米高騰の原因JA農協への疑い

 米がここまで高騰したのはJAの画策としか思えない。文春の記事に寄ればJA関連団体は農水省から28人もの天下りを受け入れているという。企業が天下りを受ける目的はたった一つ儲けに利用する為でしかない。そうでなければ高給を払ってまで雇う必要がないからである。

 私は何の宗教にも入ってないが神は存在しているのである。利己の為に人を苦しめる行為を図る者には必ず今世か来世に因果律が100%返ってくるのである。
 
 東京電力を見よ。2011年の東電の電気代は、東電を千円とすると、アメリカは640円、イギリスは750円、フランスは660円と欧米に比べて高い電気料金を取っていた。それが既得権益のため数多くの天下りを受けていたせいでないと誰が言えるだろうか。
 
 しかし2011年の東日本大震災で東京電力は甚大なる被害を受け、福島第一原発の事故をめぐって、東京電力の株主が、旧経営陣5人に対して、およそ22兆円の損害賠償を求めた。東京地裁は経営責任を認めて、旧経営陣5人のうち4人に対して、13兆3210億円の損害賠償を命じた。 民事裁判の賠償額としては、国内では、過去最高とみられている。

 自然災害は決して偶然ではなく因果律の一環なのである。天下りを受け入れるということ事態、ただ利己的手段の為でしかなく、許されざる悪徳行為である。その行為によって霊格が下がり今世か来世のどちらかでそれなりの人生を送らざるを得ない運命を辿るのがあなた達には分からないのだろうか。
 
 ヒトラーやスターリンのように大量殺人を犯した人間が、あの世で安楽に暮らしていると思っているのだろうか。それとも死後は無になるともでも思っているのだろうか。そんなはずがあるわけないだろう。ヒトラーやスターリンは未だに暗黒のオーラで我が身を包み悶え苦しんでいるのだ。そして、生まれ変わったときは残虐に殺される運命を辿るのである。自分のしたことは必ず自分に返ってくるのが神の因果律なのである。
 
 神の摂理は、親切、寛容、同情、奉仕の四つだけである。この四つの行為に人間としての人格が形成される全ての素養が籠められており、インチキ宗教のようなこまごました縛りもなければ矛盾した教義や集金システムもない。誰が見ても本物の神の摂理であることが理解できるはずなのに、しかし、そういった神の叡智に気付く人は少ない。
 
 2025年4月16日のニュースで韓国は米10キロ3000円と報じられていたがそれが普通の値段ではないだろうか。ロシアとウクライナの戦争以降確かに物価は上がっていったが、パン、うどん、蕎麦、缶詰、酒、ビール等で値段が2倍以上になったものがあっただろうか。米だけが凶作でもないのに2倍以上の高値をつけていったのである。えげつないやり口としか思えない。

 備蓄米をいくら放出しても、米の値段が下がらない原因が判明した。自分らが買い占めたコメの価格を下げないためにJA関連が備蓄米をほとんど落札していたのである。1回目の備蓄米放出の時はJA関連で93.8パーセントが落札され、2回目の放出の時は94.2パーセントが落札され、ほぼ100パーセントがJA関連に落札されていたのである。落札された備蓄米は市場に出回らず殆どがJAの倉庫に隠匿されているものと思われる。

 言って見ればJA農協のサジ加減一つで米の価格は思い通りになる感じである。国民の主食である米をそんな安易に価格を上下できるような環境を与えている政府が余りにも無策過ぎるのである。第2次大戦後の財閥が解体されたようにJA農協を解体すべきではなかろうか。でないと今後は米ばかりか果物や野菜のようなものまで自由に価格を高騰されかねない恐れもある。天下りを多く取り入れているJA農協こそ米高騰の元凶に思えるのは私だけだろうか。
 
 JAを運営している人たちも10年20年或いは30年経てばほとんどが霊界に行くことは必然なのに、悪徳商法をやって何の危惧も持たないのだろうか。全ての人間は神の一分霊で永遠に死ぬことも滅ぶこともなく、物質世界で行ったことが全て自分の身に返って来ることが分からないのだろうか。
 
