東大寺

  「東大寺」は華厳宗の総本山ですが「盧舎那仏(るしゃなぶつ)」という「大仏さん」が居
られるお寺で、大仏さんは老若男女が拝観して歓声を上げる国民的人気ナンバーワン
の仏さんです。(密教では「盧遮那仏」です。)  

  「大仏商法」といわれるくらい大仏さんは奈良の観光経済に大きく貢献しております。
がしかし、お寺とすれば大仏商法は余り歓迎すべき言葉ではなさそうです。それもそ
の筈で大仏さんは観光の目玉ではなく信仰の礼拝対象だからでしょう。とはいえ、何
時訪れても大仏さんの周りには多くの人で賑わいを見せており、これからも大仏商法
は続くことでしょう。
 
東大寺の寺域は広大すぎて外壁が造成できずどの方向からでも出入り自由でありま
す。その昔は18ホールのゴルフ場が出来るくらいの広さだったとは驚きで、大仏さ
んに相応しい境内でした。正に「ひむがしのおおてら」でした。
 
「東大寺」の本名(正式名)は金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこ
くのてら)
です。「きんこうみょう・・・」とはお寺の呼び方です。
 
  「
聖武天皇の皇太子、「基王」の菩提を 追福するため、若草山の麓に造営された「金
鐘山寺(きんしょうせんじ)(金鐘寺)」が、国分寺建立の詔により国分寺の総本山「金光
明寺」となりました。
 金光明寺の呼称が東大寺に変わるのは大仏開眼の少し前とのことです。東大寺とは
「平城京」の東方に位置するからです。それから、古代の「大寺」とは天皇のお寺と言う
意味です。

 さて、注目の大仏さんですが最初、聖武天皇は近江の国(現在の滋賀県)の紫香楽宮
で大仏造営の詔を出されました。そこで、大仏造営の工事は紫香楽の「甲賀寺」で開始
されましたが、都が振り出しの平城京に戻るのに合わせて甲賀寺での大仏造営を中止
して聖武天皇と皇后のゆかりの金鐘山寺(東大寺)の寺域内で大仏造営の工事が再開さ
れることになりました。
 
 東大寺の工事は「造東大寺司(金光明寺造仏所)」という臨時の役所が担当しておりま
したが臨時とは名ばかりで実態は恒久的な役所でありまりた。官営工房の造東大寺司
とは働く人員が2000人に近いという巨大組織でありました。しかし、この造東大寺司
も律令政治の衰退とともに平安初期には閉鎖となりました。
 官営工房の最後の仕事が、平安京の東寺、西寺の造営でこれ以後官寺の造立は行わ
れなくなりました。
 中央集権国家の成立で国家権力をもって巨大プロジェクトが強力に推進でき、国の
重要政策の一つとして大規模な造寺、造仏が出来ましたのは活気に満ちた天平時代だ
ったからです。  
 詔には「・・・国銅を盡して象を鎔し・・・」とありますように大仏造営で我が国が
所有する銅の総てを消費したことでしょう。
 大仏の開眼会は752年の春に盛大に挙行されました。

 「金光明四天王護国乃寺」の掲額(国宝)が「西大門」に揚げられていたのはそれだけ西
大門は重要な門だったということでしょうが現在は石碑のみがバス停「押上町」のそば
にあります。

 治承四年(1180)平清盛の五男重衡による「南都焼討ち」の事件は、南都にとって史上
最大の悲劇で東大寺では
天平時代の殆どの堂宇が灰燼が帰しました。犠牲となった東
大寺の堂塔伽藍の再建には国家プロジェクトとして取り組まなければならない筈なの
に朝廷には財源的な裏付けが乏しかったため、そこで再建のリーダとして白羽の矢が
立ったのが
醍醐寺の僧であった「俊乗房重源」であります。
  「重源上人」が「東大寺復興」の総責任者たる「大勧進職」に抜擢された時は61歳で、
当時では平均寿命を遥かに超えた年齢でした。そんな高齢者、重源上人が起用された
のは優れた宗教者というだけでなく東大寺再建に関する情報が豊富だったからでしょ
う。
  重源上人は三回も中国の宋に渡っておられ、僧侶としての修行だけでなく宋の高度
文化を修得されていたことでしょう。ただ、建築学までを修得されたとは思えません。
多分、「大仏様」をマスターした工匠を大陸から連れてきて総監督をされたのでしょう。
 重源上人は若き頃から86才で入寂するまで、自ら全国を回り、浄財を集め資金の準
備、さらには作業員の確保などの業務を果たされ東大寺の再建、諸寺の建立、社会福
祉事業に尽力されました。
 
宋へ三度も渡ったことに真偽のほどが問われておりますが「大仏様」の建築技法を採
用、宋から技術者の招聘などを見ると満更虚偽とは思われません。

 大勧進職の重源上人が東大寺再建に優れた手腕を発揮したのに対し「勧進帳」
といえ
ば偽の勧進である「源義経」の方が演劇などに取り入れられ有名になったのは心外で義
経は重源上人にあの世で大いに感謝すべきでしょう。しかし、この義経を追討した
「源頼朝」に東大寺再建の支援を受けたことは何か因縁めいたものを感じます。
 勧進とは堂塔や仏像を新造または補修する費用を全国各地を回って浄財(寄付)を募
り徳を積ませることです。お願いする寄付帳を勧進帳といいます。

 重源上人の宋の新しい建築技法「大仏様」は、当初「天竺様」と呼ばれておりました。
大仏様と呼称変更になったのは「天竺」とは「インド」のことでインド寺院と言えば石窟
寺院が通常であるため、木造建築様式が天竺様はおかしいと言う事で改名されました。
ではなぜ、大仏様かと言いますと世界最大の木造建造物である「東大寺大仏殿」を再建
するのに適した合理的な建築技法だったのでこのような呼び方になったとのことです。
しかし残念なことに、現在の大仏殿より一回りも二回りも大きかった再建時の大仏殿
は、兵火に遭ってその雄姿を見ることが出来ません。   
 木材が豊富な我が国に比べ木材資源が限られている大陸のことですから、大仏様は
巨木が必要とされる大規模な建築を建立するためでなく、多分素材を節約するために
考え出された技法かと思われます。そういたしますと、大仏様は大仏殿の再建に適す
るようある程度手法が改められたことでしょう。
 大仏殿の再建は、それまでの建築技法である「和様」では構造的強度不足の問題、さ
らには納期的な問題、価格的な問題をクリアすることが難しかったのも事実でありま
しょう。    

 東大寺に度重なる不幸が訪れました。それは、江戸時代の永禄十年(1567)「松永久秀
と三好三人衆」の争いに巻き込まれて大仏殿など多くの堂宇を焼失する出来事でありま
す。
 大仏は頭部が堕ちるという大きな損傷を受けましたが、どこからも援助の手が差し
出されず、損傷した頭部部分などは木枠で補修され銅板での仕上げと言う粗末な応急
処置で凌ぐという悲惨さのうえ露仏のまま100年も経過するのであります。その哀れ
な大仏の姿を目にされた「広慶上人」が大仏殿、大仏の復興を決意されたのであります。
 しかし、第五代将軍「綱吉」の援助にもかかわらず、大仏殿の間口(桁行)が創建当初
の11間であったのが財政的な問題で9間でも難しいと言うことで現在の7間に縮小さ
れ再建されたのであります。
 木材は奈良からはるか離れた九州の日向に求めざる得ない状況のうえ金堂の柱は木
材を寄せ集めて金輪で固定する合せ柱とならざるを得ない現状でした。江戸時代には
巨大堂塔の建設は仏像の寄木造のように合せ柱でないと建立出来ない時代を迎えてい
たようであります。
 広慶上人は難事業に取り組みそのご苦労は並大抵のものではなく現在の大仏を見る
ことなく江戸で客死されました。露仏から救い出し現在の大仏殿、大仏が拝見出来ま
すのはひとえに広慶上人のお陰で、広慶上人を偲びながら大仏を仰ぎ見てください。  

