寺院建築−平安時代
「天平時代」の74年とは比べものにならない程「平安時代」は784年長岡京遷都から
1185年平家滅亡まで400年という長期に亘りました。
慣わしとなっていた遷都と共に実行される大寺の移築は認められませんでした。天
平時代には多くの官寺が造立されましたが平安時代は「東寺」「西寺」のたった2寺で、
平安京の南端の羅城門を挟んで東、西に造営されました。それも今なお寺名を伝える
のは東寺のみで西寺は廃寺となりました。天平時代、朝廷は造寺、造仏に国を挙げて
推進したのに平安時代はそれらの事業から一切手を引いてしまいました。しかも、在
来宗教をも見放し、新宗教の「密教」に全面的に肩入れしたのであります。さらには、「僧」による政治活動への口出しを排除するため国家公務員だった僧はその職を解かれ
ました。
官営の「造寺司」も総て廃止となり官営の造寺、造仏が行われなくなったので天皇の
お寺という「大寺」の呼称も使われなくなりました。
とは言え、時代を少し経ると、平安時代は「数」が勝負で、積善の数が多いほど極楽
浄土に速やかに往生出来るという時代認識が起こり、天皇始め貴族達は造寺、造仏に
勤しんだのであります。が、それらの遺構の殆どは相次ぐ内乱で焼失してしまいました。
平安京内の造寺は出来ませんでしたが京外は一切お構いなしでした。それがかえっ
て山岳寺院が多くなり、現在の京都人気に繋がったのであります。前代の平地の都市
伽藍より山岳寺院の方が自然に抱かれた堂塔伽藍となり、日本人好みの眺めとなるか
らです。
平地なので七堂伽藍が形成できますが山間では地形の制約があり、僅かな平地の利
用または傾斜地を切り開いて平地を造成し、堂宇を建立いたしました。そうなります
と当然、回廊、築地塀の必要性が無くなりました。
天平時代の平地伽藍を踏襲した寺院には「東寺」「醍醐寺」がありますが「塔」は天平時
代の「双塔形式」から昔の「一塔形式」に変わりました。当時、多くの塔が造営され「塔
参り」が頻繁に行われました。しかし時代は変わり、塔崇拝の面影も無くなり塔は益
々伽藍を装飾する物となり、仏像に信仰の対象の地位を奪われてしまいました。
大陸文化を吸収したのが天平時代、大陸文化を咀嚼して国風化したのが平安時代で
あり和様建築が完成いたしました。
平安時代での300年の鎖国時代、我が国の風土、趣向を取り入れた建物の内部装
飾は見事に花が開きました。引違戸、蔀戸、舞良戸、格子戸、明り障子などが考えられ、これらの発明は自然を意識したものであります。特に、引違戸は簡単に取り外し
が出来、その戸を取り外すことによって建物は屋根、柱、床だけになりました。この
ような構造が室内に自然の景色を取り込むことが可能となり、自然と親しむ日本人な
らではの発明でしょう。しかし一方、躯体構造は進歩がありませんでしたのは外部構
造には興味がなかったからでしょう。しかし、外部意匠は「平等院鳳凰堂」のような繊
細な美しさを持つ見事なものを造り上げました。
平安時代は、椅子、ベッドの土間生活から板敷きの床に坐る生活に変わると同時に
回り縁が設けられました。坐式生活では必然的に天井高を低くし落ち着きある空間を
求めた結果「野屋根」という新しい建築技法が考案されました。従来の屋根勾配は化粧
・構造材だった垂木上に瓦を載せるものでありました。さらにその上部に野屋根とい
う屋根を設けたのであります。意味が違いますが「屋上屋」であります。この方式の利
点は雨漏りを防ぐための屋根勾配を強くすることが出来るだけでなく回り縁まで軒を
伸ばすことが可能となりました。と言うのも、従来の垂木はただの化粧垂木となり勾
配をとる必要がなくなり、極端な言い方をすれば垂木勾配は水平でも良く、自然光を
取り込む開口部を大きく出来るからであります。
山岳寺院には「瓦屋根」より「桧皮葺、柿葺、板葺屋根」が似つかわしいということで
瓦葺屋根は少なくなりました。昔、お坊さんのことを
「瓦家(かわらけ)さん」と呼んで
いたのは寺院の建物が瓦屋根だったからです。瓦家には隠語もあるようですが承知し
ておりません。
つまり、縦の線を強調しすっきり感を現した天平時代、縦、横を強調し重厚感を現
した平安時代となります。
寺院の金堂・本堂は南面向きを慣例としておりましたが浄土の思想で西方極楽浄土
に向くように東向きの阿弥陀堂が数多く造営されました。顕著な例が「平等院鳳凰堂」
です。
浄土の思想から主尊像をお祀りする堂の前庭には広い苑池(阿字池)が設けられるた
め、池とのバランスから横長の建物が要求され、九体阿弥陀堂が30余り造営されま
した。唯一の遺構が「浄瑠璃寺本堂」です。それに比べて鳳凰堂は藤原頼通の別荘を改
造したとはいえ一尊のみをお祀りしましたのは、鳳凰の姿を現す翼廊、尾廊を設ける
外観を重視したからでしょう。これらの様式は浄土曼荼羅図をさらに進めて立体的に
浄土を具現化しようとした我が国独特のものであります。
世は末法の時代を迎え、有力な貴族達は死後の安寧を現在に得ようとして、方五間堂、方三間堂の阿弥陀堂が多く造られました。平安時代の代表的な遺構としては有名
な「冨貴寺大堂」があります。
天平時代の法要は、金堂の前庭で行われる「庭儀」でしたが平安時代になると金堂の
前に別棟の礼堂(らいどう)が新しく増設され「双堂形式」になりました。しかし、この
双堂形式も、密教建築の特徴の一つである金堂と礼堂が一つ屋根で覆われた本堂形式
に変っていきました。それと、密教の像は秘仏が多く内陣に豪華な厨子が設置されも
いたしました。これら本堂に変わる過程で金堂に孫庇の礼堂が設けられました建物が、
「当麻寺、室生寺」の本堂であります。
「密教」は地方への布教に力を入れましたので一般大衆が仏教に帰依し始め、「主尊」
を安置する空間、内陣より礼拝する空間、外陣が広く取られるようになります。この
ような大衆に支持される寺院には山号が冠されております。それだけに、天平時代と
違って地方でも造寺、造仏が盛んに行われるようになりました。
重要な堂宇でなかった「双堂」が重要な堂宇の本堂に変わりました。このことは、天
平時代の三手先の金堂から一手先(出組)の本堂になったため、本堂の軒下の簡素さを
カバーするため「蟇股」が大きく発達いたしました。
山岳寺院の多くは「塔」を「本堂」より高台に位置する所に造立され、前代と違って、
「五重塔」より「三重塔」が多く造立されました。
我が国で考案された密教の「多宝塔」はその外観の美しさから神社にも建立されました。ただ残念なことに平安時代建立の多宝塔の遺構は存在いたしません。
時代は、塔崇拝から本堂の仏像崇拝へと変わっただけでなく多宝塔の場合、舎利は
仏像に変わっていきました。
明治の廃仏毀釈で取り壊された「神宮寺」が多く造営されました。「山の辺の道」で
の大神神社には「平等寺」「大御輪寺(おおみわでら)」の神宮寺があり、その大御輪寺の
仏さんで、天平時代の優作の一つである「十一面観音立像」が現在、「聖林寺」に安置さ
れております。
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