法隆寺

  「法隆寺」を一言で述べますと「仏教美術の集大成」と言えます。
 我が国において、飛鳥時代から鎌倉時代にかけて、美術と言えば仏教に関するもの
が多く、埴輪から仏像、古墳から寺院、ことに掘っ建て柱に茅葺きの家屋が一般的だ
った建物の時代に、五重塔の建立などの大変革は仏教の力なくしては不可能だったで
しょう。
 斑鳩の里にある「法隆寺」は、日本仏教の始祖と仰がれる「聖徳太子」をお祀りしてい
る寺院で、聖徳太子の好まれた松林が古い堂塔に映えて、墨絵を眺めているようで、
誰もが卒業旅行のセピア色した写真とだぶり感慨にひたられることでしょう。

  しかも寺院に納められている仏像・仏具の殆どが、飛鳥・白鳳・天平時代の作だけ
に、現存最古と言われております。それが所狭しと並べられており、さらに木造建築
では世界最古の建築群である七堂伽藍のすべてが、国宝に指定されており、古建築の
すべてが学べる東南アジアで唯一の殿堂であります。
 日本の国宝の数多くを、この法隆寺が所蔵しており、文化財の比類なき宝庫のよう
な寺院であります。それゆえ、日本の美術は、法隆寺から始まったと言っても過言で
はありません。
 
 それも現在では、建物・仏像・仏具など彩色の退色やメッキの剥落によりかえって
落ち着いた、奥ゆかしさが感じられ、無彩色の埴輪や素木の文化を好む我々日本人に
は、やすらぎと感動を与えてくれます。

 また、約1300年もの風雪に耐えて聳え立つ五重塔をヒントにして、現代の超高層ビ
ルが柔構造で建築されていることを考えますと、古代人の偉大さには驚かされます。
 大和は日本人の心のふるさとです。そのふるさとの中心的存在が、美と信仰の殿堂
・法隆寺であります。これら仏教芸術の粋というべきものの集合体である法隆寺を、
5回10回と訪れて頂きたいものです。

  我が国の国宝指定の建造物は、近世が大半という中で法隆寺は白鳳、天平時代の建
造物であります。ただ古いということだけでなく所有する国宝建造物は18と驚くべき
件数であります。
 当時、寺院の「七堂伽藍」といえば「塔」「金堂」「講堂」「経蔵」「鐘楼」「僧坊」「食堂」であ
りますが古代の七堂伽藍が健在でしかも総てが国宝というのは法隆寺だけです。世界
に誇れ、歴史の重さを感じさせる法隆寺であります。
 世界最古の木造建造物である金堂は白鳳・天平時代の再建でありますが法隆寺には
建物より古い美術品が多くあるのが他の寺院と違う大きな特徴であります。創建当初
の遺品は極僅かで、670年の火災による再建後に施入された物ばかりといえるくらい
であります。施入品の宝庫であるのは聖徳太子の遺徳を偲んで施入されたのでしょう。
 建築ばかりではなく国宝の彫刻も17件も所有する凄いお寺・法隆寺です。
 「寺院別国宝建造物・彫刻の所有件数表」をご参照ください。
     
 飛鳥時代には国家鎮護の寺院は存在せず、法隆寺も「用明天皇」が自身の病気平癒
を願って後の「推古天皇」と幼少の「聖徳太子」に命じて建立されたのであります。そ
れが今では、法隆寺は聖徳太子のためのお寺で用明天皇のために建立されたことをご
存じない方が多いようです。どうして、再建された法隆寺金堂では父君の病気平癒の
薬師如来を金堂東の間に安置して聖徳太子を守る釈迦如来が中央の間に安置されたの
か?私なりに考えてみましたがあーでもないこうでもないと迷路にはまってしまいこ
れでは読んでいただいた方を迷わすだけだと削除いたしました。皆さんも一度お考え
ください。本当に興味尽きない法隆寺だと改めて痛感いたしました。

 「法隆寺」は「鵤大寺」、「伊河留我寺」、「斑鳩寺(いかるがでら)」などと表記されてお
りました。斑鳩寺の「斑鳩」とは字の通り「まだらばと」で鳩より一回り小さく黒い羽根
に白の斑があるのが名前の由来でありますがこれを「いかるが」とは発音できないです
ね。しかし、斑鳩寺、法隆寺共に聖徳太子に相応しい寺名でしょう。

 643年に聖徳太子の長男「山背大兄」が従兄弟の「蘇我入鹿」に攻められ斑鳩宮で一族
郎党自決され、聖徳太子の家系は断絶いたしましたが2年後の645年の「大化の改新」
で蘇我宗家が滅んだことが幸いでした。その後も蘇我宗家が安泰であれば670年焼失
後の再建はおぼつかなかったと思われます。ところで、643年に太子の遺族は居なく
なり家系は断絶、そうすると法隆寺が670年焼失するまで誰が維持管理していたのか
更に、当時の法隆寺は官寺でもなくしかも檀家も居ない寺院だっただけに誰が再建し
たのか謎多きお寺です。残された寺僧にしても日常生活を維持するだけで大変だった
と思われる経済情勢の中で寺の再建どころの話ではなかっただろうと思われます。

 『日本書記』には670年に落雷で堂塔総てを焼失と記述されているのに何故か、再
建のことは何も記述されておりません。それと、五重塔落雷で離れた建物まで一つ残
らず類焼するとは考えられないし法隆寺関係文書に火災の記載がないのも不思議です。
 誰が再建したかの問題ですが、大化の改新の立役者「中大兄皇子」と「中臣鎌足」は、
仏法興隆の恩人である蘇我宗家を滅ぼした張本人で仏教界からすれば極悪人でありま
す。そこで、2人が我々は仏教を厚く敬っておりますという意思表示で法隆寺を再建
されたのかも知れません。それとも、聖徳太子を慕っていた有志たちの力添えで再建
がなされたのでしょうか。なぜなら、再建時には技術革新をした唐の建築技法が伝来
しているのにもかかわらず聖徳太子の飛鳥時代の建築技法で再建されているのです。
この飛鳥様式の建築が法隆寺再建・非再建論争が延々と続いた要因です。
 
 洋の東西を問わずモニュメントの建物は左右対称が原則で、焼失いたしました若草
伽藍は左右対称でありましたが法隆寺では左右対称にはなっていないのは再建法隆寺
の寺地では裏山が迫っておりこれ以上の造成は無理だと考え金堂と五重塔を並列させ
たからでしょう。結果、左右非対称の伽藍配置となりましたがこれらは和風化の表れ
でしょう。自然に親しみ、自然と共に生きてきた日本人にとって、自然が左右対称に
なっていないことから左右非対称が好まれる傾向が影響しているのでしょう。

 ただ、若草伽藍が焼失したのであればその跡地に再建すればよいのに北側に迫る山
を削り、また谷を埋めるなど大幅な造成工事までして現伽藍地を選択されたのかは疑
問が残ります。それと、四天王寺式伽藍だった若草伽藍は西に20度傾いておりました
が現伽藍は西に4度の傾きであり、16度の差は何を意味するのか不明です。
 金堂と塔の並列といえば法隆寺再建以前にも「法起寺(ほうきじ)」の伽藍配置があり
ます。

 後述の「百万塔」が十大寺に十万基ずつ施入された中に法隆寺があることから天平時
代には私寺から官寺となっておりました。法隆寺が官寺の様相が強まり太子を供養す
るための仏殿が必要となったので斑鳩宮跡に上宮王院の再建が始まり、その上宮王院
の金堂として夢殿が建立されたのでしょう。

 「豊臣秀頼」が発願して家臣の片桐具元を奉行に任じ実施された慶長五年(1600)〜慶
長十一年(1606)の慶長大修理は堂塔の総べてに及ぶ大掛かりものでした。
 秀頼を大檀越として父「秀吉」の菩提を弔うための修理は、維持だけを考慮したもの
のため飛貫などを多用して建物の原形を損なうものでありましたが、そのお陰で修理
された堂塔が現在まで維持できたことは事実であります。この慶長大修理は広範囲の
地域にわたりしかも総べての堂塔の修理に及ぶもので、これで生き延びた寺院も多か
ったことでしょう。しかしどうして、豊臣家として財宝を蓄えておきたい時期に大き
な財政負担となる慶長大修理を実施したのか不可解です。慶長大修理は徳川家康の策
略によるものかそれとも仏教界を味方に付けるためだったのでしょうか。 

 江戸時代、「桂昌院」による大修理は元禄五年(1692)より宝永四年(1707)の15年間と
いう長期の工事でした。特に、五重塔の修理には力を入れ、後述の新造された路盤に
は徳川家の家紋の葵文を入れております。  

 明治の「廃仏毀釈」では南大門左右の築地塀を取り壊し、田畑の土に利用しようとす
る問題が起き、なんとか回避されましたが、回廊内に牛馬をつないだりやりたい放題
の暴挙が起こったとのことです。当時は名刹寺院でも無住となったりしており法隆寺
でも寺僧は数名だったらしいです。その僅かな人間で建物、仏像が文化財として注目
されておらずしかも寄進する檀家も居ない中でよくぞ守られたものだと感心いたしま
す。古都奈良の大寺は葬儀に関与しませんので檀家が居なく寺の維持には大変な労苦
が連綿と続いたことでしょう。それと、奈良の古代寺院の末寺は限られた数しか存在
いたしません。

 昭和の大修理(1933〜1953)は20年にも及ぶ大工事で、当初の近い姿に復元できまし
た。 

 昭和25年、聖徳宗の総本山となります。昔、約12万坪あった寺域が激減いたしまし
たがそれでも現在、約57000坪(約187000u)を擁しております    

 平成5年12月11日「世界文化遺産」に登録。その日は私が一人で法隆寺ボランティア
ガイドを開始した日でもありました。そのガイド活動も12年半の昨年5月で終わりま
したが無我夢中のボランティアガイドでしただけに私に取りましては思い出尽きない
第二の故郷・法隆寺であります。

 ここは参道の始まりではな
く、国道建設で分断されてお
ります。後を振り返ってみて
ください。まだ参道の続きが
ありますから。
 並松(なんまつ)といわれる
松の老木のトンネル道を法隆
寺文化に思いをはせながら歩
いていきますと飛鳥時代へと
タイムスリップいたします。
しかし、残念なことにこの並
松の両側にある歩道を利用さ

れる方が大多数で、松並木の間の砂利道を通られる方は極少数です。
  手前の道路は「国道25号線」です。

 


   昔の南大門前


        現在の南大門前

 数年前までは法隆寺参道(青矢印)はたったの1本でした。この参道で事足りたのは
法隆寺には檀家が居ないので参詣者も限られていたからでしょう。ところが時代が変
わり多くの人が訪れるようになり観光シーズンは大変な人混みでした。それが現在で
は青矢印の昔のメイン参道より拡幅のある新参道が左右に2本ずつの計4本が増設さ
れ、南大門前の混雑は解消されました。それよりも世界の法隆寺に相応しい玄関前と
なり南大門が遠くからでも眺められるようになりましたことは幸せなことです。


            南 大 門 前 

 整備されてからの南大門前での記念撮影が多くなりました。また、バスガイドによ
る修学旅行生たちに後述する「鯛石」の説明が始まりました。それ以前はこれが鯛石で
すの一言で通り過ぎておりました。ただ、ガイドの多くは鯛石を踏むと水難に遭わな
いという説明をしており、そういう説もあるのかと聞いておりました。

 

     

  
         鯛  石

 南大門の前に「鯛石」があり「法隆寺
の七不思議」の一つであります。
 大和盆地が洪水で水浸しになっても
その水は南大門から越えて境内に入る
ことは無かったので記念に鯛の形(?)
をした石を設置したとのことです。
 太古の大和盆地は大湖で、史実に現

れる我が国最古の道は「山の辺の道」というように道は山の裾すなわち湖岸にしかでき
なかったというくらい大きな湖でした。そのため、大和盆地の軟弱な地盤上に造立さ
れた古代の建物の多くは地盤沈下しておりますが法隆寺の建造物は少しも沈下してお
らないことから法隆寺の建設地
に良い場所を選ばれた聖徳太子の遺徳を称えて作られ
た話ではないでしょうか。それとも、法隆寺の近くを流れる大和川は水運が盛んなく
らい水量が豊富なのに堤防が不完全なものだったため洪水が発生すれば南大門まで水
が押し寄せてきたのでしょうか。

 

 


       南 大 門(遠くに見える建物は中門です)

 「南大門」は中門前の階段の辺りにありましたが平安時代に移築されました。古代の
寺院では東大寺を除いて南大門と中門は接近して建てられておりました。良い例が
薬師寺」であります。
 天平時代までは南大門より中門の方が立派に造られました。天平時代からは南大門
の方が中門より豪華に建築されるようになります。法隆寺が天平時代創建なら南大門
は三間一戸ではなく五間三戸で設計されたことでしょう。 
 南大門は惜しいことに永享八年(1436)、学呂(がくりょう)と堂方(どうほう)の内部
抗争で焼失、永享十一年(1439)の再建で法隆寺の建築群では珍しく新しい室町時代の
復古建築です。現在は入母屋造ですが当初は切妻造でした。

 室町時代の復古建築でありますので頭貫の先には禅宗様の「木鼻」、中備に大仏様の
二斗が和様化された「花肘木」、妻飾は禅宗様の「虹梁大瓶束」が設けられております。
これらは当初の建築にはなかったものです。古代建築の特徴は装飾的なものを好まず
構造美を選んだのでありますが時代と共に装飾を好むようになり日本建築の特性であ
る簡素で装飾のない
和様にもワンポイントのマークとして木鼻、花肘木の装飾が取り
入れられました。時代は構造美より装飾美を選ぶように大きく変わりました。
 屋根の軒反りは中心からの微妙な反りでありますが両端では急に上げ禅宗様に近い
もので見事な曲線であります。両手を広げたような安定感のある優美な姿で皆さんを
迎えております。


          花 肘 木


      木 鼻

 大仏様(鎌倉時代)の「双斗(ふたつど・そうと)」
に装飾が加えられたのが「花肘木(はなひじき)」で、室町時代に目覚しい発達を遂げました。これは秀
逸な花肘木として知られております。

   「木鼻」は禅宗様の若葉のマ
 ークでデザイン的に優れたも
 のとして評価が高いものです。

  禅宗様の虹梁大瓶束式が和様の虹梁蟇股式と違うのは蟇股の代りに大瓶束(緑矢印)
を設けます。

  
         中  国     
       

     鳳凰(平等院)
 

 我が国古来の建築屋根は「萱葺」で装飾がなかったので東南アジアの寺院のように
屋根飾りを設けなかったのでしょう。屋根飾りを強いてあげれば
10円銅貨でお馴染
みの平等院の鳳凰であります。
 建物の概観は直線で構成されており一部に曲線を使用する程度で、屋根の軒反り
は心反りとはいえ殆ど直線に見え、大変骨の折れる僅かな曲線を演出しております。


     鬼瓦(雄鬼)


    鬼瓦(雌鬼)


    鬼瓦(大宝蔵院)

 右の「鬼瓦」は法隆寺若草伽藍から発掘された鬼瓦の模作です。現在「大宝蔵院百済
観音堂」の屋根に据えられております。 
 
仏教建築と共に請来致したしました「鴟尾(しび)」「鯱(しゃち)」などは我が国では何
故か好まれずしかも中国のような屋根飾りにも振り向きもせず我が国は「鬼瓦一辺倒」
であります。その鬼瓦も法隆寺の若草伽藍から出土した鬼瓦のように八葉蓮華の美し
い文様であり呼称も鬼瓦ではありませんでした。それが、獣面文となり牙が出て角が
出て参ります。
 南大門の鬼瓦は、「雌鬼瓦」は「雄鬼瓦」よりも角が短いですが常に友達とおしゃべり
をしたり旦那に愚痴を言ったりしておりますので開口です。一方、雄鬼瓦の方は上役
から攻められ部下からは突き上げられストレスが高じて口を真一文字に結んでおりま
す。昨年のサラリーマン川柳に「妻の口 マナーモードに 切りかえたい」、「タバコよ
り 体に悪い 妻のグチ」というのがありましたがこれらは法隆寺に興味を示されない
奥さんたちの話でしょう。雄雌といえば「鳳凰」がそうであり、鳳凰といえば先程の平
等院であります。そこで、どちらが雄でどちらが雌かを平等院のホームぺージで調べ
ましたら「鳳凰は、鳳という雄と凰という雌のつがいを云いますが、平等院は区別が
ありません」となっておりました。我が国では1羽でも鳳凰と言います。


 額縁の中の絵のような風景ですが早朝で
ないと人が多くて撮影できません。

  

    
          築 地 塀

 古代の塀は「版築」技法で壁面をきれ
いに仕上げました。
 版築とは粘土を棒で突き固める方式
で、版築の回数が塀に境界線として残
っており、近寄って見れば確認できま
す。
 後の時代には土の中に瓦などを入れ
るようになります。 
 築地塀の下部の厚さは1m50cmもあ
ります。木目が表れるように枠板の表
面に工夫がしてあります。
 今では考えられませんが、法隆寺の
築地塀が細かく砕かれて田畑の土に利
用されかかったことがあるそうです。

 

 


          上 土 門 

 「上土門(あげつちもん)」とは屋根の
平面な板上に土で屋根の形を造り、そ
の土屋根に花などを植えた風流な門で
平安時代には多く見られたらしいです 。
 当然、「築地塀」も同じような形で土
屋根には花が咲き乱れていたことでし
ょう。
 上土門は移設されて「寺務門」として
使われておりますが、上部の土は取り
除かれて桧皮葺となっております。現
在、上土門とはなっておりませんが唯
一の遺構です。
 ただ、江戸時代の再建時から桧皮葺
だったとの説もあります。

 

 中央に中門、右には金堂、左には五重塔がありそれらが松の古木に溶け込んだ素晴
らしい眺めです。皆さん、最高の構図をバックに幸せそうな顔をして記念撮影をされ
てお ります。右手の老松の奥にかすかに覗く金堂、正面の中門、五重塔と1300年余
り前の建築で三棟とも国宝指定と言う大変贅沢な眺望で、日々の疲れが癒されます。
正面の階段を登りきった所に平安時代まで南大門がありましたが今となっては現状の
伽藍配置の方が最高で、国宝の三棟をバックにした記念撮影が出来るのは法隆寺だけ
です。
 最近、斑鳩町で合併問題が起きましたが圧倒的大差で否決されました。歴史に刻ん
だ深い地名を無くすことは忍びなかったのでしょう。古色蒼然の風情が色濃く残るこ
のような風景を斑鳩の風景と言えるでしょう。  
 手前に見えます南大門からの石畳の石は昭和60年に中国から輸入して設置されたも
のです。

 

  
             中  門

 「中門(ちゅうもん)」は
普通、間口(桁行)の柱が
建屋の中間にこないよう
に柱間を奇数にするのに
4間と言う偶数で、また、
奥行(梁行)は2間の偶数
が通例でありますのに3
間の奇数になっておりま
す異例の門です。それだ
けでなく、「怨霊封じの
門」、「聖徳太子が子孫を
好まないための門」、「金
剛界・胎蔵界の門」とか
逸話に事欠かない門とし
て有名です。私は金堂と

塔が対等の位置付けとなり、そこで金堂への出入口、塔への出入り口として設けられ
たと考えます。
 中門は細部彫刻を一切施さず構造自体で美を表している格調高い建物となっており
白眉の門と言えるでしょう。軒反りが小さく両端で少し上がった優美な屋根は最高に
見栄えがするものです。威風堂々たる門前で記念撮影をされる方が多いのも当然であ
りましょう。
 4間の柱間は高麗尺(飛鳥尺)で7尺、10尺、10尺、7尺です。これは、ほぼ脇間×
1.5が中の間となり中国の建築様式ですが我が国では中の間から脇間にかけては徐々
に逓減するのが好まれるようになります。しかし、鎌倉時代になりますと中国との国
交が回復し請来しました禅宗様建築様式は脇間×1.5は中の間というようになってお
ります。 




