山の辺の道
 
  「山の辺の道」は史実に現れる我が国最古の道で、大和平野(奈良盆地)の東側に連なる
山々の「山の裾」に位置するゆえ「山の辺」の道ということです。道は長く繋がっております
がその一部である山の裾の道だけにつけられた名称です。脚光を浴びるようになったのも
つい最近のことでしょう。風光明媚のうえ古墳、古社寺、旧跡が多く点在し、この道は
「歴史街道」そのものです。現在は歴史探索以外にハイキングコースとして多くのハイカー
で賑わっておりますが昔は日常生活の経済活動で往来しているうちに必然的に道が出来て
いったのでしょう。

 現在の大和平野いわゆる奈良盆地は、大昔、大きな湖で、人
が通行できた「湖岸通りの道・山裾の道」が「山の辺の道」でした。それが、今の「山の辺の道」は、直線でなく蛇行しておりますの
は歴史街道として修正されたためでしょう。 
 湖面が時代と共に下がっていくにしたがって上つ道、中つ道、下つ道が出来たので本来の「山の辺の道」は寂れながらも拡張整
地されることなく山裾の狭き道として残ったのは幸いでした。
 
 「山の辺の道」が完成したのは周辺で豪族が君臨した時代で、
次の寺院時代になる前の古墳時代です。それゆえ、古墳の里、
古社の里と言われる所以であります。それと「山の辺の道」が通
る山々には、山にまつわる歴史と秘話が多くあるだけでなく、
春夏秋冬、変化に富む山の自然があります。
 
 今回、蜜柑の発祥地が「相撲神社」のある「穴師の里」だという
ことを初めて知りました。道中いたるところに無人スタンドが
あり、蜜柑は1袋8個入って100円でした。それを購入し食べな
がら散策するカップルもありました。私はカメラをぶら提げて
足早の行動でしたが、いつかただぼんやりと歩いてみる積もり
です。確かに、電車、バス共に不便この上もないですがどうぞ
生涯に一度は歩いて見てください。「山の辺の道」を歩かれたら
日本文化のふるさとは大和だと確信され忘れがたい体験となり
ましょう。見所にあふれ、幸せな一日を約束してくれのが「山
の辺の道」です。

 
 飲食店は所々にありますが、「弁当」を開くに適した場所は多く、冬以外は弁当を持参された方が良いでしょう。「トイレ」は
数多く設置されており、心配はいりませんがすべてが理想的な
清潔な施設とは言えませんでした。それに比べて、中間点には
「天理市トレイルセンター」(後述)という豪華な施設があります。
トレイルとは訊ねますと小径とか獣道の意味だそうです。それ
から言うと、「山の辺の道」というより歴史の香りを求める「古
代歴史の小径」と言ったほうが適切かも知れません。

 本来の古道よりずれていようが「山の辺の道」として残ったこ
とは幸せです。ただ残念なのは最後に渡る川名が「大和川」と呼
称変更されており歴史に刻んだ川名「初瀬川」でないことです。
「大和川」も由緒あり悪いとは言えませんが。 

◎ JR・近鉄天理駅
  20分 1.5q
◎ 天理教教会本部
  10分 0.5q
◎ 石上神宮
  15分 0.8q
◎ 内山永久寺跡
  30分 1.7q
◎ 夜都伎神社
  10分 0.6q
◎ 竹之内環濠集落
  15分 1.0q
◎ 萱生環濠集落
  10分 0.5q
◎ 衾田陵
   5分 0.1q
◎ 念仏寺
  15分 0.9q
◎ 長岳寺・
     トレイル青垣
  10分 0.6q
◎ 崇神天皇陵
  15分 1.0q
◎ 景行天皇陵
  45分 2.5q
◎ 檜原神社
   5分 0.3q
◎ 玄賓庵
  20分 1.2q
◎ 大神神社
   3分 0.4q
◎ 平等寺
    5分 0.3q
◎ 金屋の石仏
  15分 0.9q
◎ 仏像伝来之地碑
  20分 1.5q
◎ JR・近鉄桜井駅

 

