寺院建築ー飛鳥時代

 飛鳥時代の寺院建築は、現在残念ながら1棟も残っておりません。飛鳥様式の建築は、「法隆寺」「法起寺」「四天王寺(昭和の再建)」などで拝観することが出来ます。「明日香」の
地に、飛鳥時代の建築が残っていないのは、遷都と共に寺院が移築されたのと、新しい
都城の地に新寺院が建立されたりしたからでしょう。現在、明日香の町並は、遺跡、住
宅が丘のような低い山々に囲まれた風景となっており、古さと新しさが調和して比類の
ない落ち着きのある「古都」として皆さんから親しまれております。

 飛鳥寺、四天王寺、法隆寺などの氏寺寺院の建立目的は、一族の繁栄を祈ると同時に、仏教がもたらしたものとして病気治療の薬がありましたので病気平癒を願ったものでした。飛鳥時代には後の時代のような「国家鎮護」を祈願した寺院は存在しなかったようです。 

 「古墳から寺院建築」に変わったのが飛鳥時代で、ただ、我が国の寺院は異国の高度な
木造建築技術だけに頼って建立出来たものではないでしょう。なぜならば、それらの建
築技術が請来以前に「出雲大社」の高層木造建築を仕上げた実績がありましたし、古墳の
土木技術も存在していたからです。その証拠に、寺院建築の工期は、満足な建設設備や
道具が無かった筈なのに驚くほどの短期間で終えているのです。

  飛鳥時代の尺度は、「高麗尺(こまじゃく)(飛鳥尺)」と言われるもので一尺が35.5a程度と今より長くなっていました。ただ、一間は六尺(現在、尺貫法は使用禁止)ではなく、当時、尺貫法に関係なく寸法がいかに違おうとも柱と柱の間即ち「柱間」を言うので
ありました。ですから、今なら寸法が12尺なら2間となりますが当時は12尺と呼称
しておりました。
 この柱間でありますが、西欧においては、柱と柱との間、即ち「柱間」は中央から端に
いくに従って狭くしてあります。この方式は構造上理にかなったやり方で、柱の最端は
力が外側に働き倒壊するのを防ぐ次の柱がなく、不安定となるので最端の柱間を、狭く
して安定性を高める必要があるからです。それにもかかわらず、我が国古来建築の柱間
が均等なのに保持出来ましたのは、大変な重量であった瓦葺屋根に比べて草葺屋根の荷
重は小さかったからであります。
 法隆寺の金堂、中門の柱間は、中央と端と比べると大きな差となっておりますが時代
と共に柱間の差はだんだんと小さいものとなります。しかし、鎌倉時代に禅宗様が将来
するとまた中央と端の柱間の差は大きなものとなります。
 
 中国では「役所」を「寺」として仮使用したのがきっかけとなり、寺院建築が宮殿建築を
模倣いたしました。その寺院建築の様式、構造が我が国の寺院建築並びに宮殿建築の様
式に応用されたのであります。その物証としては、「法隆寺の玉虫厨子」も玉虫厨子と呼
ばれるようになったのは後のことで、厨子が小型の金堂そのものの建物造りであります
ので当初より長き間「宮殿像」と呼ばれておりました。
 この玉虫厨子が現在の仏壇の原型と言われておりますが「壇」と言うのであれば石か土
か木で造られたただの壇で囲いなどはなかった筈です。

 当時、「七堂伽藍」といえば「塔」「金堂」「講堂」「経蔵」「鐘楼」「僧坊」「食堂」でありますが
古代の七堂伽藍が健在でしかも総てが国宝というのは「法隆寺」だけです。世界に誇れ、
歴史の重厚さを感じさせる「法隆寺」の佇まいは、柱上の組物に「雲斗」、「雲肘木」、建物
の装飾に「人字形蟇股」、「卍崩しの高欄」があり、飛鳥時代の特徴でもあります。これら
の特徴は法隆寺系の寺院だけに限られると言う後世には見られない貴重な遺構であります。雲斗、雲肘木は東南アジアのどこにも存在せず、中国が起源である人字形蟇股、卍
崩しの高欄も中国には石窟(写真)に彫られたレリーフしか残っておりません。垂木は地
垂木(じだるき)と飛檐垂木(ひえんだるき)の「二軒(ふたのき)」である筈なのに、何故か「一軒(ひとのき)」の長い角垂木であります。