     隅 木


   平行垂木・一軒


  扇垂木・一軒

 中の間に比べ脇間が極端に狭くなっているのは荷重の掛かる隅をたった隅木一本で
支持するのに無理があるからでしょう。屋根を支えるのは垂木であり飛鳥時代は扇垂
木であるのに我が国では写真のように隅部分では効果がない平行垂木に変わるのであ
ります。大きな荷重の掛かる隅屋根の補強対策と中の間から脇の間へ柱間の逓減率を
小さくするため、緑枠から一方、それから90度向こうにさらに一方の隅木、すなわち、
90度の間に三方の隅木が出る技法が周知であるのになぜ法隆寺再建では採用されなか
ったのか不思議です。ということは、唐の新建築様式ではなく聖徳太子を偲んで古い
飛鳥建築様式で再建されたということになります。我が国では天平時代を始め平安時
代の建築は殆どが平行垂木で造立されております。  
 ただ、中国では扇垂木を使用しているのに中の間に比べ脇間を極端に狭くするのは
建物の間口を広く見せようとする視覚上の問題でしょうか。  

雲斗雲肘木、卍崩しの高欄、人字形割束については金堂のところで説明いたします。


     皿  斗(法隆寺)

 法隆寺では「皿斗(赤矢印)」付きは大斗だけで
すが四天王寺では大斗と小斗まで付いておりま
す。
 皿斗は法隆寺系の寺院に限られますが鎌倉時
代に入ると大仏様・禅宗様の建築に出てまいり
ます。ただ、この皿斗と大仏様・禅宗様の皿斗
とは同じものではないとの説もあります。
 皿斗とは柱と大斗の間に挟む四角形の厚板で

大斗が柱に食い込むのを防ぐ効果的な技法であり、中国では続きますが我が国では間
もなく姿を消します。皿斗を
使わないようになると我が国では大斗には桧より硬い欅
を使用して解決させております。

 
   エンタシスの柱

 拝観入口から中門に向かうとエンタシスの柱が目に
飛び込んできます。
  エンタシスの柱ですが、ギリシャのエンタシスとは
少し違います。エンタシスとは柱の下部から上部に向
けて少しずつ細くなるか、または同寸円で上がってい
き、途中から少しずつ細くなるかであります。一方、
法隆寺のエンタシスは、柱の上部が一番細く、下部か
ら三分の一くらい上がったところ(赤矢印)が一番太く
なっております。ですから、徳利柱、胴張と言えそう
です。その割合は柱で一番細くする上部を1とすると
一番太い部分との比は、
金堂が1.30、中門が1.25とな
っております。
 エンタシスは我が国では法隆寺系寺院建築で終わり
告げ、後の時代はエンタシスらしきものだけですが韓

国では続きます。
 柱は桧材を縦に四分割した四分の一から製造します。そのため、割裂材でしかも真
っ直ぐな木でないと駄目という厳しい条件があります。その条件を満たした二度と得
られないような巨大な良木をわざわざ手間を掛けてエンタシスに加工した理由はなん
だったのか疑問が残ります。同心円の柱であれば目の錯覚で柱の中ほどが細く見える
のを補正するためとの説がありますがそれならばエンタシスに加工せずに太いまま使
用すればよいのにと思いますがいずれにしてもこのような贅沢な柱があるのは法隆寺
だけです。 
 柱を見れば分かるように割った木ですから表面にきれいな柾目が出ております。
 針葉樹の桧、杉などは建築の材料としては最適でこれら良材がふんだんに得られる
我が国では素木そのものが装飾材であります。しかし、良材の得られない地域では柱
などの建築部材に彫刻や彩色をして不味い箇所を補います。
 
  貫といえば古代の頭貫だけでは構造上問題があるので慶長の大修理で飛貫(青矢印)
を増設し補強工事を行いました。飛貫を入れましたので古代に強調されたすっきりし
た縦の線が害されましたがそのお陰で現在まで持ち応えたといえます。 
 我が国では中門のように単純な構造美から楼門のように複雑な構造美が好まれるよ
うになっていきます。 


 礎石(中国・紫禁城)


     礎石(韓国)


    礎石(山田寺跡)

 中国には天の象徴が丸、地の象徴は角と言う「天円地方」の思想がありました。そこ
で、謂れに従って天に通ずる柱は丸とし、地に密着した礎石は角とする「円柱方礎」が
起こりました。我が国では、柱は丸が圧倒的ですが礎石は角にとらわれず適当な自然
石が用いられたりもしました。
 モニュメントは洋の東西を問わず、一般的に丸柱ですが地域の事情によって材質が
違います。
 礎石に蓮座を刻んだものが請来しましたが好まなかったのか余り見かけません。山
田寺跡には複元された蓮座付き礎石があります。鎌倉時代の禅宗様寺院で見ることが
出来ます。


       鯛石(南大門)


          礎 石

 礎石は自然石そのものですが、どこか「鯛石」に似ていますね。法隆寺を訪ねられ
ましたら是非探して見てください。


    吽 形 像


   阿 形 像  

 「仁王像」は現存最古でしかも天平時代唯一の遺構です。ただ、後世の補修に於いて
塑土で塗り重ねていった結果肥満体となったらしく残念ながら国宝ではなく重要文化
財に留まっております。しかし、塑像でありながら1300年もの長き間、雨風による損
傷が免れることの出来ない正面の南向きのまま安置されていたことは驚きそのもので
す。今日まで多少姿態が当初より変わっているかにせよ維持できたことは凄いことで、
悠久の昔から現在まで、自然との闘いでの補修は並大抵のことではなかったと考えら
れます。しかしそれが逆に功を奏したのか、阿形像は現在の体型の方が量感で圧倒さ
れる迫力があり猛々しい武将像に相応しい威容となっております。また、吽形像の殆
どが木彫に変わっておりますがその改変で阿形像よりも当初の姿を留めております。

 金剛力士像は金剛杵を持っていなければならないのに本像は両像共素手の像である
ことから仁王像と称した方が適当といえるでしょう。
 仁王像は左手を握って怒りにふるえる拳を作り、右手は通例、金剛杵を執るか五指
を大きく開いておりますがどちらかといえば金剛杵を持つ方が多く造られております。
 両像の特徴は左手が拳を作り右手は五指が思い切り開くというポーズでこれは仏敵
を威嚇しながらの戦闘態勢で、非の打ちどころもないバランスが取れたデザインは仏
師の創意工夫でありましょう。
 腰を思い切り横に引いた姿勢を表現しております。東大寺南大門の吽形像も凄いと
思いましたがそれにも負けないくらい大きく腰を引いており躍動感に溢れております。
法隆寺で是非確認して見てください。制作が711年の天平初期と言えば直立不動で動
勢が乏しい様相が好まれた時代の筈なのに流行に逆らってまでこれだけ思い切った斬
新なスタイルを考え出した若々しいパイオニア魂を持った仏師が居たことは驚きであ
りますが、そのような鬼才が誕生した背景には、仏師が自由な創意にまかせて制作に
打ち込めた、仏師にとっては最高に恵まれた良き天平時代だったからでしょう。

  「阿形像」のかっと見開く眼の視線ははるか彼方とはいきませんが少し離れた場所に
あり吽形像は後世の改変かもしれませんが足元近くに視線があるように見えます。両
像で遠近の見張りを分担しているのでしょう。
 「吽形像」の右手の掌を外側に向ければ後世の一般的な仁王像のスタイルとなります
が掌を外に向けるよりは下に向けた方が相手に恐怖感を抱かせることになり演出効果
満点ではないでしょうか。肉身は朱色(肌色)だったのが黒色になっておりますのは後
世の補彩です。 

 多くの寺院では二王像の前にネットが張ってありますがこれは鳩の糞害に憤慨した
のと、ちぎった紙を口で噛み紙団子にしたものを身体でもっと丈夫にしたい部位とか
患部に当たる部位をめがけて投げつけその目標の部位に当たりくっつければご利益が
期待できるという俗信のためこの紙爆弾の被害が像に悪い結果をもたらすからです。
最近ではチューインガムの方が性質が悪いらしいです。法隆寺像にはネットを設けて
おりませんので二王像の表面は防護材料で処理されております。正面向きでネットを
張られていない巨像をバックにする記念撮影には絶好の場所と言えるでしょう。

 「塑像」の技法については後述いたしますが大型の塑像を制作する場合「木舞(こま
い)」の技法で竹、薄板などで像の大まかな形を造りその上に粘土を塗っていきます。
この方法であれば像内が空洞となり重量が軽くなるだけでなく早く土が乾く利点があ
ります。

 


       日本最初の世界文化遺産
         法 隆 寺
             平山郁夫 書


         露盤(相輪)     

 中門の左横に世界遺産登録の記念碑があります。この場所で五重塔を見上げてくだ
さい。写真のように五重塔の「相輪」がよく見えます。回廊内からでは逆光となり見ず
らくなります。
 桂昌院の元禄の修理で家紋入りの露盤に取り替えられております。通常徳川家の家
紋「三つ葉葵(緑矢印)」と桂昌院の実家・本庄家の家紋「九目結紋」が並んでおりますの
に露盤には三つ葉葵だけしかありません。江戸時代といえば塔は完全なアクセサリー
となっておりましたが法隆寺造営当時は塔は金堂と並んで最高の礼拝対象でもありま
したから恐れ多いと言うことで桂昌院は九目結紋の表現を遠慮されたのでしょう。

 九輪にある「鎌(赤矢印)」は高層建築物の大敵である「雷」を魔物と考えて雷よけとし
て設けられたのではないかと言われておりますが事実かどうかは定かでありません。


    拝観入口

 拝観料はたったの1000円です。私は1万円でも価値
があると思っております。しかし、ある時数人の方が
来られ拝観料1000円も取るのかといって帰っていかれ
ました。多分、法隆寺を凄いお寺ではなく普通のお寺
と言う認識しか持っておられなかったのでしょう。
 余談ですがガイド当初は西院、宝蔵殿、夢殿と三ヶ
所でチケットを見せていたのですがもし、夢殿まで行
ってチケットを紛失していると拝観入口のチケット売
り場まで戻らなければなりませんでしたが現在は夢殿
で200円払えば入れていただけます。

 ガイドの際紛失され
て夢殿から参拝券を買
いに戻られないように
予備に持っていた券です。当時の参拝券は現
在の大宝蔵院ではなく
大宝蔵殿となっており
ます。

 

 



     西 室


  西室        三 経 院

 「三経院(さんぎょういん)・西室(にしむろ)」は西回廊から離れたところに建ってお
りますが当初は西回廊に近接した場所に建っていたことでしょう。
 三経院の出入口は現在、南側ですが西室当時の出入口は研修会場・大講堂へ通うた
め東側だったのでしょう。
 法華経、勝鬘経、維摩経の三経の解説を行ったので三経院と呼ばれております。
 奥行(桁行)は十九間で東室より一間長いです。三経院には南側の七間を使い残りの
十二間を西室としております。西室は焼失後の再建であります。 

 


      休憩所(三経院の斜め前)

 


  丸瓦の文様には、徳川家の家紋
「三つ葉葵」がなく桂昌院の実家・
本庄家の家紋「九目結紋」だけです。
 場所は前述の西室の赤矢印の所に
ありますのでご覧ください。

 


      西円堂


      大和盆地


  金堂 五重塔

 三経院の左側を少し歩き石段を登ると八角の「西円堂」に到着です。この辺りは法隆
寺では一番の高台にあり眼下に広がる大和盆地が遠望できる唯一の場所といえます。
ここまで来られる方は少なく法隆寺では珍しく静かな場所です。五重塔、金堂の眺め
も申し分なしです。  

 

 


        西 円 堂



 円堂  向拝
  取り合い部分

 「西円堂(さいえんどう)」は天平時代に光明皇后の母君である橘夫人の発願で行基が
建立されましたが強風で倒壊、鎌倉時代に再建されました。
 創建当初は向拝はなく夢殿のような八角円堂でありましたが後に付加されたもので
す。向拝があれば鎌倉以降の建築と言えます。創建当時の思想を重んじて円堂と向拝
は一つの建物とはせず西円堂の屋根下に別の建物の向背を潜り込ませた構造となって
おります。向拝の上にかすかに見えるのは五重塔の相輪です。
 宝珠露盤は簡素なものです。 
 西円堂は法隆寺では庶民信仰の盛んな所だったようですが現在、ここまで訪れる人
は疎らであります。   

    
         薬師如来像
   
     耳の病気が治る錐です。

 「薬師如来像」をお祀りする西円堂は
鎌倉時代の再建ですが本尊の薬師如来
像は天平時代の脱活乾漆像です。

 頭光背と身光背の二重円相光背で千
仏と七仏薬師が施されております。台
座は八角円堂に相応しく八脚付きの八
角の裳懸座です。
 肉髻も大きく、顔付きも厳しく見え
るのと薬師如来でもあるので次代の弘
仁・貞観時代に主流だった薬師如来の
前触れでしょうか。次代には薬壷を左
手で捧げるのが一般的となりますこと
から、ひょっとすると、与願印の手の
掌に薬壷を流行にあわせて載せられた
かもしれません。天平時代の本尊では
薬壷はなかったと思われます 。
 耳の病気を治す医師・薬師如来とい

うことで写真の錐を耳に当てお祈りいたしますと耳の病が治るそうです。錐を買い求
める方だけでなく錐を奉納する方もおられます。
  総合治療の薬師さんですがさらに、耳鼻科の専門医まで昇格されました。
 少し高台にありますから「峯の薬師」とも呼ばれております。27段の階段上で峯では
可笑しいが丘の薬師では語呂が悪いので峯の薬師とされたのでしょう。それと、
峯の薬師といえば、全国彼方此方にありますので。聖徳太子は耳の付くお名前が多く、
多数の人間が一度に喋る内容が聞き分けられたという伝説に基づいて、西円堂の錐で
耳を突くとよく聞こえるようになるとの言い伝えが出来たのではないでしょうか。
 当時の実力者橘夫人の発願ゆえ制作費の掛かる脱活乾漆造の丈六像が造像されたの
でしょう。 

 


          時 の 鐘

  「時の鐘」は明治22年造立で西円堂の東側にあ
ります。この鐘の音が有名な正岡子規の「柿くへ
ば 鐘が鳴るなり 法隆寺」のものです。子規の
鐘の音は鐘楼の鐘の音ではありません。 
 時の鐘は字の如く時を知らす鐘で、最初は8時
の鐘で法隆寺の一日が始まります。それ以後2時
間おきに時間の数だけ衝かれます。これは昔の一
刻(いっとき・一時)の2時間を意味するのでしょ
う。8時は鐘が8回、次の10時では鐘が10回衝か
れ、12時、2時、4時の計5回衝けば終わりです。
昔は1時間は半時(はんとき)、30分は四半時(し
はんとき)と言いました。

 


           金  堂 

  「金堂」は世界最古の木造建造物として世界的に有名です。
 彩色豊かに彩られた中国の建物に金色に輝くインドの神様が安置されているのを見
て古代人はど肝を抜くと同時に異国への憧れを持ったことでしょう。仏教伝来は高度
な文化の伝来でもありましたから。  

 金堂は回廊内の何処からでも眺められることを考えてほぼ正方形の建物となってお
ります。時代と共に横長、縦長の建造物に変わっていきますが鎌倉時代に伝わった禅
宗様の仏殿は正方形であります。

 金堂の2階部分は木組みだけで居住空間にはなっておりません。なぜ、2階建てに
したのかといいますと五重塔との釣り合いを考えてのことで平屋(単層)建ての建物で
は余りにも金堂が貧弱に見えるからです。天平時代になると塔が回廊外に移されます
ので金堂(本堂)は五重塔との釣り合いを考えなくてもよくなり平屋の金堂(本堂)も出
てまいります。金堂(高さ16.0m)は五重塔(塔高31.5m)の半分の高さであります。 

 下層の正面(桁行)が五間であるのに上層が四間とは異例であります。なぜならば、
下層が五間であれば上層は柱間を縮めて五間を維持します。中門は下層の桁行が四間
ですので上層も四間となっておりますのでご確認ください。

 「柱」は太い円柱で、柱の太さが中央の柱間の一割九分もあり一割二分が通例なのに
比べ相当太くなっております。それは、強度計算などの技術や「貫」などの技法がなか
ったため必要以上に太い材料が使用されたのでしょう。その結果雄姿を留めることが
出来、今に伝えております。例えば、唐招提寺金堂の場合中の間は16尺でありますの
で16×0.12=1.92(尺)となり柱は太いところで2尺弱となっております。
 西欧の石造建築に比べ地震が多い我が国では地震の揺れを吸収出来る木造建築が適
しております。今でも中国や韓国の建築中の建物を見て驚かされるのは、我が国に比
べて鉄骨の細いことです。それだけに、地震が少ない中国の建築様式の 完全な模倣は、
我が国の事情に合わなかったと言えます 。
 「五重塔」は台風で倒壊することはありましたが地震での倒壊は皆無に等しかったで
す。それだけに、諸外国の建築が鉱物性の材料を使用したのに、我が国では木造建築
主義に徹しました。木造文化である我が国で中国の宮殿建築の木造部分の基本だけを
真似て堂塔を建設したのは当然と言えましょう。明治には西欧風の煉瓦作りの建物が
出来ましたが地震で多くの煉瓦造の建物が倒壊しましたので、我が国には不向きとい
うことで廃れてしまいました。

 中門と同じように中央(三間)の幅と脇間の幅の比率は1.5対1となっておりますのは
中国の建築様式の踏襲ですが我が国ではこの逓減比率が小さくなっていきます。しか
し、鎌倉時代に請来しました中国様式の禅宗様寺院は1.5対1の比率になっております。
寺院建築−禅宗様」をご参照ください。

  大きな荷重が掛かる隅屋根を支える隅木が、斜め45度一方向しか出ていないので屋
根の垂れるのを補強するため早くに支柱を設けました。その支柱を利用して「裳階(も
こし)」が考え出されたのでありましょう。それゆえ、付属的な建物である裳階の柱は
丸柱ではなく角柱であります。  
 法要の儀式を金堂の前庭で執り行う「庭儀(後述)」 は雨の多い我が国では不都合で、
簡単な法要は前庭ではなく屋根のあるところでやりたいという願望からその場所の確
保のための裳階だという説とアジャンター石窟の壁画に並ぶ金堂内壁画を雨風から保
護するための裳階と言う説があります。我々は金堂の尊像を裳階内で礼拝いたします。
 二階部分の昇り龍、降り龍の付いた支柱も同じ補強目的で設けられました。 
 中国は雨風の対策を壁の素材を「塼(せん)」などの使用で解決できており、雨風が吹
き付けても支障がありませんので軒の出が小さくしかも軒の両端では大きく反り上が
る屋根となっております。それに比べ我が国では深い屋根、屋根の反りは殆ど無く穏
やかな建物とならざるを得ません。 

 裳階が最初から計画されておりましたらエンタシスの柱にしなかったと思われます。
ただ、理解しづらいことは金堂のエンタシスは建築途中か後に円柱をエンタシスに加
工処理されたということです。

 金堂の扉は 内面の昭和火災の際炎で焼け焦げて炭化した表面を掻き落として、2枚
の扉を1枚の扉に加工処理して西面、北面に嵌め込まれております。木目の綺麗な板
で現在では手に入れることが出来ない柾目の桧板です。西面でご確認ください。

 本尊が薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来の三如来でこれらは過去の薬師、現世の釈
迦、来世の阿弥陀であり過去、現在、未来の「三世仏(さんぜぶつ)」であります。 

 金堂は大型の厨子ですから後世のように窓は設けられておりません。寺僧といえど
も堂内には立ち入ることは出来ませんでしたが平安時代ともなると吉祥悔過などが堂
内で執り行われようになりました。窓、間斗束がないだけに簡素な建物となっており
ます。   


        金  堂(裳階付) 

  金堂(四天王寺)(錣葺屋根)(裳階なし)

