源為義は平安末期の武将である(1096〜1156年)。
父義親は西国で乱行を起こしたため、1108年に平正盛により誅される。
祖父義家が1106年に死去し、家督を継いだ伯父忠義が1109年に暗殺された
後、為義は河内源氏の棟梁と称する。通称は六条判官、陸奥四郎。
当初は白河法皇・鳥羽上皇に伺候するが度重なる不祥事で信任を失い、
検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近すること
で勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果た
すが、八男の為朝の乱行により解官となる。
保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方に
ついた長男の義朝の手で処刑された。
保元物語では、義朝の部下である鎌田正清と波多野義通によって七条朱雀
で切られ、圓覚寺で埋葬されたとある。
この供養塔は、寺伝によれば『当山の再興(1596年)よりはるか昔から、
丹波街道(七条通)を挟んだ北側には、為義公の墓があった。現在の供養塔
は、貞享三年(1686年)の年忌法要に際し、再整備したものである。』との
ことである。
1912年に京都駅操作場の拡張工事に伴って、現在の中央卸売市場(京都市
下京区朱雀堂ノ口町)から現在地へ移設した。