 「山の辺の道」は「東海自然歩道」に組み込まれ
ており、
案内標識は要所要所にありますので安
心して歩くことが出来ます。それと、
「山の辺
の道」
の一つの特徴は、自らの意思のまま歩け
ることです。
もし、途中でリタイアしても道とJR、近鉄バスが並行しているから安心です。ただ、JR,バス共に便数が少ないので注意が必要
です。

 出発を「天理駅」か「桜井駅」かにするかは自由ですが欠点は両駅とも最終目的地から少し
離れていることです。参考までに「天理駅」から「石上神宮」まで2km、徒歩で30分、「桜井
駅」から「仏教伝来之地」まで1.5km 徒歩で20分です。両駅ともJR,近鉄の総合駅です。
 天理駅前、桜井駅構内に観光案内所があり、「山の辺の道」の資料が用意されております
ので忘れず受け取りましょう。
 
 推奨コースとしては
  @ 「天理駅」から「桜井駅」までの健脚コース
 A 「天理駅」からで「山の辺の道」が「JR駅」とが一番接近するのは「大神神社」ですのでそ
   こで終了とし徒歩5分のJR「三輪駅」からの帰途のコース。
 B  「天理駅」から「長岳寺・天理市トレイル青垣」の北半分で終了とし、帰途のコース。
   「長岳寺・天理市トレイル青垣」からJR「柳本駅」まで徒歩15分、近鉄バス停「柳本」
   まで徒歩5分です。
 C Bの残りの南半分です。JR,近鉄「桜井駅」から「崇神天皇陵」までです。「崇神天皇陵」
   からJR「柳本駅」まで徒歩15分、近鉄バス停「柳本」まで徒歩数分です。なぜ、逆回り
   にしたのかと言いますと「山の辺の道」が距離的に天理市、桜井市と半々に跨ってお
   り、桜井市に含まれる「山の辺の道」の資料は桜井市観光案内所でしか貰えないから
   です。

 ※ 「山の辺の道」は万葉の歌に息づいた道であり、桜井市観光案内所には歌碑の写真、
   歌と歌意、場所図と片面は「山の辺の道」ハイキングコースの案内図と写真が掲載さ
   れております資料が用意されております。特に「万葉歌碑」に興味ある方にはお勧め
   です。ただし、この資料も桜井市地域分だけしか掲載されておりません。

 私は「天理駅」から「桜井駅」までの約17qを、右側に大和平野を、左側になだらかに
起伏する山々を眺めながら歩いて見ました。


   海獣葡萄鏡のレプリカ(天理駅前広場) 


    「天理本通」商店街

  「天理駅」から「石上神宮」までの乗り物ですがバスは午前中1,2便で、しかも、バス
停「石上神宮前」は神宮前といっても神宮から少し離れた場所です。タクシーの利用料金
は約1,100円です。結論は徒歩しかありません。「天理本通」
の商店街の アーケードを出
たところが「天理教教会本部」前です。
 アーケード通路の中ほどには長椅子が置いてある商店街も珍しいことでしょう。

 天理市は名前の如く天理教の宗教文化都市です。『天理教』と染め抜いたハッピ姿を多く見ることで天理市だと理解出来ます。

 万葉で知られる「布留川(ふるがわ)」の面影は、上流に行け
ば偲ぶことが出来るのでしょうか?
 天理教教会本部前を過ぎると間もなく「布留橋」で、その橋
を渡りますと桜街道で春は見事なことでしょう。その街道を
少し行くとこんもりとした樹林が左側の見えてきます。そこ
が「石上神宮」です。


   布 留 川

 

 神域の入り口には鳥インフルエンザなどの影響
か「お知らせ 境内にチャボや鶏など捨てることを
禁じます 社務所」と書いた紙がビニール袋で包ま
れぶら提げられていました。
 

 大鳥居をくぐると古杉に囲まれた境内で、格式高く由緒ある古社の風格が感じとれます。塵、落葉がきれいに掃き清められた境内は人影もまばらで、ひっそりと静まり返っ
ていて、玉砂利を踏んで歩く足音だけの空間を打ち破ったのは可憐な鶏の鳴き声でした。
 参拝する人もまれな神域のしじまの中を歩くと身の引き締まる思いがいたしました。