 腹黒い実業家については、シルバーバーチはこう語っている。


 そういう人は必ず罰を受け、いつかは自分で自分を罰する時がくるのです。中略、私の目には、いずれ彼らが何世紀もの永い年月にわたって受ける苦しみが見えるのです、暗黒の中で悶え苦しむのです。その中で味わう悔恨の念そのものがその人の悪行にふさわしい罰なのです。
 
 大霊(神)はこの広大無辺の宇宙で絶え間なく作用している無限の知性です。因果律の働きは完璧です。原因があれば数学的正確さをもって結果が生じます。その原因と結果のつながりに寸毫たりとも影響を及ぼす力を持つ者はいません。刈り取る作物は播いた種から生じているのです。

 神の摂理は機械的に機能し、自動的に作用します。すなわち、親切、寛容、同情、奉仕の行為が自動的に、それ相応の結果をもたらして霊性を高め、反対に利己主義、罪悪、不寛容の精神は自動的に霊性を下げます。この法則は変えようにも変えられないのです。みっともない執行猶予も、安価な赦免もありません。人間の法律は機能しないことがあります。改められることもあります。人間の成長と発達に伴って視野が広がり知識が無知をなくし、環境が変化するに伴って新たな法令が要請されると、従来の法律が廃止されたり、別の法律と置き換えられたりすることもあります。
 
 しかし、神の法則に新しい法則が付け加えられることは絶対にありません。改正もありません。解釈上の変化も生じません。いま機能している法則は、これまでもずっと機能してきた法則であり、これからも変わることなく機能していきます。一瞬の休みもなく機能し、そして不変です。利己主義のタネを播いた人は、利己主義の結果を刈り取らなければなりません。罪を犯した人はその罪の結果を刈り取らねばなりません。寛容性のない人、頑な人は、不寛容と頑固の結果を刈り取らねばなりません。
 
 ある花のタネを蒔けば、そのタネの花が咲き、それ以外の花は咲きません。あなた方の未来も同じです。過去と現在によって決定されるのです。外部から与えられる罰ではありません。自分でこしらえているのです。

 あなた方が生き、呼吸し、考え、反省し、判断し、決断を下し、あれこれと思いをめぐらすのも、霊の力があればこそです。物を見、音を聞き、動き回り、考え、言葉をしゃべるのも、霊の力のお陰です。物質界のすべて、そしてその肉体も、生命力にあふれた霊力の流入によって、存在と目的と指針と生活を与えられているのです。

 物質界のどこを探しても、意識の秘密は見つかりません。科学者、化学者、医学者がいくら努力してみたところで、生命の根源は解明されません。それは物質そのものの中には存在しないからです。物質は、それが一時的に間借りしている宿にすぎません。霊の力は、あなた方が“神”と呼んでいるもの、そのものです。もっとも、その神を正しく理解していただけないかも知れませんし、誤解してその意味を限定してしまっておられるかも知れません。ともかくその霊力が、かっては火の固まりであったものを今日ご覧になっておられるような生命あふれる緑の地球にしたのです。

 私たちは因果律という絶対的な摂理を説きます。つまり誰一人として神の摂理のウラをかくことはできません。ごまかすことはできません。自分が自分の救い主であり、贖(あがな)い主であり、自分の過ちには自分が罰を受け、善行に対する報酬も自分が受けるのです。因果律の働きは完璧です。原因があれば数学的正確さをもって結果が生じます。その原因と結果のつながりに寸毫たりとも影響を及ぼす力を持つ者はいません。刈り取る作物は播いた種から生じているのです。

 腹黒い実業家については、「そういう人は必ず罰を受けるのです。いつかは自分で自分を罰する時がくるのです。あなたと私との違いは、あなたは物質の目で眺め私は霊の目で眺めている点です。私の目にはいずれ彼らが何世紀もの永い年月にわたって受ける苦しみが見えるのです。その中で味わう悔恨の念そのものがその人の悪業にふさわしい罰なのです」