 我が国の古代建築で、真屋(まや)と言われるのは、宮廷、神社建築で採用されまし
た「切妻造」のことで「寄棟造」は卑しい建築と言われておりました。一方、中国ではそ
の逆で、寺院での重要な堂宇は寄棟造となっておりました。我が国の寺院でも最初は
重要な堂宇は寄棟造でしたが屋根に変化がある「入母屋造」の方が好まれるようになっ
ていきます。今では、神社の一部には「入母屋造」があります。
 後述の「玉虫厨子」が「錣葺屋根(しころぶきやね)」であるように金堂も錣葺屋根だっ
たとも言われております。入母屋造で造立されておりますが錣葺屋根
を意識したのか
上層屋根の中間から錣葺屋根のように大きく反り上がっております。(錣葺屋根につ
いては玉虫厨子で。)
 稚児棟が設けられておりません。大棟には「鴟尾」でなく「鬼瓦」が乗っておりますが
創建当時は鴟尾だったことでしょう。

 
       二重基壇

 「基壇」とは基礎となる壇で、寺院建築では基壇をし
っかり造ることが大切でした。と言いますのも、我が
国の古代建築様式であった掘立柱方式では、柱が地面
と接するところで酸素と水分によって腐食が進み、20
年くらいで建て替えますが、寺院建築は長期保存を目
標としたからです。とはいえ、造成が大変で、昔、我
が国の多くの平野部が、湖 や海だったため地盤が軟
弱で悪く、このことは、古都奈良も例外ではありませ
んでした。我が大阪も上町台地以外は海だったのか、
ある時、ボーリング調査をやったところ貝殻が多く出
たのを覚えております。 

  法隆寺の基壇の造り方は、建物の底面積より大きめに、硬い地層の地山土(層)まで
掘り、その掘った窪地に他の場所から持ってきた地山土を、版築を繰り返しながら埋
め戻します。さらに地表から高さ1.5bまで地山土を版築で層状に積み固めた後、建
物に必要な底面積分だけを切り取り整地、整形しました。基壇の高さが1.5bもある
のは湿気から建物を守るだけではなくその昔、豪族たちが高床式に住んでいましたよ
うに威厳を保つ目的もあったことでしょう。余談ですが、高床から土間に伏す臣下を
見下したので目線の位置から下が目下その逆が目上と言う言葉が生まれたのでありま
す。
 次に、基壇を壇上積で仕上げます。その際使用された石は「凝灰岩」が多く、加工性
は良いのですが耐久性に問題があり後の時代には「花崗岩」で復元されております。そ
の凝灰岩は装飾し易かったにもかかわらず、材料の石材には興味がなかったのか他の
国のように装飾は施されていません。明日香の地には花崗岩の石造物が多いですが花
崗岩の加工は大変な手間を要しましたので「二上山」から産出する凝灰岩の使用が多く
なっております。
 二重(二成)基壇は法隆寺の金堂、五重塔、夢殿、玉虫厨子だけです。 
 上層、下層ともに凝灰岩で築かれましたが江戸時代に下層は花崗岩でやり直しして
おります。凝灰岩は加工が容易 なだけに砕けやすかったからです。


  卍崩しの高欄・人字形割束・屋根蓋


     人字形蟇股・鴟尾(中国)


卍崩しの高欄・人字形割束(四天王寺)

  「高欄」は上層に取り付けるものですが金堂のは下層の屋根上に載っているという建
物の飾りとなっております。それと、高欄と建屋の間は人が入れないほど狭く後の時
代のように高欄に上がって絶景かな絶景かなとはいきません。それというのも、古代
ではメンテナンス等以外日常生活では上層に上がる習慣はありませんでしたので。
 「人字形割束」(青矢印)」は中国からの渡来で、故郷の中国では人字形割束の人字が
直線から曲線に変わるだけで、後世まで踏襲しました。
 木造では法隆寺の人字形割束が「東南アジア唯一の貴重な遺構」であり
中国では石窟
では残っていますが木造建築では残っておりません。法隆寺の人字形割束が「原始蟇
股」であると私は思っております。
  人字形割束の上部構造物は有名な「卍崩しの高欄(まんじくずしのこうらん)(緑矢
)」であります。
 
 堂内には階段を設けませんでしたが裳階が出来て階段は室内にあるように見えます。
その堂外の階段を上がると屋根で屋根蓋(赤矢印)を押し上げて屋根上に出てそこから
高欄を乗り越えて出入口(連子窓)から2階内部に入り点検などをいたします。階段は
東面にあります。


       雲 斗

        雲 肘 木

 エキゾチックな雲形組物は飛鳥時代の特徴で法隆寺、法起寺、法輪寺の法隆寺関係
でしかお目に掛かれません。
 雲斗、雲肘木の雲形とは、後世の命名でこの文様の意匠は古代の工匠が何をイメー
ジしたのか知るべきもなく皆さんで考えてみてください。当時の人が飛ぶことに憧れ
ていたものの「鳥」では意匠とし難いので「雲」にしたのでしょうか。蛇、龍との説もあ
ります。
雲斗は南大門の花肘木に似ていますが斗と肘木の違いがあります。
 中備がありませんが高欄の中備は人字形割束です。建物では中国は中備として人字
形割束が用いられましたが我が国では用いられませんでした。ただ、「大宝蔵院」では
用いられておりますのでご確認ください。  


扇垂木・一軒(四天王寺)


  平行垂木・一軒(法隆寺) 

地垂木・飛檐垂木の二軒

 屋根を支える垂木の構造は、中国、韓国では地垂木と飛檐垂木の「二軒(ふたのき)」
であるのに不思議なことに長い「一軒(ひとのき)」です。我が国では二軒を天平時代に
入ると採用しております。
 金堂は「入母屋造」で、垂木は平行式です。法隆寺より古い「四天王寺」が合理的な手
法である垂木を放射状に配列する中国式の扇垂木を用いておりましたのになぜ、平行
垂木なのか不思議であります。本瓦葺は
茅葺、草葺、藁葺に比べ屋根の重量が数倍重
くなるのに扇垂木にせず欠陥のある平行垂木を採用したのは日本人の律儀さがなせる
業で、平行式の整然としたところが好まれたからでしょう。それだけに平行垂木は和
様といえます。
 それと、垂木の加工手順は、
我が国では木材から角垂木に加工した後に丸垂木を造
り出すので角垂木の方が製作工程が少なく楽です。一方、中国、韓国は多少の曲がり
や太さの違いを気にすることなく自然の丸太をそのまま使いますので我が国とは逆で
丸垂木の製作の方が楽であります。玉虫厨子のような中国式の丸垂木の一軒が飛鳥時
代は主流だったのですが角垂木の使用は国風化の表れでしょう。金堂は深い軒で一本
の地垂木(じだるき)で、垂木が一段であるのを一軒といいます。 
  


   垂木先の透彫の装飾はなし 


 尾垂木の透彫の装飾


        邪鬼(西北)   


      邪鬼(東北)


       邪鬼(西北)   


        邪鬼(東北)

  西北、東北の邪鬼は「象」のようであり「獏」のようでもありいかなる聖獣をイメージ
して造られたのでしょうか。東南、南西の邪鬼も聖獣をイメージして造られたのでし
ょう。


   邪鬼(南西) 


           邪鬼(東南)

 2階建ての建物で1階の屋根に写真の
ように「置瓦(平瓦)」が積まれているのが
良く見られますが2階屋根の雨垂れ対策
です。「大工と雀は軒でなく」といわれる
ように昔の大工は軒の反りに異常な神経
を使っております。そのため、見事な軒
反りを汚すような樋を付けないのです。
樋が無いと2階屋根の雨垂れが1階の屋
根の平瓦に落ちそれが跳ねて平瓦と丸瓦
の隙間に入り雨漏りの原因となります。
ところが、写真のように置瓦を設置して

おくと2階屋根の雨垂れが1階の屋根の置瓦上に落ると跳ねて飛び散り雨漏りから開
放されます。ですから、置瓦があるところが2階の雨垂れの落ちる位置を表しており
ます。分かりやすく「雨受け瓦」とも呼ばれます。


     裳階の扉



     裳階の板葺屋根

 裳階の扉は当初のものと言われておりこの裳階の扉は一枚板に連子窓の連子子(格
子)を彫り込んであります。金堂のような一枚板の扉だったのを後から連子窓にした
のでしょう。道具のない時代に手間の掛かることをしており感心させられます。
 裳階の屋根は「板葺き」ですが飛鳥時代には宮廷建築の名称は地名を冠して付けるの
でありますが「大化の改新」が起きたといわれる「伝飛鳥板葺宮」だけは屋根材が、宮廷
建築の屋根は茅葺であったのに、高価で手間のかかる板材で珍しいかったため板葺屋
根が宮の名称となりましたのでしょう。板の製法は縦引き鋸がなく当時は大木を厚い
目に割りそれを槍鉋で仕上げるという手間が掛かっておりました。


    登り龍


   下り龍

 彫刻なしの支柱を龍の彫刻付の支柱に元禄の修理で取り替えました。昭和の大修
理の際龍の彫刻は外すかどうかの議論があったことでしょう。龍の彫刻に関しては
元禄以前という説もありますが私は龍といえば徳川家であり元禄の付加と考えてお
ります。


     礼拝石(法隆寺)

    転法輪印石(四天王寺)  

 当時、僧といえども金堂内に入堂することは許されませんでしたので金堂の前に設
置された「礼拝石」に座って本尊を拝むという法要が「堂」の前庭で行われたため「庭儀」
と言いました。法隆寺では庭儀用の礼拝石が五重塔と金堂の前庭にあります。明日香
に存在した寺院はどうであったかは分かりませんが「明日香のお話」での「山田寺」には
金堂の前に設置されていたことが発掘調査で判明しております。「四天王寺」では金堂
の前には礼拝石でなく「転法輪石」が据えられてあります。
 


     礼拝石(山田寺跡)

 山田寺跡の金堂の礼拝石は、完全な
形で発掘されその複製品が設置されて
おります。法隆寺と違うのは山田寺は
金堂に近接していることです。

 

 


        釈迦三尊像(法隆寺)
   「光背」は創像当時の想像図です。

 法隆寺の本尊「釈迦三尊像」は発願から
たった13ヶ月で完成させたという通常で
は考えることの出来ない話ですがそれを
可能にしたのは聖徳太子一族の結束でし
ょう。叔母に当たる「推古女帝」にお願い
し勅願で造像すればよいのにそれもせず
しかも急を要するのであればもう少し小
さい造型の仏像でよかったのにそれすら
しなかったのは太子一族の必死の思いが
あればこそでこの執念が不可能を可能に
したのでしょう。
  また、670年の落雷火災の際にも落雷
にあったのは五重塔であり仏殿に類焼す
るまで時間的余裕がありましたので持ち
出すことが出来たのでしょう。 
 
飛鳥時代は釈迦信仰の時代でした。
  「釈迦三尊」の「三尊」ですが真ん中の
主尊を「中尊」と言い両脇のお供を「脇侍
(わきじ)、脇士、挟侍、一生補処(いっ
しょうふしょ)」と言います。

 普通、釈迦の脇侍といえば普賢菩薩、文殊菩薩ですが釈迦三尊像の脇侍は薬王菩薩、
薬上菩薩と珍しい取り合わせです。脇侍と言っても水戸黄門の助さん、格さんではな
く脇侍は近い将来如来に昇格する可能性がある仏さんです。助さん、格さんはいくら
頑張っても殿様にはなれないでしょう。

  本像の奥行が扁平で背面の細工が省略されておりますのは摩崖仏の技法によるから
です。仏像は礼拝の対象であって鑑賞の対象ではありませんから正面からしか礼拝し
なかったので正面鑑賞性でよかったのではないでしょうか。右繞礼拝なら丸彫りの仏
像にしなければなりませんが。造像当時は堂外の前庭での礼拝で尊像は全然見えなか
ったのではないかと考えます。もし見えたとしても正面だけでそれゆえ、正面から眺
めて立体感が感じられるように裳懸がフレアスカートのように広がっておりますのと
脇侍も鰭状天衣といって裳裾が魚の鰭状の如く外側に大きく広がっております。これ
らは飛鳥時代の特徴であります。

  釈迦三尊像は一光三尊形式で本来は三尊が一つの光背に納まるものであり当時の光
背は想像図通りの絢爛、華麗なものであったと思われます


  釈迦如来坐像(賓陽中洞・中国)  

  本尊の様式の根源は釈迦如来像(賓陽中洞・
中国)だと言われておりました。
 インドの気候風土では耐えられない厚着で、
上半身に僧祗支を着けその胸元から結び目が見
え、下半身に裙を着けたうえに法衣を着ける中
国風の服装は賓陽中洞像と同じです。がしか
し、髪の毛はウェーブ状の髪型に対し本尊は螺
髪であります。これは賓陽中洞像は石像ゆえ螺
髪に出来なかったのでしょう。本尊の方が面長
です。眼は下瞼が直線で我が国では白鳳時代の
眼の形でありますのに対し本尊は人間本来の眼
に近い杏仁形(きょうにんけい)の眼であります。
杏仁とはあんずの種の硬い皮を除いた中身のこ
とです。中身が白い色ですのでその材料から作

られた杏仁豆腐は白い色としているのです。杏仁の現物は丸に近いもので如来の眼の
形から言えばアーモンド形と言う方が適切だったのに杏仁豆腐が中華料理のデザート
ゆえの命名でしょうか。仁とは本来杏の種の白い中身のことです。

 口は漫画チックに放物線を描くのに本尊は唇の両端が吊り上がったアルカイックス
マイルであります。左手の人差し指だけを伸ばしているのに対し本尊は人差し指と中
指を伸ばしております。本尊は裳懸座とで二等辺三角形を形成しているのに対し賓陽
中洞像は二等辺三角形となっておりません。二重宣字座は背が低いのに対し本尊のは
背の高い二重宣字座で図の下にさらに一重があります。本尊は衣の皺まで左右対称で
図案化されているのに対し賓陽中洞像は自然で写実的であります。以上のことから私
はこの賓陽中洞像を下敷きにしたのではないと思っております。  
 
賓陽中洞の釈迦如来の脇侍は「迦葉(向って右)」と「阿難(向って左)」です。

 脇侍ですが光背の銘文は「挟侍」としか書かれておりません。脇侍の名称は鎌倉時代
の薬王、薬上が初見であります。薬王、薬上の脇侍は興福寺の中金堂(現在は仮金堂)
にも安置されております。脇侍は両手の指に丸い物を挟んでおり、それを聖徳太子の
病気平癒を願って造像されたという経緯から薬と見たて薬王、薬上と命名したのでは
ないかと言う説があります。ところが、丸い物を舎利と見なされた方も居られます。
脇侍はU字形の扁平な造りであります。脇侍の両菩薩は丸い物を持っております手が
同じ形でありますことから左右対称にはなりえません。脇侍は詳細に拝見できません
が大宝蔵院の「菩薩立像」と良く似ておりますのでどうぞ。
 
  聖徳太子が関与する数少ない尊像で、光背裏に刻まれた貴重な願文(銘文)の内容で
すが、もし病気が平癒できなければ速やかに浄土に往生されますようにとのことです
が病気平癒どころか完成時にはもう既にお亡くなりになっておられました。それなら
ば浄土への往生だけでよいはずです。また、急がなければならない病気平癒の像であ
れば短期間で制作できる小型像でなければならないのになぜ太子の等身大の像を発願
されたのか分かりません。
 いずれにしても当初の完全な姿を今日まで伝える最古の仏像として著名です。 

 仏師の「止利仏師(鞍作止利)」は鞍作を職業にしておりました。なぜ馬の鞍作りの職
人が来日して、仏像を制作する仏師が来日しなかったのか、また止利仏師が仏像の研
究をしたとは思えず粉本でもあったのでしょうか。止利仏師は飛鳥時代の仏像制作に
大変貢献いたしましたが百済系渡来人の出世頭だった蘇我氏が
重用し庇護が厚かった
ので大化の改新で蘇我宗家が亡ぶと同時に止利仏師も蘇我氏と同じように歴史の舞台
から消えていきました。

 


     薬師如来坐像

 法隆寺の建立当初は用明天皇の病気平癒祈願の
寺院でありますゆえ薬師如来像が中央の間の本尊
だったことでしょう。
 推古15年(607)に造像されたと言うことですが
当時にはまだ薬師信仰が存在しなかったと思われ
ますが出来栄えが中央の間の本尊釈迦如来像より
優れておりますので疑問が起こります。造像に対
し后の間人皇后を差し置いて後の推古天皇とまだ
うら若い聖徳太子に命じられたとは不可解です。
後のことを考えて朝廷の繋がりを強調する為との
説がありますが推古皇女を立てなくても用明天皇
のための法隆寺ということで充分だと考えます。
 肉髻が可愛らしい剃髪となっておりますが螺髪
が脱落して剃髪になったのか真偽の程は分かりま
せん。
  裳懸座の広がりも釈迦像より小さくしかも二等
辺三角形とはなりえません。
 宝珠形光背は原則として菩薩が付けるものであ
ります。

 本像が完成した607年当時は、干支の表示のみで年号は使われておりませんから
「丁卯(ひのとう)」の年といっても607年ではなく一回りした(下った)667年かもしれま
せん。しかし、667年ならもう既に年号が用いられておりましたのでますます分から
なくなります。
 光背裏に刻まれた貴重な願文(銘文)の内容で、607年といえば聖徳太子は生存中な
のに「聖王」と呼ぶのはおかしいです。それと、釈迦如来像より丸みが加わっている穏
やかな感じになっておりますし釈迦像より写実に於いて一歩進んでおり鋳造技術の向
上も見られるので中の間の釈迦像をモデルにした模古作という説もあります。
 創建の旧本尊の代わりに改めて本像が造像された時にはもう既に中の間には釈迦像
がありましたので東側に安置せざるを得なくなり東方浄瑠璃世界の教主の薬師如来と
されたのでしょうか。本像は止利様式で制作されておりますから止利仏師が歴史上か
ら消える643年頃までには完成していたと思われますがそれならば法隆寺再建以前の
話となりなぜ、焼失以前に再像されたのか疑問であります。それと、用明天皇のため
の尊像にしては余りにも小型過ぎるような気がします。 
 脇侍とし安置されていた日光・月光菩薩像は大宝蔵院に展示されていることもあり
ますので注意してご覧ください。

 古代の寺院建立の発願は病気平癒が多く、国家鎮護の寺院建立は飛鳥時代にはあり
ませんでした。薬師如来を本尊として建立された寺院は個人の病気平癒を祈願したも
のが多く、例えば、「薬師寺の本尊薬師如来像」も後の持統天皇の病気平癒であります
し「新薬師寺の薬師如来像」も聖武天皇の眼病平癒を祈願して安置されたものでありま
す。
 願いもむなしく薬師如来の開眼供養することなく用明天皇は崩御されました。それ
ではなぜ、祈願を聞き入れて貰えなかった薬師如来を祀るのかと疑問が出て参ります。
薬師如来に現世と来世を祈願してお祀りされたのでしょうか。いずれにしても謎を秘
めた法隆寺です。 

 

  
    増長天像

  「四天王像」は我が国現存最古の遺構です。中世に橘寺より
移安されました。
  素材は飛鳥時代流行の「樟」であります。樟は仏教伝来以前
から神道で神木扱いされておりましたので神が宿る木から仏
教の仏像を彫るということは神仏習合の先駆けでしょう。
 くす(樟)はくすり(薬)からきていて何かの治療薬であった
のでしょう。樟といえば樟脳ですがそれはずっと後の発明で
す。
 止利様式の正面鑑賞性から脱皮して非止利様式の側面から
も鑑賞出来る二面性となり天衣が本尊の脇侍のように左右に
広がらず前方(青矢印)に跳ね上げております。
 「四天王寺」の本尊は四天王だったように古代は主役または
準主役でありました。その証に頭上には冑でなく大型の宝冠
が戴っており、また、邪鬼も手足には腕釧、臂釧、足釧の装
飾品で飾られており、後世のように虐待される邪鬼とはすご
い違いです。時代を経ると四天王寺の本尊も四天王から救世
観音と変わり、四天王は通例のガードマンに格下げとなって 