 創建当初の建造物は三月堂(正堂)、転害門、正倉院だけで鎌倉再建の建造物は南大門、
鐘楼、開山堂、三月堂(礼堂)のみが現存しております。

 


                   南 大 門

 「南大門」は鎌倉時代に、
重源上人によってもたらさ
れた中国の宋様式「大仏様」
で再建されました。上屋根
と下屋根が異常に接近して
おるだけに堂々たる雄姿と
なっており、東大寺に来た
のだぁと歓声をあげられる
ことでしょう。
 
直径1m、高さ24mの円
柱が18本林立しております。和様の技法ならもっと太い
柱を必要といたしましたが

大仏様の「貫」の技法は、柱径を細くするだけでなく柱間隔をも広げられることが出来ま
した。 
 
上層(大)と下層(腰)の屋根の大きさが同じでバランスが悪い筈でありますが周辺の樹
木が視界を遮ることもあってか差ほど違和感を感じません。
 外観は二重門に見えますが通柱ゆえ腰屋根付き一重門と言えるもので時代は
二重門で
なければならないという意識が希薄になっていたのでしょうか。
 下層屋根が上に上がり上層屋根と接近して下層部分の高さが異常に高くなっておりま
すのは像高8.4mもある「仁王像」を正面から拝観するための高さが必要とされたためで
しょう。後述の「大仏」の項をご参照ください。
 
 残念なことに大仏様は重源上人が亡くなると流行することもなく潰えてしまいました。
丁度、「止利仏師」が蘇我家と共に史上から消えていったように。大仏様は繊細ではなく
豪放磊落でありましたのでデリカシーのある日本人にとっては粗雑に見え、趣味に叶わ
なく馴染めなかったようです。それと、中世の伽藍配置が都市伽藍ではなく山岳伽藍と
変わったため大仏様建築は自然の佇まいに溶け込めず敬遠されたのでしょう。
 さらには、禅宗様建築は柱が細くこじんまりとした建物が主流であり巨大木造建築は
建立されず大仏様は必要とされませんでした。
 とはいえ、大仏様の「貫」の技法と「大仏様木鼻」
はシンプルな禅宗様の木鼻に比べて空
想上動物まで刻まれる華やかなものとなって、後世の建築に大きな影響を与え「和様」な
どに取りられた後、大仏様は消えて行きました。
 私などは大仏様は優れた技法でそれで建立された建築は構造美そのもので大いに評価
できるものと素人ながら考えております。
 もし、南都焼き討ちがなければ大仏様の建築は無かったかも知れませんが、地震大国
の我が国のことですから建物の耐震性を高めることが出来る大仏様の手法「貫」だけは請
来したことでしょう。
 
鎌倉再建の大仏様の「金堂」が焼失してお目にかかれないだけに威風堂々とそそり建つ
南大門は貴重な遺構で、いずれにしても従来見られなかった独創性に富んだ建築と言え
ましょう。

 
          南大門の屋根裏

 南大門に訪れた際には是非とも「天井」を見上げてください。天井まで見上げる方は僅かしかいらっしゃいません。
 巨柱の林立はまるでビル工事現場での鉄骨の骨組のようであります。円柱の総てが化粧屋根裏まで伸びた様は壮観な眺めで圧倒されることでしょう。
 野屋根、天井の無い大仏様でなければこれ程の高さまで見通せることは不可能です。

 写真は鹿の数が少ない時に撮影したも
のです。間もなく多くの鹿が集まってき
ましたので群の中から退散しました。
 修学旅行生は南大門前で鹿にせんべい
を与えることに興じておりました。鹿も
よく訓練されておりせんべいを鹿の頭上
高く差し上げると鹿は頭を上下に動かし
頂戴のしぐさをするので子供達の人気は
絶大でした。
   

 
       南大門前

 


     阿形像(仁王像)


     吽形像(仁王像)

  南大門の「仁王像」はわが国最大の木彫像で、像高は8.4メートルですが阿吽(あうん)
の位置が逆となっております。天平時代までは「儀軌」についてもそんなに煩くなく自
由に制作出来、創建当初の仁王像も後述の「三月堂の仁王像」と同じように阿吽の位置
が逆だったのでしょう。
  巨大伽藍を守るにはこれくらい大型の仁王さんでないと務まらないでしょう。もし、
塔のガードマンであったとしたら東大寺の東塔、西塔は七重塔で総高が100mもあっ
たと言われておりますから仁王さんも大きくなければ釣り合いが取れなかったことで
しょう。
 
寄木造だから出来たのであって天平時代までの霊木信仰であれば原木以上の大きな
仏像を造ることは不可能でした。大型の像はコストの高い漆を使用した脱活乾漆造で
ありましたがこれほどの巨大像の制作は無理でした。しかし、いくら寄木造とはいえ
これだけの巨大像はそう簡単には造像できないでしょう。部材一つ揚げるにも一苦労
で今ならクレーンで容易い作業でありますがそれを考えるとよくぞこれだけの巨大像
を短期間で造り上げたものです。

 「五指」を思い切り一杯に広げた像は「法隆寺仁王像」「新薬師寺伐折羅(ばさら)像」な
ど憤怒像に多く見られます。
 鎌倉時代に仁王像の傑作が多いと言われる所以は仁王像に異常なほど力を注いだ慶
派が存在したからでしょう。その慶派でもこの像は
巨大像過ぎて「玉眼」の採用は無理
だったようです。

 太く逞しい破壊力を秘めた巨大な腕、盛り上がる胸の筋肉までもがくっきりと表現
され猛々しさが感じられます。裳裾は大きく棚引き激しい動きを表現し活気に満ちた
気宇壮大な像です。
藤原時代は絵画のような彫刻といわれるのに比べ彫り過ぎるきら
いがあるほどの大胆な表現は個性の強い慶派ならではでしょう。
 この仁王像を後世に真似た像がないのは、真似ることが出来ないほど切れ味の良い
的確な表現の像だからでしょう。
これほどの巨大像を破綻なく仕上げたのは優秀な慶
派の人材があればこその話で、さらに驚くべきことは、近年の解体修理の際支えなし
で立っていたことです。

 吽形の右足は指先を反り上げて踵のみが台座についているという珍しいポーズでそ
れでいてバランスが取れています。阿形像は吽形像に比べ誇張のない美しさのなかに
躍動感があふれております。
 阿形像は上半身が直立、吽形像は腰を大きく引いてくの字の体制になっております。
 頭には冑ではなく髻を結い、身体には胸飾り、臂釧、足釧の装飾品で飾り立ててお
ります。
 両像の脚を見ていると「健脚の神」といわれる所以が納得できます。

 最近のビッグニュースは今まで、吽形像は運慶作で、阿形像は快慶作というのが常
識でしたが近年の解体修理でその説が覆されたのであります。
吽形像は大仏師定覚、
湛慶で、阿形像は大仏師運慶、快慶がかかわったとのことであります。ただ、どうし
てこのような組み合わせになったのか疑問に思われます。運慶は総括責任者としての
役目を果たすため吽形像を長男の湛慶にまかせ、快慶は自分の手許に置いてコントロ
ールしたと考えられますがしかし実際は、阿形像の作風を見て快慶作と昔から伝えら
れておりますことから運慶は快慶が個性が発揮出来るよう制作をまかせたようであり
ます。
 余談ですが先に解体修理された吽形像に運慶、快慶の名前が出てこなかったのです
が続いて解体修理された阿形像では修理以前に快慶の名は確認されておりましただけ
に阿形像に運慶の名が出てこないのではないかと関係者の方々はそれはそれは心配さ
れたことでしょう。もし、天下第一の巨匠・運慶の名が出てこなかったら南大門像は
運慶、快慶の関与が定説となっていただけに美術史を書き換えなければならなかった
からです。