  「石上神宮(いそのかみじんぐう)」は政治に大きな影響力があった有力な豪族「物部氏」
の氏神で、物部氏は大和朝廷の軍事を担当した関係上、神宮には想像もつかない量の武器
が保管されていたとのことですがそんな恐ろしいイメージは微塵も感じられませんでした。

 「拝殿」は神社造では「切妻造」が殆どであ
るのに「入母屋造」です。それは、
平安京の
神嘉殿
(しんかでん)を移築した建物だから
です。
宮殿建築の唯一の遺構です。由緒を
誇る入母屋造で、
屋根は桧皮葺であります
が柱などの木部は彩色されております。
「向拝」はそんなに大きくなくこじんまりと

 した感じとなっており、全体としてしっとりと落ち着いた気品漂う建物となっており
  ます。

   

「摂社出雲建雄神社拝殿(せっし
ゃいずもたけおじんじゃはいでん)は「内山永久寺の鎮守社の拝殿」を移築したものです。
 中央が土間でまるで仏堂での「馬道」のように通り抜けること
が出来ます。これはご神体への

門に当たるものとして設計されたのでしょうか?拝殿は黒々とした杉木立と相まって水墨画のような情景でした。

 自然環境の中で飼育されております神鶏が、野鳥から今大
流行の「鳥インフルエンザ」に掛からないことを祈りながら

『山の辺の道、東海道自然歩道』の標識を頼りに
次の目的地
の「内山永久寺跡」に向かいました。

 

 

 「うち山や とざましらずの 花ざかり」  
                 芭 蕉
 句の意味は「うち山」とは次に訪れる「内山永
久寺」のことです。
 永久寺の咲き誇る優雅な桜は、外者には分
からないでしょう。桜が爛漫と咲き、境内に
舞い散る桜吹雪を詠んだのでしょうか。
 「石上神宮外苑公園」は桜の名所で、そこで
人々は桜花のもとで宴を開いていらっしゃい
ます。大和といえば「奈良七重七堂伽藍 八重
桜」と言われるように奈良の人にとって桜は
郷土の花で、当然、県花は「奈良八重桜」です。

 

  しばらく行くと、「内山永久寺」の放生池が見えてまいります。内山永久寺は明治の廃
仏毀釈によって廃絶しております。
当時、壮大な伽藍を築いた内山永久寺は往時の姿も
なくこの池のみ残っております。当時の繁栄を偲ぶべきもなく朽ち果てており、歴史の
厳しさを背負って来た寺院と言えましょう。
 
 
石上神宮の神宮寺でしたが、寺名のように永久存続は出来なかったのであります。ただ、寺名の由来は永久年間に造立されたからです。

    
       石の鳥居


           拝  殿 

  「夜都伎神社(やとぎじんじゃ)」は萱葺の神社で社寺では始めて見る屋根材でした。背景
の木立とふっくらとほどよく古びた萱葺屋根の素朴な建物が自然と溶け込んで落ち着いた
雰囲気を漂わせております。我が国の建物のルーツを見るようです。斎庭には獅子を起源
とする狛犬と四つの灯篭があります。古代は灯篭は一つが慣例で後の時代に一対の二つに
なりますが、ご奇特な方が寄進されて四つになったのでしょう。
 
萱葺屋根は瓦葺に比べて寿命が極端に短いため保存維持には苦労をなさっていることで
しょう。


   公園(竹之内町) 


  環濠(竹之内町)


     乙 木 町

 環濠が埋め戻されて出来た公園でその後方に写真の環濠が存在します。


    萱生(かよう)町

 

 外敵から防御するための「環濠」らしいですが外敵に狙われるくらい裕福な村落だった
のでしょう。
 町内は絶えず曲がらなければ目的地に行けないように設計されており、外敵が攻め難
いように不明瞭な町作りになっております。小学生の頃大和郡山市(当時は郡山町)で過
ごしましたが郡山は城下町であり、迷路そのものの町でした。
 県下でも高台に環濠が造られた珍しい例と言うことです。