いきました。
 しかし、四天王はガードマンとなると動きのある姿となり多くの人から愛着をもた
れるようになりました。
 四天王像は短躯でずんぐりしておりますが甲は貴人の礼服のようで皮革製の甲で身
をかためているようにも見えずしかも荒々しい憤怒相ではありません。履いておりま
す沓は立派過ぎて動き回れるようなものではありません。ある方は本尊が静なら四天
王は動でなければならないのに四天王まで静で金堂内は静で占める空間だと言われて
おります。四天王像は四者で様相に違いがあるのが通例ですがほぼ同じスタイルの古
典的な像容で、四天王像は総べて直立不動で動きはありません。広目天以外の三天は
共に左手に(三叉)戟を持つという姿です。増長天の右手には宝剣を捧げております。
 正面鑑賞性から脱皮して側面からの鑑賞も意識しているのは東西南北に配置される
からでしょう。ただ、四天王は須弥壇の東西南北の守護神でありますが南の守護神た
る増長天が本尊の前に仁王立ちすれば本尊の姿を遮り不都合であるので時計回りに
45度ずらして配置されております。これは大相撲の4本柱も同じですが現在は柱が撤
去されその名残が青房、赤房・・であり、これも時計回りに45度ずれております。た
だし、須弥山の四天王はきちんと東西南北の門に配置されております。

 「四天王像」はインドで誕生した当時は憤
怒ではなく温和な顔付きのうえ華麗な装飾
を着けた貴人のようです。しかも甲冑を着
けないだけでなく「バールフト」の像にいた
っては武器すら手にせず合掌手の如くで守
護神らしくありません。
 バールフットの像には銘があり多聞天
(毘沙門天)となっております。邪鬼は蹲踞
の姿勢で法隆寺の邪鬼の源流といえるでし
ょう。
 法隆寺の邪鬼はご主人様の四天王がすら
りとしたプロポーションで直立して不動の
姿勢でいますので後世の邪鬼のように踏み
つけられて苦しみから逃れようと悶えてい
るのに比べ忠実な家来の如くおとなしく蹲
っております。蹲踞した邪鬼は大き過ぎる


   四天王像
  バールフト


     四天王像
   サーンチー

ぐらいの量感がありまるで台座のようにも見えます。
 どうして、こんなに行儀がよくおとなしいのかなぜ喜んで乗って貰っていると言う
方が適切な邪鬼像が考えられたのでしょうか。邪鬼の顔は後代の人間の幼児らしい顔
と違って犬、猿、牛のようなユーモラス顔でこの意表をついだアイディアは法隆寺だ
けでしかお目にかかれません。
  邪鬼は普通指が三本か潰れているのに当邪鬼だけは人間と同じように指が五本揃っ
ております。
 何かを握るような手付きで当初は三叉戟と何か仏具でも持たすつもりだったのが四
天王と邪鬼の制作工房が違ったためか大きくなり過ぎております。岩座は傑作と評さ
れるものですがちょっと見えずらいです。

   

 
   吉祥天像      毘沙門天像    

 平安時代から「吉祥悔過」が盛ん
に行われるようになり吉祥悔過の
仏として「吉祥天」と「毘沙門天」の
ご夫婦像が本尊の左右に増設され
ました。これは、経典による仏の
左に吉祥天女像、仏の右に多聞天
像を祀るとありますのを受け、釈
迦如来像の左右に安置されたので
しょう。
 現存最古のご夫婦像として著名
です。ただ、「吉祥悔過」の本尊は
吉祥天だけであると考えがちです
が毘沙門天も同じように祀られま
す。
 平安時代になると金堂において
吉祥悔過という行事が行われたこ
とは金堂内が開放されて僧が立ち
入ることが出来たと言うことであ

ります。  
  「毘沙門天像」は気品ある像容で漆箔、切金を多用しております。創像当初は邪鬼か
岩座に乗っていたことでしょう。四天王の多聞天が単独で祀られますと毘沙門天と呼
ばれます。
 平安時代から多聞天は左手で宝塔を捧げるようになりますが『陀羅尼集経』による
場合は宝塔を右手で捧げます。しかし、本像は『金光明最勝王経』の経典により造ら
れたものですから左手で宝塔を捧げなければならないのになぜ右手の宝塔となったの
かは分かりません。多聞天ではなく毘沙門天だからかまたは同じ金堂安置の飛鳥時代
の「四天王像」に合わせて古式に則り制作されたのでしょうか?
 楠木正成は信貴山の毘沙門天にお祈りして授かったので幼名を多聞丸と言います。
上杉謙信は毘沙門天の信仰が厚く軍旗には毘の一字を染め抜いております。
 「吉祥天像」は遣唐使廃止の伴う国風化の流れで藤原貴族の趣向を取り入れ、典雅に
して優美な像となっております。当時の貴族を魅了した理想の女性像だったことでし
ょう。現在も
彩色が残る均整の取れた美人像で見る人の心を魅了しております。左手
には「宝珠(青矢印)」が捧げられております。

 


  鐘楼前からですと均整のある
 五重塔を眺めることが出来ます。


       五 重 塔(南正面)

 「五重塔」は現存最古の塔で、塔高は31.5mです。
 塔内の「塔本四面具」が和銅四年(711)に完成したとの記録があり、当然五重塔はそ
れ以前に建立されていたことになります。
 間口(桁行)ですが初層の丁度半分が五層目(後述)というすこぶる安定感に富んだ見
栄えの良い塔となっております。中国の塔は展望台のようなものであり各階に仏像を
安置して上層階まで登るようになっておりますゆえ上層階のスペースも広くなければ
用途に叶いませんので塔は寸胴に近い形状となります。が、我が国では塔内は僧とい
えども立ち入ることは出来ませんので居住スペースを確保する必要がないため見栄え
の良い壮大な五重塔を作ることに専念いたしました。中国の塔は軒の出がありません
が我が国の塔は軒の出が大きいのが特徴でありどっしりとした安定感を醸し出してお
ります。
  塔高の約3分の2が塔身、約3分の1が相輪と見栄えの良い比率になっております
(後述)。 
 正面は撮影位置より下がれませんので仰ぎ見ることになり整った美しい姿とはいき
ませんが鐘楼前から見るのが最高な眺めとなります。ただ少し逆光になる恨みがあり
ます。

 心柱は地下約3mの掘立柱で心礎という礎石に載っております。当初は二本繋ぎで
ありましたのが三本、四本と修理によって繋ぎが増えました。
 最近(2001/02)、心柱の伐採年代が594年と発表され再建、非再建論争が再燃いたし
ました。本当に法隆寺は謎多きお寺です。
 心柱は相輪だけを支える部材であって塔の構造とは何ら関連がありません。心柱は
古代からの柱の信仰に関連あり象徴的なものですので、塔とは心柱を守る建物であっ
て五重塔でも三重塔でも構いませんが見栄えが良い建物でないと有難がられることが
なく礼拝の対象として相応しくありません。古代の我が国では舎利崇拝より塔崇拝の
方が好まれたのではないでしょうか。それというのも当時は土葬であって現在のよう
に遺骨を礼拝の対象には考えもしなかったと思われますが。 


    第三ストゥーパ(インド) 

  
       相 輪

 インドの「ストゥーパ」が我が国では「塔」となったと言われておりますが正式には
「相輪」というべきでしょう。その相輪(
ストゥーパ)だけを支える部材が心柱というこ
とになります。
 
相輪は下から箱型の基盤(基壇)、半円形の伏鉢(ふくはち)、四角形の平頭(びょう
ず・へいとう)、傘蓋(さんがい)、竜舎、宝珠となっております。インドの平頭であ
りますが我が国では薬師寺塔以外反花となっております。
 インドのストゥーパ(塔)の傘蓋は円錐形の傘状を象っており傘蓋といえるものであ
りますが我が国を見ると車輪形そのもので、ここから相輪、九輪という言葉が誕生し
たのでしょう。ですから我が国では傘蓋というには問題があり、傘蓋の部分を九輪と
呼べばわかりやすいのですが、当麻寺塔のように八輪という例外もあります。
 舎利の安置場所は通例「伏鉢内」でありますが平頭内におさめられる場合もあったよ
うであります。古代の我が国では舎利は塔の地下に安置されており法隆寺塔も同じで
あります。

   

  塔の柱間(柱と柱の間)は三間が通例です
が五重目だけは二間
という構造上の不利を
犯しており、そのため、五重目だけ三回の
修理を施しております。といいますのは、
五重目が二間であれば柱(赤矢印)から梁を
通そうと思っても心柱に当り通せない重大
な欠陥があるからです。そこで考えられる
ことは、三間にすると組物がごちゃごちゃ
と詰まり見栄えが悪くなるのを避けたから
でしょう。
 間口(桁行)は初重から五重目に上ってい
くにしたがって、1間で1支(垂木と垂木
の間隔寸法・写真参照)ずつ狭くなります。
3間ですから1層で計3支ずつ狭くなって
おります。ただし、五重目2間ですが3支
分狭くなっております。塔は通例3間四方
で脇の間より中の間の方が広いです。
 法隆寺の場合初層が7支、10支、7支で
足すと24支でこれは桁行が24支ということ
です。これが1層上がる度に3間ですから
3支ずつ狭くなります。5層目は3支、6
支、3支の12支となるところを半分に分け
て6支、6支の12支となっております。で
すから、初層(24支)の半分が五層目(12支)
で前述の
間口(桁行)が初層の丁度半分が五
層目ということです。

 桂昌院による元禄の修理で五重目の屋根を2.6尺(約80p)の嵩上げし屋根勾配を強
め露盤などを造り替えております。雨漏りで苦労したと思われるのに江戸時代の施工
とは遅いですが心柱の突く上げによる雨漏りがあったりして小さな補修に追われてい
て嵩上げどころではなかったのかも知れません。
 
 日本刀を同じ工法で造られた長期に耐えられる「釘」が使われておりますが本数はそ
んなに多くないです。余談ですが日本家屋の寿命は30とか40年とか言われているのは
釘の寿命から割り出したものとも言われております。ですから、古代の建築は最小限
の釘しか使わず木組を積み木のように組んでいきましたので長期に耐えるわけです。
それゆえ、古代の不動産は簡単にばらせますので移築が簡単でありますから不動産で
はなく動産と言うべきでしょう。
 「法起寺」は三重塔を東側に配置しているのは東上位の結果でしょう。法隆寺では五
重塔を西側に配置しているのは浄土思想の表れでしょう。 
 金堂と同じように塔の前庭にある礼拝石に座って舎利を拝みました。 

   
  相輪     水 煙       支 柱          

 

 

 

  四重目と五重目の間に
 蹲踞する生き物を彫刻し
 た支柱が入れてあります。


   邪鬼(西北) 


   邪鬼(東北)


  邪鬼(南西)

    邪鬼(東南) 

  建造物を支えるのはカンダーラでは西洋から請来した「アトラス」でインドでは「ヤ
クシー」の役目です。が
、短躯肥満からみるとインドのヤクシーに近いですね。


    尾垂木


     垂 木


      礼拝石

 先述の露盤には徳川家の葵文だけでしたが垂木の先端には徳川家の葵文と桂昌院の
実家の家紋の透彫が交互に貼り付けてありましたが現在は、忍冬唐草文の透彫に代え
られております。平瓦の文様は忍冬唐草文です。


       裳階屋根(五重塔)


       裳階屋根(金堂)  

 裳階の板葺屋根は大和葺という葺き方ですが五重塔の方が板の両端を細工して上下
の板を噛み合わせるという丁寧な仕事をしております。大和葺に対し「長板葺」という
ものがあります。  

  
  階段を上がれば見えます。

 「塔本四面具」は法隆寺では珍しく和銅四年
(711)に完成との記録があります。この年代から
金堂、五重塔、中門など再建年代を憶測すること
になる貴重な記録です。
 塔本四面具が総べて「塑像」で焼きも せずに完
成から1300年も長い間、盆地特有の湿気が多い地
で、生きながらえてこられたのは制作態度が必
要以上に丁寧で念入りな作業だったからでしょう。
ただ、南面は雨風の吹き込みで多くの像が入れ替
わっております。
 塔本四面具は天平時代の傑作の一つで、80体の
塑像が国宝指定というものです。 

 塑像の材料は近くの場所で採取されるのでただ同然でありますが、大変重く脆いと
いう致命的な欠陥があります。それだけに塑像の制作にはそれなりの技法が要求され
るだけに白鳳・天平時代で一応終わりを告げます。洗練された写実を重んじた天平時
代だからこそ塑像が多く制作され、それゆえ、傑作が多いと言えます。鎌倉時代、中
国から禅宗とともに塑像が入ってきますが出来栄えだけは南都復興とはいきませんで
した。
 塑像の制作はまず最初に仕上げ材の心木を使い「木組み」を作りますが、指のような
細かい部分の細工には心として銅線、銅板などを用います。その「木組み」に藁縄など
を巻き「粘土」が付きやすいように加工いたします。つぎに、「下土(粗土)」を塗ります。
下土は粗い土に藁を細かく刻んだ「藁苆(わらすさ)」を混ぜたものです。乾燥した下土
の上に「中土」を塗ります。中土とは粘土に籾殻を混ぜたものです。中土が乾燥した後
中土に「仕上げ土」を盛り上げ、細部の彫刻をいたします。仕上げ土とは細かい土に
「紙苆(かみすさ)」と「雲母」を混ぜたものです。「紙苆」は土の乾燥をゆっくりさせて土
の亀裂を防ぐためのものです。雲母は高温多湿の奈良で、湿気が像に浸入して破損す
るのを防止するためと雲母を混ぜると粘土の締りが良くなり彩色が楽になるといわれ
ております。
 像全体が乾燥後白土(化粧の白粉と同じ役目)で下化粧をいたします。さらに極彩色
の彩色と金箔の切金(きりかね)文様で華麗な変貌を遂げます。 

                           涅 槃 像 土

 北面の「涅槃像土」は「法隆寺の泣き仏」ということで有名です。後列のおとなしい群
像は天平時代の初めに造られ安置、後列の激しい表情とオーバアクションの群像はバ
ロック調の天平時代終わりに造られ追加安置されたのではないかと言われております 。
前列での、手を後ろについて身体を反らし顔を仰向けて大口を開けて号泣する像、胸
を打ち叩き大きく泣き叫び悲しみを表す像など悲嘆にくれる群像が法隆寺の泣き仏と
言われる所以です。前列の比丘形の像は、釈迦より先に旅立った舎利仏、目犍連と遠
くまで布教活動に出ていて釈迦の涅槃に間に合わなかった荷葉を除いた十大弟子の七
人を表しているとも言われます。釈迦の弟子の中には荷葉が二人いたので区別するた
め十大弟子の荷葉の方には大の尊称を付けて大荷葉と呼ばれてます。この群像に関し
ては諸説があります。
 後列にある八部衆は天平時代で廃れてしまい、八部衆の一部は二十八部衆に含まれ
て造像されます。八部衆といえば法隆寺と興福寺でありますがどちらも釈迦と一緒に
安置されており後の時代には造像されなくなりますので貴重な像といえます。阿修羅
像(青矢印)は最古の像でこの阿修羅像を手本にして興福寺の阿修羅像が造られたので
はないでしょうか。
 像の配列はパノラマ的というより空いているスペースにどんどん詰め込んだという
感じがいたします。
 「敦煌莫高窟」では阿難などの一部が悲しみの挙句座り込みますが残りの者は立って
いるのが通例で、当涅槃図はスペースの関係で全員が坐らざるを得なかったのでしょ
う。
 中国では塑壁で法隆寺では須弥山と呼んでおります。 
 涅槃が山岳において行われたのは不思議であります。釈迦如来はクシナガラで四方
に沙羅樹が二本ずつ計八本生えていた間で涅槃入られたと言うことですが法隆寺には
沙羅双樹が見当たらないのと頭北面西ではなく通常の釈迦如来の入滅場面とは違うと
ころがあります。そこでこの場面を聖徳太子が亡くなられて、民衆が嘆き悲しむ姿を
表しているとの説もあります。 皆さんはどう考えられますか。
 沙羅樹が一方に二本ずつでありますので沙羅双樹となります。釈迦は生誕の際は無
憂樹、成道の際には菩提樹、涅槃の際には沙羅樹でこれらの樹木は仏教の三大聖木と
も言われます。これらの三大聖木は日本で言う神木ではなくインドは日差しが強く暑
い国ですから傘蓋の代わりではなかったのでしょうか。三大聖木は高木で我が国での
沙羅樹はツバキ科のナツツバキでインドの沙羅樹とは違う別木です。
 『平家物語』の有名な冒頭は「沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす」と沙羅
双樹が登場いたします。
 我々でしたら死亡と言うところを釈迦如来は肉体は滅びても精神は永遠の不滅なの
で「入滅」とか「涅槃」という言い方を致します。このことは釈迦如来は生存されました
のでこのような場面が起こりますが他の如来は空想上の仏さんですのでこのような場
面は出て参りません。

 釈迦の右手で手枕されておりますのが普通でありますが本図は差し出した右手の指
を開き名医「耆婆大臣(ぎばだいじん)(赤矢印)」に脈をとらせているように見えます。
耆婆大臣のインド名はジーバカといい、オウム真理教でサリンを生産したのはジーバ
カ棟と言うことで一躍有名になりましたがジーバカは生存された方ですので自分の名
前をとんでもないことに使われあの世で怒っておられることでしょう。医師を表した
ものでは最古の像です。  


            釈迦如来像


   寝 釈 迦 像

  釈迦如来の涅槃は頭を北向き、お顔を西向き、横臥する姿勢で右手の手枕をします
が右手の手枕でない涅槃像もあります。この涅槃像の作法を取り入れられたのが死人
の北枕です。ただ、以前は横臥していた死人が仰臥しているのは、現在のようにお別
れのセレモニーを行うようになったからでしょうか。頭北面西の姿勢にすれば自然と
右脇が下になります。右脇を下にして休むことは身体の左にある心臓に負担を掛けな
い理想の寝姿で釈迦が休んでいらっしゃる「寝釈迦像」がそうであります。  
 
 「臥像」とは横になっている像のことで涅槃像と寝釈迦像があります。涅槃像、寝釈
迦像共に釈迦像です。
上座部(じょうざぶ)仏教(小乗仏教)の国では信仰の対象が釈迦
如来だけに涅槃像、寝釈迦像が多いですが我が国は大乗仏教ですので少ない存在です。
タイなどに旅行されて驚くのは我が国ではお目にかかれない寝釈迦像が彼方此方にあ
ることです。我が国でも「眠る大師」はあります。


         維摩詰像土

 東面は「維摩詰像土(ゆいま
きつぞうど)」で、維摩居士の
病気見舞いに釈迦の代理とし
て文殊菩薩が遣わされ、病身
の維摩と文殊が法論を展開し
ている場面が表現されており
ます。釈迦と直接関係のない
内容ですが聖徳太子が維摩居
士が創作された「維摩経」を重
んじられたので取り上げられ
たのでしょう。
 頭は文殊菩薩は高い髻であ
るが維摩居士は頭巾を被って
おります。

 

 西面は「分舎利仏土」の場面で中央にある舎利塔の模作が大宝蔵院の百済観音堂の屋
根に設置されておりますのでご覧ください。

 南面は「弥勒仏像土」です。

 


               経  蔵


 「粽(ちまき)(青矢印)」と言
われるもので大仏様のように
徐々に細くなるものは長い粽
と言われ粽の定義は決まって
いないようです。この粽の様
式は天平時代にエンタシスの
代わりに出現いたしましが平
安時代初め頃に消滅いたしま
した。

  「経蔵」は「楼造」の建物では現存最古で、天平時代唯一の遺構です。
 上層部分は
廻り縁に高欄をめぐらし連子窓などを設けた構造に対し下層部分は装飾
的には手を抜いたようになっておりますがそれが逆にまぶしい白壁と木部の絶妙なコ
ントラストを形成しております。それは当初、経蔵は回廊外にあり回廊内から経蔵を
眺めても下層部分が見えないことから簡素にしたのでしょう。回廊については後述い
たします。
妻側は「二重虹梁蟇股」となっておりこれは天平時代の切妻造に用いられた
通常の構法です。
 法隆寺では一番かわいらしい建物で素敵な眺めだと思いますがやはり大きな建築物
が好まれるのか経蔵前での記念撮影は見かけません。


   連子窓・高欄付きの廻り縁


      角垂木の二軒

 