 門内安置では唯一の国宝指定と言うもので原則の南向きではないですが保存上致し
方ないことと了解すべきでしょう。ただ、南向きですと離れた場所から視界に入りそ
の大きさにど肝を抜かれたことでしょう。しかし現実は、門内からの見上げる位置は
像に近くなるのでただ下から仰ぐことになるため漠然と大きいなということになるき
らいがあります。
 鎌倉時代の創像当初は正面の南向きだったのを風雨にさらされるのを避けて南側を
閉鎖して阿吽像を内側に向けお互いを向かい合わせたのか、それとも後述の「薬師寺
中門の二天像」のように既に向かい合っておりしかも同じように南側の面は開放され
ていたのを閉鎖して現在のような構造になったのでしょうか?  


      中 門(薬師寺)(参考写真)

 後者の方で考えますと正面から見れば巨大な両像が一目瞭然で拝め像に近づくにし
たがって圧倒される迫力が感じられたことでしょう。南大門の下層部分が少し高くな
っておりますのは薬師寺像のように仁王像全身が見える配慮だったのでしょう。とこ
ろが、南側の面を閉鎖したため正面からと門内の中央からとでは仰ぎ見る角度が違っ
てくるので吽形像の視線を下向きに修正して視線の落とす位置を変えられたのでしょ
う。 
 現在、南大門に入り右見て左見てとならざるを得ないのですが次の「東大寺中門の
二天像」も向かい合っております。 

   


               中  門

 「中門(ちゅうもん)」は「大
仏様」の南大門とは違って、
江戸時代に再建されました
「和様建築」です。
 南大門が仁王門であります
と中門は二天門となり
兜跋毘
沙門天像と持国天像が安置さ
れております。
 「回廊」は単廊でありますが
東大寺に相応しい複廊にしな
かったのは便宜を考えて広い
単廊のほうが日常生活に都合

がよかったからではないでしょうか。
 古代なら中門には仁王像が安置されております。  

   
      兜跋毘沙門天像

 東側は兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん ・多聞天)、西側は持国天です。
 「地天(ぢてん)の両手」に乗っております
のは兜跋毘沙門天です。
 地天に両脇に控えているのは、尼藍婆(に
らんば)、毘藍婆(びらんば)です。
 奈良では毘沙門天像はありますが兜跋毘
沙門天像は珍しいと言えます。

   
        地  天 

 


        鴟尾    金 堂(大仏殿)      鴟尾(合成写真)

 「金堂(大仏殿)」は世界最大の木造建築物です。金堂というより大仏殿の方が通りが
よいようです。本尊を安置する仏堂が金堂と言われるのは近畿と山陽地域に限られて
おります。創建時の三分の二の規模まで小さくなっておりますが今なお世界最大の木
造建造物の名をほしいままにしております。

 間口は現在は7間(57m)でありますが天平当初は11間(88m)という巨大建造物で、
建築機械工具がない時代によくぞ建立出来たものです。
  現在の大仏殿は江戸時代、第五代将軍「綱吉」の経済援助もありましたが、あまりに
も建築費が高額のため、間口が創建当時の11間から7間に縮小して再建されました。
口(桁行)57.01m、奥行(梁行)50.48m、高さ48.74mという正方形に近い建築であ
りますが当初は間口(桁行)88m、奥行(梁行)52m、高さ47mと正方形から横長にかわ
る時代の流れに則った構造でした。
 
東南アジアにも見当たらない大規模な建造物を発願されたことは中国に追いつけを
越えて後世に同じものが二度と造れない様な物を造れと命じられ、大仏殿が造立され
たのでしょう。木材が豊富な我が国ならではで他の国では考えられないことでしょう。
しかし時代は、我が国でも巨木は入手困難となっており、巨木を多量必要とする創建
当初の和様建築で大仏殿を再建するは叶いませんでした。
 建設機械工具が揃っている現代でも近年の瓦の葺き替えだけで7年と言う長い歳月
を要しました。 
 大仏殿は方五間、裳階付き、連子窓は両脇間のみです。「東福寺三門」と同じように
白と黒のモノクロの世界です。
広慶上人が再建された大仏殿です。

 参道の側溝の幅は、大仏殿の屋根で金色に輝く「鴟尾」の幅と同じように造られてお
ります。(合成写真)


        正  面


             裏 側

 正面の「唐破風」は江戸時代に付けられたもので、創建の天平時代の姿を偲ぶには大
仏殿の裏側(写真)から眺めると良いでしょう。この唐破風は徳川幕府が好んだという
ことですが当時の人々も好み、時代の趣向でもあったことでしょう。
 このくらいのアクセサリーは有っても
可笑しくないしこちらが正面だとの目印にな
り良かったのではと思いますが、評価の分かれるところでしょう。

      

  明治時代には「奈良坂」から大砲で大
仏殿が破壊されかかりましたが、かろ
うじて難を逃れるということがあった
そうです。
 よくぞ思い止まってくれましたね。

  金堂前の参道の石は、中央の青味がか
った石が仏教の生誕地「印度」産で、「中国」、
「韓国」、「日本」の石で製作されており、こ
れは仏教の伝播ルートを表しております。

 

           

 巨大建造物「大仏殿」の柱になるよ
うな木材が見つからず、中心材に周
辺材を金具や金輪で留めて巨大柱を
作っております。その林立する姿は
壮観そのものです。

 金堂の柱に設けられた穴をくぐると、子供の
寝小便とか厄除けに効き目があるといわれてお
りますが、現在なら、肥満かどうかの測定器具
です。もし、お子さんがこの穴をくぐることが
出来ないときは、将来生活習慣病になること間
違いなしです。

 


       盧 舎 邦 仏 像(大仏) 

 「盧舎邦仏像」は現在、像高14.98mですが天平当初の像は15.6mで約0.6mも高かった
のであります。
 世界最大の金銅像で、中国には「奉先寺大仏」がありましたが石造で金銅像ではありま
せん。中国には材料の銅、金、錫、水銀などが充分ありましたでしょうしそれと鋳造技
術も優れたものを持っていたのに何故巨大金銅像を制作しなかったのでしょうか?それ
には、素人考えでは燃料にする膨大な量の木材がなかったからでしょうか。
  古代の金銅像は純銅に近い銅材で鋳造いたしました。それだけに、銅の融点が1083℃
という高温であり溶解炉をそれ以上の温度にしなければならず大変苦労したことでしょ
う。後の時代のように錫とか鉛の材料を混合すると錫の融点232℃、鉛の融点327℃であ
りますから混合材料の融点が大幅に下がり作業は格段に楽になります。

