信楽便り 5号  2000年10月

   5号の号外です。紫香楽宮の新たな史跡が発見されました。    
 
今回は、信楽の焼き物以外のもう一つの象徴ともいえます、紫香楽宮についてお話したいと思います。

大仏発願の地
天平14年,聖武天皇は紫香楽の宮の造営に着手され、同15年にはこの地より全国に向けて大仏造立の詔勅を発し、寺域を開き、大仏の根柱を建てるあたりまで工事が進んだとされています。
平城京への遷都により、ここでは完成することなく、後に奈良の東大寺として実現されました。天平時代が漂う礎石と松風が織りなす、その静かなたたずまいは、信楽町の原点です。
                                          (信楽町観光協会パンフレットより)

地名の起源
742年、聖武天皇が離宮を造営され、”紫香楽宮”という美しい佳字を選ばれました。その”しがらき”という呼び名は、遠く奈良時代には大木良材の樹林地帯として、山深く木の繁ったところから、”しげる木”がしがらきの地名になったともいわれ、また山に囲まれた土地という朝鮮語の「シダラ」という言葉が、製陶の技術とともに伝わったともいわれています。
                                          (信楽町観光協会パンフレットより)

国央跡「紫香楽宮跡」
この遺跡は礎石の保存状態がよく、建物は、南から中門、金堂、講堂が南北に並び、金堂と講堂の間の両側、東に鐘楼、西に経楼が配され、講堂の北には三面僧房が置かれています。その北には東西に細長く僧房に関連したとみられる小子房があります。金堂の東方には塔院があって、築地塀に囲まれた食堂と見られる遺構があり、小子房の東北には閼伽池と呼ばれる小さな池もあります。主要遺構は東西106.2m、南北115.2m内にあります。
                                          (信楽町郷土史会より)


    (写真をクリックすると拡大写真が別ウィンドウで出ます)
中門あたりの説明板と風景
講堂あたりの説明板と風景
鐘楼あたりの説明板と風景
塔院あたりの説明板と風景
  

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