奥田 ひとみ
信楽は、忍者で有名な伊賀、甲賀と隣あった山間にあり、高原気候で清々しく気持ちのよい処です。 日本昔話に出てくるような鎮守の森にかこまれ、都会の人が忘れてしまったような温かい人の交流に充ちています。
そんな信楽から、四季の風景、習慣、味など、折にふれてお知らせしたいと思います。

                     

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信楽便り 6号  2001年2月

  
5号で、紫香楽宮についてお話しましたが、その後新しい遺跡が発見され、信楽町でも大変関心集めています。町の広報「しがらき」の12月号に大変詳しい記事が載りましたので、ちょっと続いてしまいますが、歴史を変えるかもしれない発見について、広報から転載させていただきたいと思います。
   
広報「しがらき」12月号より
国政の中心となった建物と宮殿へつづく道を発見
聖武天皇が造営した都・紫香楽宮(しがらきのみや)として、町が昭和58年から発掘調査を続けている宮町遺跡で、長さが90メートルを越える大きな建物跡が見つかりました。
町教育委員会と紫香楽宮跡調査委員会ではこの建物跡を、南北に長いその形や周辺の地形などから、宮殿の中心施設で、重要な国の儀式を行ったり、政治をつかさどった「朝堂院(ちょうどういん)」跡と判断、紫香楽宮が宮町地区にあったと確定しました。また、宮町遺跡の発掘現場から約1.1キロメートル南で、県教育委員会により発掘作業がすすめられていた新宮神社(しんぐうじんじゃ) 遺跡(黄瀬) でも、幅8.5メートルというとても幅の広い橋の跡が発見されました。
この橋の跡は、大仏を造った甲賀寺の跡と考えられている史跡紫香楽宮跡と宮町遺跡を結ぶ中央道路にかかっていた橋とみられ、紫香楽宮跡が奈良・平城京などと同様、広範囲にわたり、本格的な都としての都市計画がなされていたことが推測できます。
11月25日に行われた現地説明会には県内外から約1200人の考古学ファンが宮田を訪れるなど、今回の発見は、日本の歴史を解き明かす上でたいへん大きな出来事として多くの注目を集めています。


紫香楽宮について
 紫香楽宮(しがらきのみや)については、平安初期に編さんされた国史・続日本紀(しょくにほんぎ)に記されています。紫香楽宮は奈良時代中期の都で、聖武天皇が天平14(西暦742)年から造営を始め、同17(同745)年1月に難波宮(なにわのみや・現在の大阪市)からこの地へ都を移しました。しかし正式な都となった後、大きな地震や火災などが相次いだため、同年5月、わずか4か月で聖武天皇はこの地を離れ、恭仁宮(くにのみや・現在の京都府木津町) へ移りました。都も6月には平城京(へいじょうきょう・現在の奈良市) へ移されました。わずか数か月の都ではあったものの、紫香楽宮では、同15(西暦743)年に聖武天皇より大仏建立の詔(みことのり)が出され、現在の史跡紫香楽宮跡にあったと思われる甲賀寺で大仏が造られたとされています
紫香楽宮の中心部分を発見(写真をクリックすると、拡大されます)


 町では昭和58年から、紫香楽宮の発掘調査を宮町遺跡で開始しました。調査がすすむにつれ、この遺跡から重要な内容を記した木簡などが多数出土し、この地が紫香楽宮であるとの可能性が強まりました。
 今年4月からは、宮町会館横で第28次調査をすすめていました。地形的にも、周辺にほ場整備前の水田の畦(あぜ)が四角く取り囲み、大きな区画が想定されることからこの調査地は紫香楽宮の重要な場所であると考えたからです。そして今回、この調査地から大きな建物跡の発見がありました。
 見つかった建物跡は、長さ91.5メートル以上、幅11.8メートルというとても長大なもので、今後の調査でこの建物跡の長さはさらに約95メートルくらいまでのびると予測しています。今回確認した建物の規模は、平城宮などの宮殿遺跡ではいずれもその中枢部を構成している建物の規模に匹敵することから、今回の建物も紫香楽宮の中心区画の建物であったと判断しました。さらにこの建物には、東と西、北の3面に庇(ひさし)がついており、格の高い建築様式であったことがうかがえます。 しかし、この建物は南北に長いことから、天皇の着座する正殿である「太極殿(だいごくでん)」ではないようです。周辺の地形もあわせて考えると、「朝堂院(ちょうどういん)」という区画の中に置かれた、重要な国家儀式の際に中央官庁の役人が集まる建物で、正殿に付属する脇殿のうち西側に配置されたものであったようです。 

 今回の発見よりわかったことは、まず第1に、短命に終わった紫香楽宮にも、重要な国家の儀式や政治を行う「朝堂院」という区画があり、短期間でありながら都として機能していたこと。第2に、建物の大ささや配置は、平城京や難波宮の中枢部を構成する朝堂院の建物構成とは異りますが、国の省庁を構成するそれらの脇殿の建物より格段に大きく、離宮から発展した紫香楽宮では朝堂の建物配置を平城京の「西池宮」と類似した建物配置にした可能性があり、造営当初には政治的な都を目指したものではなかったこと。そして第3に、都全体の計画基準線が、建物の東側約55メートル離れた場所にあったこと、などが今回の調査成果やほ場整備前の地形などから推測できます。 紫香楽宮の実態はまだ明らかにはなっていませんが、今回の中心部の発見により、その実態が一気に解き明かされようとしています。
中央道路と関所も発見(写真をクリックすると、拡大されます)
 さらにもうひとつ大きな発見がありました。
 宮町遺跡の約1.1キロメートル南の新宮神社(しんぐうじんじゃ)遺跡(黄瀬) で、紫香楽宮と同じ時代の幅12メートルの道路と幅8.5メートルの橋の跡が見つかりました。今でこそ、その規模の橋は珍しくありませんが、自動車のない時代には必要のない大きさであり、国家の権威を示そうとしたものであったと考えられます。さらに、発見された位置や幅から推測すると、この道路は史跡紫香楽宮跡と宮町遺跡との間を南北に結ぶ中心道路で、続日本紀に記されている「朱雀路(すざくろ)」であると見られます。この道路は、橋の北側にある山を避けるため直角に曲がり、さらに宮の中央があった宮町地区へ北上します。また、この道路に沿って建てられた役所と思われる建物跡も見つかっており、今回調査した場所は、宮町にあった宮殿へ入る道路とその警備のための役所であったと考えられます。このように、それぞれ関連する役所と橋、そして道路の跡がセットで残っている例というのは全国的にもまれで、極めて重要な発見です。 
今回の発見によって、宮町遺跡以外の相当広い範囲にたくさんの役所が配置され、続日本紀にも「市」の存在が記されていることから、道路に沿って市街地が形成されていた可能性が考えられるようになリました
最後に....
 以上のように、さらに周辺の調査が必要ではありますが、紫香楽宮の中心地が確定できたことで今後、紫香楽宮の全容解明が急速にすすむことと考えています。町としても、住民のみなさんの理解や協力を得ながら、なお一層この遺跡の調査、保存など取り組んでいきたいと考えています。古く1260年前、聖武天皇はこの信楽の地でどのように国を動かしたのか、今後の発掘調査も、日本の歴史を知る大きな手がかりとして、町だけでなく多くの方面から注目されています。

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