 大仏を鋳込む型造の制作も困難を極めたでしょうし高温のまま銅を鋳込まなければな
らずそれは難しい作業でどうしても鋳物鬆、裂け目が出来、その補修に鋳加え、鋳浚え
などしなければなりませんでした。その後、本体の一皮を剥いでから研磨の連続で最終
的に砥石、木炭で綺麗な表面になるよう磨き上げて仕上がりを蝋人形のようにしなけれ
ば駄目でした。この時代の金銅像が余りにも像の表面を綺麗に仕上げてあるので金メッ
キが剥げた像は表面が美しく黒光りしております。多くの方はこの像の方が奥ゆかしさ
を覚え心が落ち着くので好まれております。
 仏像に鍍金(メッキ)するには綺麗に仕上げられた像本体に、液体の金属である「水銀」
に金箔を入れてアマルガムを生成し、そのアマルガムを像の表面に塗りつけてから火で
あぶって水銀を蒸発させ金を定着させました。しかしそのあぶる方法とはどんなものだ
ったのでしょうか、大仏は巨大像だけに炭火くらいでは難しいと思いますが。
 鍍金を滅金と言いますのは、金箔が水銀に溶けてしまい、金箔が見えなくなったこと
からです。
 水銀を蒸発させましたので
有毒ガスの発生が起こりその結果水銀による呼吸や皮膚障
害患者が多く出たことでしょう。それが原因で光明皇后が施薬院、悲田院を設けられた
のでしょう。
 
制作途中の749年、東北の陸奥の国で金が発見された知らせに聖武天皇は感謝、感
激されて元号を天平感宝元年と改められました。我が国最初の4字年号です、我が国の
号は、唐の模倣である天平時代の天平感宝、天平勝宝、天平宝字、天平神護、神護景
雲の4字年号以外は2字が決まりであります。
 
他国では大仏と言えば石造で青銅で造立した例がないのに聖武天皇は何故金銅像での
造営を思い立たれたのか。それには、
唐への対抗意識だけではなく国家の安泰を強く願
われた証でしょう。752年の大仏の
開眼供養は「孝謙天皇」によって執り行われました

 
世界最大の木造建造物である大仏殿を殆どの方はじっくりと眺めるのではなく記念写
真さえ取ればあとは一目散に興味のある大仏へと足早に進まれます。
  ある時、尊敬する先輩が「大仏があるのは法隆寺だぁ」とおっしゃったのには唖然とい
たしました。それくらい、東大寺の認識は薄くても大仏を知らない日本人は居ないくら
い全国民に愛されております。私が三月堂を拝観してから大仏へお回りくださいとお話
しても聞き入れる方はゼロで大仏を見て時間的余裕があれば三月堂へと回られるのが現
状です。

 

      
      八 角 灯 籠

 大仏殿(金堂)の前庭にある「八角灯籠」で、
大仏に奉げるだけあってわが国最古最大の鋳
銅製灯籠です。
 ただ平安時代の手直しで、棹の部分が短く
なったため、少し寸胴気味になっております
が見やすい眼の高さになって幸いです。
 太平洋戦争後、アメリカの文化財の分かる
高官がこの灯籠を見て、もしアメリカが日本
から賠償金を取るならばこの灯籠で充分と言
われたという話があるくらい価値のあるもの
です。
 残念なことに多くの方はこの灯籠を見ずし
てお目当て大仏へと急がれます。次回、訪れ
らた際にはじっくりとご覧ください。
 


     音声菩薩(横笛)


         唐獅子

    音声菩薩(竪笛)

 八角灯篭の「火袋羽目板」の浮彫文様は「音声菩薩」と「唐獅子」で各四面ずつ配置され
ております。
 
ただ、音声菩薩は「飛天」とも言われますが頭光背、宝冠、条帛、踏割蓮華座上に安
置されておりますことから考えますと「音声菩薩」というほうが正しいかも知れません。
 奏楽の楽器は横笛、竪笛(尺八)、銅祓子、笙の四種類です。銅祓子、笙を奏でる音
声菩薩は後補ですから大仏開眼供養の状況を知っているのは竪笛、横笛の音声菩薩で
その前に立ちますと流れてくる笛の音に合わせて大仏開眼供養の状況を無言のうちに
語ってくれることでしょう。
 ふわふわとした雲上の踏割蓮華座に乗りふくよかな体付き、端正な顔立ち、豊頬で
無邪気な溌剌とした少年のようで爽やかな印象です。像全体が丸味を帯びているのに
対し背景の斜め格子とは見事なコントラストを描き出しております。 
 手を体の前に持ってくることで奥行きを構成し立体感を出しております。菩薩像が
腰を振りだんだんと女性らしくなって参りますのに合わせており本像も腰を振ってお
ります。 
 扉の「唐獅子」は半肉彫ですが頭部だけは高肉彫にして猛々しい表現となっておりま
す。竪笛、横笛の音声菩薩は南西、西北側の西面に設置されており午前中の写真撮影
は逆光となります。

 1300年も前から佇んでおり、日々に忍び寄る「酸性雨」などの公害問題を克服されま
したお陰で天平時代の傑作に今日お目にかかることが出来るのです。

 

              相  輪

 大仏殿を出ると、東側の空き地に、高さ100mあった
「七重塔の相輪(模造)」が飾られております。相輪の高さ
は23.3mあります。
 現代のようなクレーン装置や色々な建設機械が揃って
いても70m以上ある塔身の上に、この大きな相輪を乗せ
ることは一筋縄にはいかないでしょう。
 それを何の工具ももたない時代に成し遂げた工人の技
量には驚くばかりです
 私は建築にはずぶの素人ですが、奈良時代の「七重塔
の建設」は、現在では「百階建てのビル建築」に相当する
と思えます。
 高さ100mに及ぶ七重塔が東西に2塔がそそり立つ光
景は素晴らしい眺めだったことでしょう。 
 相輪を見上げながら高台を東北へと進むとど肝を抜く
「鐘楼」が見えてきます。

 


         鐘   楼

 「鐘楼」は「しゅろう」と読む
のが正式ですが、一般的には
「しょうろう」です。それとま
た、「楼」とは2階建ての建築
を言いますが現在はその区別
はありません。
 どうして伽藍から離れたこ
のような台地に建設されたの
か不思議です。
 鐘楼は鎌倉時代の再建です
が、「大仏様」と「禅宗様」の折
衷で造られております。方一
間、入母屋造で、吹放し形鐘

楼では現存最古の遺構と考えられております。 
 柱は大仏様の太いもので、屋根の軒反りの両端で豪快に天空へと反った姿は雄大そ
のものです。中国建築を見ているようで異国情緒あふれる建物です。太い4本柱で尾
垂木はありません。
  白壁は上部の小壁だけで和様では軸組を強固にするため壁を設けなければなりませ
んが貫の技法を採用したので雨風に弱い壁がなくなり、吹き込む雨風から壁を守る必
要性もなくなりましたので屋根を大きく反らすことが出来たのでしょう。  
  斗栱が「四手先」でわが国では珍しい形式です。「斗栱と蟇股のお話をご参照くださ
い。
 鐘楼は鎌倉時代、
禅宗の「栄西上人」による再建であることから建築様式が大仏様と
禅宗様の折衷となっているのでしょう。
 栄西上人は東大寺大勧進「重源上人」に続く二代目の東大寺大勧進職を継いで鐘楼の
再建など貢献されました。重源さんと栄西さんは顔見知りであったようです。
 栄西上人は日本臨済宗の開祖ということで有名ですが茶の薬効を書き記したわが国
最古のお茶の書『喫茶養生記』を著されてお茶を普及されたことでも著名です。


       大 鐘

 鐘楼には重量26トンの「大鐘」が釣られておりま
す。
 大鐘は古代の梵鐘では東南アジア最大で、天平
の大仏開眼の際、撞かれたと言うことです。 
  これほどの大鐘を支持する建築の構造は天平時
代の楼造では鐘を突いたときの振動に堪え切れな
いでしょうし次代の袴腰形式鐘楼にしても相当頑
丈な建築物となったことでしょう。多分、創建当
初の鐘楼は楼造では無かったと考えるのが妥当と
思われます。
 鐘座(青矢印)は八葉蓮華文ですがこの八葉の葉
とは仏教では弁のことで八弁蓮華文のことです。
ただ、写真でお分かりのように撞木の位置が低く
鐘座の下を付くことになりますのは文様を保存す
るためか音色を考えてのことでしょう。