           鐘 楼


 1998年の台風7号で、室生寺
では樹齢650年の杉の巨木が、
五重塔に倒れ掛かり大きな被害
を受けました。法隆寺ではその
対策として建造物周辺の松の木
が途中から切り落とされたり、
写真の鐘楼前の松の木は根元か
ら抜かれてしまいましたが拝観
者にとっては金堂と五重塔の勇

姿が見通せる最高の場所となりました。前述の五重塔の写真はここからの撮影です。
 法隆寺に松の木が多いのは聖徳太子3歳の時、両親である後の用明天皇、間人皇后
の家族三人で桃の園を散歩中に父君が太子に「桃の花が好きか松の木が好きか」を訊ね
られたら太子は桃は一時の花でしかないが松は年中青々とした万年の樹木であります
から松の方が好きですと答えられたという言い伝えからです。これが境内に四季折々
の花が植えてあれば多くの女性に歓迎されそうですが法隆寺はなんといっても松だか
らこそ古色蒼然となっているのでしょう。

 天平時代の「鐘楼」は講堂と共に焼失し平安時代の再建ですが平安時代唯一の楼造で
あります。  
 平安時代後半になると前述の粽がなくなり柱はただまっすぐなものが好まれるよう
になりますが後述の大講堂はほぼ同じ時期の再建でありながら大講堂の柱には粽があ
りますが鐘楼には粽がなくややこしい問題です。経蔵とでは扉の高さが違います。
2階建ての建物が楼造ですので法隆寺は鐘楼ですがよく見かける4本柱、8本柱の鐘
楼は2階建てではなく鐘楼とは言えないのですが名称だけを踏襲しております。
 講堂が正暦元年(990)に再建されたほぼ同時期に再建されたと考えられます。
  
 鐘楼の「天平時代の梵鐘」が衝かれますのは「夏安居」の期間中の朝9時ですが梵鐘は
少し損傷しているため厳かな音色で近くに行きませんと聞くことが出来ません。夏安
居は5月16日より8月15日まで行われます。 

 


 燈 籠(後は大講堂)

 
 
 元禄四年(1691)、桂昌院が子息の徳川綱吉の武運長久を祈願
してこの燈籠を建立されました。
 かさ、火袋、中台に徳川家の家紋「三つ葉葵」と桂昌院の実家
・本庄家の家紋「九目結紋」が並んでおります。
 この燈籠の辺りを当初、北回廊が走っておりました。

 


            大 講 堂

 「大講堂」は法隆寺再建時にはなく食堂が記録されておりますことから当時は食堂と
講堂とが兼用だったのがその後講堂専用に用途変えをしたのではないかと言われてお
ります。その講堂も延長三年(925)の落雷により焼失いたしました。当初、堂内には
仏像は無かったのではないかと思われます。それが、時代を経ると講堂は本堂という
仏堂的な機能を持つようになり薬師三尊像が祀られたのではないでしょうか。ただ、
延長三年(925)の焼失から65年後の正暦元年(990)に再建とは少し遅過ぎるような気が
いたします。
 平安時代になれば和風化が進み板敷きの床になるのに古式に則り土間ですが土間と
いっても瓦の四半敷でありこれは鎌倉以降の改築でありましょう。
 8間堂から元禄の修理の際9間堂へ改変されました。昭和の大修理は当初の姿に復
元することが趣旨でありましたが講堂は重要な仏堂となっておりましたので前身の
8間に戻さず9間のままとなりました。
 金堂と違って講堂ともなると組物も簡素な平三斗であり、金堂は柱間が中央から脇
間に向かって狭くなりますが総べての柱間は等間隔となっております。彫刻などの荘
厳もなく中備は蟇股ではなく間斗束であります。 
 
 堂内の正面左右に論議台がありその台に「講師(こうじ)」と「読師(とくし)」が坐り、
お経の研鑽に励む寺僧が左右に並んだ床机台に坐り講師の解説を聴講し、質疑応答を
いたします。左右の論議台は新造されており、この論議台のことを別名高座ともいい
落語などの演芸で高座に上がるというのはここからきております。

 大講堂は屋根構造に特徴があります。天平時代の屋根は下から見える構造材の化粧
垂木の上に瓦を載せますが平瓦の上に丸瓦を置く本瓦葺では、古代はゆるい屋根勾配
だけに雨水の流れが遅いため雨の吹き上がりによる雨漏りが起きておりました。この
問題点を解消したいことに加え、平安時代には椅子、ベッドの日常生活から我が国独
特の床板張り座式生活に変わりましたので、落ち付いた空間を確保するため天井を低
くする要望が出てきました。さらには、板敷きの床になりますと、建物の外回りに木
製の縁(大講堂は石縁)が設けられます。この縁に雨水が掛からないようにするため大
変深い軒が必要となってきました。これらは和風化の表れでありますが、天井を低く
するということは屋根を低くすることであり、雨水の流れを早くする為には屋根勾配
を急にする、しかも縁のために深い軒にしなければなりません。そうすると室内から
外を眺めたとき、急勾配の軒が目障りになり、また自然光が照明の時代だけに開口部
の高さが小さくなり室内が暗くなる重大な問題が発生いたします。そこで、垂木勾配
を前代のように緩くしたままでの解決策の模索が繰り返されたことでしょう。そして
ついに考案されたのが、日本独特の屋根の上に屋根を設ける「野屋根」という構造でし
た。当然の結果として、屋根勾配が急となり屋根の高さを競うような屋根ばかりが目
立つ建物となり一部では悪評高いですが、逆に豪放に見えることも事実であります。
野屋根構造は雨仕舞いも万全となる上、奥行のある建物も建設可能となり、それまで
の母屋の奥行(梁行)二間という制約が解消できましたので、横長の建物から縦長の建
物の建設が出来るようになりました。
 大講堂は野屋根構造の建物としては現存最古の遺構で貴重な資料と言えます。
 金堂と講堂の機能を兼ね備えた本堂の建立が主流となりましたので国宝指定の講堂
は唐招提寺の講堂との二棟のみであります。

            薬師如来坐像

 当初の「薬師三尊像」は講堂の焼失で運命を共に
いたしましたので平安時代の造像です。  
 寄木造でありますが一木造時代の厳しさが残っ
ております。それは、大きな粒の螺髪、太くて力
強い衣文の皺、高い膝などですがただ、顔貌は次
代の定朝様のような丸顔で穏やかな面相です。
 素木でなく漆箔仕上げであります。
 大講堂はゆっくりと仏さんと向き合える空間で
安らかな祈りのひと時を提供してくれます。皆さ
ん無病息災を祈っておられます。無病息災という
大きな願いの割にはお賽銭はちゃりんと音がする
小銭でこれでは薬師さんにまともには聞き遂げて
貰えないでしょう。
 「お礼参り」とは仏教から出た言葉でお願い事が
成就してからお礼をすることですから賽銭箱に投
入された小銭は手付金ということでしょうか。現
在、お礼参りとは悪い意味に使われております。

 



      上 御 堂


   上御堂(大宝蔵院前通路から)
  

  「上御堂(かみのみどう)」は毎年11月1日より11月3日の3日間だけ開放されます。
 講堂の裏側から高台に上がった所に建設されております。二回強風で倒壊いたしま
した。 

 丸瓦の文様は、徳川家の家紋「三つ葉葵」と桂昌院の実家・本庄家の家紋「九目結紋
です。上御堂では写真の通路以外は立ち入り禁止ですの双眼鏡でないと離れていて見
ることが出来ません。

  
        釈迦如来坐像   

 

 「釈迦三尊像」は上御堂の本尊であ
りますため上御堂開扉の三日間しか
拝むことが出来ませんので多くの方
に馴染みがあるとは言えません。
 本像は桧材ではなく桜材を使用し
ており光背は二重円光で異常に広い
宣字座に結跏趺坐しております。
 腹のくびれが変わっておりますの
と膝が高いです。 
 併置されている四天王の邪鬼が蛇
を握っております珍しいものです。

 


  左の建物は大講堂・正面の建物は鐘楼 

 現在、「回廊」は鐘楼、経蔵の
前を通り講堂まで連なっており
ますが当初は写真の赤矢印のよ
うに北回廊が江戸時代に建立さ
れた燈籠の辺りを抜けて西側回
廊と繋がっておりました。です
から、講堂、経蔵、鐘楼は回廊
外での存在でした。金堂、塔の
聖なる空間と講堂、経蔵、鐘楼
の人が出入りする俗なる空間と
の結界だった回廊が変更された
ことになります。

 方形でありました回廊が経蔵、鐘楼前を通り大講堂と結ばれて現在の凸型の回廊に
なり日常生活には便利になりました。焼失した講堂が正暦元年(990)に再建された同
じ頃に回廊が改変されたのでしょう。  

                         回 廊

 
  「連子窓」からの眺めは一服
 の「額縁の絵」のようで堪らな
 い魅力でありましょう。

 古代の「回廊」では唯一の遺構という貴重な建造物で当然国宝指定です。
 中門から東西への回廊は金堂と五重塔の間口が違いますので金堂のある東側は十一
間、五重塔のある西側は十間となっております。回廊は扉以外は大きな連子窓となっ
ております。写真では見辛いですが虹梁の持つ美しい曲線と扠首の直線との構図も趣
があります。
 仏教が伝来した当時の仏教寺院の「窓」はすべて四角い「連子窓(れんじまど)でした。
「窓」の効用といえば「採光」、「換気」などでありますが、我々が換気といえば扉があり
ますが、連子窓には扉はなく、現在の窓のイメージとは違います。
 連子窓があれば「和様建築」といってよいでしょう。

 
  「連子窓」の縦に入っている菱形の材を、「連子子(れんじこ)といいます。古い時代
は連子子の間隔が広いのが特徴です。しかも、連子窓の腰長押の位置が低くなってお
りますので開口部が大きくなっております。境内の暗い雰囲気を和らげるため連子窓
を大きくして外の明るい開放的な雰囲気を取り入れたのでしょう。とくに、80年程前
までは回廊内は黒土が敷かれていて陰気な雰囲気だったようですが今は、白砂と入れ
替わり青松白砂の明るい雰囲気に変わっております。連子子が痩せたり磨り減ったり
して細くなった部分が見受けられるのは長い歴史の証でしょう。柱にエンタシスのあ
るものがありますが天平時代に飛鳥時代の様式が残っているとは驚きです。


     礎石(花崗岩の自然石) 


     礎石(凝灰岩の加工石)  
    平安時代は自然石そのまま。   天平時代は凝灰岩を加工した方形。

 

 

  ここは順光で記念撮影の
絶好の場所と言えるでしょ
う。ここで東院とお別れで
東院を出ると左前方に次の
句碑があります。

   
       句 碑

 
        鏡 池

 柿くへばといえば法隆寺と言われるほど知名度抜群の俳句で、この句は俳人「正岡
子規」が詠んだ、法隆寺の茶店で憩ひて 「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」であります。
  当時の茶店の写真を見ますと東院回廊を出てきた所にあり現在、句碑の前にある手
水舎は聖霊院の前にありました。個人が建てた茶店でありましたので大正3年に解体
撤去され、跡に句碑が設置されました。訪れる人も少なかったから人の流れの邪魔に
もならなかったのでしょう。現在あれば大いに繁盛して東院から聖霊院に向かう者と
でごった返しになっていたことでしょう。
 この句を正岡子規が法隆寺で明治28年(1895)の10月26日に詠んだことにちなみ
10月26日が「柿の日」と定められました。
 子規は奈良旅行中、柿の句を東大寺などでも詠んでおり、夏目漱石の『三四郎』の
中で「子規は果物がたいへん好きだった。かついくらでも食える男だった。ある時大
きな樽柿を十六食ったことがある。それでなんともなかった。自分などはとても子規
のまねはできない。と書かれているくらい柿が好物だったようです。奈良に多くあ
りました柿の木も最近はあまり見かけなくなりました。

 


         聖 霊 院        妻室


 


 聖霊院      妻室

 「東室(ひがしむろ)・僧房」は一般には講堂の周りの北寄りに建築されますのに金堂、
五重塔に並行して建築されております。裏山が迫っているので南寄りの平地に建築さ
れたのでしょう。

 僧侶たちは講堂で学んできたお経などを寄宿舎の僧房で自習するわけですが二十畳
程の相部屋に八人位で生活をしておりました。しかも土間でありますから中国風の生
活スタイルのベッド、椅子、机を設置すれば寛ぐスペースはなかったことでしょう。    
 僧房ゆえ簡素な組物で造営されております。細長い建物を区切って使うのが僧房で
すがこれと同じ造りが民家の長屋造で現在はその長屋造も一戸建ちの家に変わりつつ
あります。

  二間で一房を形成する相部屋でその室長を坊主と呼ばれましたがこれは一つの僧房
の主の房主が坊主に変わったという説など坊主の語源に色んな説があったりしてやや
こしいです。ではなぜ、坊主になったのか坊とは方形の土地ということで京での坊で
あります。中国の制度で京だけでなく寺院にも坊があり一坊を管理するのが坊主だっ
たのが我が国では僧房の一室の管理者を坊主と呼ぶようになったとの説もあります。
坊主とは今で言えば管理職と言う地位でしたのが後の時代には意味が拡大して僧侶の
総称となりましたが僧侶の総称どころか悪い意味にも使われるようにもなりました。

 大房(だいぼう)に小子房(しょうしぼう)が付属しての一組となるのが通例で東室が
大房、妻室は小子房に当たります。その小子房がその後の改築で昔の面影が薄くなっ
たので妻室と改名されました。それと本来は大房と小子房はもっと接近していたのが
改築の時に防火上か何らかの事由で離されたようであります。大房では主人が小子房
では若い寺僧、従者が日常生活を営んでおりました。
 小子房の唯一の遺構です。平安時代に私邸である子院が出来るまでは総べての僧侶
は僧房で生活しておりました。ですから、僧房は研修会場・大講堂へ通うため西に出
入り口があったと思われますが現在は聖霊院、三経院共に南面が正面となっておりま
す。
 僧侶の住まいが子院か塔頭(たっちゅう)に移り、僧房での居住者は少なくなりまし
たので僧房は造られなくなるだけでなく僧房が仏堂に改変されたりしましたので東室
は貴重な遺構といえます。
 
 「聖霊院」は東室の十八房の内三分の一に当る六房が倒壊したので保安二年(1121)の
再建の際屋根を高くして独立の堂・聖霊院にしました。僧房の南側を堂にする改変は
唐招提寺、元興寺などで行われました。法隆寺では西室をも仏堂化しておりますが唐
招提寺、元興寺とも東室を仏堂化しております。東が上位の精神から来るのでしょう 。
 聖霊院は聖徳太子を供養する殿堂で聖徳太子像がお祀りしてあります。太子がお亡
くなられたのは旧暦の二月二二日でありますのを新暦に合わすために一ヶ月遅らせて
三月二二日に法隆寺のお会式(後述)がこの聖霊院で執り行われます。旧暦を新暦に直
すと毎年月日が変わりますので便宜上一ヶ月遅れとする寺院が殆どです。
 最初の聖霊院は当麻寺で述べました木瓦葺の粗末な改造だったようです。
 建具などが再建当初のまま保存されており貴重な資料です。
 「御朱印」はここで頂きます。

 東室は聖霊院の残りの十二房ですが倒壊を免れて修理、修理で今日まで持ち応えて
きたということで、東室の造立年代は、国宝指定で国は奈良時代、NHKの『国宝への
旅』では室町時代の再建となっております。ホームページでの「◎県別国宝建造物表」
「◎県別国宝建造物分類表」では国指定の通り東室を白鳳・天平時代の欄に掲載してお
ります。それから、前述の「三経院」と「西室」は併せて国宝指定ですが「東室」と「聖霊
院」は別々の国宝指定であります。 

 
         聖徳太子坐像


   大会式(大講堂前)  


   大会式(中門を通って)

 「聖徳太子像」は衣冠束帯の装いに笏(しゃく)を両手で持ち、勝鬘経を解説する姿だ
と言われております。長い間高額紙幣の肖像だった原本の肖像画とは顔立ちが違うよ
うであります。緊張した威厳のあるお顔と寛いだ穏やかなお顔の違いでしょう。
 一度だけお出ましになられ拝見することが出来ましたが通常では拝見は無理です。
お絵式の日でも数多くの立派な供物の影で尊像は見え難いです。
  頭上の飾りはめったにお目にかかれない豪華なものです 。

 毎年、聖霊院で行われる聖徳太子の忌日法要を「小絵式」と呼ばれ、10年毎に大講堂
で行われるのを「大絵式」と呼ばれております。写真は2001年の「大絵式」の模様です。
この大会式の2001年は、聖徳太子の1380年御聖諱の年にあたりこれを記念して大宝蔵
殿で「法隆寺秘宝展」が開催されることとなりました。

 

 
       黒 駒

 聖徳太子はお住まいの斑鳩宮から執務場所の
飛鳥京まで愛馬・黒駒に乗って通われたという
ことですが侍者の調子丸はじめお供の方は徒歩
での移動となると斑鳩と飛鳥では距離があり過
ぎ無理なような気がします。
 一時、黒駒に勝馬投票券が当ることを祈願す
る多くの人を見かけましたがどうもうまくいか
なかったのか間もなく人混みは途絶えました。
 四脚が白い以外は全身黒い馬といわれており

ますが像を見た限りでは見分けが付きません。太子がお生まれになった橘寺にも黒駒
が飾られております。

 聖徳太子の生母である「間人皇女」が宮中を散歩されていて廐の戸に当ると急に産気
ずき出産されたので「廐戸王子」と名付けられたと言われます。廐戸王子は太子の生存
中の名前ですが上宮太子とも呼ばれておられました。
 馬小屋といえばでキリストがお生まれなったところです。東院の舎利殿に祀られた
太子の二歳像には二月十五日に東に向かい合掌して南無ほとけと唱えられると愛らし
い合掌の手の間から一粒の釈迦の左眼舎利が出てきたと言う謂れがあります。この二
月十五日は釈迦の命日です。夢殿の本尊は救世観音像でありますが救世に主をつける
と救世主となりキリストのことであります。どうも、キリスト、釈迦を意識してのこ
とだと考えるのは穿った見方でしょうか。  

  


  北倉  中の間   南倉      綱封蔵


  中の間は空所の吹き抜けである


     紅葉からの綱封蔵

 「綱封蔵(こうふうぞう)」は天平時代に流行した「双倉(ならびくら)」の唯一の遺構で
す。古代の倉と言えば「校倉造」か「板倉造」が主流であるのに「土壁造」とは珍しいです。
  漆喰壁だけでは無用心なので盗難避けに壁の内側に厚さ6p、高さ1.6mの板が張
られております。細長い屋根、高床式、縁下は胴張の円柱ですが縁上は角柱でありま
す。建築用材に桧材以外に松、杉材が当てられております。

 全国各地の役所に税として納められた物品を保管する双倉が正倉と言われその正倉
の何棟もの集合体が正倉院といわれました。今は東大寺の一棟のみであり本来なら正
倉でありますが昔の正倉院の名称を踏襲しております。正倉が双倉であれば物の出し
入れは中の間で行うため雨に濡れれば品質に影響する五穀などの出し入れには都合が
良かったと思われます。高床式は湿気をさけるためと鼠害の防止でありましょう。
 古代の倉といえば板倉造か校倉造でありましたのがなぜ綱封蔵は土壁造となったの
でしょうか。そこで、考えられることは防火対策ではなかったかと思われます。

 綱封蔵の綱封とは寺院を取り締まる僧綱所が開封の権限を持っていたゆえの由来で
す。東大寺の正倉院は天皇のみしか開封できませんので勅封といいますが現実は天皇
のお使いの者によって開封されます。その東大寺正倉院が双倉造で、南倉と北倉であ
りましたのが追加工事で中倉が増設されたと推定されておりましたが、三倉とも同時
着工との説がこのほど発表(2006/08)されました。そうなれば、双倉として建造され
た倉は法隆寺の綱封蔵のみとなります。

 