 「衾田陵(ふすまだのみささぎ)」は「西殿塚古墳」とも呼称されております。
 この古墳は宮殿・寺院と同じように南向きですが後述の「崇神天皇陵」「景行天皇陵」は西
向きです。
 この辺は大型の前方後円墳、小古墳がとにかく多いです。コースから外れて高台に上が
ってパノラマ写真でも撮ろうとしても古墳が障害で駄目でした。
 これら多くの古墳が残ることが出来ましたのは、大和平野の高台に存在するため、いか
なる開発の手も伸びなかったのと都城が平城京に造営されたため壊されずに済んだからで
しょう。時代は古墳から寺院の造営に変わりますだけに貴重な古墳群だと言えましょう。  

  
         本 堂

 共同墓地の中を通り過ぎるとそこは「念仏寺」でした。
 山側の見晴らしの良い場所に共同墓地があり「念仏寺」にふさわしい情景となっております。
 共同墓地は大和平野を見おろす高台にあり、「お参り」は夏は良いですが冬は厳寒で大変
でしょう。

        

 
       龍 王 山

 「衾道を 引手の山に 妹を置きて 山路をゆけば生けりともなし」 
 万葉歌人として有名な「柿本人麻呂」の歌で、愛する奥さんの死を痛く嘆き悲しんだ
内容の歌です。
 「持統天皇」に仕えられた歌人だけに「持統天皇」の考えに影響されて奥さんを火葬し
て引手の山(龍王山)に埋葬されたのでしょうか?というのも「持統天皇」は火葬を希望
された最初の天皇でしたから。

   

 古都らしく白漆喰で際立つ屋根の住宅が点在しており「山の辺の道」にふさわしい風景
となっております。ただ、屋根が大和棟の草葺から瓦葺に変わった時代的な違いはあり
ます。中には立派な「鬼瓦」を据えられている住宅もありました。

    
        大 門

    「長岳寺(ちょうがくじ)」は弘法大師が開基
された真言宗のお寺と言うことですが、私など
は我が国初の「玉眼」様式が採用された「本尊・
阿弥陀如来像」が安置されている寺院としての
印象の方が強いです。
 また、別名を「釜ノ口のお大師さん」と言いま
す。大師は普通名詞ですが、大師といえば「弘
法大師」を表すようになりました。同じ例とし
ては「太子」と言えば「聖徳太子」、「関白」と言え
ば「太閤秀吉」と言うように。

 近い将来、「歴史街道」といえば「山の辺の道」となりますことを願わずにはいられません。
   簡素な「大門」の前には注連縄がありました。
  大和神社の神宮寺として壮大な伽藍だったらしいですが今は山里のお寺らしい自然に
 抱かれた景観です。大門からの参道の桜、境内のツツジは見事らしいです。いつの日か
ゆっくり訪ねたいものです。
  「柿本人麻呂碑」のところに掲載しました「龍王山」は長岳寺を西に下った国道からの撮
 影でした。ですから後ろの山は「龍王山」で、大自然の懐にあるのどかな寺院・長岳寺で
 す。

         

 「鐘楼門」は現存最古の遺構で、寺院でも、
創建当時の唯一の遺構と言うことです。楼門
と鐘楼とを兼ねた建物で非常に珍しいものです。屋根の反りも穏やかで美しい曲線で構成
されたうえに杮葺の屋根だけに優しい感じが
いたしました。
 貴重な建造物である鐘楼門を見るのは初め
ての経験でした。下層は一間一戸で、上層は
三間です。

  

  「本堂」は南面しております。苑池を隔て本尊を拝まれると極楽浄土が心の中に浮か
び、すがすがしい心地になられることでしょう。その後本尊をお参りください。

  

 「阿弥陀三尊像」は「玉眼」を採用した我が国初
の仏像として著名です。写実性を高める玉眼は
鎌倉時代から盛況となりますが本尊は平安末期
に造像されたものです。玉眼が考案されたのは、
当時、日のあたらぬ境遇にあった「慶派」の中に
若々しいパイオニア魂を持った天才仏師が居て、
世間をあっと言わせるチャレンジをしたためで
しょう。
 玉眼を嵌入した本尊の眼差しは慈愛あふれる
優しい眼となっております。
 ※ 写真はお寺の許可を得て「絵葉書」の写真を
利用させていただきました。 