        大 鐘 内 部

 我が国三大名鐘の一つです。 
 「大鐘」の素材は銅が90%以上と言わ
れており錫を混ざれば溶銅の回りも良
くなり内部も綺麗な仕上げとなったの
に錫を入れると堅くなり割れ易くなる
ので敬遠されたのでしょう。出来上が
りが少し問題があるにせよ天平時代に
よくぞこれだけの大鐘が出来たことが
驚きです。大仏開眼の法要にはこれく
らいの大鐘でなければ釣り合いが取れ
なかったことでしょう。

 


   @ 四天王寺金堂(大阪)


       A 俊 乗 堂


      B 念 仏 堂

  「俊乗堂」、「念仏堂」は鐘楼と隣
 接しておりますのでじっくりとご
 覧ください。


  参考のために寄棟屋根の上半分
 を切り離したところです。 

 屋根形式で錣葺(しころぶき)屋根と言うのがありますがそれには三形式があり、写
真のように寄棟造の屋根の上半分を切り離したような形式に、@切妻屋根を載せたよ
うなもの(四天王寺金堂) A入母屋屋根を載せてようなもの(東大寺俊乗堂) B寄棟屋
根を載せたようなもの(東大寺念仏堂)です。この錣葺屋根は古代から存在し法隆寺よ
り古い大阪の四天王寺の金堂はこの錣葺屋根で建築されておりましたので現在も錣葺
屋根で再建されております。錣葺屋根にいたしますと区切りが付いた変化のある屋根
となります。
 「法隆寺金堂」は創建当初は錣葺屋根であったとも言われておりますがそれが現在の
入母屋屋根に変わっておりますのは流れる屋根の線を乱したくなかったためでしょう。
ただ、錣葺屋根の名残を留めているのか金堂の屋根が中間部分から急勾配に上がって
おります。

 

 


         俊 乗 坊 重 源 像  

  「俊乗坊重源坐像(俊乗堂)」は80歳代の肖像
彫刻と言われ、肖像彫刻では最高齢で、額、
頬は皺が大きく刻まれ、眼のまわりは大きく
窪み、頬、頚はげっそりと痩せ、姿勢は猫背
で老僧の像です。「重源上人」が東大寺再建の
大勧進になられたのは61歳でした。
当時の平
均寿命どころか還暦を越えて大勧進職に就任
されたことは健康に自信が無ければ駄目で常
日頃節制された生活を送っておられたのでし
ょう。
 80歳代にしてはかくしゃくたるもので、東
大寺再建に強い意志で望む毅然たる姿が像に
表現されており
鎌倉時代の写実彫刻の最高傑
作とも言われております。 
 また、名匠「快慶」の作ではないかとも言わ
れております。

  重源上人は当時、巡礼でさえ辺路(今は遍路)と言われたように「死の白装束」「墓標
の金剛杖」持参の命がけの旅の時代に、当然死を覚悟しなければならない海を超えて中
国へ三回も渡るという偉業をなし遂げられました。そして、中国で多くの学術を修得さ
れ、その修めてこられた一つが大仏様建築の技法で、わが国の建築技術を飛躍的に向上
させました。
 「社会・福祉事業」にも多大な貢献されたうえ「東大寺再建」に20余年もの歳月を注がれ
た重源上人は、その業績の偉大さに対して天平時代の「行基菩薩」の再来と敬まれたとの
ことです。
重源上人が宋から大仏様の建築様式を請来されなかったら用材の入手で手間
取り東大寺再建はずっと遅れたものとなっていたことでしょう。それと何といっても
「貫」の技法で建築の耐久性は抜群に上がりそのうえ木材の節減が測れるという自然保護
に大きく貢献されたのであります。
 近い将来、JR奈良駅前に重源上人の銅像が設置されますことを願う一人であります。
一方の行基菩薩像は近鉄奈良駅前の広場にあり、待ち合わせ場所として賑わっておりま
す。
  ※ 特別展
「俊乗坊重源上人」が奈良国立博物館に於いて
   平成18年4月15日(土)〜18年5月28日(日)まで開催されます。


   坂の上では鹿が迎えてくれています。

 幅広い緩やかな石段を上って行く
と「三月堂(羂索堂)」が目に飛び込ん
で参ります。我々が三月堂として認
識するのは西側で、紹介写真はすべ
てといって良いほど西側の写真であ
ります。
 これから向かう先は
東の高台で
大寺でいう上院であります。
 
金堂より早く造立された金鐘寺が
大和国の金光明寺(国分寺)となりさ
らには現在の三月堂になったとのこ
とであります。
 上院には二月堂、三月堂、四月堂
などが存在し観音信仰のメッカでも
あります。

 上院には本尊として雑密観音がお祀りされており、「二月堂が十一面観音像」、
「三月堂(羂索堂)が不空羂索観音像」、「四月堂が千手観音像」と雑密の多面多臂の像で顕
教である東大寺にどうしてお祀りされたのか理解できません。雑密とは密教に対するも
ので適当な名称とはいえません。


                      法華堂(三月堂)(西面)


             裏 側(正堂)


         正 面(礼堂)

 「法華堂」は建物、諸尊像とも修復のため、拝観できない尊像がありますので調べてからお訪ねください。

 「三月堂」は、創建当初は「羂索堂」と呼ばれておりましたが、ここで 「法華会」を行
われましたので「法華堂」、その法華会の行法を旧暦の3月に実施されたので「三月堂」
とも呼ばれております。三月堂の入り口には「法華堂」の看板が掛かっております。

 名建築の誉れ高い三月堂ですが北側の建物は「正堂」で奈良時代の創建、南側の建物
は「礼堂」で鎌倉時代の再建。それから間もなく一体化された仏堂です。写真でお分か
りのように屋根は正堂は寄棟造、礼堂は入母屋造と異形式の建物を合わせたのにもか
かわらず見事に一体化されており名建築と言われる所以です。
 
礼堂は鎌倉時代に重源上人によって大仏様で再建されその礼堂と正堂が一つの堂に
改変され本堂形式の先駆けとなったのであります。
 相の間に設けられた「樋(緑矢印)」は一体化によって不要になったにもかかわらす残
されていることは不可解です。棟梁が力を入れる軒の線を乱してまで残さざるを得な
かったそれなりの事由とは如何なるものだったのでしょうか。樋を中心にして左右
1間分が吹き抜けで正堂と礼堂は別々の建物であり軒先だけが隣接しておりそこに樋
が設けられていたのです。昔は正堂と礼堂の双堂形式の建物だったのです。 

 和様(正堂)と大仏様(礼堂)の建築様式の違いが一目で理解できる貴重な資料です。
しっかりと確認してください。
 正堂は現在土間床ですが創建当初なぜか板敷の床だったことが分かっております。