     食 堂           細 殿

 綱封蔵の双倉に並ん
で「双堂(ならびどう)」
の「食堂(じきどう)と細
殿(ほそどの)」がありま
す。双倉、双堂共に唯
一の遺構で法隆寺なら
ではでしょう。
 天平時代の政屋(まん
どころや)を食堂に転用
されたとのことです。
 細殿で何をしたのか
不明ですし厨房は何処

にあったのかも不明です。食堂内に厨房があり食堂と細殿で食事をされたのでしょう
か。質素な食事内容だったと思われますので厨房は狭いスペースで充分だったことで
しょう。妻側は蟇股なしの二重虹梁です。 
 双堂が後の本堂となりますがその良きサンプルが「東大寺三月堂」です。
 食堂に安置されておりました「四天王像」は現在、大宝蔵院に飾られております。四
天王と邪鬼双方に動きが出た最初の像といわれる貴重な像です。ただ、この四天王像
の造像は天平時代と言われておりその当時なら子院もまだなく食堂はフル稼働だった
筈で四天王像など安置するスペースはなかったと考えられます。多分、四天王像は子
院が出来、食堂は少人数の使用となりました折に他の堂から移入されたのでしょう。

 


         大宝蔵院


     大宝蔵院 

   「大宝蔵院」は冷暖房完備という心憎い建物です。私は異常な暑がりで夏のガイド
の際には背中にアイスノンを10個背負って実施しておりましたので大宝蔵院の完成は
灼熱地獄に仏でした。当然、拝観料は値上げなると想像しておりましたら拝観料は据
え置きのままという太っ腹の法隆寺です。


   露 盤

 


     二重虹梁蟇股


   蓮華文の鬼瓦

 五重塔の西面の「分舎利仏土」に安置
されている舎利塔を模倣したものです。

 若草伽藍から出土した鬼瓦の模作です。
当時は鬼瓦の呼称はありませんでした。 


       日 本

        韓  国

 我が国の古代の建物の色は、青(緑)(連子窓)、朱(木部)、黄(木口)の三色ですが中
国・韓国では極彩色で文様装飾されておりました。我が国では良質の桧、杉が得られ
ましたので彩色はせず、素木のままでの建築を望み、文様彩色はせず単色塗装とした
のでしょう。柱などに彫刻を入れることなどは考えもしなかったようであります。洗
練された簡素な美しさを求めたからでしょう。さらに、日本人の潜在意識には素木も
良いですが皮付きの黒木も好む傾向があります。
 当時、建築には桧の心材である赤身部分を使っていただけに、今、我々が見るよう
な白い辺材部分をも使用した白い木部の建築ではなく赤みかがった木部の建築だった
筈です。
  素木の掘立柱、屋根は草葺の簡素な竪穴式住居に住んでいた人々にとって、中国風
で装飾彩色の寺院建築を驚嘆を持って眺めたに違いありません。
 
 しかし最近では、法隆寺のように堂塔伽藍が松林に溶け込んで古色蒼然としたもの
が愛されるかと思えば四季の花に彩られた古びた伽藍さえも日本人は好みます。また、
枯山水と堂宇の組合せが愛されたり、更には石庭だけを眺めるために訪れる方も多い
ようです。このような複雑な心境は日本人以外には理解されないでしょう。
 建物の装飾彩色が剥落して色褪せしているのに愛着が感じられるのは、創建当初の
建物の姿があまり品があるとは思えないからでしょうか?どうも現在の色褪せた建物、
仏像を眺めて逆に古代へタイムスリップされる方が多いようです。

 

 アジャンター第一窟にある壁画「蓮華手菩薩像」で
不鮮明ですが右手で蓮華を摘んでおります。
 金堂の西大壁の「第6号壁阿弥陀浄土図」に描かれ
た脇侍の観音菩薩の源流ではないかと言われる壁画
です。第6号壁阿弥陀浄土図の観音菩薩は再度、切
手の肖像画に採用されてお馴染みの観音さんです。
 第6号壁阿弥陀浄土図の写真と復元図が「大宝蔵
院」に入られますと壁面に掲げられておりますので
ご覧ください。復元図は大きな絵画「落慶」の中央部
分にあります。

 

      
     九面観音像    

  「九面観音立像」は養老三年(719)に唐から請来さ
れたものです。中国には木彫像が皆無に等しいこと
から中国にとっても貴重な遺品です。しかし、中国
にあれば仏教弾圧とか文化大革命で壊されていたか
も知れませんので安住の地に法隆寺を選んだのでし
ょう。通常は十一面観音で、九面観音の唯一の遺品
です。ある時期までは十一面観音と呼ばれていたら
しいです。
 白檀の一木造です。昨年始めてインドに行きまし
たがヒンズー教の仏像は多いですが仏教の仏像は限
られておりましたし、素材は菩提樹が殆どで木肌の
艶が美しい希少な白檀は少なく高価でした。
 白檀で強い香りがあり色の良いところは真ん中の
根っこに限られますので白檀の良質部分で彫刻する
のは九面観音の大きさくらいの小像しか駄目らしい
です。

 白檀は釘もたたないような硬木ですから精緻な文様の彫刻ができ、九面観音の耳璫
(イヤリング)は一木で揺れるように彫刻されております。数珠も同じ一木で刻まれて
おりその技能は神技(いや仏技)でしか考えられないといわれ、唐にはそれだけ研ぎ澄
まされた技能を持った仏師が居たということになります。瓔珞(ようらく)などの装飾
も一木に細工されておりますが根気の要る作業だったことでしょう。
 美しい木肌のうえ芳しい香木ですので彩色や漆箔はせずにただ、髪の毛、眉、目玉、
唇に彩色する程度に限られております。しかし、腹部に朱色の痕跡があります。
 
 叡智に富んだ端正な顔立ち、清純な澄んだ眼、腰を微妙に振った37.5pの小像です。
 化仏が七面、頂上面が一面、本面が一面で九面ということですが頂上面は通常、如
来であるので数えませんが天龍山石窟(中国)、渡岸寺(どうがんじ)の十一面観音像の
頂上面は菩薩でありますゆえ数に入れても良いのでしょう。
 超国宝級の九面観音像を拝見されただけでも法隆寺に来られた甲斐があったという
ものです。

 

    
      夢違観音 像

 「夢違観音立像」は東院絵殿の本尊です。教科書で
は「ゆめたがえ」ですが寺伝では「ゆめちがい」です。
日本人に一番好まれる仏像だけにあちらこちらとよ
くお出かけになられる超人気ぶりです。
 当時の菩薩は男性でありましたのに撫で肩で指は
繊細でまるで女性らしいイメージです。
 空想上動物「獏」は悪い夢を食べるだけですがこの
観音にお祈りすれば悪い夢を善い夢に変えていただ
けるという大変親切な観音さんで名前の由来もここ
からきております。
 鍍金の跡が耳朶辺りに残っております。鍍金する
ために像の表面を丹念に磨き上げ蝋人形の如く滑ら
かに仕上げなければなりません。それが今、鍍金が
脱落して美しい胴肌が現れているのが日本人に受け
るようです。
  三面宝冠で、とくに瓔珞(緑矢印)が胸と腰にある
のは白鳳時代の特徴です。天衣の下を瓔珞が通る部

分(赤矢印)は天衣を盛り上げるという丁寧な細工を施しております。
 86.9pの小像であるのと白鳳仏のやさしい童顔の表情、スタイルも童児風から言え
ることは国家鎮護の尊像ではなくて個人的に礼拝にされたものでしょう。
 丸顔、眉と眼の間が広く、眼も杏仁形ではなく仏の優しい眼、鼻口共に女性のよう
で可愛い形であります。六頭身の穢れを知らない清純な乙女のようであります。小さ
過ぎる宝瓶を持つしなやかな手など日本人ならでの表現でしょう。鼻は角ばっており
進歩しておりますがまだ写実に至る過渡期の様式です。  
  飛鳥時代、渡来人が制作したのは中国様式の仏像ですが白鳳時代ともなると我が国
の仏師が日本人が好むような仏像を作り上げたのでしょう。それと、インドの気候風
土をも理解してインド様式である上半身が裸の像になったのでしょう。
 この観音を眺めておりますと心が落ち着き穏やかな気分になります。
 ただ、天衣が欠損しているのは残念なことです。
 台座は江戸時代の後補です。

 

 
    救世観音像

   
   夢違観音像  

 「飛鳥時代の救世観音像」と「白鳳時代の夢違観音像」の造像様式の違いを列挙いたし
ますと

・宝冠が一つの「山型宝冠」から宝冠が三つある「三面宝冠」となり、中央の宝冠には観
音菩薩の象徴である「阿弥陀の化仏(赤矢印)」が必ず表されるようになります。
・天衣が魚の鰭状に広がる装飾(紫矢印)から衣本来の表現で自然な流れになります。
夢違観音像の天衣は右腕の所で破損しておりますが垂直的に下降していたことでしょ
う。
・中国様式の厚着の衣からインド様式の上半身が裸か身体が透けて見える薄着の像に
変わります。
・夢違観音像は髪際と眉の間が狭いです。
・華麗な「瓔珞」が胸と腰にあります。胸にあるのは胸飾りで皆さんは首飾りと言われ
ますね。インドの菩薩は首飾り、胸飾りの両方がある ことが多いです。
・天衣が腰下で「X字型衣文(青矢印)」から「二段型衣文(青矢印)」に変わります。
・足首は隠していたのが露になります。
・台座は蓮弁(緑矢印)が出来、華麗な台座となります。

 

 
      塼仏五尊像


      夏目廃寺
 (資料提供:名張市教育委員会)

 「塼仏(せんぶつ)」は 「押出仏(おしだしぶつ)」ともに中国から渡来した技法です。我
が国では飛鳥時代に始まり天平時代で終わりを遂げます。
 塼仏の製法は雌型(凹型)に粘土を詰め、原型像の形を写し、それを焼成させた後下
地を施し、乾燥させた下地に金箔を押したり(貼ること)、彩色(絵付け)したりして出
来上がりです。食品の「たい焼き」は両面の雌型ですが塼仏は片面の雌型の違いがあり
ます。塼仏は焼成いたしますので当然小型のものしか造れません。逆に「塑像」の方は
大型の像だけに当時としては焼成することが不可能でした。
 古代は金堂内の白壁を、繍仏で覆うか、壁画を描くか、塼仏か押出仏(後述)を貼り
付けるかをして白壁のままでおいておくことは無かったのです。金堂などの壁を塼仏
で覆いめぐらし荘厳(しょうごん)された寺院を「塼仏寺院」と言い、塼仏寺院の多くは
白鳳時代に造営されましたが現在は ひとつも存在いたしません。
 三重県名張市の塼仏寺院だった「夏目廃寺」には復元展示されております。塼仏を実
物大の柱と柱の間の壁一面に張り詰めたものが並ぶそれはそれは大きくて立派なもの
ですが写真は一柱間分だけです。
 次の押出仏共に簡単安価に造立出来ますので単独像では個人礼拝にも用いられまし
た。

  「五尊像」すなわち「三尊像および比丘像」の様式は中国では多く見られますが、我が
国では如来と十代弟子の像は法隆寺、興福寺など以外ではあまり見当たらず後の鎌倉
時代の禅宗寺院で見ることが出来ます。
 ただ、本五尊像は阿弥陀三尊像であるのにどうして釈迦の弟子が加わっているのか
それとも比丘像は十大弟子とは関係ないのでしょうか。  

 


       鎚鍱五尊像

 「押出仏」は「鎚鍱(ついちょう)仏」とも
言います。
 押出仏の造り方はレリーフ状の型の上
に薄い銅板を当てその上から鎚と細かい
部分はポンチ状のもので叩き、原型の凹
凸像を完成させます。
 現在のプレス加工は雄型、雌型の間に
材料を挟んで成型いたしますが押出仏は
雄型のみで行う違いがあります。精細な
部分の表現は出来ず「脱活乾漆造」のよう
に柔らかい感じの像となります。
 塼仏と同じように堂内の荘厳にも用い
られました。その貴重な遺品が後述の
「玉虫厨子」で内壁面には押出仏で埋め尽
くされております。
 押出仏は金鍍金(めっき)のままか、も
しくは鍍金の上に一部彩色したりして仕

上げます。 
 押出仏、塼仏ともに一つの型で同じものを造ることが出来る利点があり、東京上野
公園にある法隆寺献納宝物を納めた「法隆寺宝物館」でも同じ押出仏が見られます。押
出仏は中国・韓国に比べ少ない我が国ですが「法隆寺宝物館」には数多く収蔵されてお
ります。
  塼仏共に簡単安価に造立出来ますので単独像では個人礼拝にも用いられました。 
  本五尊像は前述の塼仏と同じく阿弥陀三尊像および比丘像であります。

 

   
     地蔵菩薩像

 「地蔵菩薩立像」は平安初期の作と言われております
ので地蔵菩薩像が造られるようになった頃の像です。
現存最古の像でしかも
地蔵菩薩像では唯一の国宝指定
でもあります。
 左手に宝珠を持っておりますのは後世の地蔵菩薩像
と同じですが初期の地蔵菩薩像の典型である右手が与
願印となっておりよく目にされる後世の多くの地蔵菩
薩像が錫杖を握っているのとは違っております。
 「金堂」の背面に北向きに安置されておりましたのが
新しく建立されました「大宝蔵院」に移され大変拝観し
易くなりました。
 奈良県の大三輪神社の神宮寺「大御輪寺(おおみわで
ら)」
から明治時代に移されたもので大御輪寺から移さ
れた仏像には「聖林寺の十一面観音立像」があります。
 後に地蔵菩薩像といえば錫杖を持つのが定型となり
ましたのでこの地蔵菩薩像にも錫杖を持たせたのか台
座の右手下に当たる所(青矢印)に穴が開けられており

ます。ただしその場合右手は握ると言うより添えると言う感じになります。 
 量感にあふふる逞しい像で近寄りがたい威厳を備えており、庶民が親しむもう少し
痩せた地蔵菩薩とは異にしております。一部の特権階級の仏さんで庶民の仏さんでは
ない時代の地蔵菩薩像でしょう。しかし、この圧倒される迫力であれば賽の河原で鬼
と対決してもいとも容易く鬼を退散させたことでしょう。
 菩薩で比丘形であるのは地蔵菩薩だけであります。庶民に親しまれる仏は観音菩薩
と地蔵菩薩が双璧でありましょう。○○地蔵菩薩というように色んなご利益が頭につ
いた菩薩は珍しく、このことはいかに庶民の仏さんであるかという証でしょう。
 時代は浄土に導いて頂くために貴族たちは阿弥陀如来に、庶民たちは地蔵菩薩にお
祈りしました。それゆえ、次の鎌倉時代には地蔵菩薩像が盛んに造られるようになり
ます。
 
彩色像か檀像風の像かはっきりしておりません。
 神宮寺の像だけに神仏習合の影響で神の姿を仏の姿で表したのではないかとも言わ
れております。 

 

   
    帝釈天像

  「帝釈天立像」は現存最古の像です。後述の玉虫厨子の施身
聞偈図での帝釈天は現存最古の画像です。  
 帝釈天像は塑像ですが樟材で一木造の裸形像を造りその上
に二層の塑土で仕上げております。是非、左足指をご覧くだ
さい。塑造の沓が破損して樟材で彫刻された五本の足指(

矢印
)が現出しております。沓が破損しなければ見えること
がないのに迫真的な表現を目的とした天平時代ならではでし
ょう。天平時代の「塑像」の制作は、まず最初に「裸形像」を作
りその裸形像に土で下襦袢姿に塑形いたします。さらに「雲
母(うんも・うんぼ)」を入れた仕上げ土で像の細部を塑形し
ていき完成させると
塑造の「装飾品」を貼り付けるという手間
の掛かることをしておりますので抜群の出来上がりとなりま
す。
これは女性の着物の着付けと同じ方法ですね。像全体が
乾燥後白土(化粧の白粉と同じ役目)で下化粧をいたします。
さらに極彩色の彩色と金箔の切金(きりかね)文様で華麗な変
貌を遂げます。簡単な塑像は五重塔の塔本四面具像のような
制作方法を取っております。
 

   「雲母」は高温多湿の奈良で、湿気が像に浸入して破損するのを防止するためだけ
でなく
彩色をし易くするためともいわれております。

 作品の出来上がりだけを頭に於いて制作に打ち込めた仏師は幸せだったことでしょ
う。それと、待遇面も申し分なかったのですから。仏師が
1300年前に苦労して造像し
たのを今間近に見れることは幸せです 。

 天平時代なのに心材の木彫像に桧材ではなく樟材を使ったのは何か意味があっての
ことでしょう。
 腰を右に振る堂々たる体躯ですが顔は幼く戦闘神の顔ではありません。 

 


     玉 虫 厨 子

 「玉虫厨子」は鎌倉時代の記録に推古天皇が
毎夕拝まれる念持仏として造像されたとの言
い伝えがあります。玉虫厨子の名称も鎌倉時
代が初見です。
 玉虫とは厨子の軸部に貼り付けられた透彫
りの銅板の下に玉虫の雄の美しい羽根を敷き
詰めたことが名称の由来であります。現在で
も何枚かはきらりと華麗な玉虫色(緑矢印)が
見られます。銅板に流麗細緻な文様を透彫仕
上げをすることは機械工具の無い時代に並大
抵の苦労ではなかったことでしょう。
 厨子の壁面に描かれた仏画は最古のもので
貴重な作品です。
 玉虫厨子ほど著名な工芸品は我が国では例
を見ないでしょう。堂内で保管されたので傷
みも少なく飛鳥時代の建築が1棟も現存しな
い中で飛鳥時代の建築様式、技法を今に伝え
る資料で極めて価値の高いものです。

 中国の宮殿建築が寺院建築として請来したのを我が国の宮殿建築に採用されました
ので、構成は上部から宮殿部、須弥座、台脚と呼びます。宮殿部は金堂そのもので二
重基壇までも金堂と同じです。 
 古代では仏像を安置する厨子を宮殿、仏殿、宝殿と呼ばれておりました。それが平
安時代に食器棚である厨子に経巻を納め経棚・厨子と言われるようになりましたのが
鎌倉時代になりその厨子に仏像を安置いたしましたので仏壇の原形である厨子と言わ
れるようになりました。

  「錣葺屋根(しころぶきやね)」は入母屋造より古式とも言われます。錣葺屋根につ
いては屋根のお話」をご参照ください。丸瓦の「行基葺(ぎょうぎぶき)」も入母屋造よ
りも古いのではないかと言われております。行基葺についても「屋根のお話」をご参
照ください。しかし、金堂より進んだ新様式の三手先を採用しております。
 金銅製の鴟尾は大き過ぎるくらいですが金堂も鬼板ではなく当初は鴟尾だったこと
でしょう。雲形斗栱は金堂と同じです。 
 丸垂木の一軒は飛鳥時代の特徴ですが玉虫厨子の「反りのある」丸垂木は木材が豊富
な我が国ならではで中国では丸垂木は直線とならざるを得ません。 「垂木のお話」をご
参照ください。
       
 宮殿内に安置されていた本尊は初見では阿弥陀三尊像となっておりますが当初は釈
迦如来像であったのが時代の流れで阿弥陀三尊像に代わったのでしょう。現在は観音
菩薩像に変わっております。
 
 古代の記録では宮殿像二具とありそれは玉虫厨子と橘夫人念持仏ではないかと言わ
れております。もしそうであるならば、推古天皇は天皇在位36年にも及びますが寺院、
仏像を一つも造っておられないだけに貴重な遺品となります。
 制作年代は飛鳥、白鳳か議論の分かれるところです。 
 橘寺から移入されました。      

 金メッキされた4468体の鎚鍱仏が宮殿内の
壁一面に張り詰めてありました。内部は先述
の夏目廃寺のような壁となっておりましたか
ら宮殿内は明るく光り輝いていたことでしょ
う。
 鎚鍱像(押出仏)の制作方法は薄い銅板をレ
リーフ状の型の上に置き凹んだ所を鏨、釘な
どで破れない様に押し込んでいき出来上がる
と金メッキ仕上げとするというこつこつと根
気の要る仕事です。