 脇侍の「観音・勢至菩薩像」は我が国では珍しい半跏趺坐像です。中宮寺の「弥勒菩
薩像」も同じ半跏趺坐像で、この半跏趺坐像は中国では多く見られますが我が国では
数が少ないです。

   

 「弥勒菩薩像」は古墳群に囲まれた寺院だけに古
墳の石棺に彫刻された「石仏」で、古墳が何かの事
由で廃されたのを利用されたのでしょうか?
  尊像は境内を東に少し上ったところにぽつんと
安置されおりました。頭髪、法衣からみると菩薩
ではなく如来に見えました。この手印は拝まれた
方の恐れ、苦しみを取り除くだけではなく楽しみ
を与えようと言うものです。
 微笑みかける石仏は、長い風雨や経時による損
傷も見られなく保存状態も良く、素晴らしいの一
語に尽きます。
 

      

境内にて

 

  「天理市トレイルセンター」 は「長岳寺」と隣接しており、見晴らしの良い場所にあり、
この辺が距離的に「山の辺の道」の
天理・桜井間のほぼ中間に位置します。名称の 「トレ
イル」とは小径か獣道の意味だそうですが、獣道と思しき道は「山の辺の道」にはありませ
んでした。
 施設には見ごたえのある展示と色んな資料が用意されております。また、写真の食堂は
誰でも自由に使用できお茶のサービスまであります。ただし、出たゴミは各自で持ち帰る
必要があります。気候の悪い季節とか高齢者には有難い施設です。トイレも清潔できれい
ですので、きれい好きの方はこのトイレでどうぞ。

 

   

 

  「山の辺の道」は「崇神天皇陵(すじんてんのうりょう)」の東側を通りますが 、陵は西を
向いておりますので一度国道169号線まで下がる必要があります。しかし、巨大古墳を見
る機会もそうありませんので、回り道になりますが是非お訪ねください。玉砂利、植え込
みも手入れが行き届いております。 
 ここからは
「崇神天皇陵」の南側を通り「山の辺の道」に戻りますときれいな空気と素晴ら
しい景色が続きます。私が訪れた時は少し肌寒い時期でしたが弁当を開げ、和やかな憩い
のひとときを過ごされていたグループがありました。

 春霞に煙る大和盆地と葛城山脈、二上山の眺望で「山の辺の道」ならではの素晴らしい
シーンが展開いたします。

  

 大和棟が美しい民家の板壁に、『行く人に
昔をかたる 水車あと』『車坂 その名を残す
水車から』の歌がさりげなく書かれているのを
見付ました。多分、家の横の谷川に水車がかか
っていたのでしょう。
 近くには水車が多く稼動していた地域があり
そこから名付けられた地名が「車谷」で、現在は
地名だけでその面影はありません。

 

 「景行天皇陵」も西向きですので、国道まで下がる必要がありますが、今回は上記の景色
を見るだけで失礼して「山の辺の道」のコース通りの山側をお歩きください。間もなく、前
方に「三輪山」が迫ってきます。
 「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣山ごもる 倭し美し」を詠まれた「景行天皇」の皇子
「倭建命(やまとたけるのみこと)」もこの「山の辺の道」を利用して遠征されたのでしょうか?もしそうだとすれば「山の辺の道」は歴史の関わりも深いものですね。

            

  陵堀から見た「三輪山」

 

    なだらかな稜線の葛城山脈

 道は上り坂でこの先に「相撲神社」があります。「山の辺の道」から外れておりますので間
違えたら大変と地元の方に確認いたしましたら「小さな「祠」があるだけで土俵も影形もあり
ません。相撲神社は桜がきれいで絶好の花見場所ゆえ本日は止めて春にお越しください」と
親切に教えてくださいました。そこで私は「内山永久寺跡」での芭蕉の俳句を思い出したの
であります。本当に自然を愛し自然と共に生活をされておられる住民の温かみのある応対
でした。


     上り坂


      鳥 居


   祠(ほこら)