  「正堂」に安置された仏像は、16体(国宝12体、重要文化財4体)にも及び、一瞬息を
呑まれることでしょう。
 世界に誇る多くの文化遺産を狭い堂内に閉じ込めてあるのは大変惜しい気がしてお
りますがこれだけの天平美術の最高傑作ばかりが肩が触れ合わんばかりに安置されて
おりますのはこのお堂は東大寺にとって大仏殿に並ぶ重要な建物だったのでしょう。
 巨像が多く、それらの仏像は「脱活乾漆造(だっかつかんしつづくり)」です。
 脱活乾漆造とは、材料に「金」と並ぶ高価だった「漆」で制作されております。脱活と
は内部が空洞という意味です。
 一つの仏堂に「仁王像」と「四天王像」の6体の守護神が同居する
異例ですが厳重な警
備体制で、三月堂は死守するという意気込みで安置されましたので色んな災難である
「仏敵」の方が、「仁王像と四天王像」に恐れをなして逃げだしたことでしょう。
それゆ
え、東大寺では数少ない創建当初の建物が保存されたのであります。さらに後方は
「執金剛神立像」が守っております。執金剛神立像、日光・月光菩薩像は塑像です。 
 塑像と脱活乾漆像の素材は粘土と漆でその素材が固まるまでの間、幾らでも 修正出
来ますので写実の極致で洗練された像ばかりとなり得たのでしょう。
  東大寺では最古と言える正堂に安置された仏教美術の頂点ともいえる仏さんと、用
意された床机台に坐って、ゆっくりと対話して心洗われるひとときを過ごされません
か。
東大寺の東の高台にあることが人々の足を遠ざけていることは残念な思いがいた
します。
 天井の天平時代に流行した「華形天蓋」は東南アジアにおいても貴重な遺構です。

 
 
     不空羂索観音像 

  三月堂の本尊「不空羂索観音像」でありますか
ら当初、三月堂は「羂索堂」と称されておりまし
た。
 
東大寺を代表する像は大仏と本像と言える普
及の名作で天平彫刻の最高峰と言える尊像です。
 3.6メートルの巨像で、不空羂索観音像とし
ては現存最古の像です。同じ脱活乾漆造では興
福寺の
少年の幼さが感じられる「十代弟子、天
龍八部衆像」に比べて大変厳しく男性的な相貌と
なっております。
 「一面三目八臂(さんもくはっぴ)」で三つの目
と八本の腕を持っておりますが異様な感じは受
けません。
 がっちりとした上半身を支える下半身は股下
を短くして安定感を生み出す工夫がされており
ます。肩の鹿皮と天衣は別製で、
鹿皮らしく皺
を作らず写実効果を高めるため工夫がされてお
ります。 

  「合掌手」は両手を男性的にぴったりと合わせ、「お手手の皺と皺を合わせて幸せ」
のTVコマーシャルそのものです。
 
両足の衣文線は大波、小波を交互に示し、この衣文の意匠は平安初期流行の「翻波
式衣文」の先駆けといえるものでしょう。
頭上の「宝冠は二万数千個の琥珀、水晶、
ヒスイなどの宝石を銀線で組み上げられた豪華なもので中央の化仏は像高約25pもあ
る銀像です。銀像は皆無に近いだけに貴重な遺品で、こんなに多数の宝石をちりばめ
た宝冠はもう2度と作られることはないでしょう。
  「光背」は大変珍しい放射状で要所要所に火炎状の唐草文板が付けられています。
 
頭光背の中心は額にある白亳であることから見ると頭光背は大分下がっております
が高さ84pの二重の仏壇を他所からの移入したためそのようになったのでしょう。

 藤原氏の氏神である春日大社で鹿島から白い神鹿に乗って来た第一殿の武甕槌命
(たけみかづちのみこと)の本地仏が不空羂索観音であったため藤原氏に遠慮してか早
く我が国に請来されたのに普及しなかったのです。
 
 羂索とは投げると綱と釣り糸となって悩やみ苦しむ衆生をもれなく救い上げて貰え
る法具のことです。
 不空羂索観音は天台宗では六観音の一つですが真言宗では「准胝観音」と入れ替わ
ります。

 
     帝 釈 天 像

 
     梵 天 立 像 

  「梵天・帝釈天立像」は脱活乾漆造で本尊より大きく本尊「不空羂索観音像」が3.6 m
のに対して4mもあり、量感が豊かで圧倒される巨像ゆえ
脇侍として造られた像では
ないではないかとの説があります。

 俯きかげんの帝釈天とは逆に梵天は顔を上げてぐっと睨みつけ、体躯は堂々たる恰
幅のあるいでたちですが気品を感じさせます。
 
高く宝髻を結い、指は乙女のように長くしなやかで美しい崇高なです。両像の
の形は左右対称性を意識したものとなっております。
 梵天像は腰から
Y字形衣文となり平安初期の特徴の前触れと言えるものでしょう。
 梵天・帝釈天像は両方とも「甲」のうえに法衣を着けますが片一方だけ甲を着ける時
原則、「帝釈天」と言われております。それと、帝釈天が緑青色、梵天が朱色の彩色
で纏められているところからも
阿形(東側)の梵天、吽形(西側)の帝釈天が入れ替わっ
ているのかも知れません。さらに、優しい面相の帝釈天に比べて梵天は厳しい表情で
その昔、「阿修羅」と戦い続け「修羅場」を作った戦闘神帝釈天の面影があります。 
 後述の
日光菩薩、月光菩薩像に世間のスポットライトが当たりこれだけの優作が霞
んでいるのは惜しいことです。


   阿形像(仁王像)


   吽形像(仁王像)

  「仁王像」は「南大門の仁王像」と同じように「阿吽」の位置が逆になっております。執
金剛神が分身して仁王となったのですが分身した間近だったのか須弥壇を守るという
より本尊のみを守るという態勢で、本尊の方向に視線が向いておりますからこの方が
正位置だったことでしょう 
 黒眼が大きく眼光鋭く激しい憤怒の形相です。
  仁王像の通常と変わっているところは上半身が裸形でなく甲をまとっていることと
阿形像の頭髪が髻でなく「怒髪天をつく」でこの恐ろしい形相は、仏敵に髪の毛が逆立
つような恐怖感を与えたことでしょう。顎鬚は見事な西洋的な鬚です
。  
 阿形像は激しい動きで相手を威嚇しますが吽形像の方はじっと金剛杵を握ったまま
立ち踏み止まっております。
 阿形像は今まさに仏敵を威嚇攻撃している様を表現しており凄まじいまでの迫力で
す。これほど右手を高く挙げるのは珍しくその手には金剛杵を握っていたことでしょ
う。吽形の方は仏敵が襲ってくるまでの小休止で休めの体勢でしょう。像としては変
化があって面白い構成となっております。ほっそりとした下半身でカモシカのように
敏捷性に富んでいますがあまりにも細い脚のため健脚の神にはふさわしくないような
気もいたします。皮革製甲冑の表現が優れているだけではなく装飾文様も見事なもの
で見応えのある像となっております。洲浜座の上に立っております。

 
      増長天像

 天平時代の「四天王像」だけが軽快に動き回れる様相で
守護神として役目を果たすことが出来る装いです。次の
平安時代になりますと重い裳裾が下がってきてフットワ
ークは悪くなります。
  皮製の甲を着け、腕の「獅嚙(しがみ)(青矢印)」はヘラ
クルスの獅子頭から来たものでしょうか。そう考えたほ
うが良いと思われるのは、この獅嚙は仏像以外では見当
たらないからです。
形相は威嚇するものではなく眼を凝
らす程度です。
 阿形は持国天像、吽形は他の三像です。
 「増長天」だけが皮製の吹き返しのある冑を被っており
ます。腰をひねっていますが動きは小さく天平初期のお
となしく節度ある様式です。  
  下から見上げる構図を考えて下半身を小さめに造られ
ておりますが現在は立式で眺めるため下半身が心許なく
見えてしまいます。  
 州浜座に蹲る邪鬼は、持国天、多聞天像が一匹、増長
天、広目天像が二匹となっております。
 増長天の二匹の邪鬼のうち一匹の邪鬼は両手を突いて
上半身を起こし重圧から逃れようと抵抗しておりもう一