 4468体の金銅製の鎚鍱仏の一部

  「玉虫厨子」は仏教絵画でも現存最古の遺品であるばかりでなく釈迦如来の前世の
物語・本生譚(ほんじょうたん)(ジャータカ・本尊生譚)でも数少ない貴重なものです 。
本生譚は釈迦が前世で自己犠牲の精神に則り修行された話で約500編あるとのことで
す。本生譚はインドで昔から庶民に親しまれた民話などを流用しているためヒンズー
教でも同じ説話があるらしいです。

 我が国はシルクロードの終着地で、仏教伝来が釈迦が悟られてから1000年も経って
おりましたので、釈迦如来像が残っていても釈迦如来の前世物語、仏伝は皆無に等し
いです。玉虫厨子の「捨身飼虎(しゃしんしこ)図」「施身聞偈(せしんもんげ)図」など釈
迦如来の前世の物語が保存よく残されておりますのは奇跡といえましょう。本生譚は
インド、中国では数多く作られましたが我が国では仏教伝来が大乗仏教でしたので余
り興味がなかったのでしょうか前にも申しましたように釈迦如来の前世の物語はこれ
以外残っていないだけに人類全体の文化遺産であります。玉虫厨子の壁画を拝観され
るだけで法隆寺を訪れた価値を見出されることでしょう。  


      捨身飼虎図

 「捨身飼虎」とは飢えた母虎と飢えた七匹の子
虎を哀れに思いわが身を投げ出す釈迦の前世の
物語で自己犠牲の精神の表現であります。
 この図はインド美術の「異時同図法」で、時間
経過の場面を一枚の絵に描くことで我が国では
平安時代に流行いたしました「絵巻物語」がそれ
に当たります。   
 図上から、上着を脱いでなぜ枝に掛けたのか
皆さんでお考えください。それではなぜズボン
を脱がなかったのか不思議であります。ここか
ら身を翻して虎の餌食になります。飛び板飛び
込みの姿勢で裳裾の棚引きから急速な落下であ
ることが分かります。
  母虎の腹は凹み乳も出なかったことでしょう 。
 虎が噛み付いた王子の脇腹から血が滴るのを
舐めている凄惨な光景に竹林を持ってベールを
掛けたようにぼやかすのは心根の優しい日本人
ならでしょう。
 虎に全身を噛み付かれているのに王子は満足
げに安らかな顔をされておられます。
 インドでは百獣の王は獅子・ライオンであり、

釈迦如来は釈迦族の獅子とも言われておりましたのにどうしてインドでは獅子に比べ
影が薄いトラの餌食になられたのでしょうか?それゆえか、捨身飼虎は中国には多い
ですがインドでは捨身飼虎の遺例が見当たらないとのことです。


      施身聞偈図  

 「施身聞偈図」は偈(仏の教え)を教えてもらうた
めにわが身を投げ出すと言う説話であります。
 「諸行無常(しょぎょうむじょう)、是生滅法(ぜ
しょうめっぽう)」と羅刹(鬼)が唱えているのをヒ
マラヤで修行中の雪山童子(せっせんどうじ)(釈
迦の前世)が聞きつけ、その後を教えてくれと頼
むと今は疲れて声が出ない。ではどうするば良い
のか聞くと人間の生身と生血が欲しい。雪山童子
は了解したと言い、その後の「生滅滅巳(しょうめ
つめつい)、寂滅為楽(じゃくめついらく)」を羅刹
から聞き、後世の者のために聞いた偈を岩盤に書
き写してから羅刹の餌食になるため高台に登りそ
こから飛び降りたところ帝釈天が羅刹に姿を変え
て釈迦の修行の真剣さをテストしたという次第で、
羅刹は帝釈天に戻って落下する雪山童子を両手を
広げて受け止めめでたしめでたしという説話であ
ります。
 褌一つで裸人間のように立った鬼は珍しく普通
の人間ならこんな恐ろしい鬼には近づかないのに
後世の人のため我が身を犠牲にしてまでという釈
迦の偉大さを表現しております。
 帝釈天は踏割蓮華座に乗っており菩薩扱いです。

  鬼が出入りするのは東北の鬼門で、十二支での東北は丑(牛)と寅(虎)の間の方向な
ので、鬼の表現は牛と虎の合作で角は牛の角(図はたて髪)、牙は虎の鋭い牙、褌(ふ
んどし)は虎の皮で表現いたします。右上方に尾長鳥、孔雀がおりますので探して見
てください。 


          須弥山図


 A:鳳凰に騎乗した仙人
 B:帝釈天宮・忉利天宮
 C:太陽に三本足の烏(八咫烏)
 D:月に兎か蟾蜍(ひきがえる)
 E:四天王宮
 F:飛天
 G:山麓に巻きつく双竜
 H:飛雲に乗る鳳凰
 I:海面
 J:海龍王宮(龍宮城)
 K:釈迦如来
 L:菩薩か母と娘か?
 M:迦楼羅

 

 大きな鴟尾は玉虫厨子と同じで
す。屋根勾配は古代の穏やかなも
のです。 

  

 「須弥山図」は仏教世界の中心である海上に茸状に伸びた須弥山を表現した図です。
 中国で誕生した「神仙(A)」が鳳凰に騎乗して左手で先に幡がある棹を立て右手を大
きく広げて天空を飛翔しております。仏教の飛天と違って上半身は裸ではありません。
仏教の「飛天(F)」が天から急降下してくる状況が描かれております。
 太陽のシンボルは「三本足の烏(C)」か「鳳凰」、月のシンボルは「兎(D)」か「蟾蜍(ひ
きがえる)」でこれは古代中国の「神仙思想」の宇宙観を表現したものであります。月の
図は少しはっきりいたしませんので書かれているのは蟾蜍とも言われますが私は我が
国ならば兎だろうと思っております。我が国で三本足の烏といえばお馴染みの「八咫
烏(やたがらす)」と財団法人日本サッカー協会のシンボルマークであり日本選手が左
胸に付けております。 
 「帝釈天宮(B)」は帝釈天の楼閣でその帝釈天の部下である四天王の楼閣が中腹の東
西南北にある「四天王宮(E)」であります。
 「海龍王宮(龍宮城)(J)」で釈迦(K)が竜王のために説法をするところです。釈迦の
脇侍は図から判断すると頭光、宝冠があり菩薩(M)であるようですが女性っぽく、少
し肥満体の方が竜王の奥さんでスリムなのが娘さんではないかとも言われております。
どうも、梵天・帝釈天とは違うようです。 
 現在、カビの繁殖で問題となっている「高松塚・キトラ古墳の壁画」には仏教の飛天
が現れず四神が描かれております。そういう意味ではこの画像は中国の神仙思想と仏
教との混淆という貴重なものでこの図以外ではお目にかかれないものです。インドで
誕生した飛天と中国で誕生した神仙が仲良く大陸、海を越えはるか東方の地・法隆寺
に雄飛してきた図であります。
 仙人が幡の付いた棹を持つのは天子の使いと言う目印で、崑崙山から須弥山にやっ
てきたのでしょうか。霊魂がこの仙人に連れられて崑崙山へ行くのであれば仏教の浄
土への往生願いはどうなるのでしょうか。難しい問題ですね。
 須弥山の山腹を取り巻いているのが、「二竜王(G)」の「難陀(なんだ)」「跋難陀(跋な
んだ)」竜王で須弥山を守っております。
 八部衆の「迦楼羅(N)」が「龍」を銜(くわ)えているところの場面が龍宮城の横にある
とのことで真剣に見つめましたがそれらしいところしか分かりませんでした。釈迦の
慈悲で竜が迦楼羅の災難から逃れることが出来た以前の物語でしょう。  

 

 
   百済観音像

  「百済観音立像」は「大宝蔵殿」では一展示物でしたが新
居の「大宝蔵院」では観音堂が造営されその堂の本尊として
安置されております。世界的に名高くフランスまでお出か
けになりました。出開帳などでお出掛けになる仏さんが法
隆寺では多いですがその際身代わりの仏さんが展示されま
すが身代わりだとすぐに見破られるのは百済観音像であり
ます。多くの方に愛される仏さんだけにお出掛けになると
寂しいです。今回、本尊となられましたのでお出掛けにな
ることはないでしょう。
 飛鳥時代としては止利派形式から脱皮しており、正面鑑
賞性から側面鑑賞性へと進み、側面から眺めれば像容の美
しさが実感されることでしょう。飛鳥時代のように天衣の
端が左右に広がる鰭状天衣から本像は天衣の端が前方に跳
ねる様式に変わっており鰭状天衣であればこれほどスラリ
とした長身には見えなかったことでしょう。
 六頭身の立像が多い中八頭身という珍しい像です。
 素材は樟ですが余程謂れのあるものだったのか彫りを控
え目にしてもスリムな像とならざるを得ない程細い素材だ
ったようです。背が高く異常な細身の像容が不思議な魅力

となっているのでしょう。彫りが浅いですから衣は密着状態にならざるを得ず官能的
で妖しい魅力となっております。モデルがいたのでしょうか。これほど、スリムな仏
像は何処を探しても見当たらないでしょう。東南アジアでは金箔や彩色で化粧された
のを有難がりますのでこのような古びた仏さんはそっぽを向かれることでしょう。漆
箔像でなく彩色像ですが極彩色で彩られていたのが剥落、退色した現在の像容の方が
落ち着いて奥床しい姿となっております。 
 本像の表面に木屎漆が塗られ整形されております。この木屎漆の漆の精製が不十分
だったのかひび割れが全身に及んでおります。乾漆のひび割れで眼、黒目の輪郭がは
っきりせずぼやっとなりいかにも潤んだ眼差しで哀愁に満ちた表情となっております
のとほっそりとした柔和な像は安らぎを感じさせるので女性にとっては堪らない魅力
となり人気抜群の仏さんとなっているのでしょう。

 髪の毛が蕨手型垂髪から写実に一歩進んだ自然の髪のように波型の垂髪で両肩に流
れております。
 条帛が左肩から右腰に掛かるものが逆になっております。脇侍なら左右対称になり
ますのでこの様式もありますが百済観音は脇侍ではなく単独尊ですから考えられませ
ん。インドでは左が不浄で右が清浄でありますので不浄の左肩を隠して清浄の右肩を
露にするのです。如来の偏袒右肩もそうであります。

  眼は飛鳥時代の杏仁形ではなく小さく可愛らしい眼です。口もアルカイックスマイ
ルではなく可憐なおちょぼ口です。 
 本像の指先の表現は見事です。宝瓶をしなやかな左手の親指と中指で挟む妖しげな
持ち方は魅力的です。昔、奈良国立博物館に寄託している時の愛称は、宝瓶が酒徳利
に見えたのか酒買い観音と付けられたといういかにも庶民的な観音さんであります。
 まっすぐ前に出されたふっくらとした右手には宝珠が奉られていたのでしょう。

 頭光背はそれまで直接後頭部に取付けられておりましたのが台座後部に支柱を立て
てその支柱で光背を支持しております。支柱は竹の皮、竹斑を模して作った木製であ
りますが良く出来ていて見た感じ竹だと錯覚を起こす出来栄えです。さらに、支柱の
根元には山岳文様まで丁寧に彫刻されております。
 台座に光背を取り付ける支柱を立てましたので偶数が通例である台座が五角形の奇
数となっております。頭光背を支柱に取り付けた最初の像ではないかといわれており
ます。
  寺伝では虚空蔵菩薩像でありましたが明治に入ると有識者によって朝鮮風観音とか
韓式観音とか呼ばれたりすることもありました。ところが、明治の終わりに倉から銅
板の透彫りの宝冠が出てきて、その宝冠を百済観音に合わせて見ると釘穴が合いまし
たので百済観音の宝冠であるということになりました。ただ、飛鳥時代にしては宝冠
は背が低過ぎるきらいがあります。
  この宝冠の中央には阿弥陀の線彫があり本像は虚空蔵菩薩ではなく観音菩薩である
ことが分かりました。江戸時代の記録に「虚空蔵菩薩 百済国より渡来 元天竺像也
毎夜捧天燈申伝也」というのがありましたので大正六年から愛称として百済観音、大
正八年には和辻哲郎が『古寺巡礼記』で「わが百済観音」と紹介されて一躍世間にその
名を轟かせました。百済観音は像そのものも魅力的でありますが異国情緒あふれるネ
ーミングも魅力的であります。

 宝冠に飾られている宝石は明治時代に作られたガラス玉です。ガラスではなく青い
釉薬を塗った陶器製という説もあります。
 宝冠、胸飾り、腕釧、臂釧は銅板の透彫りで造られております。

 


       橘夫人念持仏

 「橘夫人(ぶにん)念持仏」は本格的な
阿弥陀三尊像では現存最古のものです。
 橘夫人念持仏を法隆寺では最高傑作
の仏像で素晴らしさは一入であります
が残念なことに多くの方は百済観音像
の方を好まれます。
 藤原氏を万全なものにしたのが藤原
不比等で政治の中枢にあって平城京遷
都の立役者でもあります。歴史書でお
馴染みの中臣鎌足が天皇から藤原の姓
を賜り中臣一族が藤原の姓に変わりま
したが不比等は天皇に命を出させもう
一度藤原一族を中臣の姓に戻らせて改
めて不比等の直系のみ藤原の姓を名乗

りそれ以外のものは中臣氏のままといたしました。絶対的な権力者となった藤原不比
等であります。一方の奥さんである橘三千代は多くの天皇に重宝され天皇から橘の姓
を賜る影の実力者でありました。自分たちの娘を皇族でなければなれない皇后に仕立
てたのは三千代ではないかと言われるくらいの実力者でありました。その実力者の念
持仏の造像に際して、夫の不比等の影ながらの応援もあり、中央の優れた技術者が動
員されて当時最高の技術力で造られただけに鬆もなく仕上がりは抜群で最高の出来栄
えを誇る作品に仕上がったのは当然のことといえましょう。
 光明皇后の母となられた橘夫人は華々しい活躍の裏では孤独で日夜悩むことも多く
この念持仏に夜毎念じられたことでしょう。 

 全体に丸みが加わっております。法衣は通肩で、中国式服制からインド式服制
(後述に参考写真)に変わっておりますが衣の襞が線的表現でまだ観念的で写実の過渡
期の表現であります。
 飛鳥時代の男性的厳しい顔から白鳳時代の特徴である愛くるしい童児の顔となり見
ていて惚れ惚れいたします。
 髪は巻貝状の螺髪ではなく例のない珍しい渦状の髪であります。地髪部と肉髻部が
低いです。  
 杏仁形な眼でなく後世の眼のように閉じた伏目となっております。口はアルカイッ
クスマイルですがアルカイックスマイルとは唇の両端を上に吊り上げた状態です。
 飛鳥時代のような指をまっすぐ伸ばす緊張した手から両手の指も自然なしぐさとな
っております。  
 脇侍は少し腰を振り動きが出てまいります。この動作の究極が薬師寺の薬師三尊像
の脇侍の三曲法であります。捻った腰は菩薩が女性らしくなる前触れであります。事
実、脇侍のバストの辺りは少し膨らんでおります。
 施無畏・与願印の観音は珍しいです。

 後塀(こうへい)、光背は素晴らしいの一言ですがただ残念なことに蓮の茎が立ち上
がっている蓮池(れんち)が身長が足らず見えないです。が、お寺の心配りで大宝蔵院
の中庭に蓮池文を拡大した塼瓦が敷き詰められておりますのでどうぞご覧ください。
 円光背は外周から火炎、忍冬唐草、曲線を組合せた文様、八葉蓮華等の文様を驚く
べき細緻さで透彫されており設備、道具類もない時代によくぞ出来たものです。当時
の工人の技術力は現代我々が想像する以上のものを持っていたようであります。光背
は百済観音の光背を模したらしいですが橘夫人念持仏の方がずっと精緻に造られてお
りただただ驚嘆するばかりです。仏教での八葉とは葉でなく弁のことです。

 五扇屏風のような後塀が三面鏡のように3枚の折りたたみになっておりますが平板
の鋳造は難しいので分けて鋳造されたのでしょう。
 天蓋付の化仏が5体、極楽浄土での蓮華の台(うてな)に下生した菩薩が5体があら
わされております。菩薩は寛いだ表情に見えその喜びを上空に翻った天衣が表してお
ります。
    
 厨子の仏殿部が高過ぎ頭でっかちのように見えます。もう少し低くすれば安定感の
あるものになったことでしょう。
 金堂の天蓋を模した天蓋で、屋根ではないので宮殿像とは言い難い面があります。  
 台座の四面に描かれた絵画は岩絵の具を膠で溶いたので剥落が酷く残念ながら今は
肉眼での識別はできません。

 服装が中国の僧祗支からインド式服制に変わりましたので参考までに写真を掲載
しましたが適当な写真だったかどうかは分かりませんが。

           

 
       飛 天 像

 「飛天像」は金堂像を荘厳するために3天蓋の上辺に
付けられております。蓮華の台(うてな)に正座する表
情が愛らしい飛天でキリスト教のエンジェルのイメー
ジがありひょっとするとこの飛天のルーツはインドで
はなくギリシャ・ローマであるのかも知れません。
 飛天はいろんな楽器、横笛、ばち、琵琶、鼓、笙、
竪笛を持つ表情豊かでぬくもりを感じさせる木彫像で
す。
 頭の双髻は「中宮寺の弥勒菩薩像」と同形です。
 天衣が像本体に比べこれほど大きいのは珍しく西洋
の天使の雄大な翼のイメージでしょうか。この舞い上
がる天衣ではスピードを出したり停止して浮遊するの
もお手のものでしょう。台上に座しているという感じ
ですが天空に浮かんでいる状態で仏を琵琶で奏楽供養
しております。
 上半身は裸ではなくファーベストのような上着(肩
着)を着けております。

 顔貌は心が和む白鳳時代の童子の顔であります。
 焔の如く燃え上がる左右対称の領巾(ひれ)(羽衣)は唐草風に透彫したものです。左
右に蓮のような丸いものがあり唐草文は光背と領巾を兼ねたものでしょうか。      

  現存最古の「飛仙図」が法隆寺金堂に安置されております「薬師如来像」の台座内側に
描かれております。男性の飛仙で飛行には領巾だけで飛雲がありません。

 


           飛 天 像

 「飛天像」は金堂の長押
上にある小壁画です。
 昭和24年の悲しい出来
事で、アジャンター石窟
の壁画と並ぶ世界二大壁
画と称された金堂の大壁
画は今は痛ましい姿とな
ってしまいました。ただ、
小壁画は幸いなことに金
堂の解体修理のため取り

外してありましたので無事でした。
 飛天が二体並んで楚々たる美しさで舞い降りてきております。丸顔、上半身は裸、
胸飾り、臂釧、足釧を着け天衣は長く曲線状に棚引きスピード感にあふれております。
頭を挙げて本尊に視線を送りながら右回りに回る右繞(うよう)礼拝であります。
 足裏を見るとスピードをつける為キックしているように見えます。二体とも白魚の
ような美しい左手に華盤を捧げて散華供養をしております。瑞雲の霊芝雲が躍動感あ
ふれる天衣に寄り添って流れております。 
 飛天の視線が水平方向にあるように見えるのは本尊の高さ近くまで降下してきたの
でしょう。
 顔付きをみるとどうも男性らしいですが時代が進むにつれて我が国では三保の松原
の天人のイメージが強くて天人と言えば女性と決め付けており圧倒的な男性世界の仏
の世界を荘厳するのに女性の天人は適任でしょう。菩薩も釈迦の王子時代の姿と言わ
れておりましたのが時代とともに女性らしく変わってまいります。
 「大宝蔵院」はこの飛天図と上記の飛天像とが同じスペースに展示されており、古代
の飛天の絵と像が同時に拝見できますのでじっくりとご覧ください。

 

   
   百万小塔(模造品)

 「百万小塔」は高さ20pの小塔で、この小塔を百万基造ら
れたことが名前の由来です。この百万小塔を十大寺に十万
基ずつ下賜され、そのなかに法隆寺が入っておりこのこと
は法隆寺は十大寺に数えられて私寺ではなく官寺となって
いたことになります。現在、下賜された他の寺院には一基
も現存しませんが驚くべきことに法隆寺には約四万四千基
も残っております。
 写真は法隆寺から頂いた模造品です。現物は歴史を感じ
る状態になっております。
 孝謙上皇・僧道鏡対淳仁天皇・恵美押勝の戦いで孝謙上
皇が勝利を収められ相手側の淳仁天皇を退け再び称徳天皇
として重祚されました。その称徳天皇が国家鎮護、戦没者
の慰霊を祈願して百万小塔を造られました。