 土が露出しているところに「土俵」が
あったのでしょう。我が国初の「天覧
相撲」が執り行われた場所にしてはあ
まりにもみすぼらしいです。ただ、天
覧相撲の際には土俵など存在しなかっ
たのでしょう。と申しますのも、「野
見宿禰(のみのすくね)」と「当麻蹶速(た
いまのけはや)」がやったのは今で言う
相撲でなくて決闘相撲のため、相手の
息の根を止めるまで試合を続けるには

土俵を必要としなかったと思われるからです。その勝負で殺された当麻蹶速を祀る五輪塔
が「当麻寺」でお馴染みの当麻にあります。勝った野見宿禰を祀る祠より立派に整備されて
おりました。   「当麻寺のお話」をご参照ください。
 中学生時代、大阪の「山坂神社」の境内を横切り通学しておりましたがその山坂神社では
秋祭りが盛大に行われ、境内に常設された土俵では「西日本大学相撲選手権」が執り行われ
ておりました。これなどは収穫感謝の神事相撲と言われるものではなかったのではと今に
なって考えております。しかし、今は毎日が「晴れの日」のようになりましたのでお祭りも
寂れ、土俵もなくなってしまいました。

   
       二の鳥居

 「相撲神社」と「兵主神社(ひょうずじんじゃ)」とは隣接しており「二の鳥居」に向かって
右側に「相撲神社」があります。鳥居をくぐると杉木立の参道で古社の佇まいを見せてお
ります。

 

 唐破風の向拝をもった「拝殿」で、拝殿の奥には三屋根の建物がありました。これが神
殿だと思いましたが訊ねたくてもどなたもいらっしゃらず駄目でした。

    

 ここ「穴師」が我が国のミカンのふるさとで街道にはミカンの無人スタンドが軒並みあります。

  

     葛城山脈と二上山

      右側の森が「崇神天皇陵」です。

 「穴師兵主神社」「相撲神社」辺りは大和平野が眺望できる絶好の場所です。万葉が詠ま
れた時代は住宅も多くなく今とは違った風景だったことでしょう。とはいえ、高層住宅
もなくさほど違和感もない風景となっており、当時の面影が偲ぶことが出来ます。コー
スから外れておりますがどうぞ。この風景も記録写真の中にしか求められない時代がす
ぐそこに来ております。それは、「宅地開発」が進むのと「青垣の山」が「竹薮の山」となり
そうだからです。青垣が竹薮に破竹の勢いで侵食されつつあり、昨今は竹薮が目立ち始
めました。


   巻向川と蜜柑畑(上側)

 「巻向川」は穴師と檜原の間を流れております。昔は水滔々と流れていたことでしょう。
 柿本人麻呂は
巻向川を題材に多くの歌を詠んでおります。


  歌 碑

「ぬばたまの 夜さり来れば
 巻向の 川音高し 嵐かも疾き」
   作者:柿本人麻呂 
     筆者:武者小路実篤

       

   「檜原神社」は「大神神社」の摂社で、神殿、拝殿もなく 、ただ赤松と渾然一体となっ
た「三つ鳥居(三輪鳥居)」があるだけです。そこはかとない気品にあふれる社で、玉砂利が
敷き詰められた祭庭は、きれいに掃き慣らしており、踏むのに気が引けました。
 創建当時は檜林に囲まれた社だったので「檜原神社」と名付けられたとのことですが、現
在は赤松で覆われております。もう既に「三輪山」の神域に入っております。


  檜原神社窯跡

 立派な注連縄が「鳥居」と言う珍しいものです。その鳥居を通して西方を眺めると二つ
の秀峰を持つ「二上山」が臨めます。
太陽が「檜原神社」背後の三輪山から昇り西向こうの
「二上山」に沈みますので太陽の聖なる線ということでしょうか。二上山は死者の聖地で
あり夕陽が象徴と言うのも納得出来ます。
 今までの古墳が西向きなのも二上山と何らかの関係があるでしょうか?