 当時の「釘」は鍛造のうえ、四角い楔(くさび)に似た大きなものでありました。現在の
ような釘であれば、頭が飛べばそれで釘の役目が終わりとなりますが古代の釘は、分か
り易く言えば、釘であるというより楔そのものでありました。それだけに釘の寿命は数
百年以上否一千年もの長き間役目を果たしたのであります。しかも、その釘も木組を締
める補助的な目的で建築に使用されたのであります。このことは、建築にはなるべく釘
は使わない方が建物の保存には良いという考えからであります。
  
 加工が楽である木材と言えば、針葉樹の「桧」や「杉」に限られてしまいます。当時、適
材の調達は地元周辺で可能でしたが乱伐の結果地元調達が無理となり、遠方より調達し
なければならなくなりました。が、伐採して搬出するのには陸路では不可能といえる時
代で、それを可能としたのは桧や杉は水に浮き、水運を利用して運べる利点があったか
らです。
  それら以上に、桧の最大の特徴は、伐採してから300年くらい強度が増すという他の
建設材料では考えられない不思議な特質があるだけでなく、伐採後1000年くらいしても
まだ伐採時の強度があるという理想的な材料であります。ただ、当時は現在のように
「間伐」「枝打ち」などをすることが無く、木の生育の環境条件が悪かったことが逆に成長
が遅く年輪の目の詰まった、つまり年輪の間隔が狭い良質の桧が育つこととなりました。しかもその中でも素直な木だけを選んで使用したのであります。
  「柱」、「板」などを造るには、真っ直ぐな桧を「楔」で割る製材法でした。このことは、
縦挽きの大鋸(おが)(これに屑をつけるとおがくずとなります)を使うより、木材を楔で
割って造ることの方が案外手軽だったためかも知れません。この製材法の良い点は、木
の繊維(木目)に沿って割るため、木の細胞に水などが入らないので腐ることもなく、し
かも、出来た部材は歪が出ることがないことです。
 縦挽きの鋸は、室町時代から使用されていたそうですが、それ以前、縦挽きの鋸がな
かったのではなく、入手も可能だったし、造ることも出来たけれども、ただ当時の人が
使う必要性を感じなかったのではないかと考えますが。
  もし我が国に、桧、杉の針葉樹が存在せず、耐久性はあるが桧のように真っ直ぐな柱
にならない欅、楢のような広葉樹が多く存在すれば、寺院建築様式が、大きく変わった
ものとなっていたことでしょう。ひょっとすると、「古建築のふるさと・法隆寺」も現存
しなかったかも知れません。

 当時、寺院の形式は、中国スタイルの土間でありましたので古都奈良の寺院の多くは
今でも履物のまま入堂できます。しかし、中国は今も椅子・テーブルの生活ですが我が
国では履物を脱いで座る生活に憧れ、後の時代には板敷きの床式寺院に変わっていきます。それには、古代の神社が高床式の板敷きであったことも影響したのでしょう。

 

 
     二重基壇(法隆寺)

 「基壇」とは基礎となる壇で、寺院建築では基壇をしっ
かり造ることが大切でした。と言いますのも我が国の古
代建築様式であった掘立柱方式では、柱が地面と接する
ところで酸素と水分によって腐食が進み、20年くらいで
建て替えますが、寺院建築は長期保存を目標としたから
です。とはいえ、造成が大変で、昔、我が国の多くの平
野部が、湖とか海だったため地盤が軟弱で悪く、このこ
とは、古都奈良も例外ではありませんでした。大阪も上
町台地以外は海だったのか、ある時、ボーリング調査を
やったところ貝殻が多く出たのをおぼえております。 