 塔には舎利を納めなければ塔とは言えません。釈迦の骨を「肉舎利」と言い、その数
は限られたものですから釈迦の教えでもある経典の方が舎利より尊いと解釈しこれを
肉舎利に対して「法舎利」といいます。小塔には法舎利として六種の陀羅尼の内四種
「根本」「相輪」「自心印」「六度」の経典が納められております。この陀羅尼経の印刷物は
世界最古の印刷物として著名です。聖武天皇が諸国に建立された国分寺の塔も金光経
最勝王経を祀る法舎利塔でした。
 百万小塔は天平宝字八年(764)から宝亀元年(770)までの六年もの長い歳月を掛けて
造られました。
 塔身は桧材、蓋代わりの相輪は木斛(もっこく)、桂、桜材でろくろ挽きで造られて
おりますが塔の屋根が深いので作業は困難を極めたことでしょう。

 


       新休憩所   

                 旧休憩所

 大宝蔵院が出来るまでは「旧休憩所」を利用しておりました。旧休憩所では休憩する
にも壁もなく飲み物の販売機も何もない寂しいものでした。「新休憩所」は飲み物の販
売機や売店もあり寛げる空間となっております。ただし、喫煙できるのは旧休憩所の
みです。 大宝蔵院をでるとトイレ、新休憩所、大宝蔵殿、旧休憩所と続きます。


       大宝蔵殿  


 「大宝蔵殿」に収蔵されておりました
美術品は「大宝蔵院」に移されました。
 先述の聖徳太子の1380年御聖諱の
2001年を記念して、この大宝蔵殿で毎
年春と秋の二回「法隆寺秘宝展」が特別
公開されることとなりました。
 法隆寺秘宝展は長期間開催されます
のでどうぞご覧ください。拝観されま
すと法隆寺の宝物の多さに驚嘆される
ことでしょう。

 


  東大門に向かう左側に
 法隆寺では珍しい桜並木が
 あります。
   


           東 大 門  

 我が国には国宝の門は20棟しかありませんがそのうち3棟が法隆寺にあります。国
宝指定の「東大門」は後世の改築も少なく、天平当時の面影をよく留めた門として貴重
なものです。
 門の出入口の前方に見える屋根は夢殿の屋根で、西院と東院の境にありますため、
通称「中の門」とも呼ばれます。なぜか、東院と西院とは少し離れております。
 平安時代に南向きの場所より移築されましたが元あった場所は不明です。   


 落書きをされた柱


          三棟造 

   「三棟造(みつむねづくり)」とは緑矢印の所に棟がありそれが三つあるからです。
ただ、中央の棟は天井に隠れた見えません。三棟造は天平時代の門とか回廊に採用さ
れました。この度、再建されました薬師寺の回廊が三棟造です。
 
 上記の保護材が巻きつけられた柱は、心無い者によって「みんな大スき」と彫り込む
落書きをされましてこれからどのように補修するかを検討中とのことです。多分面白
半分でやったと思いますが気の遠くなるような年月、この天平時代の建物を守るため
心血を注いだ先人たちの苦労が分かっていないからでしょう。1300年間、守ってこら
れた先人たちの遺志を継いで未来永劫守っていかなければならないのに。

 


         もちの木

 東大門から夢殿に向かう参道の左側に大きな「もちの木」が赤い実をたわわに付けて
おります。ガイドの時、女性の方は興味を示され質問されますので私は近づくと知っ
ておられようが関係なくあの木はもちの木ですと申し上げておりました。

 


          東院通用門

 「斑鳩宮」は601年着工し605年
完成いたしましたが643年に焼
失いたしました。
 僧「行信」は斑鳩宮が焼失した
跡が荒れ放題になっているのを
嘆き朝廷に具申して再建されま
したのが「上宮王院」です。
 当時の伽藍は八角仏殿(夢殿)
は瓦葺でしたが瓦葺は少なく他
の建物は桧皮葺でした。瓦葺は
礎石上の柱でしたが桧皮葺は掘
立柱でした。    

 平安時代に法隆寺に組み入れられ法隆寺の東院となりました。
 通常、人々は東院に行くとは言わず夢殿に行くと言われるように門の標識にも「上
宮王院夢殿」となっております。上宮王院とは東院のことで聖徳太子を上宮王と呼び
太子一族のことを上宮王家の人々と呼びます。

 


             夢  殿

 「夢殿」は東院の金堂で、世界的な建築家ブルーノ・タウトが夢殿を「建築の真珠」と
絶賛いたしましたように際立って優れた姿をしております。

 八角でありながら円堂と呼びます。我が国では全くの円堂は中国と違って造られま
せんでした。それには、完全な円より八角の方が変化 に富み趣があったからでしょ
う。
基壇、柱、須弥壇共に八角形で構成されております。
 夢殿とは平安時代の命名でそれまでは「八角仏殿」「八角円堂」「正堂」などと呼ばれて
おりました。後の言い伝えですが聖徳太子が夢殿で三経の注釈書を作成中、難解点が
出る度に夢の中に仏が現れて解説を受けたという説話によるものです。ただ、聖徳太
子の夢殿とは焼失した前の夢殿(八角仏殿)であります。
 夢殿とは響きの良いネーミングにしたもので建物に相応しく人々から親しまれる所
以でありましょう。
  降雨の少ない中国建築から我が国の気候風土に適するよう鎌倉時代の大改築で屋根
が2mも高くなり軒の出も70pも長くなって少し重苦しいものとなりました。ただ、
幸せなことに近くから眺めることができますので写真のように軒の曲線が優しくしか
も穏やかな屋根勾配となっておりますが東大門から夢殿を眺めますと屋根が少し目立
っております。
 古代の伽藍には金堂と塔がなければなりません。そこで、夢殿は聖徳太子の等身大
で造像されました本尊・救世観音像をお祀りする金堂と頂上にあります舎利塔とで金
堂と塔を兼ねた建物となっております。
 「宝珠露盤」は青銅製で、露盤、反花、蓮華、花実、宝瓶、天蓋、光明の構成です。
 法隆寺と斑鳩宮は聖徳太子を供養するためのものでありましたのが法隆寺が私寺か
ら官寺扱いとなりましたので聖徳太子を供養するための御堂が必要になり、焼失した
斑鳩宮の跡地に上宮王院(東院)が再建されたのでしょう。それゆえ、東院は供養する
伽藍ですので政に関与する西院とは離れていている方が良かったのかも知れません。

 八角円堂は霊廟、廟堂でありますので通常は伽藍の中心から離れたところにありま
すが太子の供養堂である夢殿は東院伽藍の中心にあります。  

 
    救世観音像


  仏像(中国)

 「救世観音立像」は聖徳太子の等身大像で在世中に制作されたということですが像高
は180pもあり古代では長身過ぎます。飛鳥尺(高麗尺)の5尺とされたのでしょうか
それとも、標準身長での造像では抵抗があったのでしょうか。太子の御影像が太子は
救世観音の生まれ変わりという信仰が起きて救世観音とされたのでしょう。救世に主
を付けると救世主となりキリストです。

 樟の一木造で木彫像では現存最古の遺品です。 
 扁平な体躯で正面鑑賞性、左右対称となっており止利仏師の仏さんそのものです。
 宝冠は大型の透彫りで
豪華絢爛たるものですがよく見えませんので写真で満足して
ください。宝冠には阿弥陀の化仏がありませんが飛鳥時代には化仏が無いものも結構
あります。逆に、白亳があり飛鳥時代の仏像で白亳があるのは珍しいといえましょう。
 
胸前で火炎付宝珠をややこしい手付きで捧げております。蕨手型垂髪(青矢印)、四
段に反る鰭状天衣(赤矢印)など飛鳥時代の特徴です。
 面長な顔、飛び出した白亳、眼、鼻、分厚い唇と少し異様な顔貌です。
 下地の白土を塗った後金箔で押さえるという例を見ない工法で下地の白土は金の輝
きを押さえ上品な仕上がりにしております。
 金堂の釈迦如来の脇侍による模古作という説もあります。八角の厨子は昭和15年作
です。
 
 明治17年、岡倉天心・フェノロサは寺僧が絶対秘仏である救世観音像を開扉すると
仏罰が当ると反対したにもかかわらず強権発動で、何重もの布、和紙で
厳重に巻かれ
いたのを取り外させましたら長い間秘仏だったため保存状態良好の本尊が現れまし
た。
金銅像と見間違えるほど漆箔が残っており驚きは一入だったことでしょう。
 フェノロサのお陰で今までは信仰の対象だった仏像が鑑賞の対象にもなり国を挙げ
て文化財の保存に努めるようになりました。

 救世観音像の開扉期間は春季の4月11日〜5月18日と秋季の10月22日〜11月22日で、
この時期は観光シーズンであり混雑いたしますがよく待っても2.30分です。しかし、
待ち時間が短いのは皆さんが協力し合って素通り状態の拝観をされているからです。
じっくりと拝観を希望される方は朝早くか夕方に夢殿を訪ねられることです。
 拝観時間に制約がある為、見応えのある姿、大型で素晴らしい透彫の宝冠、金銅像
のような鮮やかな漆箔などは写真でよく目に焼き付けてからお訪ねください。

  


        道詮律師像

 「道詮律師(どうせんりっし)像」は
平安時代作です。平安時代を迎えま
すと仏像の制作は「木彫」が主流とな
りますが写実を重んじる肖像彫刻は
「塑造」で制作されることもありまし
た。
  恰幅のよい身体つきに
比して彫り
の深い顔は温厚篤実そのもので見る
からに心優しい僧を表しております 。
 
眼ははるかかなたを眺めておりい
かにも瞑想しているようであります
  顔の表現は見事ですが頸から下の
表現は今ひとつとさえませんが少し
滑落しているところがあるからそう
感じるのかも知れません。 

 夢殿が天平時代に再建されて約100年を経た時には建物の傷みも出ており、その傷
みを道詮律師が私財をなげうって修理をされたのに感謝して像を夢殿に安置されたの
でしょう。
 手には次の「行信僧都像」のように如意を持っていたと思われます 。
  台座は礼盤座です。
 塑像は輸送途中に破損の恐れがあるため出開帳はありませんので国宝指定の塑像を
しっかりとご覧ください。

 


           行信僧都像

 「行信僧都(ぎょうしんそうず)像」は
天平時代に多く造られた脱活乾漆造で
唐招提寺の鑑真和上像と並んで天平時
代の肖像彫刻の二大傑作として著名で
す。ただ、残念なことに夢殿の東北の
隅に安置されていて大変見辛いことで
す。近畿以遠の寺院であれば看板的な
仏像となるのですが。
 頭頂が尖り、眼は切れ長で吊り上り、
大きな耳、頸は太く、慈悲の僧らしく
なく異様な顔貌でありますが夢殿が焼
け野原になっている荒廃ぶりを見て涙
を出して嘆いたと言う情熱家だったよ
うです。法隆寺の再建に貢献、さらに
多くの宝物を法隆寺に奉納された方ゆ

え経費の掛かる脱活乾漆造で制作され追加安置されたのでしょう。
 法衣は乾漆だけに精細に描写されております。
 「如意」を右手は上から軽く握り左手は下から支えております。如意の原形は今では
珍しくなりました「孫の手」です。異説もあります。
  行信僧都は高名な仏教学者で仏教界をリードする重鎮的存在でした。 

 


        礼 堂

 

 「礼堂」は当初の中門の跡地に鎌倉
時代に新造されました。このことは
古代では中門が通路の門としていた
だけでなく礼堂の役割を担っていた
名残でしょう。 

 


        袴腰付鐘楼

  「袴腰付鐘楼」では現存最古の遺構で
す。袴腰付にするのは「貫」の技法がま
だ伝わる以前、楼造の鐘楼での構造上
の問題点、例えば、鐘を突いた時の横
揺れや横殴りの雨風による建物の被害
を解決すべく袴腰付鐘楼が考案されま
した。今までの鐘楼とは違い屋根が切
妻屋根から変化のある入母屋屋根と変
わりましたのと袴腰のデザインが受け
ましてこれ以降袴腰付鐘楼の方が多く
造立されるようになりました。特に、
この袴腰付鐘楼はデザインが良く見応
えのある鐘楼ですが立ち止まって見と
れる方は殆ど居られないという悲しい
現実です。夢殿をでると中宮寺へ一目
散です。このことは、法隆寺の拝観を
一日どころか短時間で済まそうとする

ためでせめて23日掛けて拝観してほしいものです。それと、法隆寺は時期をおいて
来られるとまた違ったものが見えてきて改めて感動が起こるお寺です。
 中宮寺の銘が入った天平時代の鐘が釣ってあるとのことですが今だ鐘の音を耳にし
ておりません。  
 袴腰部分が総べて白壁という袴腰付鐘楼もありますがこの鐘楼も当初は白壁のみだ
ったらしいです。  

 


         伝 法 堂(妻側) 

 「伝法堂」の前身は天平時
代の有力な貴族の邸宅の遺
構で、平安、鎌倉時代の貴
族の住宅の遺構が存在しな
いだけに貴重なものといえ
ましょう。建物は橘夫人
(たちばなぶにん)の邸宅の
一屋と言われておりますが、
橘夫人とは有名な「橘夫人
念持仏」の「橘三千代」かそ
の三千代の子息の娘すなわ
ち姪にあたる「聖武天皇」
夫人の「橘古那可智」とも

言われております。
 橘三千代は追賜で正一位までになりますが一方の古那可智も聖武天皇夫人という高
貴な身分だけに決めがたいですがどうも古那可智の方が有力です。ただ、寺院
建築様
式が貴族の住宅に取り入れられたのは不思議なことでしかも土間である筈が板敷きに
なっております。建物は橘夫人が何に使われていたかは不明です。
 
桁行五間の内三間が部屋で残りの二間が吹き放しの床だったのを総て室内空間に改
しております。
 大虹梁と小虹梁に三つの蟇股の「二重虹梁蟇股」で一番整った形をしておりますゆえ
天平時代の代表的な二重虹梁蟇股と言われております。際立つ白壁と木組だけで構造
美の極致を造る感覚は日本人以外考えられないことでしょう。いずれにしても貴族の
邸宅が現存したことは喜ばしいことです。長い間の修築も終わり美しい姿が再びお目
に掛かれるようになりました。
 野屋根がないので軽快で穏やかな屋根となっております。妻側の形は最高に美しい
と言われております。
 横材が細くして縦の線が強調されるのが天平建築の特徴であります。
 東院の講堂であったのが伝法堂と呼称変更になりましたが堂名の由来は不明です。

 余談ですが古那可智が東大寺に奉納された「橘夫人奉物」と墨書されたツゲの札を付
けられた「犀角把白銀葛形鞘珠玉荘刀子(さいかくのつかしろがねかずらがたのさやし
ゅぎょくかざりのとうす)」が昨年の正倉院展に展示され話題を呼びました。

 

 
      北室院表門

 「北室院表門」は現存最古の平唐門として有名
です。輪垂木、蟇股は優れた形をしており一番
優美な唐破風屋根と評判をとっております。こ
のような門は建築費が掛からないので修復でな
く新しく建て替えられますため古い建造物は残
っておりません。
 唐破風の唐は中国のことではなく、唐破風は
我が国で考案されたものです。

 平唐門は平安時代から建築が起こりますがこ
の門は室町時代の造営です。 

 

 

 

 

 中宮寺の正面は西向きです。
中央が正門で左門が通用門で
す。ここまで来ると人影も少
なくなります。
 御堂は南向きです。

 

  
      弥勒菩薩半跏像

 弥勒菩薩と言えば何と言っても中宮寺の「弥勒
菩薩半跏思惟像」でしょう。
 弥勒菩薩像は「如意輪観音像」との説があります
が飛鳥時代制作ということですから弥勒菩薩と考
えるほうが無理のないところと思われます。
 多くの方が拝観してその素晴しさに大変感動し
たとおっしゃっいます。この像は年齢に関係なく
安らぎを与えるようです。

 「半跏思惟(はんかしゆい)」とは片足を反対の足
の上に乗せ、もう一方の片足をだらりと下げる坐
り方で、さらに、左手を頬に向けいかにもロダン
の「考える人」のように思索する姿のことです。
 
半跏思惟像は平安時代になると造られなくなり
ます。
 中国ではこのように思索する像は釈迦如来の前
身で修行中の思惟状態である「悉達太子像」と言わ

れております。と言いますのも「弥勒菩薩」は釈迦入滅後56億7千万年を経ると釈迦
如来のリリーフになることが
間違いなく決まっているので思惟する必要が無く、ただ
時が来るのを待てばよいと
言う考え方らしいです。この様式の像は韓国である運動の
リーダーが弥勒菩薩の化身だと言って民衆にアピールしたことで弥勒菩薩ブームが起
きましたときの弥勒菩薩の様式で、その様式がわが国に請来して造像されたのであり
ます。弥勒菩薩の生まれ変わりといえば有名な中国唯一の女帝「則天武后」がそうであ
ります。
 仏像がまず最初に、わが国に請来したのは弥勒菩薩と「釈迦如来」ではないかといわ
れているくらい弥勒菩薩は早くお見えになりました。弥勒菩薩は釈迦如来の弟子であ
り、釈迦と同じく現存された方とも言われております。
 弥勒菩薩は釈迦入滅後インドならではの数字56億7千万年後に釈迦のリリーフと
して我々を導いていただける仏さんです。それでは、長い無仏の時代はどうなるのか
いいますと「地蔵菩薩」が我々を守ってくださるのです。
 弥勒菩薩(マイトレーヤ)は将来、釈迦如来の代理となられるくらいですから優れた
弟子だったと想像されますのに「十代弟子」に入っていないのは何故でしょうか。弥勒
菩薩は現在はまだ未熟ですが将来性を買われて56億7千万年という期間、兜率天での
修行の機会を与えられたのではないでしょうか。それで、思惟の姿になったのかも知
れません。

 本尊は飛鳥時代は霊木信仰の一木造の時代でしたが、本尊は後世の寄木造のように
規則的に木を組み合せるのではなく、多くの部材を不規則に組み合せて造像されてお
ります。この珍しい制作方法を取らざる得ない何か謂れのある樟材を集めた結果細切
れの部材に加工して組み上げられたのでしょうか。飛鳥時代はまだ樟の大木が存在し
ていた筈です。

 弥勒菩薩半跏思惟像は美少女のような楚々たる聖女で、精細な右手の仕草は思惟と
いうより何かはにかんでいるように見えいじらしい姿です。胸が膨らみ右手で頬杖を
付く姿は乙女の身体つきのようであります。それと彩色は剥落して下地の黒漆が表れ
ておりますのも魅力の一つでしょう。宝冠が失われて双髻が表れたことも幸せでした。

 飛鳥時代の特徴である蕨手型垂髪で、瓔珞は欠失したのかそれとも如来待遇の菩薩
ですから装飾品を身に着けなかったのかは不明です。一部飾りを着けておられても質
素なものだったことでしょう。しかし、椅子の榻(
台座)は立派なものとなっておりま
す。
 参考までに中国での弥勒菩薩像は椅子に坐り足をX字に交差させているものが殆ど
であります。

 

                            画 中西 雅子

                           

 ガイド活動の集大成ともいうべき「法隆寺のお話」は皆さんにとりまして満足いただ
ける内容、画像ではなかったかもしれませんが我々老夫婦がねじり鉢巻で作成いたし
ました。どうか、法隆寺を訪れたことのない方、訪れても12回の方はこの資料を
参考にしていただき一度とは言わず何度でもお訪ねいただければ幸いです。
 法隆寺は訪れるたびに新たな感動を呼ぶに違いないと確信しております。
 皆様のお越しを優美な南大門が両手を広げてお待ちしておりますので心ゆくまで法
隆寺をご堪能いただき癒しの時間をお過ごしください。   中西 忠