  夕日の撮影に3月13日に「桧原神社」へ行きましたらカメラマンの数が少ないので社前
の茶店で尋ねますと双峰の間に夕日が沈むのは11日だけで本日は北にずれるとのことで
した。たった2日でこれほど北へ寄るとは知りませんでした。さらに夕日が沈むに従っ
て早いスピードで北へ北へと斜めにずれて山の彼方に沈むときは二上山が外れるところ
まできておりました。夕日は幻想的で美しいですが何となく物寂しいのは死者の霊が赴
く西方極楽浄土を連想するからでしょう。今回の撮影で自然現象に対していかに無知で
あるかを認識いたしました。 


    歌 碑


 龍王山   巻向山   三輪山

     三 輪 山

 コースから外れますが、「檜原神社」を西に少し下ったところに「井寺池(いでらいけ)」
があります。「井寺池からみる景観は日本を代表する景観百選にも選ばれた。」の掲示が
ありましたので二上山、葛城山脈、大和盆地の景色を眺めましたが視界を樹木が遮り駄
目でした。反対方向に振り返ると悠然と歴史を見守ってきた三輪山、巻向山、龍王山を
眺めることができ特に三輪山は「山の辺の道」では一番きれいな眺めでありました。その
「三輪山」は生活の匂いがする俗なる空間も見えず、見えるのは聖なる空間のみなので神秘そのものでした。
 「歌碑」は「景行天皇陵」で記述しました倭建命作で、筆者は川端康成です。この歌碑は
二つの池の中間の堤にありこじんまりとした石碑ですから見落とさいように注意してく
ださい。

  

  


     山 門


     石 庭


       本 堂

  「玄賓庵」の山門を撮影していると2人の方が来られ山門右に植えられた「椿」を見てい
らっしゃいましたが2人ともまだ早いと言って立ち去られました。椿は花を付けている
のになぜか理解出来ず仕舞いでした。後日、「檜原神社」へ「二上山の落陽」を撮影に行っ
た時寄った「茶店の壁」に貼られた写真は「玄賓庵前の濡れた石畳の上に落ちた椿の花の
風景」でした。2人の方は椿の花を観るためでなく、石畳に落花した風景を観るために
先日わざわざ訪ねられたようです。玄賓庵は参拝のため、石庭、椿を観るために多くの
人が訪れるので庵前だけが広い石畳になっているのでしょう。
 白壁と乱積みの石垣になんとも言えない趣があって美しいです。また、堂内にはこじ
んまりとした枯山水の庭があり本堂は簡素で素朴な造りでした。この枯山水の庭は自然
か自然を越えた何ものかを現わされているのでしょう
 前庭は梅林の広場で、残念ながら訪れた時は開花し始めたところでした。 

 

 木漏れ日の縞模様の道を行くと
「狭井川」に出会います。川という
よりせせらぎのような僅かの流れ
でした。まもなく「狭井神社(さい
じんじゃ)」です。

 鳥居をくぐって玉砂利を踏む音を聞きながら行くと間もなく石階段です。階段を上がり
終えると眼前に神殿があります。鬱蒼とした神林の中にあるため薄暗い殿内となっており
灯明が輝いておりました。

              

 「霊泉の井戸」は神殿の左横を進むとあります。
 霊泉は神体山・三輪山から枯れることなく湧き出
ており、酒造家、製剤業者、書家などには霊験新た
かな霊水として愛用されていると書かれております
が一般の方が無病息災を祈って霊水を汲みに来てい
らっしゃいました。

      
          二の鳥居

 
        参 道

 「三輪明神・大神神社」で、「大神神社」と書いて「おおみわじんじゃ」と読みます。
 一の鳥居はここより離れた街道筋にありそれは豪壮な造りでした。鳥居の場合は神殿よ
り離れたところから一、二、三の鳥居と呼びます。
 二の鳥居をくぐって神林の参道を進みますと、厳かな気分になって参ります。

 

 ゆるいカーブになった参道を進むと石階段がありそれを一段一段上がって行くと独特の
注連縄の鳥居の間から絢爛豪華な「拝殿」が姿を現します。この階段は参拝者を敬虔な気持
に高める装置でしょう。
 拝殿の奥に三の鳥居・三つ鳥居がありその奥には神体山・三輪山があります。原始信仰
の名残を今に伝えております。三輪山は赤松の原生林で覆われておりますがその昔は檜林
だったことでしょう。