 法隆寺の基壇の造り方は、建物の底面積より大きめに、硬い地層の地山土(層)まで掘り、その掘った窪地に他の場所から持ってきた地山土を、版築を繰り返しながら埋め戻
します。さらに地表から高さ1.5bまで地山土を版築で層状に積み固めた後、建物に必要
な底面積分だけを切り取り整地、整形しました。基壇の高さが1.5bもあるのは湿気から
守るだけではなくその昔、豪族たちが高床式に住んでいましたように威厳を保つ目的も
あったことでしょう。余談ですが、高床から土間に伏す臣下を見下したので目線の位置
から下が目下その逆が目上と言う言葉が生まれたのであります。
 次に、基壇を壇上積で仕上げます。その際使用された石は「凝灰岩」が多く、加工性は
良いのですが耐久性に問題があり後の時代には「花崗岩」に復原されております。その凝
灰岩は装飾し易かったにもかかわらず、材料の石材には興味がなかったのか他の国のよ
うに装飾は施されていません。明日香の地には花崗岩の石造物が多いですが花崗岩の加
工は大変な手間を要しましたので「二上山」から産出する凝灰岩の使用が多くなっており
ます。
 二重(二成)基壇は法隆寺の金堂、五重塔、夢殿、玉虫厨子だけです。 
 「基壇と柱のお話」をご参照ください。 

   
         礎 石(法隆寺)

    礎 石(中国)

 中国では、「礎石」は地に通じるということで、地は四角であるという謂れに従って四
角に加工されておりますが「法隆寺の礎石」は自然石が使用されております。我が国では、色付きの石は好まれませんでしたが現在、「東大寺の大仏殿」の参道に海外から取り寄せ
た色石が使われておりますのは珍しい例です。


 エンタシス(法隆寺)

 エンタシス(中国)

 「柱」は太い円柱で、古代寺院建築ほど柱が太いのです。それは、強度計算などの技術
や「貫」などの技法がなかったので必要以上に太い材料が使用されており、そのお陰でそ
の雄姿を留めることが出来、今に伝えております。
 西欧の石造建築に比べて地震が多い我が国では地震の揺れが吸収出来る木造建築が適
しております。今でも中国や韓国の建築中の建物を見て驚かされるのは、我が国に比べ
て鉄骨の細いことです。それだけに、地震が少ない中国の建築様式全ての模倣は、我が
国の事情には合わなかったと言えます 。
 「五重塔」は台風で倒壊することはありましたが地震での倒壊は皆無に等しかったです。それだけに、諸外国の建築が鉱物性の材料を使用したのに、我が国では木造建築主義に
徹しました。木造文化である我が国では中国の宮殿建築の木造部分の基本だけを真似て
堂塔を建設したのは当然と言えましょう。明治には西欧風の煉瓦作りの建物が出来まし
たが地震で多くの煉瓦造の建物が倒壊しましたので、我が国には不向きということで廃
れてしまいました。
 ただ、木造建築の苦い経験としては、わが国の住宅は、柔構造で木材と紙で出来てい
ると言われたため、第二次世界大戦では破壊力のある「爆弾」でなく高熱を発する「焼夷
弾」を雨霰と落とされ大きな被害を被ったのでありました。とはいえ、梅雨が過ぎると
高温多湿な夏季を迎える我が国では、煉瓦や石造りでは快適な生活が望めません。その
点木材は通気性があり湿度調節が出来るという特質があり、我が国の気候風土に適した
材料と言えましょう。しかし、いくら木造建築とはいっても、建物の保存のために雨の
掛かる外壁は防腐対策上塗装すべきですが、建物内部までニスやペンキで塗装すれば、
折角の木材の特質も台無しになることでしょう。

  
       皿  斗(法隆寺)
 
       笹 繰(東大寺)

  法隆寺では「皿斗(赤矢印)」付きは
 大斗だけですが四天王寺では大斗と
 小斗まで付いております。
  皿斗は法隆寺系の寺院に限られま
 すが鎌倉時代に入ると禅宗様の建築
 に出てまいります。

   「笹繰(ささぐり)(赤矢印)」は、斗
 栱の意匠があっさりし過ぎるので一つ
 のアクセントをつける意味でやったこ
 とでしょうか。笹繰は法隆寺だけでな
 く奈良時代の建物にも設けられており
 ます。

 

    雲 肘 木(法隆寺)

    雲 肘 木(法隆寺)
       

      雲 肘 木(法隆寺)
   
     雲 肘 木(法隆寺)
 

      雲 斗(法隆寺)

       雲 斗(法隆寺)

 「雲肘木」「雲斗」の雲斗栱は後世には見られない形式で、当時の人が飛ぶことに憧れ
ていたものの「鳥」では意匠とし難いので「雲」にしたのでしょうか。


扇垂木・一軒(四天王寺)

