敏満寺 清涼山不動院

1400年の伝統を持つ寺院です
宗旨宗派を全く問わない、どなたでもお参りしていただけるお寺です。
1400年の伝統を持つ寺院ですが、葬儀・法事は言うに及ばず、人々のお悩みにお応えするため、様々な宗教活動を行っております。

お知らせ

弘法大師は6月15日にお生まれになっていますので、本山の高野山をはじめとして、
6月15日には「青葉まつり」と称して、宗祖の弘法大師をお祀りする行事を行っています。
当院でも、二週間ほど早いですが5月28日には「弘法大師まつり」として、
宗祖の弘法大師をおまつりしています。ご都合のつく方はぜひお参りください。
台座の文字が料理店の窓ガラスに浮き出たという、有名な弘法大師像をはじめ、
数多くの弘法大師を当院ではおまつりしています。

 

ともしび                 

第百四十一号


ミリンダ王の問いの話


ずっと以前の「ともしび」にも書きましたが、ギリシアの北方、マケドニアに英雄が現れたことがあります。その名はアレキサンダ-大王。彼は若くしてギリシア、ロ-マ、エジプト、アラビアを征服し、世界帝国を築きました。彼はインド遠征の途中でマラリアため三二歳で没しましたが、アレキサンダ-帝国の出現は後世に大きな影響を与えました。何しろ世界中にまたがる大帝国ですから、帝国内を東西の産物や技術者が盛んに行き交うようになったのです。 インド西部にもギリシア人の植民地ができ、大量のギリシア人が入植してきました。もともとインドの仏教には、仏像を作って拝むという習慣がありませんでした。そこへギリシアの彫刻師たちが大量に移りすみ、かつてビ-ナスやアポロンの神像を作っていた技術が生かされ、仏像が生み出されたのです。
ミリンダ(弥蘭陀)も、そのようなギリシア植民地の王だった人で、ギリシア名をメナンドロスといいました。この王と、インドの尼さんナ-ガセナとが仏教をめぐって問答をしたことがあり、「弥蘭陀王問経(みりんだおうもんきょう)」という名前で残っています。王は哲学の国ギリシアの人らしく、西洋的で論理的な思考の持ち主で、一方ナ-ガセナは仏教徒代表ですから、東洋的な発想をします。論理的思考というよりは、修行などの体験を元にした感覚的な結論の出し方をしているところがあって、読んでいると実におもしろいものです。
 論理的な発想がいいのか、それとも感覚や経験ではじき出す結論がいいのか、どちらも一長一短といったところでしょう。自然科学の分野では、西洋的な論理的思考の方がすぐれているのは事実です。科学の発達が人間生活を豊かにし、病気にも打ち勝つすぐれた医術をはぐくんできたのは確かです。しかし、人間としての生き方の分野では、論理的にすべてを割り切れるものでもありません。どんな社会を作り、人間はどう生きていくべきかなどという問題については、論理的、科学的に結論をはじき出すだけでは、どうしても不備なところが生まれてきます。共産主義思想などがいい例です。理論上では、共産主義こそがもっとも科学的で、もっとも高度に発達したもののはずでした。社会の仕組みは、まず最初に原始社会があり、次に王様などが支配する独裁社会が生まれ、その次に資本主義社会となり、最後に労働者が支配する共産主義体制が生まれるという科学的説明がなされていたものです。ところが現実には、ソ連も東ヨーロッパ諸国も完全にずっこけてしまいました。中国は共産主義を部分修正して資本主義の活力を取り入れ、今のところは繁栄していますが、いずれ民主主義勢力が台頭してやっていけなくなるのは目に見えています。
 なぜ共産主義が失敗してしまったのかというと、すべてを論理的にわりきれるものと考えすぎてしまったからに他なりません。無神論の国家だったからことからもわかるように、理屈にあうものはよし、あわないものはだめと割り切りすぎてしまいました。「人生には五つの計算がある」そうですがその内訳は、
   足し算  引き算
   割り算  かけ算
   誤算
だそうです。4つめの「わり算」までは論理的思考でどうにでもできますが、5つめの「誤算」が意外に大きな要素で、どんなことをするにあたってもこういうトラブルをさけることは出来ません。人生の誤算に対応するには、トラブルの種類に応じてそれこそ千差万別のやり方があり、一概に「こうしていけばいい」とはっきり決めることは出来ません。人間関係の改善が最良の方法である場合もあるし、損得をはなれた誠意で事態が解決することもあります。こんな分野まで共産主義では「科学的解決」をすることにこだわり、結果として体制の崩壊を招いてしまったのです。さまざまなトラブルに対して共産諸国がどう対処したかというと、それが「プロレタリアートによる独裁体制」です。これは労働者の代表に権力を集中させ、独裁体制をしいて反対意見を封じ込めるという方法でした。絶対権力は絶対に腐敗するものです。論理一本では、どうしてもやり方に無理があることがおわかりでしょう。
 先ほどの「ミリンダ王の問い」も、哲学論争の末結局は仏教徒のナ-ガセナの説く教えに、ミリンダ王が脱帽して終わっています。仏教徒側の作った教典ですから当然の結論とも言えましょうが、信仰を持つ人ならば、理屈より実践の方が価値を持つことも多いことをご存じでしょう。へ理屈をこねるよりもまず汗をかいて努力することが、大切な場合も多いはずです。


                          合掌
522-0342 滋賀県犬上郡多賀町敏満寺178番地
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高野山真言宗清涼山不動院