 幾星霜の歴史を見続けてきた「巳の神杉」は、千古の昔から、
三輪山と同じようにご神体だっ
たことでしょう。我が国では神
木がご神体という名残が多く見
られるからです。
  神杉に出来ている「穴」は「女
性の象徴」、「巳」は「男性の象徴」

で、これらの象徴は子孫繁栄・五穀豊穣を祈願するもので当時では悲壮な願い事だったこ
とでしょう。
  巳の好物である鶏卵が供物して供えられておりましたが、横に掲示があり「神杉に卵を
投げないでください」と書かれてありました。よく似た話で、神道のことは分かりません
が仏教では昔、「撫仏」でない場合紙を噛んでその紙を尊像の自分の不調な部分と同じ場所
に投げつけて病気回復を願っておりました。
 「神杉」がご神体であると同時に「巳」も神そのものということではないでしょうか。そう
なれば、「巳の神杉」にお参りするとご利益が多く頂けること間違いなしでしょう。
 洋の東西を問わず「蛇(巳)」は畏敬の対象となっております。

  「平等寺」は大神神社の神宮寺で
した。明治の廃仏毀釈で廃墟状態に
なりましたが、苦労されて現在の伽
藍まで復興されました。それだけに
木部の彩色はまだ退色しておらず新
しい姿となって息を吹き返したとこ
ろでした。

          

   「多宝塔」ではなく「二重塔」とは珍しいです。
それと、上層の柱間は三間になるのに二間とな
っているのは三間にするとごちゃごちゃしてす
っきりしないので二間で設計されたのでしょう。 

 「金屋の石仏」は鉄格子の扉に守
られた堂に安置されており鉄格子
の僅かな隙間にカメラを構えての
撮影でした。
 2体は弥勒菩薩と石棺の蓋に彫
刻された釈迦如来と説明されてます。釈迦が入滅後56億7千万年
後に釈迦の後釜として我々衆生を
救っていただける弥勒仏なのに、

 なぜかもう既に2体揃って安置されております。

  「海柘榴市観音」は街角のどこにでもある「祠」のようなものですが近隣の方にとっては
心のよりどころとしてお参りされていらっしゃるのでしょう。左側にトイレと休憩所が
設けられております。

 「海柘榴市」は、古代から栄えた交易市です。大陸の使節も大和川(初瀬川)の舟運を利
用して、この地まで遡りました。と説明されております。現在の大和川は舟が行き来す
るような水深ではありませんが当時は水深もあり船の往来も多く古代マーケットだった
のでしょう。椿が咲き乱れるところから付けられた名称と言うことですが、そうだと思
えのは海柘榴市と書いて「つばいち」と読ませるからです。ただ、「柘榴」はざくろとも読
みますが。それとお茶屋があったとのことなので男性の社交場だったのでしょう。

   

  「佛教傳来の地」とは、仏教が初めて日本に送ら
れてきた記念すべき地でありますと書かれています。仏教が公式に伝わったのは552年と教えられ
ましたが538年の方が信憑性があり現在では538年
が大勢ですが、案内版には欽明天皇の13年となっ
ておりこれでは西暦で552年となります。最近で
は西暦で表示されますが欽明天皇13年としか書い
ていません。


    初瀬川(大和川)から見た三輪山

 「三輪山」は467bの高さで神奈備その
ものです。全山鬱蒼たる赤松の木立で覆わ
れており、山並みはなだらかな曲線で優し
い感じがする神秘的な山でした。
 余談ですが戦後、国宝指定がそれまで国
宝一本だったのが国宝と重要文化財との二
つの部門に改定され、その国宝指定第一号
が京都の「広隆寺弥勒菩薩像」で、その材質
は赤松です。我が国では仏像の素材は樟か

 檜材で赤松はあまり聞かれません。 
 大和三山にしても同じような形をしており、天空に突き刺さるような山よりも穏やかな
低い山の方が神奈備として相応しいものです。 

 「初瀬川(大和川)」を超えると「山の辺の道」の旅路は終わりとなりますが「初瀬川」で振り
向いて眺めなければ「三輪山」の魅力は分からないことでしょう。その際、三輪山にお祈り
されると同時に再見の約束をしてお帰りください。