 世の中が偶然によって動かされることはありません。どちらを向いても、天体望遠鏡で広大な星雲の世界を覗いても、顕微鏡で極小の生物を検査しても、そこには必ず不変不滅の自然法則が存在します。あなたも偶然に生まれてきたのではありません。原因と結果の法則が途切れることなく繰り返されている整然とした秩序の世界には、偶然の要素の入る余地はありません。

 墓場で人生は終わるのではなく、苦難の生涯を送った人や挫折の人生に終わった人にも埋め合わせとやり直しのチャンスが与えられ、地上界のために貢献しながら逆賊の汚名を着せられた人にも、悔し涙をぬぐうチャンスが与えられるのです。

 生命は死後にも続くのです。続くからこそ、愚かにも地上で威張り散らし、自然の摂理も逃れられるのだと思い込んでいた者は、その誤りを矯正するための試練を体験しなければなりません。そうした事実を知って、少しもおそれを抱く必要はありません。他人を思いやり慎み深い生活を送っている人は、何一つ怖がることはありません。怖がるべきは、利己的な人生を送っている人達です。

 全生命を創造した力は、その支配のために、規則ないし法則、あるいは摂理というものを用意したのです。その背景としての英知も機構も完璧です。全ては霊的なものです。すべての生命は霊的存在だからです。生命が維持されるのはその本質が物質ではなく霊だからです。霊は生命であり、生命は霊です。

 宇宙は道義的な意図で満ち溢れており、非道義的意図は大霊(神)の摂理に反します。人生に偶然はありません。偶然の事故というものもありません。偶然の一致というものもありません。全ては普遍の自然法則によって支配されています。私達は因果律という絶対的な摂理を説きます。つまり誰一人として神の摂理のウラをかくことはできません。ごまかすこともできません。自分が自分の救い主であり贖(あがな)い主であり、自分の過ちには自分が罰を受け、善行に対する報酬も自分が受けるのです。

 人間はみな地上生活の行いの結果を魂に刻み込んでおり、それを消し去ることは絶対にできません。その行いのなかに過ちがあれば、その一つ一つについて然るべき償いを終えるまでの霊性の進化は得られません。

 善い行いをすればそれだけ霊性が増します。利己的な行いをすればそれだけ霊性が悪化します。それが自然の摂理であり、これだけはごまかすことができません。死の床にあっていくら懺悔の言葉を述べても、それで悪行がもたらす結果から逃れられるというものではありません。地上では特定の神を信じれば救われ、反対にその組織が崇拝する神を崇拝せね救われないと説く宗教がありますがそのようなことはありません。神とは自分が崇拝されたからと言って喜ぶような人間的存在ではありません。もしそうであれば神の公正が根源から崩れてしまいます。邪悪で利己的な人生を送った者が、神を崇拝したからと言って素直で利他愛に富んだ人生を送った者を差し置いて神の恩恵に浴することがありえましょうか。

 神を崇拝し自分は選ばれた一人のつもりになり、宗教的行事に傾倒している人間よりも、転んだ人に手を差し伸べ、飢えた人にパンを分け与え、悲しみに打たれている人に励ましの言葉を掛ける無神論者の方が遥かに神に近く尊い人物です。

 宗教に教義、経典、教祖、礼拝堂、賛美歌は必要ありません。宗教とは利他愛の実践、一言で言えば「サービス」これにつきます。大切なのは利他愛の実践であって、神を信じるかどうかは関係ありません。神を信じるかといって神から寵愛される訳でもなく、また神を信じないからと言って罰せられることもありません。


 シルバーバーチの霊訓を一部抜粋したが、JA関連の人たちはこれを読んでも死後の世界など存在しないと確信を持てるのだろうか。この人間離れした理路整然とした文章を見ても、儲け一辺倒のJA関連の人たちは冷血人間のように感じるものがないのだろうか。

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