
 本堂の屋根は瓦葺ですが閼伽棚の屋根は板葺です。法隆寺でも金堂の屋根は瓦葺で
すが裳階部分は板葺ですが違うところは、当麻寺は木瓦葺で法隆寺は板葺であります。
木瓦葺とは、平瓦の代わりに厚い細長い板を並べて葺き、その板の継ぎ目に、丸瓦の
代わりに、断面が厚板より先に出る部分のみ円形で、厚板の上に載せる部分は半円に
加工された丸棒を置きます。閼伽棚の写真で丸棒が厚板より少し出ているのが分かり
ます。木瓦葺は流板葺とも言います。我が国は木材の豊富な国であり、柿葺は高価で
すが木瓦葺なら安価で仕上がるので古くから近世まで色んなところで用いられました。

 
      文亀曼陀羅・厨子

 本堂の本尊である「当麻曼荼羅」で
す。曼荼羅は西方極楽浄土の様子を
描いて視覚化したものです。
 曼荼羅にまつわる伝説での「中将
姫」が蓮糸で織ったという「蓮糸曼陀
羅」は今は無く、現在、本堂厨子に
安置された曼荼羅は、「絹糸の綴織
(つづれおり)曼荼羅(国宝)」を文亀
年間に模写した絵画の「文亀曼陀羅」
です。
 国宝の曼荼羅は別の場所で保管さ
れております。
 「厨子」「須弥壇」と共に国宝指定で
あります。厨子は桧製、六角形で高
さはありますが曼荼羅をかけるため
だけですので奥行は浅いです。

 厨子は金銀泥で多種多様な文様を描かれており、須弥壇には黒漆地に朱で描かれた
木目模様の上に多彩な螺鈿細工が施されております。素晴らしい煌びやかなもので見
応えあるものですのでどうか、じっくりご覧ください。 
 本堂の前身堂が天平時代創建でそれより余り遅れずに当麻曼荼羅を安置されたとし
ましても当時は金堂が中心的な堂宇で本堂はまだ従属的な堂宇だったことでしょう。
それが当麻氏の衰退と共に本堂を拡張して氏寺から当麻曼荼羅を礼拝する浄土信仰の
寺院に変わっていったのであります。    

   

   
  中 将 姫 像

 「中将姫」といえば当麻寺、当麻寺といえば中将姫というぐらい
有名でありますが中将姫は伝説上の女性です。
 「中将姫像」は蓮池の蓮華にそっと立つ美しい少女の姿です。
  仏の力を得て、「蓮糸」を用いた「曼陀羅」を一夜で織り上げたと
言う伝説ですが、ミャンマーでは古くから蓮糸で僧衣が織られて
おり、現在、ミャンマーのインレー湖で自生する蓮から蓮糸を作
り織物を織っているとのことです。ただ、効率が悪く蓮の葉の茎
が一万本でも風呂敷程度の大きさの布しか出来ないらしいです。
8年前にインレー湖に行きましたが一番の思い出はミャンマー旅
行中、米ドルしか使えなかったのに
自国通貨のチャットが使えた
唯一の所でした。当初の曼荼羅は絹糸で織られていたといわれて
おりますが中将姫は蓮糸で織ろうと試みましたが厚手の当麻曼荼
羅に要する蓮の茎の数は、途方無く膨大な数となり断念されたの
でしょう。なお、当初の当麻曼荼羅は唐からの渡来説もあります。

 中将姫に静かに手を合わせたのち後述の「石光寺(せつこうじ)」
を訪れましょう。

 


  東塔       西塔

 「東塔」「西塔」は金堂より離れた台地に
あるうえ、双塔は向かい合わず東西軸が
一直線でなく少しずれておりますうえに
両塔の地盤にも高低差があります。両塔
は遠望が出来ますが近くでは樹木が遮り
塔の全景は眺めることは難しいです。    
 山が迫った丘陵地に建つ両塔は向かい
合っておりますが両塔の間には障害物が
あって東塔から西塔へはぐるっと回らな
ければ直線的には行けません。天平時代
建立の東塔に比べて平安時代建立の西塔
の方がずんぐりしており100年の年代差
が感じられます。 
 塔頭「西南院」の池泉回遊式庭園の「み
はし台」から撮影です。西南院を訪れま
すと両塔が眺められる最高の眺望でしか
も、西塔を借景にした庭園で抹茶がいた
だけますのでどうぞ。

 

 


       東  塔(東側)