匹の邪鬼は平伏して降参状態です。  
 邪鬼が醜怪な容貌で痩せているのは例を見ないでしょう。 

 
    月 光 菩 薩 像  

 
  日 光 菩 薩 像

 「日光・月光(がっこう)菩薩像」は奈良では人気ベストテンにはいる仏像で、観光ポ
スターに頻繁に使用されます。
 「塑像」でありますが、楚々たる姿には自然と跪いて手を合わされることでしょう。
 なだらかな弧を描いた眉、やや伏目で瞑想した眼、可憐な口許、乙女のような
細く
しなやかな手。そして彩色が剥落して白無垢の像、万人が一目ぼれする清楚にして清
々しい像です。
 
とにかくこの美しい像だけにを見ているだけで、身も心も洗われ癒される気分にな
ことでしょう。
  そっと指と指が触れる
金剛合掌(末敷蓮華合掌)で指は音読みで「し」ですから「し」を
合わせることから「しあわせ・幸せ」と言う言葉が出たと思えるくらい静かな祈りです。
 
月光菩薩は下半身に襞をつけていないのでそれが反って煩雑さがなくすっきりとし
て清楚感を生み出しております。腰紐も左右対称で少しの乱れもありません。
  日光菩薩は左肩から袈裟を着けているので大きな波状の皺が刻まれ若々しい男性の
ように見えます。

  日光菩薩、月光菩薩という名称の初見は江戸時代でそれ以前は梵天、帝釈天と呼ば
れていたのかも知れません。と申しますのも、月光菩薩は衣の合わせの襟元から革製
ベルトが垂れており衣の下に着けた甲の一部に見えます。それと中国の唐時代に流行
した先が上に上がる沓を履いております。天部像は沓を履くことがありますが菩薩像
では考えられません。
 後世に設けられた西側の明かり窓から西日が差し込むと素材の塑土の白さが一際引
き立ち清楚感を上げた尊像に魅せられた方も多くおられることでしょう。それと、西
窓からの陽光で像に施された装飾の金箔などが浮かび上がり鮮やかなものとなります
から夕方の拝観がお勧めですが晴天で無いと駄目と言う制約があります。
 余談ですが
仏教では手の平のことを掌(たなごころ)といい掌と掌を合わせるから合
掌です。  

 写実を重んじる彫刻と言えば、削り過ぎたりすると修正が難しい木彫ではなく、修
整が幾らでも効く塑造か脱活乾漆造であります。塑造は手間、乾漆造は費用を要しま
すので国家体制が充実していた天平時代以外では無理な技法でした。塑造の手間とは
焼きもせず高温多湿の奈良で保存させるため素材の仕込みに年月を掛けてからまず最
初に裸形像を造りそれから我々が着付けるように下着を着けそして順次装っていき最
後に装飾品で飾るのであります。材料費は土ですから無料ですが余りにも制作時間と
手間が掛かりますので本格的な塑像は天平時代までしか制作されませんでした。それ
ゆえ、国宝指定の塑像は奈良以外では存在いたしません。これら名品の制作に膨大な
国家予算をつぎ込んだため財政破綻を起こし財政再建が迫られたことが平安京への遷
都の一因となったのであります。

 

  
      執金剛神立像

  「執金剛神(しゅこんごうしん)立像」は天平時代
の鮮やかな彩色が残り、あまりの美しさに衝撃と
感動を覚える像です。「厨子」に安置されるという
破格の扱いがここまで完全な姿で保存出来たので
しょう。それには、脇役ではなく「脇侍」の待遇で
あったのでしょうか?それとも、本像が本尊を守
っていたが仁王、四天王像が現れてきたので現役
から引退することとなりそれまでの功績を称えて
特別に厨子に安置されたのでしょうか?
 
執金剛神像で国宝指定はこの像のみという貴重
なものですがただ残念なことにたった一日の
12月16日しか拝観出来ないことです。しかし考え
ようによっては、秘仏だからこそ創像当初の像容
が保存出来たとも言えましょう。
 天平時代の特徴である動くのに便利な軽快な装い、睨み付け燃え上げる闘志の眼には「玉眼」の走りとも言うべき「黒燿石」が黒目として使われており
素晴らしい眼の表現です。

 口はかっと開いた大喝一声、右手の浮き出した血管は破裂しないか心配されるくら
い凄まじいもので
両足をぐっと踏ん張って威嚇する形相は東大寺を守るに相応しい気
魄あふれる尊像です。
 「金剛杵(こんごうしょ)(青矢印)
血管が激しく浮き出た右手で正に振り落とさん
ばかりの状態で腰は右に引いて手と腰の反動で攻撃しようとしており太く逞しい左手
など迫力ある憤怒像です。
凄まじい形相で憤怒の武装像としては最高傑作と言っても
過言ではありません。
 正堂の入口を入れば尊像とご対面となりますが我々は礼堂からの入場となります。
その方が普段見られない多くの尊像の裏側を拝見できる特典があります。
 ダイヤモンドの和名「金剛石」は「金剛杵」から付けられたものです。
 執金剛神は釈迦の死後仏法、寺院の守護神となります。インドでは考えられない厚
着でこのような装いになったのは中国に於いてでしょう。
 余談ですが12月16日に訪れますと、装飾性、写実性にも優れている執金剛神立像だ
けでなく「良弁僧正坐像」「
開山堂」「俊乗上人坐像」「俊乗堂」をも拝観できる「しあわせ」
があります。今年の12月16日(2006.12.16)は幸いにも土曜日ですから実りある休日を
お過ごしください。
  変更があるかもしれませんので調べてからお訪ねください。 

 


閼伽井屋            二 月 堂

  「二月堂」は昨年末(2005.11)に目出度く国宝に指定されました。二月堂とは旧暦の
二月(新暦の三月)にお水取りが行われたところから命名されました。左の建物の閼伽
井屋内にある若狭井で、お香水を汲み取り「本尊」にお供えするところから「お水取り」
と言われるようになったのです。
 懸崖造の二月堂は木造建築ゆえに木の文化であるわが国では愛される建物となって
おります。 
 左に見える階段(青矢印)を(籠)松明を担いで上がっていきます。逆に階段を下って
いきますと裏参道です。
 
本尊の「十一面観音像」は絶対秘仏で僧といえども何人も拝観することは許されませ
ん。
 観音は崖や岩の上に立つことから崖造の堂に安置されているのは観音菩薩であると
いえます。
 西面しておりますが入堂は南側からです。

 

 

     舞 台(二月堂)
 「二月堂の舞台」で、ここか
ら燃え盛る「籠松明」が振られ、
落ちてくる「焼木」を善人男女
が待っておりますのは、報道
の通りです。
 お松明は向こうからこちら
の方へと進んで来ます。
    

 「二月堂の舞台」からは同
じ目の高さに「大仏殿の鴟
尾」が見えます。
 釣り灯籠を入れての記念
写真には絶好の場所です。
 奈良の町々が一望できる
場所で、ここまで来られる
と少し疲労を覚えます。こ
こで一息を入れましょう。
   