 平行垂木・一軒(法隆寺) 

  地垂木・飛檐垂木の二軒

 中国、韓国の寺院建築が、地垂木と飛檐垂木の「二軒」であるのに不思議なことに
長い「一軒」です。我が国では二軒を次の時代に入ると採用しております。
  「垂木のお話」をご参照ください。

 
 人字形蟇股(四天王寺)

 人字形蟇股(法隆寺)

    人字形蟇股・鴟尾(中国)
 「斗栱と蟇股のお話をご参照ください。
 
   
        中  国     
   
      鬼 瓦(法隆寺)
     

 我が国古来の建築屋根は「萱葺」で装飾がなかったので東南アジアの寺院のように屋
根飾りを設けなかったのでしょう。
 建物の概観は直線で構成されており一部に曲線を使用する程度で、屋根の軒反りも
心反りとはいえ殆ど直線に見え、大変骨の折れる僅かな曲線を演出しております。
 法隆寺の金堂の大棟には「鴟尾」でなく「鬼瓦」が乗っておりますが創建当時は鴟尾だ
ったことでしょう。
 写真の「鬼瓦」は法隆寺若草伽藍から発掘された鬼瓦の模作です。現在「大宝蔵殿百済
観音堂」の屋根に据えられております。 

 
 
         金堂(法隆寺)(裳階付) 

  金堂(四天王寺) (錣葺屋根)(窓なし)

 我が国の古代建築で、真屋(まや)と言われるのは、宮廷、神社で採用されました「切
妻造」のことでした。今では神社も一部「入母屋造」があります。「寄棟造」は卑しい建築
と言われておりました。一方、中国ではその逆で、寺院での重要な堂宇は寄棟造となっ
ておりましたが、我が国の寺院では寄棟造より屋根に変化がある「入母屋造」の方が好ま
れたようであります。
 「屋根のお話」をご参照ください。

 
     
         日 本

       韓  国

 当時の建物の色は青(緑)(連子窓)、朱(木部)、黄(木口)の三色で、中国・韓国では極
彩色で装飾されておりました。我が国では良質の桧、杉が得られましたので彩色はせず、
素木のままでの建築を望み、文様彩色はせず単色塗装としたのでしょう。柱などに彫刻
を入れることなどは考えもしなかったようであります。それに、洗練された簡素な美し
さを求めたからでしょう。さらに、日本人の潜在意識には素木も良いですが皮付きの黒
木も好む傾向があります。
 当時、建築には桧の心材である赤身部分を使っていただけに、今、我々が見るような
白い辺材部分をも使用した白い木部の建築ではなく赤みかがった木部の建築だった筈で
す。
  素木の掘立柱、屋根は草葺の竪穴式住居に住んでいた人々にとって、中国の極彩色の
装飾に比べて簡素に仕上げたとはいえ、驚嘆を持って眺めたに違いありません。
 
 しかし最近では、法隆寺のように堂塔伽藍が松林に溶け込んで古色蒼然としたものが
愛されるかと思えば四季の花に彩られた古びた伽藍さえも日本人は好みます。また、枯
山水と堂宇の組合せが愛されたり、更には石庭だけを眺めるために訪れる方も多いよう
です。このような複雑な心境は日本人以外には理解されないでしょう。
 建物の装飾彩色は剥落して色褪せしているのに愛着が感じられるのは、創建当初の建
物の姿があまり品があるとは思えないからでしょうか? 適切な例ではありませんが「百
済観音像」や「中宮寺の弥勒菩薩像」が、造像当初はこんな彩色の像でしたと復原写真を
お見せすると皆さんがっかりした表情をされるので今ではお見せしないことにしており
ます。どうも現在の色褪せた仏像を眺めて逆に古代へタイムスリップすることを好んで
いらっしゃるようです。


     礼拝石(法隆寺)

    転法輪印石(四天王寺)  

 当時、法要が「堂」の前庭で行われる「庭儀」でありました。法隆寺では庭儀用の「礼拝石」が五重塔と金堂の前庭にあります。明日香に存在した寺院はどう であったかは分か
りませんが「明日香のお話での「山田寺」 には金堂の前に設置されていたのことが発掘
調査で判明しております。「四天王寺」では金堂の前には礼拝石でなく「転法輪石」が据えられてあります。