    
      二重、三重目

 「東塔」は天平時代の創建です。
 写真撮影が出来るところは東側のみでし
かも樹木の遮蔽が少ない僅かな空間に限ら
れます。
 通常、初重から三重目まですべての面の
柱間を、三つの方三間といたしますがこの

東塔は構造上大変不利であるのに、二重、三重ともに方二間で特異な構造です。「薬
師寺三重塔」「法起寺三重塔」は三重目だけが方二間です。    
 建物の正面の真ん中に柱がくるのは異例ですが門では著名な「法隆寺中門」がありま
す。
 中備の間斗束がありません。東塔の四面は中の間は扉口、脇間は連子窓でその窓の
下は白壁です。通常、塔の四面は同形式で造られますのでどの面でも正面にもってこ
れます。ですから、正面は仏像、須弥壇の状況で決まることになります。東塔の連子
窓は後世の付加です。 

 
         水煙(東塔)    

 
  相輪(東塔)

  
 相輪(談山神社)

  「水煙」の形は魚の骨のような珍しいものですが何をデザインされたのでしょうか。
高層建築の大敵である雷を魔物と考えて侵入を防ぐ「忍び返し」のつもりでしょうか。
 「相輪」は通常九輪であるのに、八輪という珍しいものです。藤原鎌足が祀られて
いる「談山神社」の十三重塔の相輪は七輪です。

 


         西 塔(西北側)

 「西塔」は25.2mで東塔より0.8m高くなっ
ております。
 平安時代の創建ですが、東塔創建から百年
も経っているので再建説もあります。
 我が国の場合、仏舎利は塔の地下に安置さ
れるのに、後に奉安された舎利は心柱の頂上
に安置されております。塔の地下に安置する
には差しさわりのある何かがありましたため
避けたのでしょう。
 それとなぜか、舎利が奉安される塔は白鳳
時代なら東塔で、天平時代なら西塔になりま
す。本来は西塔が東塔より先か同時に建立さ
れるべきなのに不思議なことです。
 二重、三重ともに初重と同じ中の間が扉で
両脇は白壁です。東塔には後補の連子窓があ
りますが西塔にはありません。
 北側が正面となります。他の三面は立ち入
り禁止です。北側も樹木があり塔の真下まで
行かなくては全景を見上げることは出来ませ
んので写真撮影は不可です。それゆえ、撮影  

は塔頭「西南院」の池泉回遊式庭園の「みはし台」から少し回遊した場所からです。

      
         水煙(西塔)

    

           
       水煙(法隆寺五重塔)

  「水煙」は火炎状に配置した未敷蓮華
と忍冬文様で優れたデザインです。

  

 「法隆寺五重塔」の水煙によく似て
いますね。

   

 
    香 藕 園(中之坊)

  
  髪塚(剃髪所)(中之坊)

 牡丹園は「当麻寺中之坊」にあり、是非中之坊も訪れますようお勧めいたします。
中の坊は「高野山真言宗 別格本山」で、大和三名園の一つ「香藕園(こうぐうえん)」
があります。四季折々の変化する自然だけでなく天平時代の東塔までを借景として
おり、いにしえの古都奈良の面影を忍んでください。
 国指定名勝の庭園で抹茶を一服頂いて日常生活の疲れを癒されてはいかがですか。
 
 「髪塚」は説明によると「中将姫は下ろした髪を以て六字名号を刺しゅうし、感謝
の気持を表されたという。その故事に因んで建立されたのがこの髪塚で
毎月十六日(六月十六に大祭)には塚の前にて髪を供養し、心身の健康を祈願する
法会が営まれる。」とのことであります。   

                           中之坊の庭園にて

 

      
        石 光 寺

 「石光寺(せつこうじ)」は当麻寺から
徒歩で約10分の距離です。石光寺は
「天智天皇勅願寺」という名刹です。
 石光寺に訪れたときは5月10日でし
たが、遅咲きの牡丹をはじめ多くの花
が咲き誇っておりました。
 自動車の方は当麻寺から途中信号も
無くすぐに到着です。駐車場は嬉しい
ことに無料です。


     染 の 井

 

 「染の井」は「當麻曼陀羅」に用いられた
蓮から作られた蓮糸を、ここの井戸にそ
そぐと五色の糸に染まったという伝説が
あり、それで石光寺は「染寺」の別称があ
ります。

                        以上 2001年 5月10日 撮影

以上 2002年 2月16日撮影

 

 

                  画 中 西  雅 子