   二月堂茶所 

              「鵜」の留蓋瓦」
            説明板「閼伽井屋」     


            閼 伽 井 屋

 「お水取り」は他の堂で行われることがあっても一度も休むことも無く続けられてお
りますことは驚きです。お水取りが終わると関西に春が訪れると言われる風物詩で国
民的行事とも言える幅広い信仰を集めております。お水取りと言えば興奮の坩堝の中、
松明を振り回しながら乱舞させる火の粉と夜空が相まって幻想的な光景はTV,新聞
などでよくご存知の方が多く、大仏殿の後は二月堂を回るのが
一般的なコースとなっ
ております。二月堂と三月堂とは隣接しておりますので三月堂の方へもお立ち寄りく
ださい。
 お水取りの正式名は「修二会(しゅにえ)」で「お松明」とも言われこの行法を開始され
ましたのは良弁僧正の高弟の実忠和尚(じっちゅうかしょう)であります。    
 余談ですが高徳の僧である「和尚」と書いて「華厳宗・天台宗」では「かしょう」、
「法相宗・真言宗」では「わじょう」、「浄土宗・禅宗」では「おしょう」 です。ただ、
「律宗・浄土真宗」では「わじょう」ですが和尚ではなく有名な「鑑真和上」の「和上」と書
きます。

 11名の選ばれた僧を練行衆と言い行法期間参籠してお水取りの行法を行います。
 お水取り行事の謂れは、若狭国の「遠敷明神(おにゅうみょうじん)」がお水取りの行
法に魚釣りをされていて遅れたのでそのお詫びに閼伽(あか)水(お香水・おこうずい)
を奉ることを約束され、祈念すると大岩の中から白と黒の「鵜」が飛び出てきて、その
場所からお香水が溢れ出てきたことによります。そしてその場所に「閼伽井屋」が造ら
れ、その中にある若狭井という井戸からお香水を汲むのです。3月12日の深夜に若狭
井からお香水を汲み上げ二月堂に運び本尊の十一面観音に供えます。12日には一回り
大きな松明、籠松明が上がります。閼伽とは仏に供える霊水のことです。

 現在、「お香水」は3月2日若狭の遠敷川(小浜市)で「お水送り」の儀式が行われ、そ
の川に注いだお香水が地下水となって、10日後の3月12日に閼伽井屋の中にある若狭
井に到着するのです。
 遠敷川は日本海に注ぐのに逆方向の奈良に流れてくるとは不思議ですね。多分、大
陸からの文化情報のルートだったのではないでしょうか?
  燃える
お松明から滝のように落ちる火の粉を浴びるとご利益があるとの説がありま
すが当時は国家仏教でありましたら庶民の参加は許されなかったことでしょう。


                   二月堂 舞台から

 


        開山堂 正面(東側)


     二月堂舞台から

    
 大仏様の繰型の付いた木鼻

  「開山堂」は東大寺の初代別当、良弁僧正(ろうべんそうじょう)の尊像をお祀りする
お堂です。僧正は東大寺の最初の建物と言える金鐘寺、羂索堂(三月堂)を造立されま
した。それゆえ、東大寺を開山された方として開山堂にお祀りされておられるのでし
ょう。金鐘寺造立以来東大寺に多大な貢献をされました高徳の僧でおられました。
  正面は東側で、内陣の扉があるのは西面のみで我々が許されて入る西側から入ると
良弁僧正にお目にかかることが出来ると言う少し異形式であります。良弁僧正の所縁
のある羂索堂から入る形式としたが大仏さんに背を向けることが憚れたのでこのよう
な西側向きの安置になったのでしょう 。 
 宝珠露盤を乗せた宝形造で簡素な大斗肘木で、頭貫の木鼻の繰型、皿斗は大仏様で
す。
 ただ、開扉されるのは12月16日の一日だけですので多くの方のお参りで混雑いたし
ております。

 

 


                   手向山八幡宮     

 昔、「手向山八幡宮」は大仏造立の際東大寺守護神として大分の宇佐八幡宮から勧請
してお祀りした東大寺の鎮守八幡宮でした。このことは既に、天平時代から神仏習合
が始まっていたと言うことになります。明治の廃仏毀釈で東大寺から独立し現在に至
っております。
 東大寺には十数か所のお社があり二月のお水取りの行法の開始にあたり無事に行法
が終わることを願ってお社にお参りするとのことです。

 

 裏参道の石畳を降りて行きますと古都奈良の息吹きが感じられることでしょう。 
 時代が下ると、土壁の表面の漆喰が剥げ落ちて中に挿入されていた瓦など現れてき
て整然としていないものが美となります。茶碗など素人が見て良さが分からないもの
が優品となり、中国、韓国は今でも我が国の古代と同じように茶碗など真丸が美であ
りますのとは趣を異にしております。堂塔伽藍の配置も同じことが言えます。
 振り返ってみますと、先程の「二月堂」が眺められます。

 間もなく、左側には大仏殿の鴟尾が見えてきます。


              大仏池(正面は金堂)
           

 
             戒 壇 院

 大仏殿の裏を通って行きま
すと、東大寺では別世界の静
寂の中に「戒壇院」があります。
 当時の人々は、天皇を中心
とした
律令制度の租庸調の苦
しみから逃れるには僧になる
より逃げる道が無く勝手気ま
まに出家して僧(私度僧)にな
るものが多くなり制度そのも
のが崩壊し政府の財政基盤が
破綻しかねないので国家が認
めた僧以外は租庸調の免除は

されないことになりました。その国が認めた正式な僧になるため受戒するところが戒
壇院だったのです。
  戒壇院での受戒の運営は中国から招きました有名な
高僧「鑑真」に任されたのであり
ます。
  わが国最初の戒壇院で
当初の戒壇院は大仏殿の前に設けられていたのを現在地に移
築したのです。当初の戒壇院で受戒して僧の名前である戒名が付けられた僧の中には
空海、最澄もおられました。


     持国天像(戒壇院)

  「四天王像」は須弥壇の中心に向かって安置されており
ましたのを現在は四天王すべて南向きに改変されており
ます。
 四天王像は当初の像ではなくどこからか移安されたも
のらしいです。これだけの見事な像は東大寺内のいずれ
かの仏堂かそれなりの名刹寺院にあったものでしょう。
 写実の極致と言われ天平彫刻の最高傑作の名をほしい
ままにしております。眼の表現が写実的表現の原点だけ
に黒目には黒燿石が使われ潤むような眼となり生き生き
とした表現となっております。 
 四像は像同士見事な対称で配置されております。
 像容は天平時代の特徴である軽快な姿で敏捷な動作が
取れるスタイルです。ウェストの細さといいスリムな体
付きを的確に表現し写実の妙として感動を呼びます。次
の平安時代のように恰幅がよくありませんから威圧感は
乏しいですが機能美を追求した容姿となっております。
 「持国天像」は口をへの字に堅く結び、眉をひそめて、
眼はむいて刮目し、鼻翼を膨らせて威嚇を表現しており

ます。冑(かぶと)は皮革製で、「羽(赤矢印)」の付いた珍しいものです。 
 
「邪鬼」は頭が大きいうえ目、鼻、口が大きく、指は潰れており、まるで妖怪のよう
です。両手で支える四つん這いの姿勢で頭と腰を踏みつけられており苦しみのあまり
か口を大きく開き歯を露にしております。諧謔に富んだ邪鬼と言えましょう。 
 
本像は天平時代の終わりに見られる誇張された表現ではなく古典的な節度ある表現
であります。

   


        転 害 門(てがいもん)   


   四つの石 

   「転害門」は、天平
  時代創建当時の貴重
  な建物です。
   佐保路門とか西北
  大門とも言われます。

 中央の注連縄は宇佐の「八幡大神」を迎えたためです。宇佐八幡大神の「神輿」を置く
ための石が四つあります。残念ながら「扉」はありませんが門内は立ち入り禁止です。 
 転害門は東大寺の中心から少し離れておりますが、最後に覧になりますと、門の前
が「手貝町(てがいちょう)」と言うバス停でここからバスで移動すれば理想的なコース
となります。ただ、歩いても近鉄奈良駅まで15分程度です。

 
                                                 
画 中 西  雅 子